自己愛
遅くなってごめん
満筑義と名乗るその一等身は玄関の中に俺を招き入れた。
「顎の下はちゃんと拭けよ。」
と言って、満筑義さんはこれが手本だ、と言わんばかりにマットに顎をグリグリと押し付けた。俺はそれを真似て、同じように顎をグシグシと擦り付ける。
「じゃ、僕はこれで。なんかあったら連絡ちょーだいね」
「わかったよ。ななしさん」
俺が玄関に上がったと同時に、ななしさんは満筑義さんにそう言った。それに満筑義さんは少しばかり気の無い声で返す。
「じゃあのー」
トヒュンッ
するとななしさんは回れ右をしたかと思うと、なんの前触れなくふわりと体を宙に浮かせた。先ほどのような衝撃も無ければ、荒々しさ等微塵も感じられない。
元からそんな風に飛べるのなら俺をここまで連れて来るのも、もっと優しくして欲しかったものだ。
そうななしさんに文句を言おうと思った頃には、その長く伸びた白髪を青空に浮かぶ雲に溶け込ませ、はるか彼方へと飛んで行ってしまった。
「なんでぇ、ななしさんの奴。あんなに優しく飛べんのかよ」
俺はぷーっと頰を膨らませて空を見つめた。
そんな俺の背をポンと満筑義さんが叩き、
「とりあえずリビングで色々聞こうか。お茶? それとも牛乳?」
と尋ねて来た。俺はそれにハッと彼の方を振り返り、ごめんごめんと謝りながら彼の後ろについていった。
「とりあえずお茶で」
「んー、了解」
リビングに招かれた俺の目に飛び込んで来たのは、広い間取りにぴったりの雰囲気を醸し出している家具の数々だった。
「わぁ…なかなか広い家に住んでるんですね。でも、1人で暮らすのには広すぎるのでは?」
俺が興味本意で満筑義さんに尋ねると、彼は少し顔を曇らして、
「……それも含めて話そうか」
と返事をした。
――
「……てな感じで俺はここに来たんです」
「…なるほどね。受験生怖いわー」
それから約30分ほどかけて、俺はここまでの経緯を説明した。受験に失敗したこと、自分自身に失望したこと、数多くの期待を裏切ってしまったこと、話せるだけを全て話した。
そんな愚痴とも呼べる俺の言葉に、満筑義さんは相槌を何度も打ちながら聞いてくれた。
「なんか…言っといてなんですが……あなた、人の愚痴をこんなに聞けるって凄いですね」
「ははは、まぁ、俺から話してくれって頼んだしね。じゃあ、俺のことも少々話そうか…」
そう言って今度は満筑義さんが口を開き出す。
「ご存知の通り、俺の名前は丹波 満筑義。実は俺も18だ。ななしさんと知り合ったのはだいたい8ヶ月前かな。だからそんな改まらなくてもいいんだぜ」
「えっ…マジ!?」
「マジマジ。つか俺も驚きよ。なんとなく年上かなって思ってたら同い年なんだもの」
満筑義さんはそう言って少し表情を明るくした。俺も自分と年齢が同じだということに安堵し、目上の相手用に作っていた堅苦しい表情のマスクを取る。
「まぁ、俺のことを話すとだな……自分を愛し過ぎた人間の末路って言うのかな……。俺も人間だった頃は、そんなにいい人生は送って来なかったからな」
「人間だった頃は…って、まぁ、確かにお互い人間には見えないけど」
満筑義は目に見えるくらいの苦笑いを浮かべつつ、過去を懐かしむような眼差しで振り返る。どうやら満筑義もまた、苦々しい過去を経験して来たようだ。
俺は満筑義がしてくれたように、彼の話に耳を傾ける。
――
自分を嫌いになり始めたのはいつからだったろうか。
いじめられた時から? いじられ始めた頃から? それとも他人を笑わせたいがために変なことをしたからか?
それを思い返し、反省することに意味は無い。他者が作るその人の姿は『過去』によって決められる。それは自分の力では決して塗り替えることは出来ないのだから。
今日も体中に鈍い音が響く。その音はいくつもの青白い跡となって俺の体にこびりつく。
最初こそ、その音に悲鳴と助けの混じった声を上げていたが、今となっては叫ぶ気力さえ失せてしまった。
いや、違う。助けを求めるってのは弱さの証明なんだ。『弱い』ってのはすぐ『強い』に押し潰されてしまう。そんなの俺は認めたくない。俺自身が弱いだなんて。
『正義の鉄槌』
俺は奴らの拳をそう呼んでいる。俺という悪を倒すための拳。こっちという1人が悪くて、向こうという多数が正しい。
ただそれさえも認めてしまえば、俺は俺自身を『悪』だと認めてしまうことになる。
『悪』というのは醜いものだ。そっちの道を歩むことは大罪であり、人として間違っている。俺はそんな醜い自分を見たくはなかった。
普段はそのように取り繕っても、心の奥では認めるものか。俺は『悪』には染まらない。『悪』の道なんて絶対進まない。
「君ってめんどくさい人間だね」
俺がななしさんに出会ったのはちょうど高3になってから1ヶ月経った頃だ。正義の鉄槌を受けた後、身体中についた泥を落としている時に、急にヒョコリと俺の前に現れたのが最初だった。その女は俺に会うなり、上から目線でそう言った。
明らかに部外者であろうその姿に俺は、
「俺に何の用?」
と冷たく吐き捨てるように言った。
しかしその白髪の女は口角をニンマリと上げて、
「いや、なんか虐められてたからさ。助けよっかなって思って来た」
と軽い口調で言った。そんな女の態度に俺は、構うだけ無駄だと、そそくさな足取りで帰ろうとした。
「ありゃ、結構怪我してるけど、いいの?」
「別に…こんぐらび……」
突如鼻からタラッと垂れてきた血を、俺はジュルッと勢いよく吸い込む。すると鼻の穴を伝って舌の奥に血がヘトッと付いた。その鉄と鼻水が混ざったような気持ち悪い味が、鼻血独特の変な粘性のせいで喉の奥にべっとりとこびりつく。
「ゔぇっ…ゲホッゲホッ!」
あまりの気持ち悪さに体が拒絶し、喉の奥についた血と鼻水の混合物を精一杯吐き出そうとした。それによって口一杯に血の味が広がり、ドロリした真っ赤な液体が歯の隙間から滴り落ちる。
「……君、嘘つくの下手だね。ま、僕の前じゃ嘘は意味ないけど」
白髪の女の声が咳の合間から聞こえて来る。俺はハァハァと呼吸を整えながら女の方をギロリと睨んだ。相変わらず女の口元は上がっていて、その顔はこちらを嘲笑っているように見える。
「ゲホゲホッ…何見てんだ……」
「いやぁ、僕もこんな感じだったのかなぁって思ってただけ。助けが欲しいのなら呼んだっていいのに」
「そんなの…フゥ、いらねーし」
俺はすぐさま立ち上がると、踏みつけられて軽く曲がったバックを乱暴に振り回すように持つ。そして白髪の女を横目に、俺は急ぎ足で帰路を歩いた。
「嘘つき……」
背後から女の声が聞こえた気がしたが、それを返す気力は無かった。
帰路を歩いている途中、俺は自分自身について少し思いを巡らせてみた。
『丹波 満筑義』という男はきっと良い人間なのだ。しかし今は悪の道に進みつつまあるのだと。
だからこそ、丹波という人間を満筑義という男が支えなくちゃならないんだ。
他の誰でもない俺自身が、丹波 満筑義を愛さなくてはいけないんだ。
そうやって俺はずっと自分を愛することをやめなかった。
そうしなければ俺はもう……
ドガッ
今日も身体中から鈍い音。昨日も一昨日も、明日も明後日も振り下ろされるであろう正義の鉄槌。
身体中がギシギシと痛むが、それ以上に自分が悪に堕ちることの方が怖かった。そう自分に言い聞かせながら、正義の鉄槌を受け続ける。
俺の中にある悪を葬ってもらうためにも。
(本当に?)
どこからかあの女の声がする。耳の中で響いているようだが、声自体はずっと遠くから聞こえるようだ。
(本音は?)
本音? そんなもの決まっている。悪の道を歩みたくない。悪に堕ちた自分など、到底愛せるわけがない。丹波 満筑義は正しい人間なのだから。
(ふーん……馬鹿みたい。こんな時でも本音を隠すなんて)
うるさい、お前に何がわかる。これは罰なんだ。悪の道を進もうとしている自分自身への……
(自分でもすでに気づいてるくせに。『だれか助けて』って言いたいんでしょ。助け船は乗船こそ無料だけど、出航時間は待っちゃくれねーぜ)
……本音。俺の本音。喉の奥に呑み込み、心の中に鍵をかけ、そのままずっと抑え込んでいた本当の言葉。
いつからか言うのが罪だと思い込んでいた言葉。
「言って……いいの?」
ポソリと声が漏れる。
「いいんじゃない? 許しが欲しいのなら僕が許しちゃうけど」
女の気の抜けた声は心の鍵を容易く開け、引っかかっていた言葉をゆで卵の殻をむくようにチュルリと出してしまった。
その溜めてきた言葉の土石流はとめどなく溢れ、俺の口からドブドブと流れ出る。
「ぃ、痛い……たっ…助けてぇ……だれか…だれかぁ……」
口から漏れる。ずっと言うまいとしていた言葉が。弱さを認めるその言葉が。
それはなんと弱々しい言葉であっただろうか。自分の口からこんなにも情けない言葉が出て来るなんて、恥ずかしい、醜い、そしてなによりも悔しい。
俺の弱い声に、正義の鉄槌を下す者たちはゲラゲラと笑い声を上げる。
今までは気にも止めなかったのに、今となってはすごく胸に突き刺さる。何故だろうか。
その答えはすぐに見つかった。恐る恐る顔を上げたそこにいたのは、なんとも酷い顔で笑い続ける正義の使者だった。
いや、こんな醜いものが正義であるはずがない。
俺はこんなに醜いものを、正義と信じていたのか。
なんて愚かなんだ。丹波 満筑義という男は。
「言えるじゃん、本音」
その声は俺の耳の中からではなく、とうとう頭の上から聞こえて来るようだった。
次回はもうちょい早く投稿したい




