名前
おまたせしました
俺は口をぽかんと開けながら、目の前にいる女性を見上げていた。もはや何も考えられず、飲み込めない状況の前にただただ立ち尽くすしかなかった。
そして、「逃げなきゃ」という言葉がやっと心に浮かべば、
ヒョイ
とその女性に頭全身を持ち上げられてしまった。
「……ま、おっ、たっ、待っ、まっ…」
『待って』と『下ろして』と『助けて』の3つの言葉が我先にと喉から出たがり、口の中にごちゃごちゃと溢れかえった。
だがそんな俺とは反対に、その女性は叫ぶことも無ければ、俺を地面に叩きつけたりはしなかった。ただただ自分の目をジッと見つめたまま、黙っている。
その女性の態度に、少しずつではあるが俺は冷静さを取り戻していた。
俺はゴクンと口いっぱいに含んでいた言葉を一度胃に送り返すと、今一度口に出す言葉を選んだ。
「えっと……君はいったい…? 俺を見て驚かないの?」
俺は恐る恐る口を開き、女性にそう尋ねてみる。その後すぐに自分を客観視し、生首が喋り出すという気味悪さに気がついた。
今度こそ叫ばれる。地面に叩きつけられる。そしたら警官たちが駆け寄って来て、俺の夢幻は終わってしまう。そしてまたあの現実に引き戻されて、辛い日々を送らなくてはならなくなる。
考えてしまうと全身を悪寒が駆け回り、髪の毛の毛穴1つ1つがキュウと締まった。
(このままじゃ、俺は…)
不安の種がぷくぷくと胸の中に芽を出しては、深く根を張り、大きく開いた葉が身体中の空気を吸い尽くそうとする。
お陰で俺はゼェゼェと呼吸を荒らげざるを得なくなり、根付いた不安の草を抜かんとドクドクと鼓動を早くした。だがそれでも深く根を張った不安の草を取り除くことは出来なかった。
「すみません。持っているそれは何ですか?」
「これですか? これは僕のぬいぐるみですよ」
むにぅ
「!!?」
突然、その女性は俺の頭全身をその豊満な2つの房に押し付けた。それはあまりにも唐突過ぎて、胸に巣食っていた不安の草は瞬く間に枯れ腐った。
だがまた別の花が身体中に咲き乱れる。
女性の柔らかい感触は俺の頭の中に数多の花の種を植えつけ、俺の思考を養分に真っピンクの花々を咲かせた。
「ぁっ……ぃっ……」
「静かに」
ふにゅ
俺の口から言葉とは呼べない声が漏れると、その女性はギリギリ俺の耳に届くくらいの小さな声でそう言った。そしてさらに俺の頭全身を柔らかい房に埋めるで、俺から一切の思考と言葉を奪った。
「何かお探しものですか?」
「いや、一般人には関係ないことです。ただ、この場から早急に立ち去ってくれますか?」
「あっ、はい。分かりました」
その女性は俺を埋めたまま、その場からそそくさに立ち去った。
とは言えど、俺の視界は柔らかい闇に塞がれているので、この女性がどこに向かっているのか等は知る由も無いのだが。
それから数分ほど歩いたところで、その女性は不意に俺を自分の胸から引き剥がした。これが夢ならもっと引っ付いていたかったのに、やはり夢に出て来る人物までは自分の思い通りにはならないのだろうか。
なんて勝手にガッカリしていると、その女性は近くにあったベンチにそっと座り、俺を自分の隣に置いた。
「さて、やっと2人きりになれたね」
「えっ、あっ、はいっ」
「ふふ、そんなに緊張しなくていいよ」
その女性はこちらを見たまま、笑ってそう言った。
しかしこちらは下からその女性を見上げる形となるので、視界の大半は女性の豊満な胸が占めていた。
さらに毛先が腰の位置よりも下にあるほど長く伸びた真っ白な長髪が、セクシーさを引き立たせている。左目の下には3つのホクロがほぼ等間隔に並び、それもまた綺麗で魅力的であった。
そのせいで俺の男としての本能がむくむくと身体中から湧き上がっていく。
「紹介が遅れたね。僕は『ななし』。友達からは『ななしさん』って呼ばれてる。よろしくね」
その女性の名は、『ななし』火照って赤くなった俺の耳に、その言葉がびったりとくっつく。俺はしどろもどろになりつつも、喉を絞るようにして自分の名前を口にした。
「お、俺ッ、え、えき、永木ッ、光野って言います!」
「ちょっとどもり過ぎじゃない? ま、いいや。それと僕、『男』ね」
「あっ、ご、ごめんなさい! ……え?」
今、自分は何を聞いた? ななしさんは今、なんと言った? 火のように熱くなった体温は一瞬にして下がり、気体として出ていた汗がすぐさま凝結して水となってダラダラと流れる。
「す、すみません。今、なんて言いましたか?」
俺はワナワナと体を震わせながら、そのななしさんに尋ねる。
するとななしさんはふふんと笑って、口を開いた。
「ちょっとどもり過ぎじゃない? って言ったよ。でも大分落ち着いたみたい…」
「ち、違う! その後!」
ななしさんは自分が聞きたいところでは無い箇所を言い出すので、俺はすかさず言葉を遮って訂正を求めた。
「その後〜? 僕、なんて言ったっけな〜?」
するとななしさんはわざとらしく悩みながら、う〜むと唸る。そんなななしさんの態度に、またしても俺の胸の中には不安の種が植え付けられていく。ななしさんのもどかしさと嫌々しさに、俺はドキドキと別の意味で胸を高鳴らせていた。
「確かね〜、最初に『お』って言ったけな〜」
「そ、その後! 『お』の次!」
「お〜? その後ね〜……『ん』って言って欲しいのかな〜?」
「ぐっ…で、出来れば…」
俺は唾を飲み込みつつ、
「言って…欲しい……」
と呟くにように言った。そんな俺に対し、相変わらずななしさんはニヤニヤと笑っている。まるで心の内を見透かされているかのように。
「次の言葉はね〜……」
「次の言葉は……!?」
俺の心拍数がさらに上がる。口の中がカサカサと乾く代わりに、額に汗がぷつぷつと滲み出る。まるで身体中に溜まった不安を押し出すように。
そしてしばらくの沈黙の後、何度かフェイントのように口を開いていたななしさんはついにその言葉を口に出した。
「ん!」
「やったぁ!」
ついつい俺はそう叫んでしまった。ななしさんが女性であることが変に嬉しかった。俺は歓喜に包まれ、無い両腕を思いっきり天に付き上げた。
「じゃないんだよね〜。次の言葉は『と』!」
俺の喜びはその一言で、ガラガラと音を立てて崩れ去った。
それからしばらく、俺は放心状態でベンチに座っていた。あの後、ななしさんから
「ごめんね。僕、よく誰かを揶揄うのが好きだからさ。」
とのフォローが入り、まさかと期待値が上がったが、すぐさま、
「でも、男なのは本当だよ」
と、完全にトドメを刺された。
なんで夢なのにこんな気分にならなくてはならないのか。夢の中でくらい、いいものを味わいたいのに。
と言うか、さっきから痛みを感じたり、変に胸が高まったり、と夢にしては嫌に現実味を帯びている。それこそ自分とななしさんを除けば、全てが現実のように思えてしまう。
「ねぇ、ななしさん」
「ん? なんだい?」
「これって、夢なの?」
俺はななしさんにそう尋ねた。その問い自体に答え方があるのかどうかは分からないが、今の自分にはこれがどっちなのか知りたくて仕方がなかった。
そんな俺の問いに対し、ななしさんはふぅむと少し考えると、
「とりあえず、ほっぺたをつねってあげようか?」
と答えた。そして俺の頰に手を伸ばし、
ギュチィッ!!
「イデェッ!!」
千切り取られるくらい強くつねった。その痛みに俺はたまらず飛び上がり、しばらくつねられた箇所を抑えつつ悶絶していた。
いくら自分を男と言ってるとはいえ、明らかぶっ飛んだパワーは人間とは思えぬものだった。
「ああぐ……! ひ、ひどぅい……」
「ごめんごめん。どうせなら強くやった方がいいかなって思ったんだけど…。でもこれで分かったでしょ、これは夢じゃないってさ」
でもここまで常軌を逸した力を見せつけられては、変に現実感が無くなってしまう。
というか今更だが、ななしさんはいったい何故自分の姿を見ても変だと思わないのだろうか…。普通の人間だったら先ほどの男女のように叫ぶなり蹴り飛ばすなりすると思うのだが……
「ふーん……別に僕から見れば変だとは思わないけどね〜」
「えっ……」
心でも読まれたかのように、胸に思った問いにななしさんが口に出して答えた。その奇妙さと突然さに俺は少したじろいでしまう。もしや…
(心を読まれてるんじゃ…)
「今、『心を読まれてるんじゃ』って思ったね。」
「……!」
間違いない。どういう原理か分からないが、ななしさんは俺の心を読んでいる。
その途端、俺はななしさんが怖くなった。あんなに凄いパワーを持っていて、かつ心を読めるなんて。もしや自分が先ほど抱いていたエッチなことも……
「うん、全部分かってたよ。分かってた上でからかったんだから」
「わっ……!! は、恥ずかしいい!」
「あははは、僕の体を見る人間なんてほとんどそう思うさ。君だけじゃないんだから、そんな気にしなくてもいいよ」
「で、でも……」
俺は無い肩を縮め、しょんぼりと縮こまった。まさか全て見透かされていたなんて。思っていたことが全て筒抜けだと考えてしまうと、赤面する他ない。
だがそんな自分に対し、ななしさんは優しい言葉をかけてくれた。どうやらななしさんの体についてエッチな妄想を抱いていたことに、当人は怒っていないようだ。それでも自分が恥ずかしい思いをしたことは変わらないが。
「ま、気に病むことはないさ。嫌われるのには慣れてるしね」
「そ、そんな…そんなことないよ。俺はななしさんのことが嫌いになったなんて思ってないもの」
俺は胸に浮かんだありのままを打ち明ける。
「……それは本心か。ありがとね」
するとななしさんはジッとこちらの目を見つめた後、そう答えてまた笑った。その笑顔は、一瞬ななしさんが男ということを忘れてしまうくらい眩しい。
それからななしさんはこちらにトコトコと歩み寄ると、クイッと顔を近づけた。
「ねぇ…僕と、『友達』にならない?」
そして首を傾げつつ、俺にそう尋ねた。
「とも…だち?」
「そう、友達。なってくれる?」
唐突な問いかけ。何故急にこんな質問をするのか、自分にはななしさんのような『心を読む』能力はないので、その意図を理解することは出来なかった。
でもななしさんの瞳を見るに、どうやら悪いことを企んでいるようにも見えなかった。
「う、うん…いいよ」
「やった」
俺がゆっくりと首を縦に振ると、ななしさんはさらに笑って喜んだ。すると次の瞬間、
クゥ〜
とななしさんの腹の音が鳴った。その音にななしさんは、あははと笑って誤魔化し、さらにこちらに顔を近づける。
「じゃ、友達となった証に、僕の秘密を1個見せてあげる」
ななしさんはそう言った後少し下がると、腰と尻の辺りに手を当てた。そして手をするぅっと撫でるように上げると、
シュルン…
「ジャーン」
背後から、ななしさんの肌色よりも少し白い尻尾が生き生きと生えた。
次回もお楽しみに