遭遇
おまたせしました
鼓膜を激しく叩く声の方を見上げると、そこにはカップルと思しき男女のペアがこちらを見ていた。
「うっ…わっ!」
次の瞬間、俺の口と目はわぁっと開き、無い腰がカクリと抜けた。
そこには背丈が軽く3メートルは超えている2人組の巨人が立っていた。その巨人らはこちらを見たまま口を手に当て、ハッハと荒い息を隙間から漏らしている。
しばらく俺と巨人らの間に沈黙が訪れる。
そしてその時間は俺の頭を冷静にさせてくれた。
「あっ…ああ? ああ、そうか…」
俺はハッと今の自分の姿を思い出す。今の体は一等身なのだから、周りのものが大きく目に映るのは当たり前なのだ。
現実世界では175センチと平均より高い身長だったから、このような低い視線で人を見上げるのはかなり懐かしかった。それこそ記憶を、保育園でお母さんの膝の上に座っていた頃まで戻さなくてはならないほどに。
俺はなんだなんだ、と驚いてしまった自分に笑いつつ、2人の人間を見つめ返す。そして口元の口角を少し上げると、夢の世界とは言え驚かしてしまったことを2人に詫びようと無い足でそっと近寄った。
「いやぁぁああ!!」
バキャゥ!!
「ぶべっ!!」
すると次の瞬間、女の方が先ほどよりも高い悲鳴を上げたかと思うと、俺の顔面をボールのように思いっきり蹴っ飛ばした。あまりにも突然かつ、手足が無いので防ぎようの無い攻撃に、俺は成す術無く吹っ飛ばされた。
ゴチャッ
「へびっ!」
さらに手足が無いからろくに受け身すら取れず、俺の体という頭全身はゴロゴロと転がった。その途中、砂利や雑草がいくつも口の中に入り、腕と化したもみあげに木の枝やら小石が突き刺さるように絡みついた。
「えべべべ……」
蹴られた際の運動エネルギーが転がる際の摩擦のエネルギーや熱エネルギーに変わり、頭の回転が止まる頃には俺の体はボロボロになっていた。
「うぐぐ…ぶぇっ! ぺっぺっ!」
俺は口の中に溜まった砂利や雑草を吐き出しながらヨロヨロと頭を起こす。ガサガサと草花を踏みながら走り去る音が遠くから聞こえる。その足音の主は先ほどの2人組と想像するに難くはなかった。
「く…クソッタレどもが……それに…くそ、ゆ、夢なのに……クソ痛え……」
俺はビリビリと痛む体を川の近くまでヨロヨロと動かした。そして頰をモゴモゴと膨らまし、切れた箇所から溢れる血をペッと吐き捨てた。
太陽の光を反射する水面に俺の赤い血がトロトロと溶けていっては、どんどん溢れ出る血をタンカスと一緒に吐き出してまた赤く染めなおす。
それから俺は、川の水を口に含んでは幾度となく濯いだ。自分の口から出る水は、最初は薄い赤をしていたものの、川に飛び込むと同時に本来の透明さに戻っていく。
『血』
この約1年、自分がよく見て来たものだ。ため息が出るほど真っ赤で、よく手首からサラサラと止め処なく流れ出る。
さらにその跡は、『成長の見られない自分への戒め』としてくっきりと残る。その跡を見るたびに軽く憂鬱になるが、やっている短い間は自分への自己嫌悪と、胸の痛みを忘れることが出来た。
そのわずかな時間のためだけに躊躇なく一生ものの傷をつけられるくらい、俺の精神は狂っていた。さらにそれが、その程度のことと言えるほどまでに。
今となってはその手首も、狂っていた精神も身を隠してしまったが。
しかしそれもこの夢が覚めるまで。痛みを感じるという謎の夢が、覚めるまでの間。
覚めて仕舞えば、またあの辛い時間が待っている。
結果を出せない醜い自分と向き合わなくてはならないあの時間が。
「……はぁ」
そう考えてしまうと急に気分が沈んでしまった。いつかは覚めて仕舞うこの夢を見ることが急に辛くなる。
楽しい時間はいつかは終わる。
そんな当たり前の事実を俺は酷く憎らしく思った。
「クソッ……」
しかし事実そのものに怒ったところで抗えるわけもない。でもこのまま夢幻が終わってしまうのも嫌だった。
ああ、何故俺はこれが夢だと気付いてしまったのだろう。気付かずにいれば、今でもこの夢幻を楽しんでいたというのに。目が覚めるまで辺りを駆け回っていたというのに。
俺は無い肩をがっくりと落とすと、宛ても無く辺りを彷徨った。
しかし先ほどのような軽やかさはどこにも無く、羽のように軽かった足にはいくつもの重い小石がめり込んでいた。
千切れるほど振り回したいと思っていた腕には、泥だらけの腐った木の枝が刺さっていた。
そして、溢れるほどの喜びが入っていた心には、水銀のような猛毒が溜まっていた。
「……なにやってんだろ、俺。全部無駄だってのに…」
日々の努力も、辛い練習も、数をこなした問題集も、合格を夢見た過去問も、自分の背中を押してくれた声援も、なにもかも力に出来ない自分は……
ガサガサッ
「……?」
なんて憂鬱な気分になっていると、なにやら草をかき分ける音が聞こえて来た。それも1つや2つだけでない。明らかに大勢の人間の足がこちらに向かって来ている。
俺はゴクンと唾を飲むと、こっそりと草花の間から無い首を伸ばし、音がする方を見てみた。
するとそこには予想通り、大勢の人間が草花をかき分けながら歩いていた。
ただ、予想外のことが2つセットでついて来た。
1つはそこにいる全ての人間が真っ直ぐこっちに向かっているわけではなく、まるで何かを探すように歩いているもいうこと。
もう1つは、その人間たちの着ている服が警官のものであるということだ。
俺はまさかと思い、その場からそろりと後ずさった。
俺は今一度自分の体の状態を思い出し、それが他人にどう映るかを想像した。
夢とは言え他の人から見れば今の自分は生首そのもの。そんな存在が飛び回ったり、喋ったりすれば、大抵の人は悲鳴を上げ、逃げるに決まっている。
そうでなくても生首がこんな河原に転がっているだけでも、一般人からしたらホラーそのものだ。俺だって先ほどの人間の立場だったら、悲鳴を上げたり、蹴り飛ばしたりするのになんの躊躇いもないだろう。
夢とは言え、この状況はかなりまずい。先ほどまでの憂鬱は消え去り、焦りと不安が代わりに胸をいっぱいにした。
そしていったいどこで鳴っているのか皆目見当もつかないが、たしかに心臓のドクドクという音が身体中に響き渡る。
「逃げねば」
そう思った頃には体はすでに行動を始めていた。
顎の下にめり込んでいたはずの重い小石はすでに剥がれ落ち、またあの軽い羽に戻った。
しかし前のようにぴょんぴょんと飛び跳ねたりはせず、不安と恐怖を両手に握りながらそろりそろりと歩き出した。なるべく音を立てないように、出来る限り見つからないように、決して足を滑らせないように。
高まる鼓動の音とは正反対に、俺はゆっくりと歩く。
こんな時に俺の馬鹿な頭は妙に働いて、今の自分の大きさと警官たちの大きさの差を考えていた。
もしも先ほど出会った人間たちの身長が160センチくらいだと仮定すると、今の自分の大きさはせいぜいバスケットボールかバレーボールくらいだと。そう考えると、自分が見つかる可能性は割と低い方ではないかと肯定的に思ってしまう。草花を盾に上手く身を隠せば、警官たちの目を欺けるかもしれない、と。
そんな風に考えると自然と呼吸と鼓動は落ち着き、辺りの視界をさらに広げてくれた。
いける、いける、このまま逃げられる。警官たちだって、まさか頭部が動いているとは夢にも思っていないだろう。
だからヘマさえしなければ、絶対見つかることは無い。夢とは言え、警官の厄介になるわけには……
「ん? なに君」
「えっ…」
そう思ったのも束の間、俺の目の前には1人の人間が立っていた。
次回の投稿もお楽しみに