異世界へ
第2話です
ヒュルル……
「……?」
頰を伝う冷たい風が目覚ましの代わりとなって俺の瞼をこじ開ける。
「あれ…? 俺はいったい……」
貼り付いたように固まった瞼をペリペリと剥がすように開けると、辺りは一面の草花だった。その光景を前に眠っていた俺の脳は飛び起き、グリグリと瞳を回すように動かした。
「なんでこんなところに……? たしか俺は天田台駅にいたはずなのに……」
まだ飲み込めない状況に加え、視界の大半を占める草花を前に、俺は立ち上がろうとゆっくりと地面に手をつこうとした。
「……ぁり?」
しかし何故か手をついてもうまく体が起こせない。
と言うより体の感覚自体が色々と妙なのだ。上手く言い表わせないが、なんと言うか、こめかみの辺りと腕の部分が、または顎の下と足の裏の感触がまるで同時に感じられるのだ。
まるで身体中の感覚が全て1つに束ねられているような、今まで同時に感じるはずのない部位同士がくっつき合っているような、そんなヘンテコな感じとしか言いようがなかった。
「夢……だよな、こんなの……」
キュチ
俺はきっと変な夢を見ているのだと思い、少し強めに頰をつねった。
しかしそこには、慣れ親しんだ自分の指の感触と同時に、髪の毛の先っちょの感覚が頰に触った。
「へふぁ!?」
その異様な指の感触に、変な声とセットで俺はその場から飛び上がった。
「えっ!? えっ!? えっ!? なっ、これは、ちょ、ええっ!?」
今まで感じたことのない感触に俺の背筋は凍りつき、一瞬頰の痛みさえも忘れてしまうほどだった。頭は完全にパニックを起こし、ワタワタと狂ったコンピュータのように身体中にトンチンカンな命令を出していた。
それからやっとこさ頭が冷静さを取り戻した頃には、つねった痛みは風になびかされて消えてしまった。
「俺は…どうなったんだ……これは夢じゃないのか……?」
しかし冷えた頭でも夢であるか否かの結論を出すことは出来ず、この感覚の正体も分からずじまいだった。それに加え、先程からどうも視界が妙に低い。しゃがんでいるだとか、腰を下ろしているだとか、そんなもんじゃない。
保育園の頃、公園の芝生でゴロゴロと転がっていたあの時のように、まさに大地と目線がほぼ同じ高さなのだ。なのに足の裏はちゃんと地面についているという、本当に摩訶不思議な状態。
もしやこれはかの有名な、『異世界転生』というやつではなかろうか。
不意にそんな考えが脳裏をよぎる。その類の作品はいくつか見たことがあるが、あくまで小説のみの世界で、まさか現実に起こるとは思ってもみなかった。
いや、まだそうだと決まったわけではないし、そんな非現実的なことが起きるとも限らない。
ただそういう系の小説は受験期前はよく読んでいたから、ほんの少しだけ期待してしまう自分もいるのだ。小説の主人公みたいに、相手が怯え慄くほどの圧倒的な力を持ってみたいと願ってしまう。
そうすると今の自分の変わりように対する恐れは薄れ、少しずつ期待が膨らんで来た。
例えこれが夢だったとしても構わない、むしろ夢である方が憧れの主人公たちのように振る舞えるだろう。
なんて考えてしまうと、余計に今の自分の姿が気になって来る。この夢の中で自分はどんな容姿をしているのだろう、と。
そう思うが早いか、俺は顎の下と足の裏の感触を同時に感じつつ、歩き出そうと体を動かした。
すると体は地面から数センチほど飛びながら前に進み出した。
「うぉおっ!? あっ!? あははっ!」
ぽむんぽむんとゴムまりが弾むような足音が顎の下から鳴り、それが変に面白い。俺は精神を10年近く若返らせながら、辺りを歩き回るように飛び跳ねた。こんなに感情が高ぶったのはいつぶりだろうか。
この約1年、無理して上げていたはずの口角が今では苦もなく上がる。椅子に座りつく姿勢で凍りついた足は、水素をパンパンに詰めた風船のごとく軽い。
その足で醜い√xの関数のような放物線を描くように飛び歩いた。
ひねるとゴリリと胡麻すりの音を鳴らしていた背骨は、美しいS字を殴り書きながらクッションのように着地の衝撃を和らげていた。
それからというもの、俺は軽やかに飛び跳ねながら自分の姿を確認する術を探した。この夢は覚めるまでにまだ時間がかかるようだが、完全に自分の思い通りというわけにはいかなかった。体は自由に動かせるものの、自分を映し出す鏡を目の前に出すことは叶わなかった。
まぁ、何もかも自分の思い通りに出来てしまったら、それはそれでつまらない。せっかく机に縛られる鎖から解き放たれたのだから、疲れてでも思い切り体を動かしたい。これでも中高と運動部をやっていた身ではあるから、長い間体を動かすことには慣れている。
それからおよそ30分ほど飛び跳ね、息も荒くなって来た頃、俺は水の流れる音を耳にした。もしやと思い、俺はその方向へ足を運ぶと、そこにはサラサラと心地よい波を立てる川が流れていた。
幸いにも流れはそれほど速くなく、自分の姿を反射してくれる透明さもある。
俺は生唾をゴリリッと飲み込むと、期待と不安を半々ずつ両手に持って、そっと川の中に映る自分を見た。
「……えっ」
そこにいたのは、『一等身』
頭だけの存在だった。
「はっ…あ? なに……これ、俺…? 嘘だ……ろ?」
俺は目の前の存在が信じられなくて、そっと右腕を振ってみた。すると腕だと思っていた部位はもう1つの感触通り、ちょうどもみあげに当たる髪の毛がワサリと振れた。カクカクと指先が震えると、水面に映る影はワサワサと毛先を震わせた。
「こ、こんなの……夢だ、やっぱり……でも…」
夢だと思えば、怖くはない。そう自分に言い聞かせながら、水面に映る一等身に目を戻す。よく見れば別に禍々しい怪物というわけでもないし、恐ろしい牙が生えているわけでもない。それに妙なデフォルメ化と言うか、生首とも呼べる状態なのにグロさや怖さというものがまるでない。
どちらかと言えば、こういうのは『可愛い』に近いだろうか。そういえばこういう頭だけのぬいぐるみなど、たくさん目にして来たし、そういうものも自分だって持っていたではないか。
なんだなんだ、別に容姿は悪くないじゃないか。むしろプラスの見た目で安心した。
俺は無い胸をホッと撫で下ろすと、水面に向かってニヤッと笑ってみた。すると左右対称の俺も笑ってこちらを覗き込む。これが俺なのか、と見るほど思い知らされた俺は、周りに誰もいないことをいいことにいろんな変顔を試しては無い腹を抱えてケラケラと笑った。
ああ、これは本当に良い夢だ。こんなにいい夢なら、ずっと覚めなければいいのに。無駄な努力を重ねる醜い自分なんか、もう見たくない。どんなに鍛えても一向に筋肉は付かず、肋骨が浮き出たぺっそりとした体など。
そんな醜い自分の体を映す現実よりも、今は笑顔が愛らしい一等身である自分を映す夢幻を見ていたかった。
俺はニヘニヘと笑いながら川に沿って歩いてみる。チラリと視線を落とすとイシガメが足をわっせわっせと動かして泳いでいるのが見えた。
その光景を見て俺はふと、そういえばこの夢はどんな世界なのだろうかと思った。辺りはただの草原という感じだが、川の中で姿を揺らいでいる生物も、辺りに生えている草花も、小説で読むようなファンタジーさは微塵も感じられない。
まぁ、ファンタジーの塊である姿をした自分自身がこう思うのもなんだ、という話だが。
それに夢の世界は自分の想像以上に奇妙奇天烈なものだ。現実のような世界に自分というヘンテコな存在がいても、「夢の世界だから」の言葉で全て納得出来……
「ぎゃああああっ!!!」
「ヘェッ!?」
なんて考えていると、自分の近くで鼓膜をビリビリと震わせる甲高い悲鳴が聞こえて来た。
次回の投稿もお楽しみに