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咀嚼  作者: 小岩井豊
13/15

13:遺書

『けっして悲しまず、これまでどおり、あかるく元気で』


 四年前、首を吊った母が最後に残した言葉がそれだった。

 遺書は二枚あった。一枚目の内容は本家の建物や土地に関することや財産分配について、遺言執行者の指定などの事務的な記載のみで、非常に淡泊な字体で記されている。引きかえに二枚目の紙にはただ一言。ひどく小さく、濡れた紙面でペンを走らせたように、一画一画が歪んでいた。

 仏壇の鍵付きの引き出しに保管されたそれを、必要なとき、取り出して眺めることがある。

 必要なときというのは、僕自身の心の整理がつかないときーーたとえば会社で、同期に営業成績の差をつけられ、急な転勤と望んでもいない環境を強いられてしまったとき。たとえば妻から、見に覚えのない不倫の疑いをかけられ、興信所の手まで借りていたと知ったとき。たとえば息子が、中学受験で失敗し心を閉ざして、部屋に籠もってしまったとき。たとえば妹が借金をし、保証人の名義に僕の名を勝手に使用して、家に覚えのない催促の留守電が何件も入っていたとき。

 ここ四年を振り返るだけで、両手の指じゃ足りないほどの苦難や失敗を繰り返した。そのたびに僕は母の遺書を見返す。

 弱い母が死に際、精一杯強がって残した、励ましの言葉。

 僕はその遺書に、色んな形で助けられた。一枚目は綺麗な状態で折り畳まれているけれど、二枚目はもとの折り目が分からなくなるくらいぐしゃぐしゃで、そこかしこに皺が寄っている。

 それは僕が幾度となく、母の遺書を握りしめた証しだった。

 波打った言葉ひとつひとつに目を這わせ、母が言わんとする言の真意になけなしの勇気を奮い立たせた。それを胸に抱き、ひと知れず涙を流したこともある。母の字を真似、何度かその言葉をノートに清書した。ときには遺書をポケットにねじこみ、母が首を吊った同じ場所に立つ。実家の納戸だった。どうしようもなく心が疲れたときは、そこで縄をぶら下げ、首吊りの真似事をした。輪っか状のそれに首を通したとき、どうしようもない恐怖で手足が震えた。納戸の一室が真っ暗になったような錯覚を覚え、僕の足下で正座をする死神の黒い影が見えた。あわてて足を乗せていた椅子を蹴り、畳に転がって胸をおさえた。

 そうだ。この恐怖に打ち勝ったのだ。そう考えると、今まで弱い弱いと思っていた母の存在が急に大きくなった気がした。自分の命まで投げ打ってまで尽くしてくれた母に。そんな恐怖を乗り越えてまで僕や妹を救ってくれた彼女に、大きな感謝が生まれてくる。自殺までする必要はなかったのだと吐き捨てるほどの覚悟が僕にはない。むしろ母の死を無駄にしてはいけないと実感する。後ろを見ず前を向くこと。そうして僕は、もっと頑張らなきゃな、と決意を新たにするのだ。


 母の遺書については妻にも話している。首吊りの真似事をした件については流石に黙っている。本気で心配されてしまうからだ。それからもちろん、息子のいない場で。父の情けない姿は子供には見せられない。

 妻はいつもなにか含みのある顔で僕の話を聞く。だけど結局なにも言わず、ぎこちなく話題を変えられる。縁起の悪い慰められ方だと彼女は思うだろう。こちらもそれは承知している。その上で僕は、「だから俺は大丈夫。お前は何も心配しなくていい」とアピールするのだ。

 そういうことも含めて妻は僕を理解してくれる。だからいつも黙って笑顔を見せてくれる。不倫疑惑によって修復不可能かと思われた仲だったが、そんな諍いを克服したことで、より強い絆が僕らの間には生まれていた。

 聞こえは不謹慎ではあるけれど、母の死によって多くの救いがあった。妹の方はまだ完全ではないが、少なくとも僕にとっては。


 会社の宿直室で横になり、頭上のオレンジの照明を眺めながら、僕は昨晩のことを思い返していた。

 昨日は従姉夫婦とともに、実家に寝泊まりしていた。母の墓参りをし中華料理店で呑んで帰った、その夜のこと。

 みんなが寝静まったのを確認し、母の遺書を取り出した。納戸の真ん中で、くしゃくしゃの遺書を畳の上に広げる。それを眺めながら例によって僕は今後のことについて思いを巡らせていた。

 息子が卒業後の進路を迷っている。子の迷いは親の迷いでもあった。安定を取るか、本当にやりたいことを取るか。将来を左右する重要な岐路であり、最近の一番の悩みごとと言ったらそれだった。帰郷をきっかけに、今回も母の遺書に相談してみようと心中企んでいた。従姉夫婦には見られたくはないし、端から見れば気味が悪いと思われても仕方がないから、彼女らが起き出さないよう、静かにビールを煽りながら、母の遺書に視線を落とした。

 ふと、後方に気配を感じた。慌てて遺書を寝間着の腹に隠し振り返る。妻だった。僕と同じ柄の寝間着姿で、障子に手をかけ訝しげにこちらを見つめている。もよおしでもして目が覚めてしまったのだろう。

 ほっと息をつく。これだよという風に、母の遺書をひらりと振って見せた。妻は目をこすりながら「ああ」という顔をしてあくびをした。そのまま立ち去ろうとする。

 僕は改めて遺書に目を落とした。あごに手を当て、ううん、とうなる。そのときだった。

「ねえ、パパ」

 立ち去ったと思っていた妻は、まだそこに居た。

 見ると、なにか様子がおかしかった。目をこすったあと、そのまま、右手が宙に浮いていた。言うべきか迷うっているのだろう、頬の緊張から察せた。

「最近、わたしね、お義母さんの夢を見るのよ」

「おふくろの?」

「うん、なんていうかね、その」

 そこで彼女は首を振る。やっぱりなんでもない、そういった笑みが、どうしてもこわばって見えた。頭痛に耐えるように指でこめかみを押し、うめくように妻は口を開く。

「あのときの光景が、そのまま夢に出くるの。お義母さん、そこで椅子に直立して、首に縄をかけて、震えているの……」

 すっと口を閉ざす。そういうことかと、自分でも不思議なほどすんなり悟ってしまう。この四年間、胸のどこかにその不安を抱え続けていたのだろう。そうして僕は今更ながらに後悔していた。妻をあの場に立ち会わせたことを。

 母は皺だらけの足を震わせ、小水まで垂れ流しながら、手にした縄を前に荒い呼吸を繰り返していた。母が自らの命を絶とうとする瞬間を、僕と、妻と、妹が見守っていた。

 母を取り囲むように――逃げられないように、正座をして。

「聞こえるのよ。おねがい、後生だから……後生だから……って」

 それは、母の言葉ではなかった。聞こえてきたのは隣から。妹は手を擦り合わせながらぶつぶつと呟いていた。

 おねがいします、死んでください。おかあさん。死んでください。死んでください。後生だから。後生だから……。

 後生だからだなんて、それはこっちの台詞だと母は思っただろう。目に涙を溜めながら、手を合わせる妹を見下ろしていた。僕は重々しく口を開く。おかあさん、あなたは弱くなんかない、僕たちを助けてください、あなたは強いひとです。念を押すように言ったのは、母が今にも縄を手放しそうに見えたから。「ごめんね。お母さん弱いから。でもいつか頑張れると思うから、どうか今日は」なんて言い訳をして、逃げだしそうに見えたから。

「冷静に考えれば……いえ、冷静に考えなくたって、どう考えたって、あんなの間違っていた」

 妻は口もとを手を抑え、その場にうずくまる。僕は彼女のそばに寄り、肩に手を置いた。

「おふくろは俺たちのために頑張ってくれたんだ。この遺書を見てみろ。おふくろがどれだけ強い意志でこれを書いたんだ」

 妻は、僕の手を払って落とした。

「何を言ってるの? おかしいおかしいとは思っていたけど、あなた、本当に忘れてしまったの? だってこの遺書は……」

「なにがおかしい。違うだろ。これは紛れもなくおふくろが」

「何も違わない。おかしいのよ、あなたたち兄妹は。自分の利益のためだけに、あんな」

 自然と手が出ていた。妻が畳へと倒れ伏す。肩を震わせながら嗚咽していた。

「お前だって止めなった。分かってて止めなかっただろ。俺だって辛かったよ。どこの世界に、自分の母親を殺して苦しまない人間がいるんだ」

 そうだ。どこに、母の死を喜ぶようなやつが。

「……ならどうして」

 はっとして、自分の顔を手で覆う。

 あのときもこんな風に、両手で顔を覆った。隣を見ると妹も同じように、うつむくふりをして自分の表情を伏せていた。母が椅子から飛んだ瞬間だった。僕たちは顔を背けるようにして、互いを見つめあっていた。

「どうしてあなたたち、笑っていたの?」

 ゆっくりと首を振る。

 僕は必死に、自分の口もとを隠していた。

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