12:この手を離さない
相沢はいつもふざけたことを言い出すけど、彼女と付き合いはじめて三ヶ月、俺にもやっと分かってきた。彼女のふざけた発言にもちゃんと意味があるってこと。
いつもの学校帰り、相沢と並んで通勤電車に揺られていた。十分ほどくだらない世間話をしていると、急に相沢が真剣な顔を作った。
「間宮さー」
「ん」
「あたしがこれから死ぬって言ったら、あんたどうする?」
いつもの冗談だと思って、俺は笑いながら適当に答えた。
「いや、そりゃ止めるだろ」
「はー」
「なに?」
「なんかつまんないよね、間宮って」
俺はきょとんとして相沢を見返した。彼女が意図的にそういう雰囲気を出そうとしているのが、鈍い俺にもさすがに察せた。
「止めるって、それ、あたしじゃなくたって止めるでしょ?」
「まあ、だれかが目の前で死なれても目覚め悪いし」
「じゃあだれでも助けるってことだ」
「うん」
「じゃああたしじゃなくてもいいんだ?」
「平たく言えば」
「じゃあじゃあ、間宮はあたしのこと、特別に思ってくれてないんだ? そういうことになるよね?」
「なるか?」
「なるよ」
「うーん」
俺は腕組みをした。右肘が隣のおっさんに当たったけど、おっさんはシートの仕切り板に頭を預けてこんこんと居眠りしていたので気づかなかった。
話が面倒になっていたが、電車が自宅の最寄りまでつくのにまだけっこう時間があったので、俺は真面目に考えるふりをした。
「いや、やっぱり相沢のことは特別だと思ってるよ。彼女だし」
「彼女とか関係ないでしょこの場合」
「あるよ。だって好きだもん」
相沢は胸に両手を当て、ちょっと身を引いた。「キュン」という擬音が聞こえてきそうだった。俺が『愛のささやき的な発言』をすると、相沢は決まってこのポーズを取る。そういうクサい小芝居を、こいつはしょっちゅうやる。
「足りない。もっと」
「相沢のこと好きだから」
「いやそうじゃなくて」
「あ?」
「あたしを特別だとする理由が足りない。もっと」
俺はじっと相沢を見つめた。こいつを特別だと思う理由。
クラスの他の女より可愛いから。顔がタイプだから。理由になってないな。
「でも実際、他のやつ助けるよか、お前のときのが俺も決死の思いになれると思うよ」
「間宮さ、『決死の思い』の意味ちゃんと分かってる?」
「死ぬ覚悟で、ってことだろ」
あはは、と相沢は高い声で笑った。結構でかい声だったから俺はびっくりした。ここ電車だぞ、と俺は彼女の口を塞ぐ。
「笑える! 『死ぬ覚悟で』だって。間宮したことあるの、死ぬ覚悟。もー下手なこと言わないでよ、十七の小僧っこがさー。男子高生らしからぬ滑稽さだよ」
「十七の小僧っこって言い回しも女子高生らしからぬけどな」
「間宮、それさ、中学生のカップルが『一生お前を幸せにする』とか言い合ってんのと同じレベルだよ。金も稼いだことのないジャリがどうやって他人を幸せにできるよ。世間なめんじゃねえっての。無責任が過ぎるってもんだよガキチンコが」
「ガキチンコて。つか金稼ぐとかどうとかって、お前だって、バイトすらしたことねーだろ」
「あるよ。ゴスロリエプロンでコーヒー淹れたりとか、たこ焼き焼いて売ったりとか」
「文化祭はノーカンな」
俺の切り返しも意に介さず、相沢はやれやれといった風に肩をすくめた。視線をちょっと上に向けながら。やたらアメリカンなその仕草にさすがの俺もイラッとくる。
「大げさな台詞ほど安っぽく聞こえるものはないわよね」
「そうかね」
「大概が背伸びでしょ、そういう言葉って。この歳になるといい加減うんざりしてこない? たとえ世界中の人間を敵に回したってー。僕は君に会うために生まれてー。君のためなら死ねるー。言葉よ言葉。言葉言葉言葉」
「今どきそんなくせえ台詞吐くやつもなかなかいないけどな」
「います。いますいます、ここにいます!」
相沢は俺を指さした。怪訝な思いで「なんか言ったっけ? 俺」とおそるおそる尋ねる。相沢は周りの目を気にしながら(今更?)、俺の耳元に唇を寄せ、そっと呟く。
「俺はこの手を離さない」
自分の耳が赤くなるのを感じた。
そういや確かに言った気がする。あれは相沢と付き合い出してすぐのことだ。祝一ヶ月、とか柄にもない記念日みたいなものを設け、デートでみなとみらいに行った。大桟橋を渡りながら、酒も呑んでないのに気持ちの悪いロマンチックに駆られ、口から思わずそれがこぼれた。相沢は例のごとく胸に手を当て「キュン」ポーズをしており、平和な恋愛脳まるだし馬鹿な俺はよっしゃ決まったぜとか一人悦に浸っていた。あのときはまだ、相沢の本質や距離感が分かっていなかった。こいつは演技でそういうことをするだけで、その実、あまりの寒さで彼女の心中は冬の北アルプスのそれだっただろう。
顔を赤くしながら、にやにや顔の相沢を睨む。相沢がふざけることに関して一流なら、俺は意地を張ることに一流だ。
「別に、その言葉が嘘じゃなきゃいいんだろ」
「お、言うねー。パスタ作ったオマエもびっくりだ。言う言うとは聞いてたけど、ここまで言うかね間宮くん。男だねー」
「うるせえ。お前いちいち言い回しがおっさんくせえんだよ」
「そこまで言うなら、証明してもらうかな」
相沢は唐突に座席を立った。混雑した乗客の波をすり抜けるようにドアの方へと向かう。まだ降車駅は二、三先なのに。俺はあわてて相沢の背中を追った。
「おい、どこいくんだよ」
「さっき言ったことを実行するんだよ」
「さっき言ったこと?」
ホームへ降り立った相沢は、口元だけでニヤリと笑った。
「死ぬんだよ、あたしはこれから」
* * *
たどり着いたのは雑居ビルの屋上だった。ちょっと声を張らないとまともに会話できないほどの強い風が一帯に吹き荒れていた。
俺たちは互いに、さっき駅前のサーティワンで買ったアイスを食べ合っていた。屋上のフェンスはさび付いており、今にもドリフ顔負けにばたんと倒れてしまいそうだったが、背を預けてみると見た目よりしっかりしていることに安心した。
ホッピングシャワーをスプーンで口に運びながら、んー、と相沢は暗みかけた空をあおいだ。
「風がきもちいねー」
「そうか? なんか寒いし、早く帰りたいんだけど」
「相変わらず冷めてるね、間宮」
相沢はアイスを食べ尽くし、カップを地面に置いた。重みをなくしたカップは強風の平手を食らい、あっけなくふっ飛ばされて繁華街の隙間に落下していった。フェンスに掴まりながら、相沢はその様子を見下ろしていた。
「ま、そういう間宮だから、たまに熱いこと言ってくれるとキュンとするんだよね」
「お前のキュンって、ただのフリだろ」
「フリだけど、半分はほんとにキュンとしてるよー」
相沢は胸の前でハートを作った。俺も真似してハート作ってみた。似合わなすぎー、と笑われる。
「さて、そろそろ行きますか」
言うと、彼女は腰の高さほどのフェンスを軽々とまたぎ、向こう側に渡った。そこは三十センチほどの幅しかなく、着地した相沢の体勢はふらつく。「おっと」と楽しげな調子で言って、俺の手をつかんだ。食べかけのアイスのカップを取り落とし、それは一度相沢の頬にあたり、ビルの下へと消えていった。俺は冷めた思いで落ちていくカップの行方を目で追う。
「お前って、いっつもふざけてるけどさ」
「んー」
「ここまでふざけたやつだったっけ?」
相沢の頬に液状のアイスが垂れる。それを舌でなめとり、そのまま唇の端をつり上げる。俺は、とても笑い返す気にはなれない。
「ここってどれくらいの高さかな」
「四、五階だから、十メートルくらいじゃね」
「死ねるか微妙な高さだね。これくらいの高さが一番恐くない? 間宮さ、スカイダイビングとかバンジージャンプとか、したことある?」
「なんの話?」
「あたしはどっちもしたことあるよ。ダイビングもバンジーも」
「へえ」
「最初はダイビングで、次がバンジーだったかな。どっちも小学生のとき、お父さんに連れられて行ったっけ。ダイビングは気持ちよくてねー、ほんと。思ったより恐くないんだよ。むしろ着陸したあと、もう一回、って頼み込んだくらい。お父さんに抱っこされるようにして飛んだんだけど、そういう安心感もあったのかな。それともあまりの高さで感覚がマヒってたのかもしれない。むしろ、その翌年にやったバンジーのがやばかったよ。よみうりランドにあるやつ。このビルよりちょっと高いくらいだったけど、なんかね」
「そういうもんなの?」
「そういうもんよ。だって、なんかこう、高さがリアルじゃない。ビルとか学校の屋上とかで、十メートル、二十メートルって、ぶっちゃけ慣れっこじゃん? だから逆に、そういうリアルな高さが来るわけよ。この紐、途中で切れたりしないかなって、そういうこと考えちゃう。不思議だね、ダイビングのパラシュートのときはそんな心配しなかったのに。なんていうのかなー。死の実感ってやつ、イヤでも頭にちらつくの」
「ふうん」
俺は、つかまれた自分の手に目を移した。相沢は重心を屋上の外へと傾けており、この手を振り払えばいつでも彼女は繁華街の路面へと吸い込まれてしまうだろう。
「ねえ相沢、これってマジなの?」
「マジって、なにが?」
「お前、マジで死ぬの?」
チッチ、と相沢はこれまたうさんくさい仕草でひとさし指を振る。
「あたしがひとりだったら死ぬでしょうね。微妙な高さじゃあるけど、落ちたらまあ、死んでもおかしくない」
「おかしくないな」
「でもあたしはひとりじゃない。間宮がいる。間宮はいわばあたしにとって、バンジーの紐なんだよ。糸と言い換えてもいいかな。運命の赤い糸」
「一応確認なんだけど」
「うん」
「相沢、俺が『この手を離さない』って言ったから、それを確かめようとしてるの? 証明って、つまりそういうこと?」
彼女はより外側へと身体を傾けた。俺のわき腹はフェンスに当たり、伸びきった腕がみしりと痛んだ。
「言葉が濁るよ。大事なシーンでは、それに見合うような、本当に大事なことしか喋らないの」
間宮がんばれ、そう呟き、相沢はぽんと屋上の地を蹴った。
半分強制的に、半分意志で、俺は彼女の手首を握りしめた。全身に鳥肌が立ち、沸き出す汗がぶわっと逆立つ。みぞおちをフェンスに押しつけ、続いてもう片方の手でさらに手首を掴んだ。ゴリッという生々しい音が、つなぎ合った肌越しに響く。
「おま、マジか……」
鉄柵によって圧迫された横隔膜から絞ったような声が出る。腕一本を俺に引かれながら、相沢はひとまずほっとした息を吐いていた。
「第一段階、クリア」
「どうでもいいけど、ねえ、いま変な音しなかった?」
ゴリって。
「うん。なんか脱臼したっぽい、右肩」
「痛くないの?」
「うん、あんま」
相沢は首を傾げ、すっとぼけた表情をした。
「なんでだろ。アドレナリンびんびんだからかな? 肩から先、力入んないけど」
「アドレナリンびんびんって感じ全然しないけどね、今のお前」
ふと、相沢の鼻から血が一筋垂れる。自分でも気づいたようで、ぶら下げたもう片方の手で鼻血を拭った。不思議そうにしばらくそれを眺めて、相沢は血のついた指を舐めた。
「いつの間にか、壁に顔ぶつけてたみたい」
「大丈夫?」
「大丈夫。頭くらくらして、なんかテンション上がってきた感じ」
「それ、あんまり大丈夫そうに聞こえないんだけど」
陽はすっかり落ちていた。突如として横風が俺たちを薙ぎ、相沢の身体が大きく揺れた。歯を食いしばって両手に力を込める。爪が彼女の手首に食い込み、そこからもわずかに流血が始まる。腕が疲れてきた。もうあまり持たない。
「もういいだろ。引き上げるぞ」
言うと、また相沢の身体が左右に揺れた。今度は風のせいじゃなかった。
「おい動くなって。マジで落ちる」
「まだ第二段階にいってない」
「は?」
「この状況で、アレ、もう一回言ってほしい」
柵が少しずつ、腹にめり込んでいく感じがする。呼吸が苦しい。苦痛に耐えるべく目をつむる。息を荒げながら、俺はキレ気味で口を開いた。
「……俺はこの手を離さない?」
「うんそれ」
「俺はこの手を離さない」
「絶対に?」
「絶対に!」わりと数年ぶりに叫んだかもしれない。「もういい? もういいだろ? 引き上げていいよな?」
薄目を開ける。相沢はうつむき、遥か下を見下ろしていた。それは何か思い詰めているようで、それでいて、相沢らしい悪ふざけじみた興奮を纏っているようだった。おもむろに制服のポケットに手を入れる。
「絶対に、だね?」
ポケットから取り出したのは、カッターナイフ。
「なにそれ」
「カッターナイフ」
「いや、それはやばいだろ流石に。冗談じゃなくなってくるっていうか、マジで。やばいよ、やばいって」
「なにその面白リアクション。切れたナイフと掛けてる?」
「出川じゃねえよ」
力が入り過ぎて赤くなっていただろう俺の顔は、今度は青ざめていたかもしれない。キリキリ、と刃を露出させる音が、風の中でもいやにはっきりと聞こえた。相沢は鼻血だらけの顔でにっこりとほほ笑むと、一瞬の躊躇もなくカッターを俺の左手首に当てがう。小指の付け根のすぐ下、いわゆる三角骨あたり。刃の先端が接触し、肌が丸くへこむ。
「最終段階」
相沢はカッターを持つ手に力を込めた。限界まで皮膚が伸ばされていたからか、刃はおどろくほどあっけなく内側に潜っていった。それと同時に激痛。悲鳴をあげそうになり、奥歯を噛んでこらえた。
「痛い?」
「ばりくそ痛い」
「手、離したくなった?」
「全然」
刃の先端が、骨と骨の接合部を探すように動き出した。さらさらと血が溢れ出し、相沢の無防備な顔面に流れ落ちる。
「意地張るねー。間宮いじはるだね」
骨の合間を見出したらしい。今度はノコギリの要領で、カッターを左右に動かしていく。ぷつん、ぷつんと筋肉の繊維が切り離されていくのが分かった。
とつぜん、ビィンと全身が飛び跳ねった。敏感な神経の感触。これまでとは一線を画した痛みだった。彼女にはそれが何なのか分からないのか、変わらぬ調子で刃を、右、左と動かしていく。腰から首筋にかけて電撃が走る。目に涙が浮かぶ。溜まらず俺は雄たけびをあげた。俺、こんなでかい声出せたのか、ってちょっと冷静に思う。
「びっくりしたぁ。急に大きな声出さないでよ」
そこでカッターが止まってしまった。骨の密集する部分のようだった。相沢は苦心しながら、がむしゃらにカッターを動かしていく。
「あれ、これ以上切れないのかなぁ」
「手は、離さない。離してない」
「まだ意地張ってるし」
「俺はこの手を離さああああぁぁぁぁなにコレいてえぇ痛い痛い痛いぎぎぃぃぃ」
「お、切れた切れた」
実際には切れてるわけじゃない。相沢の重さに耐えかね、俺の左手首が勝手に千切れていっているだけだった。
動脈がイったらしく、先っちょを摘まんだホースが如く血液が噴出する。それはもろに相沢に振りかかった。もとの肌色が分からなくなるくらいの鮮血に塗れる。
視界が明滅する。白とか黒とか赤とか、眩しいくらいに様々な色が瞬く。背筋まで寒くなってきた。身体の芯から熱がなくなっていく。相沢がどうとかだけじゃなくて、これ、俺もやばいんじゃないだろうか。え、なにそれ。俺死ぬの? 何のために? 俺個人の意地を守るために……相沢の、本物の胸キュンのために? うわー、なんかすげえくだらねえし、馬鹿っぽい。
数秒間だけ、意識失くしてた。
我に返る。俺はまだ相沢の手を握っていた。多分右手だけで。両手でもキツかったってのに、なんでだろ。
ふいに、下方から楽しげな声。
「見てよ間宮、これ!」
血塗れの笑みをしながら、相沢は自分の手首をカッターナイフで指し示した。彼女の手首を掴んでいたのは、本体と断裂した俺の左手だった。
「間宮の手、千切れてもあたしの手握ってる!」
俺は血の気を失った頬を緩め、思わず笑ってしまう。
いやいや。
手、離さないって言ったけども。
それ、なんか違くね?
ふっと、足元から力が抜ける。フェンスからずり落ち、俺は彼女と一緒に落ちた。
なにやってんだろ俺って思ったけど、一緒に落ちてる相沢が幸せそうに笑ってるから、俺もとりあえず笑っといた。




