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咀嚼  作者: 小岩井豊
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01:プロローグ

 目が覚めると見知らぬ部屋に居た。


 まず一番にコンクリート打ちっぱなしの壁が目に飛び込んでくる。その下にパイプベッド。薄いベッドシーツと真っ白な枕はまるで医療用の寝具みたい。首を巡らせあたりを見回す。背後に木製の椅子。右方は擦りガラスの扉で、その先は見通せない。左方では、レースのカーテンがのっぺりと佇んでいた。出窓に飾られた一輪の花は、どこかで見た覚えがあるはずなのに、名前を思い出せない。

 私は毛の短いカーペットで雑魚寝していた。上半身を起こすと、こめかみに痛みが走った。昨日飲み過ぎたせいかもしれない。


 ここはどこだろう?


 確か昨晩は、自宅そばのダイニングバーで友人とお酒を飲んでいたはずだ。尊敬していた先輩が地方の支店へ出向してしまったことを嘆いていたが、私にとってそれはどうでもいい話だった。それでも我慢して耳を傾けつつ、薄味のカクテルを黙って啜っていたけれど、少しずつ眠くなり、徐々に視線もおぼつかなくなっていったのを覚えている。眠気を抑えるために、頬杖をついたままそっと瞼をおろした。ただそれだけのつもりだった。だけど気づくと私はこの殺風景な部屋に居て、わけもわからず辺りを見回している。


「朝ごはん食べてないんでしょ、美加ちゃん」


 幼い声がした。ほんの近く、しかもすぐ後方から。おどろいて振り返ると、さっきまで誰もいなかったはずの椅子に少女が座っていた。七、八歳くらいの、子供らしいピンクのワンピースを着た女の子だ。両手に大皿を抱えており、そこから微かに湯気が立ち上っている。知り合いではないと思うけれど、しかし彼女は私の名前を知っている。

「アップルパイよ」

 言うと少女は皿を差し出してみせた。パリッとした真ん丸な生地で、それは確かにアップルパイのようだったけど、あまりの異臭に眉をしかめてしまう。甘ったるいのに、どこか腐敗した匂い。よく見ると網目状の生地から、赤いソーセージの断片のようなものが見え隠れしている。

「あなたはだれ? 私、なんでこんなところにいるの?」

「ああ、まだ切り分けてなかったわね」

 私の言葉はまるで耳に入っていないようで、少女はローテーブルに皿を置いた。戸棚を開き、そこからナイフとフォークを手に取る。

「お願い答えて。ここはどこ? ごはんなんていいから、答えてよ」

「このパイ、わたしが作ったのよ。早く食べなきゃ冷めちゃうよ」

「ねえってば!」私は悲鳴じみた声をあげた。

 少女は聞く耳を持たずパイにフォークを突き刺した。さくり、と小気味よい音がして、続けざまにナイフがまっすぐに線を引く。中に固い食材でも入っているのか、二三度刃を入れ、やっと半分に割れた。ナイフを離すと、赤くつやつやした粘着質な糸が刃先にまとわりついた。

 少女はフォークを器用にひねり、アップルパイを左右に開く。生地に閉ざされた内側から、つるりとした新鮮な果物が覗いた。それと同時に、白みがかった透明な果汁が漏れだす。果汁は相当な量で、皿の端から零れてテーブルを汚した。そこから異様な香りが溢れ、部屋中に漂いだした。

 思わず鼻ごと口もとを覆う。今まで嗅いだこともない匂いだ。一体どんな食材を使えばこんな風になるんだろう?


「口を開けて」


 パイの欠片を刺したフォークが眼前に突き出される。私は声もなく首を振り、拒否を示した。すると少女の左手が伸び、私の手首をつかんだ。思いがけない握力にびっくりして全身が跳ね上がる。体験したこともない種類の力だった。軽く掴まれただけで握りつぶされてしまいそう。逃れようと腕を振ったが、少女の手はびくともせず、私はただ呻くことしか出来ない。さらに力を込められる。体内に骨の音が駆け巡り、呻きとも悲鳴ともつかない声を上げた。それを狙ったかのように口の隙間にパイをねじ込まれる。フォークを放り投げた少女の右手が、今度は私の首元を鷲掴みにする。

「顎を動かして」

 突然の出来事に私は微動だにできなかった。ただ少女の瞳を見つめ返しながら、生地の詰まった口をだらしなく開き、か細く呼吸をする。何の目的でこんなことをするのか考えようとしたが、それも叶わなかった。


 首を掴んでいた五指に力を込められる。遊んでいるかのような、試すような動作で。小指から始まりやがて人差し指に到達すると、頸動脈が一気に締まり、視界が白みだした。唇の端から涎が垂れる。少女が手首を解放した。パイ生地が口からこぼれるのを防ぐためだろう、人差し指と中指を私の咥内に突っ込み、喉の奥まで押し込んでくる。指を引き抜き、俊敏な動きで無理矢理私の顎を閉じさせた。

 喉元でパイが暴れる。体内から排出される二酸化炭素を受け、内壁を激しく叩く。胃の中が逆流を起こし、パイが内容物と混ざり合う。唇を固く閉じられた私は嘔吐すらままならず、引いては寄せる異物の海と闘う。


「どうしてそんな嫌そうな顔をするの。わたし、お肉いっぱい集めたんだよ。お肉だけじゃないよ。美味しそうな部分だったらなんだって集めたの。美加ちゃんが喜ぶと思って、わたし、がんばったのよ。ねえ、どんな味がするの。何か見えてこない? 見えてくるでしょ、色んなものが。早く飲みこんで、見てきたもの、感想を聞かせてよ」


 うっすらと開いた瞼の向こうで少女が笑う。そのまま私は意識を失った。

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