生きる希望がないことと、
「生きる希望がないことと、絶望は違うのだろうか」と頭の隅でいつからか二人の僕は議論している。
いや、議論というほど高等なものではなく、片方はそうだと言い、もう一方は違うと言っているだけだ。
理由もないそんな囁きが聞こえてくるのは、当の僕が答えを知らないからだろう。何しろ、僕の頭の中で起こっているのだから――
「!?」
とてつもない嘔吐感に襲われた。
気がつくと、四つん這いで口を開いてただ吐いていた。つるりとした手触りの、薄いクリーム色の床に、ほぼ透明の液体が落ちては滑り、その範囲を広げていく。
腹から、それとも喉の奥からせり上がる感覚は、いつものことながら長く思える。
そうして気が済むまで、出るものもないのに吐くこと、どれくらい経ったか。
つんとした臭いが立ち込める空気は動く気配がなく、吐くことを止めても、一行に臭いはなくらなかった。
口の端を垂れる気持ちの悪い液体を、右手の甲で拭う。
またやってしまった。
後悔とまではいかないが、ため息をつきたくなる感情が生まれる。
固形物が一割も占めない嘔吐物を見下ろす。これを吐いた自分が、どうせこれを片付けるのだと知っている。
「よし、続けるぞ」
機械的な声が室内に響いた。
顔を上げる。
真四角の空間には、僕一人。直径三メートルの空間には窓はなく、四方八方から、壁を突き抜けて何本ものチューブ、鎖が伸びている。
僕は、余裕をもった長さの鎖についた枷で手首を足首を拘束され、チューブを繋がれている。
一人だけ。
他には、背後に何の機械か、一目で見る限りではハイテクだと感想を抱くことしか出来ない、ゴツい機械がある。けれども、この閉塞感溢れる部屋に、僕以外の人はいない。
さっきの人の声は、上からか下からか横からか、とりあえずは機械を通して聞こえてきたものだ。
ああ、壁に囲まれているとしたが、正しくは鏡みたいになっていて、前も後ろも横を向いても僕の姿が映る。
黒い髪に、黒ではない目。身につけた衣服は少し大きめで、上下が繋がっている。両の膝をついたまま、真正面を見ている十ほどの少年の姿。
マジックミラーだ。ただの鏡ではないと分かるのは、視線を感じることによる。人の視線はそう簡単に隠し通せるものではないらしい。
前にはドア。後ろには機械。視線は横から。横の壁の向こうには人がいる。僕をこんな状況にしている本人たちが。
いくら鎖の長さに多少の余裕があるといっても、手を下につけば手首の鎖はぴんと張られてぎりぎりになる。
首には繋ぎ目のない輪が嵌められていて、輪から伸びる鎖は、頭を上へと引っ張るほど余裕がなくなる。
つまり、四つん這いの体勢をずっと続けるのは苦しい。吐いている間中苦しかった原因の一つは体勢によるものでもある。
手と足に力を入れて立ち上がる。ふらりと身体が揺れたことは、僕の意思の管轄外のことだ。
「注入開始」
「二度目開始します」
「注入開始確認」
四六時中外れることはない首の輪には、鎖以外にチューブの内の一本が繋がっている。
元々内側のあちこちに、黒色がぽつぽつとついていたチューブが、真っ黒に染まり始める。
数秒経てば、訳の分からない真っ黒な液体が堰を切ったように流れ込んでくる。
やがて黒色は僕に近づき、視界から、細い管が真っ黒でない部分は消える。
「……う、」
何かが体内に流れ込んでくる。
異物感。嫌悪感。異物感。
身体には不要のものだと、身体が拒否する。しかし、出すことはもちろん出来ない。
嗚呼、また来る。
――《《悪魔のような》》囁きが。
***
僕は元々、あんな四角の箱のような空間に入れられる生活など送っていなかった。
毎朝僕が起きる前に仕事に行き、夜九時頃に帰ってくる父親がおり、パートタイムの仕事をしていて、僕が学校から帰った頃に帰って夕食の支度をしてくれる母親がいた。
夜はほとんど毎日三人でテーブルを囲んで、温かく、冷たくはない普通の家庭で普通の生活を送っていた。
僕がここにいたのは、確かに家で自分の部屋のベッドで眠りに落ちた記憶が最後にあった後のことだった。
だだっ広い空間の隅っこで目覚めた。真っ白な部屋で、本当に僕が角にいるだけだった。
薄っぺらい灰色の布がかけられていたばかりで、横たわっている身体下には固い床があるのみだった。
頭が真っ白になり、混乱した。
思考が止まるという体験は、初めてだった。
僕がその場に何日いて、目覚めたのかは知らないが、僕はその日から、他に十数人いる同じくらいの子どもたちと同じように扱われ始めることとなった。
そんな中で僕は考え続けた。
僕は家にいたはずだ。けれども、ある日目覚めていた場所は、家ではない。父も母もいない。父と母は現れない。
ここには子どもがいる。同じ服を身に付け、同じくらいの年頃をした子どもたち。
その結果、いくつかの結論に落ち着いた。
誘拐というやつだろうか。それとも――。
四角の空間の床を掃除させられたあと、僕はようやく解放されて歩いていた。
裸足だから、一歩ごとにぺたぺたと微かな音がする。冷たい通路を、一人ノロノロと歩き続け、十分かけて広い空間にたどり着く。
その場には、僕以外に子どもの姿があった。
彼らは、いつもぼんやりと虚ろな目をして、ふらふらと歩き、立ち止まり、座り込み、どこを見ているのかも分からない。
何を考えているのかも、もしくは何も考えていないのかも分からない。
その場に足を踏み入れる前に、通路の壁に寄りかかる。
ぼー……と、目の前の、何ら動きのない光景を眺める。
遊び回る子どもなんて、一人もいない。笑い声もない。元気というものなんて、一欠片も感じられない。
動きがなくて、変化もなくて、時間の経過を感じない。
時間感覚がないことは、永遠のような錯覚をもたらす。
日にちの感覚も薄れていく。狂っていく。
僕がここに来て、果たしてどれくらい経ったのだろう。
何日か前か定かではない、幾日か前、ドアの隙間から見えた部屋の中にカレンダーがあった。
十月だった。日にちの内、なぜか六日になると、そのまま六が三回続いて書かれていた。見間違いではない。そのあと七から順に続いていたのだ。
しかし、そんなカレンダーであれ、カレンダー自体はあっても、日にちを数えるのには役にも立たない。
時計があっても、役にも立たない。
なぜなら、あの真四角の部屋にどのくらい閉じ込められていたのか。はたまた、時計のない寝起きの部屋にどれくらいいさせられていたのか。
分からない僅かな積み重ねによって、午前なのか、午後なのか、ずれてずれて、日にちまでもずれてくる。
僕は、ここに来て何日目かも数えることをやめた。寝て、起きてを一セットとしても正確かどうか怪しいし、そもそも数えたところで何になるわけでもない。
だから、もしかすると、一週間かもしれない。二週間かもしれない。一ヶ月かもしれない。だが、どうだっていい。
どうしたってここからは逃げられる気がしない。それこそ、死ぬまで。
僕がここに来てから、少し覚えた違和感がある。その感覚を一度、二度経て、僕は一つの変化を知った。
子どもの数が減っている、ということだ。
確かだった。
子どもの中でも、より虚ろ、顔色が悪い、身体の痩せ細った子を覚えておく。その数日後――おそらく数日後、だ――その子は消えた。姿がなくなった。
どうなったのか。日頃行われていることを考えれば、感覚的に分かる気がした。
あの行為が、僕らがどうなるまで行われるのか、考えれば。
僕らはどれくらいこうして、とりあえずは生きて、ぼんやりしていられるのだろう。
生きている、とは、目の前の光景を見ていると疑問を抱くことが多々あるけれど。
互いに言葉を交わし合うことなく、目に暗く影を落とし、子どもの面影を失っていく。
僕だってその一人だろう。
だけれど、各々影には濃淡があり、その最も濃い色を持つ感情を、僕はまだ知らない。
知っていることは、誰もが意欲的に生きようとは思うことはなく、やがて来る『そのとき』を、為す術もなく待つ列に並ばされている。
そんな環境で、僕が生ける屍にならない理由が一つあった。一人、と言ったほうが良いだろうか。
「メリー」
目線の先に、一人の少女が現れた。
本当の彼女の名前は何だったか。思い出せない。本当の名前が「メリー」ではないということは知っている。
僕が「メリー」と呼ぶようになったきっかけは忘れた。時おり、彼女の本当の名前を考えることがある。
メリーという名前とどう関係があったのか、そもそも、彼女が最初から「メリー」と名乗ったのだったか。
でも、僕は彼女に改めて名前を尋ねることはしない。僕は彼女をメリーと呼び、彼女は振り向く。それだけで良かった。
真反対の通路から姿を現したメリーは、肩につくまでは至らない長さの髪の毛先を揺らしてこちらを認めた。手を振っている。
ここにいる子どもの髪は、皆肩上の長さだ。理由があるのかと問われても知らない、と答える他ない。
だって髪が必要ないのであれば丸刈りにすれば良いし、わざわざ切り揃えるという手間をかける理由が分からない。
僕が知る必要もない。
壁から右半身と頭を離し、僕は歩き出した。正面からやって来るメリーに、僕からも近づいていく。
「――メリー!」
僕に軽く走り寄ってくる過程で、メリーの身体が傾いだ。
僕も慌てて走り出すけれど、メリーの身体を支える段階になって、自分もバランスを崩した。
どさっと鈍い音がする。
僕らは広い空間で、二人して倒れ込んだ。
メリーの腕は僕よりももっと細かった。メリーの腕をとったまま倒れ込んだ僕は、身体に床の固さを感じながら、目の前にきた彼女と顔を合わせていた。
メリーは薄い茶色の髪をしている。それから、くりくりとした同じ色の瞳。
びっくりと、いつもより大きくなっていた目は、すぐにふにゃりと和らぐ。
「うふふ、ふふふっ」
メリーは、くすくすと笑い始めた。
僕はその様子に数秒見いられていたけれど、釣られて笑いだしてしまう。
「あははは」
あくまでも、小さく。二人の間だけで笑い声を発し、落としていく。
静かな静かな空間に、生まれては消える。
「ふふふ、二人で転んじゃった」
「そうだね」
何ら面白くも可笑しくもないことのはずなのに、笑えてくるのは不思議なことだ。
笑っているのは僕らだけ。会話しているのも僕らだけ。二人だけ。
それからも高い天井を見上げて、笑っていた僕らはふと止まる。
僕はむくり、と身体を起こして立ち上がる。こうやっているのもいいけれど、ど真ん中でやっているのはいかがなものか。それに、会話するならどこかで落ち着いてしたい。
僕は、寝転がったままこちらを見上げるメリーに両手を差し出す。
「メリー、あっちに行こう」
「うん」
メリーは僕の手をとった。
メリーの指は細く、手首も細い。彼女はなおも笑顔を浮かべたまま、立ち上がる。
僕は歩き始めた。けれど、メリーは立ち止まったままだった。
彼女の笑顔が徐々に消えて行く。その様子は嫌に鮮明に、ゆっくり映った。
「どうしたの? メリー」
僕は尋ねた。
胸に浮かんだのは焦燥だったろう。彼女に声を、今、かけるべきだと思った。メリーは僕の方を向かずに、周りをぐるりと見ていた。ぼんやり、と。
「わたしもきっと、もうすぐあんな風になるわ」
しばらくして、彼女はそんな言葉を口にした。
「なんでそんなこと言うんだ」
「分かるの」
「なんで」
「だって……だって、あたなとこうして話している間も、ずっと頭の中で声がするの」
囁きが。
それこそ囁くような声で、僕にしか聞こえない大きさで、彼女は言った。
囁き。
それは、僕にもわかった。
さっきまでいた、小さな四角の部屋で聞こえる声があるのだ。言葉。訳の分からない、言葉。
大人たちが何も言わなくとも分かる。明らかに、僕らの身体に注ぎ込まれる黒い液体によって引き起こされていた。そして、それによって、子どもたちはぼんやりと虚ろな目をしているのだ。
囁きが、頭から離れなくなるのだと。
僕は、黒い液体を注ぎ込まれた回数は他の誰よりも少ない。だから、まだ殻に閉じ籠ることをしなくて済んで、彼女と話せているのだ。
しかし、メリーは。
「その方が楽かもしれないわ」
「メリー!」
「……ごめんなさい」
僕は咎めるように名を呼んだが、他に何を言えばいいのか分からなかった。
ここに来てから、分からないこと尽くしで僕は分からない、という感覚に慣れてしまった。しかし、メリーがこんなことを言うことには慣れたくない。
僕は周りの光景から彼女を引き離すために、手を引いて、足を進める。通路へ。とにかく、あそこから離れるのだ。
僕はずんずんと進んでいった。前へ前へ進んでいった。
道中、通路の先の、随分先に、真っ黒な扉が見えた。
僕はかつて一度だけこの扉を見たことがあった。そのとき僕は、僕を見つけた大人たちに乱暴にその場から引き離された。
メリーにそのことを言って、彼女も同じように道に迷って、見たことがあるということが判明した。
その日から僕らは、その扉のことを子どもが入ることを許されない〈開かずの扉〉と言うことにした。
「知ってる? あの奥に悪魔がいるの」
知らず知らずの内に歩みを止めていたことを、メリーの声で知った。
「わたしたち、悪魔にされるの」
彼女の方に顔を向けた僕とは裏腹に、メリーはまたあのぼんやりとした目で、扉を映していた。
ここにいるのは大人と子ども。
僕は、僕と同じ服を着ていない子どもを見たことがない。同じ服を着ている大人を見たことがない。
つまり、この建物内に存在する人はぱっかり二分されている。子どもと大人。同じ服を着る者たちと、着ない者。部屋に閉じ込められる者と、閉じ込める側の者。
大人たちは一様に、病院で見るような白衣ならぬ黒衣を身につけていた。彼らは医者などではない。狂った科学者たちだ。
彼らは、悪魔を崇め奉る。
僕らが声をかけられるときには、二つの場合しかない。
四角の部屋に閉じ込められるときと、訳の分からない話を聞かされるとき。
後者の彼らの話は一つだけだった。
悪魔、悪魔、悪魔。悪魔信奉。
情けのように置かれた本にも、毎朝のように同じ方向に向かって意味の分からないままに暗記させられ唱えさせられている言葉にも〈悪魔〉。
「わたし、見たの。あの黒色のもの、悪魔のいる部屋から運び出されてるの。きっと、悪魔の血よ。悪魔ってわたしたちと違うから、血が赤色じゃないのね。きっと、だから、囁き声が聞こえてくるの。苦しいの」
悪魔が囁いてきているの。
「メリー……」
彼らは〈使徒〉を造ろうとしていた。悪魔の力を行使できる人間を。
――「お前たちは畏れ多くも悪魔様の一部をその身に受け入れるのだ。これも、未だ目覚めぬ悪魔様の御ため。悪魔様を本当の意味で受け入れた生け贄を欲していらっしゃるのだ。それと引き換えに目覚め、そしてその力をお前たちの身に宿して下さるだろう――嗚呼、無垢な子どもをお受け取り下さいませ悪魔様」
狂った目は、僕らを愛しげに見ているようで、その向こうにある彼らの〈理想〉を見ているのだ。
――じゃあ君がいなくなったら、僕はどうすればいいのだろうか。僕も、狂うべきだろうか。
僕らを狂わせる〈悪魔〉とは如何なるものなのだろうか。
僕らはそれから暫く沈黙の中、〈開かずの扉〉を見つめていた。