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夜の邂逅

作者: ハチワレ

静かな朝だった。ゆっくりと夜空の星は青白い光に飲み込まれてゆく。その中で一際小さい星が弱弱しく明滅を繰り返して、ほんの一度の瞬きの間に消えてなくなってしまいそうなほど、儚く最後の抵抗を図っていた。


大学を中退した僕は折角受かったアルバイトも短期間でクビになり、音速で過ぎ去る月日をただ茫然と見送るだけの日常を過ごしていた。同年代の人間が社会に出てテレビの中で華々しい活躍を遂げている。同級生は大学を予定通り卒業、その後は一流企業に就職したり、夢を追いかけてギターと共に東京へ出たりと皆輝かしい人生を謳歌していた。僕は朝起きて夜眠る事ばかりを繰り返していた。欲しい物も無く、やりたいことも無い。やるべきことは明白であるが、それをしようと立ち上がる気力は何処にもなかった。一刻も早くこの現状から抜け出すべく行動を起こさなければいけない事は重々に承知していたが、僕という人間そのものに重大な欠陥があるらしく、つらい事を目の前にすると途端に逃げ出してこの部屋に舞い戻ってくる。そんな生活を続けていた。


僕は逃げ続けることに慣れてしまっていた。逃走犯と同じ様に、一度逃げ出したからには、最後まで逃げ続けなければならない。いつからか人の考えていることが分からなくなり、他人の顔色を窺い、一挙手一投足に気を揉んでしまい、心の落ち着く暇はある筈もなく、ある日プッツリと何かが切れる音がして、僕は大学を辞めた。あれほど好きだった音楽も輝きを無くした様に薄っぺらく耳元で鳴るだけの音になった。子供のころから主人公のセリフを一言一句覚える程何度も見返した映画も、色あせる事の無い興奮も感動も、見終わった後に胸の中に吹き抜けていた心地よい風も、もう感じる事は無かった。世界が色あせて見えた。鏡に映った僕は知らない人間の様に変わり果てていた。

このまま死んだところで、後悔などあるのだろうか…。

僕はそんなことを考えるでもなく思いながら、ベッドの上で死んだように眠る時代遅れの蛍光灯を眺めた。クラゲの傘の中に小さい輪っかが一つだけ入っている。外周にある筈の大きいサイズの蛍光灯はこの間切れてしまった。この小さい輪っかが光を灯さなくなれば、LEDに買い替えなければならない。季節は5月だった。ゴールデンウィークは今の僕には関係の無い話だ。窓を開けていると肌寒く、けれど冬用の布団を被ると暑く寝苦しい。夜眠れない症状はまさに鬱のそれでしかない。客観的に見ても僕はそうだと認識できる。

眠れない夜に嫌気がさし、僕はベッドから起き上がった。6畳間のフローリングの床は冷たく、僅かに心地よかった。けれどそれが僕を引き留めるまでには至らなかった。

ドアノブも冷たく冷えていた。けれど床に足を下ろした時ほどの感慨は無く、ただドアを壁に変える道具でしかなく、僕の前では仕切り板を止める金具でしかなかった。外に出ると、足の裏にコンクリートのザラザラとした感触が伝わる。部屋の外に出ても、窓が開いている為肌に触れる空気に変化は感じられなかった。コンクリートの廊下の端まで来ると、今度は鉄板の階段に差し掛かる。木ともコンクリートとも違う、硬質な冷気が足の裏を伝わる。灯の消えた家の立ち並ぶ住宅街を裸足のまま歩いた。アスファルトの上を歩くだけで、今まで見ていた町の景色が、少し違って見えた。それは視覚からの情報だけでは無く、足の裏から来る感触、風の少ない夜の空気、そんなものの所為だろう。目的も無くただフラフラと歩いていると、いつのまにか駅前まで来ていた。黄色い看板の有料駐車場に差し掛かったところで、不意に光る物を見つけて立ち止まった。黄色い二つの光は、ガラス玉に閉じ込めた月の様に鋭く煌めいていた。黒い猫だった。

夜の猫の黒目は金環食の様に金色の縁取りを持って、中央に深海よりも深く、宇宙よりも広大などこかへ通じる穴がポッカリと開いていた。

不意に猫が車の奥から滑らかな動作でボンネットの上に音も無く飛び乗った。

二つの金色の輪が並んで猫の形をした闇に浮かんでいる。

「なんだよ?何か言いたい事でもあるのか?」

久々に出した声は掠れていた。不意に僕は不気味な感覚に襲われた。黒猫から離れなければと思い僕は歩き出した。駐車場の入り口を通り過ぎ、一番近くにある光源である自販機の前まで着たところで、不意に足元にくすぐったさを感じた。同時に微かなぬくもりがある。

驚いて足を上げると、自販機の青白い光に浮かび上がった黒いシルエットと金色の輪っかが目に入った。

驚愕と戦慄が走った。僕はふら付く足を無理やり動かして走り出した。猫はあの世の見張り役だと聞いたことがある。もしかしたら、迎えに来たのかもしれない。けれど暫く走ったところで、僕は足を止めた。

「だから、なんだって言うんだ?」

僕が今更、それに抗う意味なんかあるのか…。

迎えに来てくれたんなら、その通りにした方がいいに決まってる。僕は猫が嫌いでは無い。昔黒い猫を拾ったことがある。小学校の頃、一人で通学路を歩いていると、黒猫の親子を見かけた。母猫の後を覚束無い足取りで追いかける毛玉の様な子猫を眺めていたら、不意に母猫が走り出して、追いつけない子猫はその場に取り残されてしまった。か細い鳴き声を上げる生まれて間もない子猫に、僕は学校で授業を受けている間もその事が頭から離れなかった。帰りに通りかかった時、子猫は置き去りになった場所の近くにある郵便ポストの影に隠れて鳴いていた。見かねた僕は子猫を連れて帰った。けれど生まれたばかりの子猫を育てることは難しかった。まだ母親のミルクを飲む時期だった事もあり、その子猫は三日後の朝には冷たくなっていた。

そんなことがあった事を思い出した。

僕が作り出した幻だとしたら、死が黒い猫の姿でも納得がいく。本当にあの時の猫だとしたら、多分、恨んでいるんだろうな。

あの時拾わずに放っておけば、母猫が戻ってきたかもしれない。

ということは、あの猫にとっての死が、僕だったわけか。

ふと足元で鳴き声がした。すっかり大きくなった黒猫に、あのころの面影は無かった。

「まあ、そんなわけ無いよなあ」

僕はフッと苦笑いが零れた。遠くからタイヤがアスファルトを掴む音、エンジンの回転する音が近づいてくる。目の前に白い横縞があった。十字路の横断歩道が、僕を呼んでいる声がした。

「あの時はさ、悪いことしたなって思ったんだぜ?」

僕は猫に手を伸ばすと、猫は逃げて行った。

再び一人になった僕の視界の端に、強烈な光源が進入してくる。

歩道から車道へ、足を踏み出した。

「じゃあ、今度はちゃんと助けろよな」

ハッとして顔を上げると、顔を風の塊が叩いて、トラックの荷台が眼前数センチにまで迫っていた。

呆然と立ち尽くしていたが、ふと我に返って声の下方を探したが、誰の姿も見つけることはできなかった。


それから、僕はコンビニでアルバイトを始めた。まだ何も変わっていないけれど、少しだけ色を取り戻した世界で、僕はもう少し生きてみることにした。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 主人公が自分と同じような心境で他人事ではなかったですが、最後を読んで少しホッとしました。 [一言] 主人公のように、自分も前に進めれたらいいなと思っています。
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