最後の一人
よろしくお願いします
「こんなところにいると風邪をひく」
綺羅の肩に掛け物を掛けながら主上である玻璃は言った。
「今日はお月さまがまん丸で綺麗なんですよ」
綺羅はそう言うと満面の笑顔で若い夫を振り仰いだ。
「なあ、綺羅姫。俺はこの世界を守れるんだろうか」
呟くように玻璃は空を見上げて言った。
「二人の時は瑠璃で良いですよ。守れるとかではなく、守るんです。魔の者に支配された世の中を人の手に戻したのは誰ですか?私はあなたの盾であり、剣です。私はあなたに従うだけですから。まだ幼い身ですが、記憶は引き継いでいます。」
綺羅は真っすぐに玻璃を見上げ、その手を取った。
「私はいつも無力だね。君にいつも助けられている。…でも、私の盾にも剣にもならないでくれないか」
玻璃は綺羅の手を少し強く引いた。
「きゃっ」
綺羅は玻璃に抱きつくようになってしまった。
「今度こそ、君を守ってみせるから。前世のように君を殺させはしない」
今でも夢に見るのは前世の事。自分を庇って魔物の餌食になった瑠璃の最期。
「怖いんだ。君をまた失うのかと思うと手が震える。やはり、出逢わなければ良かったのではないかと思う時もある」
玻璃は震える手で綺羅を強く抱きしめた。
「私はあなたにあえて良かった。また愛しい人に会えたのですもの。こんなに嬉しい事はないわ。きっと私はあなたに会うために今まで生かされてきたんです。怖がる事はないんですよ」
綺羅は笑って玻璃の両頬を両手で包んだ。
「瑠璃。」
玻璃は今にも泣きそうな瞳を綺羅に向けた。
「…はい」
返事を返す綺羅は花が綻びそうな笑顔で玻璃を見上げていた。
「今だけ…」
玻璃はそう言うと綺羅を抱きしめた。綺羅は黙って頷くと玻璃の腕に自分の体を預けた。
玻璃は泣いてはいなかったけれど、綺羅には泣いているように見えた。
大切な人を失うことの辛さは嫌というほど味わってきた。それこそ星の数ほどに……
綺羅はただ幼い自分が今は恨めしかった。こうしてただ抱きしめられているしかできない自分が情けなかった。もう少し大人ならこの孤独な人を慰めてあげられるのに。
「…どうして、君が泣くんだい?」
しばらくして抱きしめる手を緩めた玻璃が気づいて聞いた。
「えっ」
綺羅は自分が泣いていることに気付いていなかった。それを自覚したとたんにさらに涙はとめどなくあふれてきてしまった。
「ごめっ…な…さい」
しゃくり上げながらどうすることもできずに謝った。自分が泣いていいはずはない。自分はこの人ほどに孤独ではないのに…それなのに、涙が止まらない。
「謝らなくて良いよ。私のために泣いてくれたんだろう?私は泣くことは許されないからね。でも、君が来てくれたから、孤独にはならずに済んだんだよ。だから、泣くのは今だけで良いからね」
綺羅の頭をそっと撫でて玻璃は笑顔になった。
「っく…ほんと?」
まだしゃくり上げている綺羅は疑わしそうな瞳を向けた。
「本当。嘘はつかないよ」
見上げる純粋な瞳に少しの戸惑いを覚えながらも玻璃は頷いて答えたのだった。
今はまだ子供だから許されるけど、この見上げ方は反則だろう。
玻璃は泣き笑いをする綺羅に微笑みかけながらその愛おしさに気付かれないようにため息をついた。
「今日は傍にいるから、もう休むと良いよ」
あどけない少女に玻璃は微笑みかけた。
瑠璃は少し複雑な表情をしたが頷いて部屋に戻ったのだった。
しばらくは何事もない日々が続いた。瑠璃は相変わらず我が儘で紅葉は手を焼いていた。だが、大臣たちの前では子供を演じ切っており、さすがに怒ることもできなかった。
「姫様。よくそこまでおできになりますね」
紅葉は感心したように聞いた事があった。
「えっ?普通だよ?」
心外だと言いたげに答えていた。無意識に行っていたらしい。
「もう少し私の前でも大人しくしてくださると嬉しいのですがね」
紅葉はとりあえず言ってみた。
「紅葉の前でも猫かぶってたら、私はいつ気を休めればいいのよ。大体、連れてくる女房たちがみんな貴族出なのがいけないのよ。私にはそんな人たちはいらないわ。私が気を遣わなくていいような人たちを連れてきてね」
満面の笑みを湛えて瑠璃は言った。つい先日までの女房達も気に食わず、瑠璃の周りを行うものはごく少数のものしかいなかった。
瑠璃の部屋には秘密にしなければならない人たちも多数出入りしている。陰陽寮の筆頭、鷹野守やその友人の森之宮中将も本当ならば後宮に頻繁に出入りできるような人たちではないが、主上の命令ということで来ていることもある。
口の堅いものをと考えるとどうしても身分が卑しいものは近くに置くわけにはいかなかった。
「紅葉が苦労しているのはわかっているつもりだよ。私の事もあるし、この珠の事もあるから迂闊な人を置くわけにはいかないのもわかってる。でもね、私に一々口出す小姑のような女房だけは我慢できないんだってばっ」
確かにそんな人は口が堅いかというとそうでもなかったりするわけなので、体よくやめてもらうようにしている。
「姫様のお眼鏡にかなうものはきっと珠の持ち主くらいでしょうね」
はぁっとため息をついて紅葉は言った。自分もやはり珠の持ち主である。
「…そんなことはないと、思うわよ」
瑠璃は少しばつが悪い表情をしてそっぽを向いた。
「とりあえず、今日から入る者は本当の新人ですからどうかしばらくの間は目を瞑ってくださいね」
紅葉はそういうと一人の年若い女房というには若すぎるものを連れてきた。年は瑠璃に近く、三、四歳程度離れているような若さだった。
「本来でしたら、側室にと乞われても良いような身分の方なのですが、本人がどうしても姫様に仕えたいということでとりあえず採用させていただきました。右大臣家の孫娘の一人、五の宮様です」
紅葉はそういうと手招きして新人を招き入れた者の紹介をした。
「右大臣家の孫娘、五の宮、もう一つの名を銀と言います」
顔を上げたとたんに瑠璃はその少女に駆け寄った。
「間違いない。銀なのね」
手を取って瑠璃は叫ぶように確認した。
「さすが私の女房だわ紅葉。これで全員がそろった」
瑠璃は嬉しそうに言った。
ありがとうございました。