第一話
「あら」
真っ白な雪に椿の花が散る庭の片隅で、一人の少女が、声を洩らした。漏らした息は白く、ふっくらした頬も竹箒を持つ小さな手も、赤くかじかんでいる。それなのに、白装束一枚しか、その身に纏っていない。
「今時期、こんなところに蜘蛛が巣を…」
少女が見上げている、椿の木と、竹で編まれた塀との間に、人が楽に通れるほどの通路がある。その通路を塞ぐように、大きな蜘蛛の巣が張られていた。蜘蛛の巣独特の、入り組んだ放射線状の模様。夜露が凍りついたのか、氷の結晶が付いた糸は、一本一本が朝陽を受けて煌めき、繊細優美な銀細工のよう。
少女はその美しさに見とれて、思わず顔を網に近づけていた。そのため、その巣の持ち主が視界に入った時、
「きゃあ!!」
少女は腰を抜かして尻もちをついた。
それはそれは、でかい蜘蛛だった。
脚を広げると人の顔を覆えるほど、本体の方は拳ほどある。眼がが八つ並んで、どれもが少女の驚愕した顔を映している。なによりも眼を惹くのは、その背中、苦悶する人の顔の模様だった。今にも呻き声が聞こえてきそうなくらいに、まるで本物の首がそこに在るような…
もぞり、と蜘蛛が動く。
「ひ、ひいぃっ」
少女は泳ぐようにしてその場から逃げ、屋敷の縁側に駆け込んだ。顔から血の気が引いて真っ青になっている。雪に塗れた全身ががくがくと震え、しがみつく障子が小刻みに音を立てる。少女が乱れた呼吸を懸命に整えようとしていると、畳のすれる音がして、隣の障子がすっと動いた。開いた隙間から、鮮やかな唐衣に身を包んだ女が顔をのぞかせた。少女の顔を見るなり、きゅっと眉を寄せた。
「たか、どうしたのかい?」
「珠名様!!」
少女は泣きそうな顔で女にすがった。
「庭に人面蜘蛛がおりまする!」
「…庭の、内側にか」
「はい、あすこの、椿と塀の間に…」
云い終わらぬうちに、少女の顎はカタカタと鳴り始め、ものも云えない状態になった。
「たき、たすく、」
女が障子の向こうに呼びかける。すぐに「「はい」」と返ってくる。まだあどけない、児女と児童の声だ。
「たかを白狐の部屋に運びなさい」
「「はい」」
その頃には、たかと呼ばれた少女の身体は、狂ったように激しく揺れていた。
それを置いたまま、女はすっと庭に下りて、先の椿の木の本へ進む。積もる雪の上、女の通った後に足跡はつかない。
「お前、」
女は蜘蛛に語りかける。
蜘蛛はささっと巣の隅に下がる。
「塀をくぐって来たのかい?」
蜘蛛は、隅から女を見つめるだけである。眼がおどおどと揺れている。
「そんなに恐がらなくてもいい。どうやってここに来たのかい?」
女の声は、雪をとろかすように、暖かい。
凍りついた思考が、その声によって戻ったのか、おずおずと蜘蛛が『しゃべった』。
(…ここに、きていた。きがついたら、きていた)
女はそんな蜘蛛をじぃっと見ていた。
(とても心地よいところ。いいところ)
やがて、蜘蛛はぶるりと身体を震わせた。糸の巣が反動でゆさゆさ揺れる。
(でも、おいら、こわい。ここはいいとこだけど、おいらはこわい)
「ここが恐いのかい?」
蜘蛛の眼が潤む。
(おいらが、こわい…。さっきの女子…どうした。どおした)
蜘蛛の眼から涙がこぼれる。
「心配するな。家には治せるものがいる」
女が宥める。それでも、蜘蛛の涙は止まらない。
(おいらをみたやつ、みんな、ああなる。おいら、こわいやつ、いなくなればいいやつ)
「そんなことない」
女は首を振って、真っ直ぐ蜘蛛を見る。
「お前には、並外れた『力』があるのさ。お前はまだその『力』をうまく使うことができないだけだ」
(チカラ…?)
「『力』というのはな、善いも悪いもないのだよ。水をお前は知っているか?」
(…しっている)
「水も『力』のようなものだよ。水がなくては、生き物は干からびて、生きることはできない。水は、我々を生かす。しかし、水があればよいというわけではない。洪水などがそうであろう…。荒れ狂った水に襲われれば、我々はひとたまりもない。水は我々を殺すこともできるのだ」
(じゃあ、おいらのチカラも、ものをいかすこともできるの?)
「ああそうだ」
女が頷く。
「また、水は、様々に姿かたちを変える。雨となって大地を流れたり、氷となってお前の巣に張り付いたり、この、雪のようにふわふわ積もったと思ったら、翌朝には消えていたり。。。しかし、常に我々のそばにある。我々の体の中にある。我々の一部なのだ」
(チカラも、またおなじ…)
呟く蜘蛛の理解の早さに感心しつつ、女は頷く。
「そうだ」
(そうなのか…)
「おまえ、それを自在に操るようになるために、ここで修行をして見ないか?」
(え、いいの??)
蜘蛛はうれしさで眼を輝かせて答えた。
女が屋敷を振り返る。
「家にはそのような者ばかりだ。――たすく、」
「はい」
先ほど女が開いた障子の隙間から、大きな山犬の顔がぬっと出てきた。
「この蜘蛛は、今日からお前たちと共に暮らす。名は――たけるだ。お前が面倒を見なさい」
云われるなり、たすくと呼ばれた山犬は、蜘蛛の巣のある椿の根元に駆け寄ってきた。ズボズボと雪に埋まりながら。
「たすくだ。こいつはまだ『はい』と鳴くことしか、とりえがない」
「はい」
(よろしくな)
山犬が蜘蛛に向かってしゃべる。
「『よろしく』だそうだ」
山犬の言葉がわからないようすの蜘蛛に、女が通訳してやる。
(おいらこそ、よろしく)
今度は、山犬に蜘蛛の言葉を伝える。
(降りて来いよ! 屋敷を案内してやる!)
山犬のたすくが、ぴょんぴょん蜘蛛に向かって飛ぶ。
はじめはそんなたすくに怯えたたけるだったが、たすくの気持ちを察して、するすると巣から降りてきた。
二匹が連れ立っていくのを見届けて、女はそっと足元を見る。
雪の上に散った椿の花びらが、枯葉のように干からびている。
女は、蜘蛛の巣のついた椿の木を、すぅっと撫でた。
すると、椿の花が、次々に落ちていく。ぼとぼとと、首から落ちていく。
落ちた花は見る間にしおれ、花弁は明るい紅赤が深紅になり、やがて茶けた小豆色になった時には、かさかさと音を立て、崩れてしまった。
女は、椿の木に向かって、今度はふぅっと吹いた。
すると、椿の木がゆさりと揺れ、葉々の間から蕾を突き出し、また、花を咲かせた。
再び咲いた花は、純白であった。
それを確認して、女は縁側へ戻っていった。
女が障子を開けて入った部屋に、一人の児女が座っていた。
「たかは、五分五分だそうです」
児女が云った。
「思いの外、『力』の強いやつだな」
女が息をつく。
しばらく、間が空いて、女が児女に問う。
「どうした、たき」
児女は女を見据えて、切り出す。
「人語を解し、人のように涙する蜘蛛。それ以上に、我が結界をくぐって進入した不貞な輩。そのような者が、我らが屋敷にいてよいのでしょうか」
「正直云って、難しい。…私の立場が危ういな」
「なら、なぜ」
「お前や、お前たちを拾った時と同じだ」
女はすっと児女の横を通り、奥の部屋へ進む。
「放っておけなかったからだ」
それ以上児女は何も云えなかった。
児女の気が済んだと見た女は、奥の部屋に消える。
児女は、遠ざかる女の衣擦れの音をじっと聞いていた。唇を噛みしめて。