5-PORALIS
1897年
産業革命の中枢、プロテスタントの国イギリス。
国土は決して広くはない島国でありながら、インドやアフリカにも植民地を置く大国。当時、イギリスの商業的、工業的地位において右に出る国はなかった。急進的に発達を遂げたイギリスは、とても貧富の差の激しい国だった。
上等な燕尾服の貴族と、汗と油にまみれた工夫。町を練り歩く貴婦人と娼婦、笑いあって走り回る子供と浮浪児。
この国には人間の全てがある。なんと美しい国か。
あの娼婦たちに真実の愛とやらを説いて裏切ったらどんな顔をするだろう。
あの浮浪児たちに救いの手を差し伸べて見捨てたらどんな反応をするだろう。
バカな貴族どもに吸血鬼の力を貸すと約束して殺そうとしたらどんな顔で泣くだろう。
考えただけで楽しい。
そうだ、この国では人間の心で遊ぼう。
新しいオモチャを見つけた私は早速若い男に変身した。白く、なめらかな肌、すらりとした舞台俳優のような体躯。輝く金の髪にミスティークなグレーの瞳の貴族然とした美貌。
人間を惹きつける、若く美しい男に。
ロンドンをしばらく徘徊して、綺麗な屋敷を見つけた。
屋敷の管理人に尋ねると、そこはある貴族の別宅で丁度売りに出そうと思っていたという事だった。管理人に案内してもらい、その貴族の代理人である弁護士の屋敷を訪ねた。
「すみません! お待たせしました!」
スーツを着た金髪碧眼の若い男が笑顔で階段を下りてきた。
「うちの先生は別件で手が離せないみたいで、代理で申し訳ありません」
後ろ頭を掻きながら申し訳なさそうに謝る人の良さそうな男。
「いえ、とんでもありません。私こそ急に押しかけてしまい申し訳ありません」
帽子を取って謝ると、その男は異常なほど恐縮して、いえいえ! と騒いでいた。
「私は弁護士のジュリアス・キングです。よろしくお願いします」
「ドイツから参りました。アルカード・ドラクレスティと申します。こちらこそよろしくお願いしますね。キング先生」
「先生だなんて! ジュリアスでいいですよ!」
屋敷の説明や買い取り額を相談して、一段落するとジュリアスは世間話を始めた。
「ドラクレスティ様はドイツの方ですよね? 貴族の方ですか?」
「ええ。ですが帝国解体と共に国を追われた、名ばかりの伯爵家ですよ」
「爵位をお持ちだったんですね! 大変失礼いたしました・・・」
「いえいえ。私が申し忘れておりましたから。どうかお気になさらず」
「ドラクレスティ伯爵は、貴族なのに気取ってなくていい人ですね」
「そうですか? ありがとうございます」
貴族どころか王族だと突っ込みそうになったが、ジュリアスの人懐っこい笑顔に言葉を飲み込んだ。
ジュリアスと話していて、ステファンとマティアスを思い出した。今頃奴らは、あぁ、当然墓の中だ。ステファンは私が死んでからも上手く国を纏めて、賢帝と呼ばれるほど偉大な王として君臨し、正教会において聖人に序列されたと聞いた。本当にアイツは大した奴だ。
マティアスに至ってはハプスブルクを追い出した後、ローマ帝国の皇帝の座すら狙っていたと聞いたな。だが急死して、その夢は叶わなかったか。だが、奴もかなり大した奴だ。マティアスの死後、あれほど繁栄したハンガリーが急速に弱体化していったのを見れば、マティアスがどれほど優れた国王であったかは一目瞭然だ。
友として喜ばしく思う反面、羨ましくもあった。二人のお陰で王位の奪還に成功したと言うのに、間もなく謀殺された私に二人は失望しただろうか。
聖人に叙されたステファンが、神を見限った今の私を見たら失望するだろうか。子供のなかったマティアスが、子供を置いて死んだ私を軽蔑しただろうか。所詮私には王としての資質がなかったという事なのか、それとも帝国に反抗したのは間違いだったのか、今はもうそれを確かめるすべもない。
ただ、父と兄と、そして友の期待を裏切ってしまった自分を、悲しく思った。
私が思索に耽っている間も、適当に返事をしていたためかジュリアスはニコニコと笑いかけながら会話を続けていた。
こいつは、幸せなんだろうな。何もかもが普通で、普通に辛い事があって普通に楽しい事がある、そう言う幸せな人間なのだろう。
私も生まれた時代が違ったら、別の生き方をしていたのだろうか。私が今の時代に「アルカード・ドラクレスティ伯爵」として生まれてジュリアスと出会ったなら、友と呼べるような関係を築けているかもしれない。いや、考えるだけ無駄なことだな。所詮過去は過去だ。今はもう王族でも貴族でも、ましてや人間ですらない吸血鬼なのだから。
とりあえず、この日は私の話を聞いたうえで先方と交渉してみるという事で、そのまま話し合いを済ませた。
後日、連絡が来て再び屋敷へ向かった。
「先方から承諾いただけました。契約成立ですね。おめでとうございます」
「ジュリアスが尽力してくれたおかげです。ありがとうございます」
「いえ、私なんてなにも! では、こちらにサインをお願いします」
書類にサインをし、その場で屋敷の代金と仲介料を支払った。書類と代金を受け取ったジュリアスは鞄にそのまま突っ込み、鞄から腕を抜いたはずみで、なにかがハラリと床に落ちた。
「何か落としましたよ」
紙を拾って渡すと、ジュリアスは慌ててすいません! と受け取る。
「写真ですか?」
「ええ! 私の婚約者なんです!」
そう言ってジュリアスが押し付けてきた写真を見て、息が止まった。
そこには、花束を抱えて微笑むエリザベートが映っていた。
思わず絶句して固まる私にジュリアスは浮かれたように話し続ける。
「私が言うのもなんですけど、美人でしょう?」
「・・・・ええ、本当に」
欲しい
「来年の春に結婚するんです」
「それは、おめでとうございます」
欲しい
「ありがとうございます! あ、伯爵も式にいらっしゃいませんか!?」
「ええ、是非。ありがとうございます」
欲しい
「伯爵においでいただけたら、ミナも喜びます!」
「ありがとうございます。楽しみにしていますね」
ミナ・・・・・ミナが欲しい
ミナ。この娘はエリザベートの生まれ変わりだ。そうに違いない。ならば、私が手に入れて当然だ。ジュリアスの婚約者だろうがなんだろうが、知ったことではない。
何をしても、どんな手を使ってでも、必ず手に入れる。
ミナは私のものだ。