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「貴方なら大丈夫だろ」で他人のミスまで謝らされてきた私、直すのをやめたら社内がちょっと騒がしくなりました

作者: 江合 花果
掲載日:2026/09/29

「このたびは、大変申し訳ございませんでした」




画面の向こうで、先方の根岸さんの眉間に縦線が一本入っている。


オンライン会議の小窓越しでもわかる。あれは怒っているときの線だ。




私は頭を下げた。カメラの角度的に、向こうにはたぶん私のつむじしか映っていない。




ミスの中身は単純だった。


月次の広告レポートで、先月分の広告費と成果件数が元データとずれていた。数字の合わないレポートは、グラフがどれだけきれいでも読む価値がない。根岸さんが怒るのは当然だ。




問題は、もうひとつある。


その数字、私は昨日のうちに気づいていた。




「佐伯くん、この広告費、元データと合ってないよ。確認しといて」


「了解っす!」




元気な返事だった。


元気なだけだった。




会議の十分前、田島課長が私の席まで来て、椅子の背もたれに手を置いた。




「水城、先方に謝っといて。お前なら話まとめられるだろ」


「……担当、佐伯くんですよね」


「佐伯、今ちょっとテンパってるからさ。な?」




な? で済む話なのか。


考える時間はなかった。十分後には会議だった。




会議が始まってすぐ、根岸さんは言った。




「これ、うちの役員会に出す数字なんですよ。水曜の」


「はい」


「もう社内に一回回しちゃったんですよね。僕の名前で」




つまり根岸さんは、社内で恥をかいたのだ。私たちのせいで。


それは怒る。私でも怒る。




手元のメモを見る。


佐伯くんから会議の五分前に届いたチャットには、「たぶん期間の設定ミスです!」とだけ書いてあった。たぶん、とびっくりマーク。情報量がほぼない。




元データを十分眺めて、私にもだいたいの当たりはついていた。


でも、当たりは当たりだ。根岸さんが役員会に持っていく話に、「たぶん」は混ぜられない。




「原因につきましては、現在、元データとの突き合わせを進めております。確定した内容を、修正版とあわせて本日十七時までにご報告いたします」




そこで止めておけばよかった。




「それと、修正版は、お送りする前に私も目を通します」




言ってから、あ、と思った。


私の担当じゃない案件の、私の名前での約束だった。誰にも相談していない。


でも、根岸さんの縦線をほどくには、たぶんこれがいちばん早かった。




私はいつも、そうやって「早い」ほうを選んでしまう。




会議が終わるころには、根岸さんの縦線は消えていた。




「水城さんがそう言うなら。じゃ、十七時で」




画面が切れる。


ヘッドセットを外して、長く息を吐いた。




――で。


なんで、私が謝ったんだろう。




   ◇




「いやー、助かった。悪かったな」




会議室を出たところで、田島課長が肩を叩いてきた。




「でもまあ、水城なら切り替えられるだろ。佐伯、けっこう落ち込んでるからさ。あんまり言ってやるなよ」


「私も今、怒られたんですけど」


「お前は大丈夫だろ」




笑顔だった。褒めている顔だった。


課長は満足そうに頷いて、喫煙所のほうへ歩いていった。




席に戻ると、今度は佐伯くんが両手を合わせて待っていた。拝まれている。




「水城さん、ほんっとすいません! でも水城さんいて助かりました。水城さんなら絶対なんとかしてくれるって、俺、信じてました!」




信じてました、の使いどころが間違っている気がする。




「……うん。修正版、十七時までだから。一緒に見よう」


「あざっす!」




隣の席から、ポッキーの箱がにゅっと差し出された。同期の香坂ちなつだ。




「おつ。美月なら平気でしょ、あれくらい」


「平気だけど」




一本もらって、かじる。


平気だ。本当に平気なのだ。根岸さんとは四年の付き合いで、どこまで下げればどこで止まるかも知っている。




でも、ポッキーを半分まで食べたところで、口が勝手に動いた。




「……なんで私なら平気なんだろ」


「ん?」


「なんでもない」




香坂はふうん、と言って、モニターの縁に貼った付箋にペンで一本、線を足した。


付箋には「正」の字が並んでいる。




「前から気になってたんだけど、それ何」


「『美月ちょっといい?』の回数」


「は?」


「今日、午前だけで四回。今ので五」


「今のはポッキーでしょ」


「ポッキー渡すとき、心の中で『美月ちょっといい?』って言った」


「数えないで」


「面白いから」




面白がられていた。




   ◇




修正版は十六時五十二分に送った。原因は、やっぱり集計期間の設定だった。


結局、佐伯くんの横に座って、「ここ違う」「そこも」と言っているうちに、いつもの流れになった。




「貸して」




佐伯くんのノートパソコンを、自分のほうへ引き寄せる。


関数を直して、元データと突き合わせて、グラフの軸を揃える。三分。




「うわ、はや」


「はい、確認して送って」


「神っす」




神ではない。慣れているだけだ。




その夜、帰りの電車で吊り革につかまりながら、なんとなく指を折って数えてみた。




先月、別チームの子の見積書。桁がひとつ多かった。「貸して」で直した。


その前の月、LPのリンク先が本番環境じゃなくてテスト環境になっていた。「貸して」で直した。


佐伯くんが先方への返信を三日寝かせていたときは、私が代わりに返した。


新人の子のバナーの誤字。「貸して」。


入稿データの画像サイズ。「貸して」。




指が足りなくなって、二周目に入ったところでやめた。




思い出したのは、入社二年目のことだ。




当時の上司に「水城は仕事が早いな」と言われた。先輩のミスを、先輩が気づく前に直しておいたときだった。


嬉しかった。すごく嬉しかった。その日の帰りにコンビニでちょっといいアイスを買ったくらいだ。




たぶん、あのアイスが始まりだった。




どれも大したことじゃない。三分とか五分で終わる。


だから誰にも言わなかったし、言うほどのことでもないと思っていた。




でも、あの見積書の子。


この前の飲み会で「俺、数字まわりは強いんで」と言っていた。


たぶん今でも、自分が桁を間違えたことを知らない。




私が直したから。


ミスは、ミスとして誰の目にも触れないまま消えていた。直した私の三分も、一緒に消えていた。




電車が揺れて、隣のおじさんの鞄が脇腹に刺さった。


地味に痛かった。




   ◇




翌週の火曜、佐伯くんがノートパソコンを抱えてやってきた。


出前の岡持ちみたいな持ち方だった。




「水城さん、ちょっと見てもらっていいすか」




香坂のペンが、付箋の上でスタンバイする音がした。




画面には、スキンケアの新商品の広告原稿。


三秒でわかった。




「ここ。価格が旧商品のままだよ。二千百八十円じゃなくて、二千四百八十円」


「あ、ほんとだ。すいません」




そして、いつもの私なら。




右手が、もう動いていた。ほとんど反射だった。


指先がノートパソコンの縁にかかる。あと五センチ引けば、画面は私の正面に来る。




止めた。




指を離して、膝の上に戻す。




「……ここ、直しておいてね」


「……あ、はい」




佐伯くんは、パソコンを抱えたまま一秒くらい立っていた。


返品された岡持ちみたいな顔をしていた。




それから「はい」ともう一回言って、自分の席へ戻っていった。




四十分後、佐伯くんがもう一度やってきた。




「直しました」




画面を見る。価格は直っていた。


ついでに、直す前にはなかった改行がひとつ増えて、キャッチコピーが変なところで折り返していた。




「ここ、改行ずれてる」


「え、うそ、あ、ほんとだ」




佐伯くんは、また戻っていった。


今度は十分で戻ってきた。直っていた。




私がやれば三分だった。佐伯くんは五十分かかった。


差し引き、会社は四十七分損をしている。




計算しながら、でも、と思った。


来月の佐伯くんは、たぶん三十分でやる。




香坂が小声で聞いてくる。




「……今の、カウントしていいの?」


「半分で」


「半分の正の字ってどう書くの」


「知らない」




たった、それだけのことだった。


なのに私の右手は、それから一時間くらい、キーボードの上でそわそわしていた。




   ◇




指摘はする。でも、自分では直さない。




それを二週間続けたら、社内が少しずつ、ほつれ始めた。




入稿が一時間遅れた。


佐伯くんが、画像の書き出しサイズを三回間違えたからだ。三回目で私のほうを見たけど、私は自分の画面を見ていた。




社内確認が一回差し戻された。


新人の子のバナーに、誤字がひとつ残っていた。「お問い合わせ」が「お問い合せわ」になっていた。前の私なら、見た瞬間に「貸して」と言っていたやつだ。




田島課長が定例会議で、プロジェクターの前に立ったまま「えー、資料は……後ほど共有します」と言った。


資料を作るはずだった佐伯くんは、会議室の隅でノートパソコンを抱えて、まだ作っていた。




どれも致命的じゃない。


でもフロアに、うっすらと空気が生まれた。




最近、なんかミス多くない?




増えたわけじゃない、と私は知っていた。


画像サイズの間違いも、バナーの誤字も、前から毎週くらいのペースで起きていた。先月までは、それが誰の目にも入る前に、私の三分で消えていただけだ。


見えるところに、出てきただけ。




そして、給湯室の前を通りかかったとき、こんな声が聞こえてきた。




「水城さん、最近自分で直さなくなったらしいよ」


「え、なんで」


「……辞めるんじゃない? 引き継ぎの準備とか」


「うそ、どこ行くの」


「外資って聞いた」




誰から聞いたんだ。


私は外資の面接どころか、外資系のスーパーにすら行っていない。




噂は、その日の午後にはさらに育っていた。




「水城さん、シンガポールの会社に引き抜かれたんだって」


「え、英語話せるの?」


「話せるから引き抜かれたんでしょ」




話せない。中学英語で止まっている。




夕方には、なぜか「年収が倍」という情報まで付け足されていた。


香坂がにやにやしながら教えてくれた。




「美月、今シンガポールで年収倍らしいよ」


「今、ここで年収そのままなんだけど」


「発信源、たぶん佐伯くん。給湯室で『水城さん最近冷たいのは、もう心がここにないからだ』って言ってた」


「ポエムじゃん」




翌朝、デスクに紙袋が置いてあった。


田島課長が、そわそわしながら後ろに立っていた。




「これ、うちの近所で行列できてるプリン。朝並んだ」


「……ありがとうございます」


「で、どうだ最近。なんか不満とかあるか? 給料以外で」




給料以外で、と先に言うあたりに、この人の正直さが出ている。




「特にないです」


「そうか。ならいいんだ。うん」




課長は明らかにほっとした顔をして、それから思い出したように言った。




「そうそう、佐伯の入稿遅れの件な。お前、気づいてたなら直してやれよ」


「佐伯くんには伝えました」


「でもお前なら直せただろ?」




また、それだ。




「直せることと、私の仕事であることって、同じですか」




課長は、口を半開きにしたまま止まった。


プリンの紙袋が、私のデスクでかさりと鳴った。




「……まあ、そう、だな」




それで話は終わると思った。


ところが課長は、脇に抱えていた自分のノートパソコンを開いて、私のほうへ向けた。




「あ、ところでこれ見てくれないか。経費精算のエクセル、関数がなんかずれてて」




お前もか。




隣で香坂が、音を立てずに一本、線を引いた。




「課長、それは経理の真鍋さんに聞いてください。私、経費のシート触ったことないです」


「え、でも水城なら」


「触ったことないです」




課長はパソコンを抱えて、すごすごと経理の島へ歩いていった。


その背中を見送りながら、香坂が言った。




「ねえ。課長の分、別の付箋に分けていい?」


「好きにして」




プリンは二個入っていたので、昼休みに香坂と一個ずつ食べた。


行列ができるだけあって、ちゃんと美味しかった。悔しいくらい美味しかった。




「で、ほんとに辞めないの?」


「辞めないってば」


「ならいいけど」




香坂はスプーンをくわえたまま、モニターの付箋を見た。正の字が、もう二枚目に入っている。




「それさ、最初はほんとに面白くて数えてたんだよね。美月、呼ばれすぎでウケるって」


「うん」


「でも一か月くらいで、ちょっと笑えなくなってきて」




香坂は、スプーンでプリンの底のカラメルをすくった。




「一日十回とか普通にあるんだよ。で、美月、一回も嫌な顔しないじゃん。だから誰も、多いって気づかない。私も付箋なかったら気づいてなかったと思う」


「……数えてくれてたんだ」


「面白いからね」




そういうことにしておいてあげる、みたいな顔で、香坂は空のカップをゴミ箱に投げた。外れた。




   ◇




「水城さん、最近ちょっと冷たくないですか」




夕方の自販機の前で、佐伯くんに言われた。


缶コーヒーを二本買って、一本を私に差し出しながら。




「冷たい?」


「いや、あの、怒ってるとかじゃないのはわかるんすけど。……あと、その」




佐伯くんは缶を握りしめて、声をひそめた。




「辞めるんすか?」


「辞めないよ」


「よかったあ……。俺、水城さんいなくなったら三日で死にます」


「三日ももつんだ」


「もたないかもしれないです」




素直すぎる。


缶のプルタブを開けて、ひと口飲んだ。甘い。佐伯くんは、私がブラック派なのを知らない。




「質問には、前より答えてるつもりだけど」


「それはそうなんすけど。前なら、そのまま直してくれたじゃないですか」




悪気のない顔だった。


本当に、純粋に、不思議がっている顔だった。




ああ、そうか。




この子の中で、「教えてもらう」と「やってもらう」は、たぶん同じ引き出しに入っている。


入れたのは、私だ。




それに、正直に言えば。


「貸して」と言ってパソコンを引き寄せるとき、私はたぶん、気持ちよかった。三分で片づけて「神っす」と言われるのは、悪い気分じゃなかった。


頼られるのが好きだったのは、私のほうでもある。




「佐伯くん。やり方は教えるよ。何回でも聞いていい」


「はい」


「でも、佐伯くんの仕事は、佐伯くんがやろう」




佐伯くんは、何か言いかけて、やめた。


納得した顔ではなかった。でも言い返す言葉も見つからない、という顔だった。




「……うっす」




そう言って、自分の缶のプルタブに指をかけ、ぱきっと音を立てて爪を割りかけていた。




   ◇




それから三週間。




佐伯くんは、相変わらずミスをした。


でも、ミスをしたあとの動きが変わった。




最初のうちは、パソコンを抱えて私の席の前をうろうろして、結局声をかけずに戻っていくことが多かった。


三往復したこともある。ルンバみたいだった。




香坂に聞きに行ったこともあった。




「香坂さん、VLOOKUPってどうやるんすか」


「私に聞かないで。私、足し算もオートSUMでやってる」




佐伯くんは香坂の席からも追い返されて、しょんぼりと検索エンジンに向かっていた。


画面の検索窓に「VLOOKUP わからない なぜ」と打ち込んでいるのが、斜め後ろから見えた。




私のほうも、楽ではなかった。


佐伯くんの画面に明らかな間違いが見えると、右手の指が勝手に動く。マウスを握るみたいな形になる。


仕方がないので、左手で右の手首を押さえていた。




「美月、それ何のポーズ」


「封印」


「中二?」




三十一歳の封印は、けっこう地味にしんどかった。




そして、ある日の午後。




「水城さん。ここの数字、元データとずれてたんで、自分ではこう直そうと思うんすけど。どう思います?」




画面を見る。


直し方は遠回りだったけど、合っていた。




「それでいいよ。あと、ここの参照範囲だけ固定しとくと、来月楽になる」


「あ、なるほど。……よし」




佐伯くんは、机の下で小さくガッツポーズをして、自分の席へ戻った。




香坂が、ペンを構えたまま聞いてくる。




「今のは?」


「数えなくていい」


「なんで」


「あれは相談だから」




香坂は少し考えて、ペンのキャップを閉めた。




   ◇




十一月、大きな案件が来た。




ミナモ化粧品の新作美容液のキャンペーン。


Web広告、特設LP、SNS施策まで込みの、うちのチームにとっては今期いちばんの山だ。




タスク管理ツールには、こう書いてある。




案件責任者 佐伯悠斗


制作進行 水城美月




うちのチームのチェックシートでは、線引きはこうなっている。


LPやバナーみたいな制作物は、制作進行が確認する。


予算表や提案書みたいな提出資料は、案件責任者が作って、案件責任者が最終確認する。




……と、紙の上ではなっている。


実際には、提出資料の数字まで私が全部見て、黙って直していた。チェックシートのどの欄にも書いていない仕事だった。




二日後に黒川部長を交えた最終レビュー。そのあと、クライアントに提出。




レビュー前日の午後、私は制作進行として資料一式に目を通した。


引っかかったのは三か所。




広告予算の合計が、内訳を足した数字と合わない。


LPの価格表記が、旧版のまま。


提出資料の三ページ目に、前の案件の文章が残っている。よりによって、競合ブランドの商品名入りで。




佐伯くんの席へ行って、画面を見せながら伝えた。




「三ページ目、これ前の案件のだよね。競合の名前入ってる」


「うわ、やば」


「予算表は、内訳を変えたら合計も再計算して。ここ、手入力になってるから自動で変わらない」


「手入力……誰すか、これ作ったの」


「佐伯くん」


「俺か」


それから、タスク管理ツールにも同じ内容を書き込んで、スクリーンショットを添えた。




「ありがとうございます。今日中に直します」


「お願いね」




LPは制作チームに修正を頼んで、夕方、公開前の画面を自分で開いて確かめた。価格は直っていた。


こっちは、私の仕事だ。




予算表と提出資料は、佐伯くんの仕事だ。




席に戻る。




以前の私なら、ここから二時間後にこっそりファイルを開いて、直っているか確かめていた。直っていなければ、黙って直していた。




今回は、開かなかった。




十九時に退勤した。この案件が始まってから、初めての定時だった。


家に帰って、お風呂に入って、ドライヤーをかけながら、共有フォルダのことを考えた。




ベッドに入ってから、もう一回考えた。


スマホに手が伸びた。




私はスマホを持って玄関まで行き、靴箱の中にしまった。


そうでもしないと、開いてしまう気がした。




電気を消して、目を閉じる。


予算表の合計。LPの価格。三ページ目の文章。


頭の中で勝手にチェックリストが回り始めて、三周目くらいで、ようやく眠った。




朝、靴箱から出したスマホは、革靴の匂いがした。




出社してすぐに聞いた。




「佐伯くん。昨日のとこ、修正終わった?」


「大丈夫です! 全部直して、チェックシートにも確認済みって入れときました」




目の下にうっすらクマがあった。遅くまでやっていたんだろう。




タスク管理ツールを開くと、三件とも「対応済み」になっていた。


確認者の欄には、佐伯くんの名前。二十三時四十分。




私は、そこで信じることにした。




   ◇




最終レビューは、十階の大会議室だった。




黒川部長は、五十を少し過ぎた人で、老眼鏡を額に上げたまま資料を読む癖がある。無口で、何を考えているかわからないと言われている。私も、正直わからない。




部長は資料を一枚ずつめくった。


二ページ目。LPの価格。直っている。


三ページ目。競合の商品名。消えている。




心の中で、息をついた。




五ページ目で、部長の指が止まった。




「ここ。合計、おかしくない?」




予算表の一か所。


内訳の一行だけ、古い数字が残っていた。




佐伯くんが固まった。


椅子の上で、比喩じゃなく、固まっていた。




田島課長の首が、すっと私のほうへ回った。




「水城?」




会議室の全員の視線が、私に集まった。




「昨日、佐伯さんに修正をお願いした箇所です」


「いや、だから、最後に確認――」


「LPは私が確認しました。予算表の最終確認は、チェックシート上、案件責任者です」




一回、息を吸った。




「この案件の責任者は、佐伯さんですよね」




空調の音だけが聞こえた。




黒川部長が、額の老眼鏡を下ろして、タスク管理表のプリントに目をやった。


それから、何も言わずに佐伯くんを見た。




佐伯くんは、震える手で自分のノートパソコンを開いた。




「あ、あの、これは、内訳の、えっと、ここの行を、昨日……」




しどろもどろだった。


見ていられなかった。


見ていられなかったけど、見ていた。




膝の上で、右手がまた勝手に形を作ろうとする。


今ここで「私がやります」と言えば、三十秒で終わる。部長の前で佐伯くんが恥をかく時間も、三十秒で済む。


そして来月、同じことが起きる。その次の月も。




テーブルの下で、左手で右の手首をつかんだ。




「……水城さん、元データって、どこのフォルダでしたっけ」


「共有ドライブの、ミナモ、予算、の中の最新版」


「ありがとうございます」




それだけ答えた。


場所は教える。でも、開くのも、直すのも、説明するのも、佐伯くんだ。




五分かかった。


私なら二分でやれた。




佐伯くんは修正した数字を読み上げ、なぜずれたのかを説明した。昨日、三か所のうち二か所を直したところで安心して、予算表の再計算をかけ忘れていた、と。




部長は黙って聞いて、最後に一言だけ言った。




「次から、提出前に合計だけは自分で検算しなさい」


「……はい」




佐伯くんの声は、裏返っていた。




田島課長が、場をなごませるように笑った。




「いやあ、まあ、提出前でよかったですよね。な、佐伯」




部長は笑わなかった。


課長の笑い声だけが、会議室の天井にぶつかって、どこにも行けずに落ちてきた。




   ◇




レビューの最後に、黒川部長が言った。




「田島くん、水城。十五分後に小会議室で振り返りをしたい。私は電話を一本済ませてから行く」




先に小会議室に入ったのは、私と課長だった。


ドアが閉まるなり、課長が言った。




「お前、あれ気づいてたんだろ」


「はい」


「だったら、最後まで確認してやれよ」


「確認して、指摘しました。タスク管理にも残してあります」


「そういう意味じゃなくてさ」




課長は頭をがしがしとかいた。




「お前なら、直せただろ?」




また。


お前なら。




「佐伯はまだ若いんだよ。あいつ今、かなりいっぱいいっぱいだからさ。部長の前であれはきついって。お前はほら、この程度で潰れないだろ?」




その瞬間、頭の中で何かがつながった。




根岸さんの眉間の縦線。


「お前は大丈夫だろ」。


プリン。


経費精算のエクセル。


香坂の付箋。




全部、同じ話だった。




「課長。佐伯くんが怒られて傷つくのは、気にするんですね」


「そりゃそうだろ」


「私が怒られるのは?」




課長は一瞬、答えに詰まった。




「……いや、お前は大丈夫だろ」


「それです」




課長が黙った。




「できるから頼ってもらえるのは、嫌じゃないです。困ってたら助けますし、わからないことなら何回でも教えます」




言いながら、自分の声が思ったより落ち着いていることに驚いた。




「でも、できるから怒られてもいいとか。できるから、他の人の責任まで取って当然とか」




一回、言葉を切った。




「それって、信頼じゃなくて。私なら雑に扱っても大丈夫だと思ってただけですよね」




「そんなつもりは――」


「私も、そんなつもりじゃありませんでした」




課長は、何か言い返そうとして、口を閉じた。


それから、机の木目を指でなぞりながら、ぽつりと言った。




「……俺も若いころは、上の人にいろいろ拾ってもらってたけどな。そういうもんだと――」




課長はそこで言葉を切って、首をかしげた。


何かに引っかかったような顔だった。でも、それが何なのかは言わなかった。




私は続けた。




「私がやったほうが早いからって、ずっと人の仕事まで引き取ってました。貸して、って言って、パソコン引き寄せて。そのせいで、誰がどこで間違えたのか、誰にもわからなくなってた。佐伯くんが最後の一行を見落としたのも、半分は私が今までそうしてきたからだと思います」




だから、と続けた。




「だから、もうやりません」




課長は長いこと黙っていた。


それから、机に肘をついて、力なく言った。




「……プリン、足りなかったか」


「美味しかったです。でも、プリンで直る話じゃないです」




   ◇




ノックの音がして、黒川部長が入ってきた。約束の十五分ちょうどだった。




ドアのガラス越しに、最後のほうのやりとりは見えていたのかもしれない。部長は何も聞かずに座って、タブレットでタスク管理表を開いた。




「案件責任者、佐伯。制作進行、水城」




淡々と読み上げる。




「チェックシートでは、提出資料の最終確認は案件責任者だな」


「……そうです」


「それなのに、ミスが出たら制作進行を見る。田島くん。水城に最終責任を持たせたいなら、最初からそういう役割にするべきだろう」


「……はい」


「権限も時間も渡さずに、何かあったときだけ責任者にするのは、管理とは言わない」




課長の肩が、ひと回り小さくなった。




部長は、私のほうも見た。




「水城。君がこれまで、チェックシートにない確認をどれくらいやっていたか。把握できるか」


「……正直、わかりません。数分で終わるものばかりだったので」


「そうか。なら、それも含めて洗い出す」




それから、同じ調子で付け足した。




「それと、今後は他人の分を直したら、黙って直さないこと。直したなら、直したと残す」


「はい」




私の分の宿題も、ちゃんとあった。




「来週までに、役割分担を組み直す。田島くん、案を出してくれ」




   ◇




その日の帰り、エレベーターホールで佐伯くんに呼び止められた。




「水城さん」




佐伯くんは、手に缶コーヒーを二本持っていた。


一本は、ブラックだった。




「今日、すいませんでした。……っていうか、今までずっと、すいませんでした」


「ずっと?」


「俺、困ったら水城さんに聞けばいいって、たぶん入社したときから思ってて。聞くっていうか、渡してました。パソコンごと」




ブラックの缶を受け取る。まだ冷たかった。




「部長の前で固まったとき、頭の中で水城さん呼んでたんすよ。でも来なかった。当たり前なんすけど」


「うん」


「めちゃくちゃ怖かったです。でも、直したの、俺だったんで」




佐伯くんは、自分の缶を見つめて笑った。




「なんか、変な言い方ですけど。今日初めて、あの案件が自分の仕事だった気がしました」




エレベーターが来た。


私は缶を開けて、ひと口飲んだ。ちゃんと苦かった。




「私がブラック派なの、誰に聞いたの」


「香坂さんです」


「そう」




あの付箋、ほかにも何か数えていそうで怖い。




   ◇




洗い出しの初日、田島課長が私の席の横で固まっていた。


香坂のモニターの付箋を見ていた。二枚目の途中まで、正の字が並んでいる。




「……これ、何」


「『美月ちょっといい?』の回数です」と香坂が答えた。「全部が尻拭いってわけじゃないですよ。ポッキーの分とかも入ってるんで」


「ポッキー?」




課長は付箋をしばらく眺めて、それから自分の席に戻り、チャットの履歴を遡り始めた。私宛てのメンションと、タスク管理ツールの更新履歴を、三か月分。


結果がどうだったのかは、課長の顔色でだいたいわかった。




それから一か月で、チームの仕事の回し方が変わった。




タスク管理表に、案件責任者のほかに、レビュー担当、修正担当、最終確認者の欄ができた。


それから、「代理修正」という欄も。誰かが他人の作業を代わりに直したら、そこに記録する。




善意でやった仕事も、見えなくしない。そういう決まりだ。




私は十二月、二年ぶりに有休を取った。


特にすることもなかったので、田島課長の家の近所のプリン屋に並んでみた。四十分並んだ。やっぱり美味しかった。


課長はこれのために朝から並んだのか、と思うと、ちょっとだけ許せる気がした。ちょっとだけ。




私には、正式にレビュー責任を持つ案件が三つ割り当てられた。そのかわり、自分がメインで担当する案件は二つ減った。


責任が増えるなら、時間と権限もセット。部長がそう決めた。




田島課長は、あれ以来、私に何か頼むとき、最初に「これ、お前の担当だよな?」と確認するようになった。


ときどき「……いや、違うな」と自分で言って、引き返していく。




最初の週、「代理修正」の欄に一番多く名前が載ったのは、意外なことに田島課長だった。


佐伯くんの資料を、夜中にこっそり直していたらしい。


部長に呼ばれて、戻ってきた課長は、私の席の前で立ち止まって言った。




「……お前、これ毎日やってたのか」


「毎日ではないです。三日に二日くらい」


「ほぼ毎日じゃないか」




香坂は、モニターの付箋を剥がした。




「私の正の字、社内制度になっちゃった」


「特許とか取れば」


「取れるかな」


「取れないと思う」




剥がした場所に、香坂は新しい付箋を一枚貼った。


上のほうに、小さな字で「佐伯、自分で直した」と書いてある。




「今度はそっち数えるの?」


「こっちのほうが、たぶん増えるの遅いけどね」




その付箋には、もう三本、線が引いてあった。




   ◇




十二月の頭。




「水城さん、ちょっと確認お願いしていいすか」




佐伯くんが、ノートパソコンを抱えてやってきた。


岡持ちの持ち方は、変わっていない。




「いいよ」




佐伯くんは、パソコンを片腕に載せたまま、画面をこちらへ傾けた。


翌月分の運用レポート。




すぐにわかった。




「ここ、先月の数字が残ってる」


「あ、ほんとだ」




右手が、ぴくりと動いた。


パソコンの縁まで、あと十センチ。




止める。




画面を指さすだけにした。




「元データから確認したほうがいいよ。たぶん、ここだけじゃない」


「はい。直して、もう一回持ってきます」




佐伯くんはパソコンを閉じて、自分の席へ戻っていった。




二十分後。




「直しました。ついでに、ほかに二か所ずれてたんで、そこも」


「見せて」




確認する。合っている。




「うん。大丈夫」


「うっす」




それだけ。




佐伯くんが戻っていくのを見送っていると、隣で香坂が頬杖をついていた。




「珍しい。美月、自分で直さなかったんだ」


「うん」


「前なら三分で終わってたでしょ」


「二分」


「そこ張り合う?」




自分でやったほうが早い。


それは今でも、たぶんずっと変わらない。




でも。




向こうの島で、佐伯くんが画面に顔を近づけて、唇だけ動かしながら数字を追っている。一行ずつ、指でなぞりながら。


遅い。本当に遅い。




私はマグカップのコーヒーをひと口飲んで、自分の画面に戻った。


今日はブラックだ。




私は一度も、佐伯くんのノートパソコンを、自分のほうへ引き寄せなかった。




(了)

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― 新着の感想 ―
育てなきゃ、いつまでたっても自分が楽にならないよねぇ
わかる、とってもわかる。自分でやっちゃったほうが早い。 でも人が育たないんですよね
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