「貴方なら大丈夫だろ」で他人のミスまで謝らされてきた私、直すのをやめたら社内がちょっと騒がしくなりました
「このたびは、大変申し訳ございませんでした」
画面の向こうで、先方の根岸さんの眉間に縦線が一本入っている。
オンライン会議の小窓越しでもわかる。あれは怒っているときの線だ。
私は頭を下げた。カメラの角度的に、向こうにはたぶん私のつむじしか映っていない。
ミスの中身は単純だった。
月次の広告レポートで、先月分の広告費と成果件数が元データとずれていた。数字の合わないレポートは、グラフがどれだけきれいでも読む価値がない。根岸さんが怒るのは当然だ。
問題は、もうひとつある。
その数字、私は昨日のうちに気づいていた。
「佐伯くん、この広告費、元データと合ってないよ。確認しといて」
「了解っす!」
元気な返事だった。
元気なだけだった。
会議の十分前、田島課長が私の席まで来て、椅子の背もたれに手を置いた。
「水城、先方に謝っといて。お前なら話まとめられるだろ」
「……担当、佐伯くんですよね」
「佐伯、今ちょっとテンパってるからさ。な?」
な? で済む話なのか。
考える時間はなかった。十分後には会議だった。
会議が始まってすぐ、根岸さんは言った。
「これ、うちの役員会に出す数字なんですよ。水曜の」
「はい」
「もう社内に一回回しちゃったんですよね。僕の名前で」
つまり根岸さんは、社内で恥をかいたのだ。私たちのせいで。
それは怒る。私でも怒る。
手元のメモを見る。
佐伯くんから会議の五分前に届いたチャットには、「たぶん期間の設定ミスです!」とだけ書いてあった。たぶん、とびっくりマーク。情報量がほぼない。
元データを十分眺めて、私にもだいたいの当たりはついていた。
でも、当たりは当たりだ。根岸さんが役員会に持っていく話に、「たぶん」は混ぜられない。
「原因につきましては、現在、元データとの突き合わせを進めております。確定した内容を、修正版とあわせて本日十七時までにご報告いたします」
そこで止めておけばよかった。
「それと、修正版は、お送りする前に私も目を通します」
言ってから、あ、と思った。
私の担当じゃない案件の、私の名前での約束だった。誰にも相談していない。
でも、根岸さんの縦線をほどくには、たぶんこれがいちばん早かった。
私はいつも、そうやって「早い」ほうを選んでしまう。
会議が終わるころには、根岸さんの縦線は消えていた。
「水城さんがそう言うなら。じゃ、十七時で」
画面が切れる。
ヘッドセットを外して、長く息を吐いた。
――で。
なんで、私が謝ったんだろう。
◇
「いやー、助かった。悪かったな」
会議室を出たところで、田島課長が肩を叩いてきた。
「でもまあ、水城なら切り替えられるだろ。佐伯、けっこう落ち込んでるからさ。あんまり言ってやるなよ」
「私も今、怒られたんですけど」
「お前は大丈夫だろ」
笑顔だった。褒めている顔だった。
課長は満足そうに頷いて、喫煙所のほうへ歩いていった。
席に戻ると、今度は佐伯くんが両手を合わせて待っていた。拝まれている。
「水城さん、ほんっとすいません! でも水城さんいて助かりました。水城さんなら絶対なんとかしてくれるって、俺、信じてました!」
信じてました、の使いどころが間違っている気がする。
「……うん。修正版、十七時までだから。一緒に見よう」
「あざっす!」
隣の席から、ポッキーの箱がにゅっと差し出された。同期の香坂ちなつだ。
「おつ。美月なら平気でしょ、あれくらい」
「平気だけど」
一本もらって、かじる。
平気だ。本当に平気なのだ。根岸さんとは四年の付き合いで、どこまで下げればどこで止まるかも知っている。
でも、ポッキーを半分まで食べたところで、口が勝手に動いた。
「……なんで私なら平気なんだろ」
「ん?」
「なんでもない」
香坂はふうん、と言って、モニターの縁に貼った付箋にペンで一本、線を足した。
付箋には「正」の字が並んでいる。
「前から気になってたんだけど、それ何」
「『美月ちょっといい?』の回数」
「は?」
「今日、午前だけで四回。今ので五」
「今のはポッキーでしょ」
「ポッキー渡すとき、心の中で『美月ちょっといい?』って言った」
「数えないで」
「面白いから」
面白がられていた。
◇
修正版は十六時五十二分に送った。原因は、やっぱり集計期間の設定だった。
結局、佐伯くんの横に座って、「ここ違う」「そこも」と言っているうちに、いつもの流れになった。
「貸して」
佐伯くんのノートパソコンを、自分のほうへ引き寄せる。
関数を直して、元データと突き合わせて、グラフの軸を揃える。三分。
「うわ、はや」
「はい、確認して送って」
「神っす」
神ではない。慣れているだけだ。
その夜、帰りの電車で吊り革につかまりながら、なんとなく指を折って数えてみた。
先月、別チームの子の見積書。桁がひとつ多かった。「貸して」で直した。
その前の月、LPのリンク先が本番環境じゃなくてテスト環境になっていた。「貸して」で直した。
佐伯くんが先方への返信を三日寝かせていたときは、私が代わりに返した。
新人の子のバナーの誤字。「貸して」。
入稿データの画像サイズ。「貸して」。
指が足りなくなって、二周目に入ったところでやめた。
思い出したのは、入社二年目のことだ。
当時の上司に「水城は仕事が早いな」と言われた。先輩のミスを、先輩が気づく前に直しておいたときだった。
嬉しかった。すごく嬉しかった。その日の帰りにコンビニでちょっといいアイスを買ったくらいだ。
たぶん、あのアイスが始まりだった。
どれも大したことじゃない。三分とか五分で終わる。
だから誰にも言わなかったし、言うほどのことでもないと思っていた。
でも、あの見積書の子。
この前の飲み会で「俺、数字まわりは強いんで」と言っていた。
たぶん今でも、自分が桁を間違えたことを知らない。
私が直したから。
ミスは、ミスとして誰の目にも触れないまま消えていた。直した私の三分も、一緒に消えていた。
電車が揺れて、隣のおじさんの鞄が脇腹に刺さった。
地味に痛かった。
◇
翌週の火曜、佐伯くんがノートパソコンを抱えてやってきた。
出前の岡持ちみたいな持ち方だった。
「水城さん、ちょっと見てもらっていいすか」
香坂のペンが、付箋の上でスタンバイする音がした。
画面には、スキンケアの新商品の広告原稿。
三秒でわかった。
「ここ。価格が旧商品のままだよ。二千百八十円じゃなくて、二千四百八十円」
「あ、ほんとだ。すいません」
そして、いつもの私なら。
右手が、もう動いていた。ほとんど反射だった。
指先がノートパソコンの縁にかかる。あと五センチ引けば、画面は私の正面に来る。
止めた。
指を離して、膝の上に戻す。
「……ここ、直しておいてね」
「……あ、はい」
佐伯くんは、パソコンを抱えたまま一秒くらい立っていた。
返品された岡持ちみたいな顔をしていた。
それから「はい」ともう一回言って、自分の席へ戻っていった。
四十分後、佐伯くんがもう一度やってきた。
「直しました」
画面を見る。価格は直っていた。
ついでに、直す前にはなかった改行がひとつ増えて、キャッチコピーが変なところで折り返していた。
「ここ、改行ずれてる」
「え、うそ、あ、ほんとだ」
佐伯くんは、また戻っていった。
今度は十分で戻ってきた。直っていた。
私がやれば三分だった。佐伯くんは五十分かかった。
差し引き、会社は四十七分損をしている。
計算しながら、でも、と思った。
来月の佐伯くんは、たぶん三十分でやる。
香坂が小声で聞いてくる。
「……今の、カウントしていいの?」
「半分で」
「半分の正の字ってどう書くの」
「知らない」
たった、それだけのことだった。
なのに私の右手は、それから一時間くらい、キーボードの上でそわそわしていた。
◇
指摘はする。でも、自分では直さない。
それを二週間続けたら、社内が少しずつ、ほつれ始めた。
入稿が一時間遅れた。
佐伯くんが、画像の書き出しサイズを三回間違えたからだ。三回目で私のほうを見たけど、私は自分の画面を見ていた。
社内確認が一回差し戻された。
新人の子のバナーに、誤字がひとつ残っていた。「お問い合わせ」が「お問い合せわ」になっていた。前の私なら、見た瞬間に「貸して」と言っていたやつだ。
田島課長が定例会議で、プロジェクターの前に立ったまま「えー、資料は……後ほど共有します」と言った。
資料を作るはずだった佐伯くんは、会議室の隅でノートパソコンを抱えて、まだ作っていた。
どれも致命的じゃない。
でもフロアに、うっすらと空気が生まれた。
最近、なんかミス多くない?
増えたわけじゃない、と私は知っていた。
画像サイズの間違いも、バナーの誤字も、前から毎週くらいのペースで起きていた。先月までは、それが誰の目にも入る前に、私の三分で消えていただけだ。
見えるところに、出てきただけ。
そして、給湯室の前を通りかかったとき、こんな声が聞こえてきた。
「水城さん、最近自分で直さなくなったらしいよ」
「え、なんで」
「……辞めるんじゃない? 引き継ぎの準備とか」
「うそ、どこ行くの」
「外資って聞いた」
誰から聞いたんだ。
私は外資の面接どころか、外資系のスーパーにすら行っていない。
噂は、その日の午後にはさらに育っていた。
「水城さん、シンガポールの会社に引き抜かれたんだって」
「え、英語話せるの?」
「話せるから引き抜かれたんでしょ」
話せない。中学英語で止まっている。
夕方には、なぜか「年収が倍」という情報まで付け足されていた。
香坂がにやにやしながら教えてくれた。
「美月、今シンガポールで年収倍らしいよ」
「今、ここで年収そのままなんだけど」
「発信源、たぶん佐伯くん。給湯室で『水城さん最近冷たいのは、もう心がここにないからだ』って言ってた」
「ポエムじゃん」
翌朝、デスクに紙袋が置いてあった。
田島課長が、そわそわしながら後ろに立っていた。
「これ、うちの近所で行列できてるプリン。朝並んだ」
「……ありがとうございます」
「で、どうだ最近。なんか不満とかあるか? 給料以外で」
給料以外で、と先に言うあたりに、この人の正直さが出ている。
「特にないです」
「そうか。ならいいんだ。うん」
課長は明らかにほっとした顔をして、それから思い出したように言った。
「そうそう、佐伯の入稿遅れの件な。お前、気づいてたなら直してやれよ」
「佐伯くんには伝えました」
「でもお前なら直せただろ?」
また、それだ。
「直せることと、私の仕事であることって、同じですか」
課長は、口を半開きにしたまま止まった。
プリンの紙袋が、私のデスクでかさりと鳴った。
「……まあ、そう、だな」
それで話は終わると思った。
ところが課長は、脇に抱えていた自分のノートパソコンを開いて、私のほうへ向けた。
「あ、ところでこれ見てくれないか。経費精算のエクセル、関数がなんかずれてて」
お前もか。
隣で香坂が、音を立てずに一本、線を引いた。
「課長、それは経理の真鍋さんに聞いてください。私、経費のシート触ったことないです」
「え、でも水城なら」
「触ったことないです」
課長はパソコンを抱えて、すごすごと経理の島へ歩いていった。
その背中を見送りながら、香坂が言った。
「ねえ。課長の分、別の付箋に分けていい?」
「好きにして」
プリンは二個入っていたので、昼休みに香坂と一個ずつ食べた。
行列ができるだけあって、ちゃんと美味しかった。悔しいくらい美味しかった。
「で、ほんとに辞めないの?」
「辞めないってば」
「ならいいけど」
香坂はスプーンをくわえたまま、モニターの付箋を見た。正の字が、もう二枚目に入っている。
「それさ、最初はほんとに面白くて数えてたんだよね。美月、呼ばれすぎでウケるって」
「うん」
「でも一か月くらいで、ちょっと笑えなくなってきて」
香坂は、スプーンでプリンの底のカラメルをすくった。
「一日十回とか普通にあるんだよ。で、美月、一回も嫌な顔しないじゃん。だから誰も、多いって気づかない。私も付箋なかったら気づいてなかったと思う」
「……数えてくれてたんだ」
「面白いからね」
そういうことにしておいてあげる、みたいな顔で、香坂は空のカップをゴミ箱に投げた。外れた。
◇
「水城さん、最近ちょっと冷たくないですか」
夕方の自販機の前で、佐伯くんに言われた。
缶コーヒーを二本買って、一本を私に差し出しながら。
「冷たい?」
「いや、あの、怒ってるとかじゃないのはわかるんすけど。……あと、その」
佐伯くんは缶を握りしめて、声をひそめた。
「辞めるんすか?」
「辞めないよ」
「よかったあ……。俺、水城さんいなくなったら三日で死にます」
「三日ももつんだ」
「もたないかもしれないです」
素直すぎる。
缶のプルタブを開けて、ひと口飲んだ。甘い。佐伯くんは、私がブラック派なのを知らない。
「質問には、前より答えてるつもりだけど」
「それはそうなんすけど。前なら、そのまま直してくれたじゃないですか」
悪気のない顔だった。
本当に、純粋に、不思議がっている顔だった。
ああ、そうか。
この子の中で、「教えてもらう」と「やってもらう」は、たぶん同じ引き出しに入っている。
入れたのは、私だ。
それに、正直に言えば。
「貸して」と言ってパソコンを引き寄せるとき、私はたぶん、気持ちよかった。三分で片づけて「神っす」と言われるのは、悪い気分じゃなかった。
頼られるのが好きだったのは、私のほうでもある。
「佐伯くん。やり方は教えるよ。何回でも聞いていい」
「はい」
「でも、佐伯くんの仕事は、佐伯くんがやろう」
佐伯くんは、何か言いかけて、やめた。
納得した顔ではなかった。でも言い返す言葉も見つからない、という顔だった。
「……うっす」
そう言って、自分の缶のプルタブに指をかけ、ぱきっと音を立てて爪を割りかけていた。
◇
それから三週間。
佐伯くんは、相変わらずミスをした。
でも、ミスをしたあとの動きが変わった。
最初のうちは、パソコンを抱えて私の席の前をうろうろして、結局声をかけずに戻っていくことが多かった。
三往復したこともある。ルンバみたいだった。
香坂に聞きに行ったこともあった。
「香坂さん、VLOOKUPってどうやるんすか」
「私に聞かないで。私、足し算もオートSUMでやってる」
佐伯くんは香坂の席からも追い返されて、しょんぼりと検索エンジンに向かっていた。
画面の検索窓に「VLOOKUP わからない なぜ」と打ち込んでいるのが、斜め後ろから見えた。
私のほうも、楽ではなかった。
佐伯くんの画面に明らかな間違いが見えると、右手の指が勝手に動く。マウスを握るみたいな形になる。
仕方がないので、左手で右の手首を押さえていた。
「美月、それ何のポーズ」
「封印」
「中二?」
三十一歳の封印は、けっこう地味にしんどかった。
そして、ある日の午後。
「水城さん。ここの数字、元データとずれてたんで、自分ではこう直そうと思うんすけど。どう思います?」
画面を見る。
直し方は遠回りだったけど、合っていた。
「それでいいよ。あと、ここの参照範囲だけ固定しとくと、来月楽になる」
「あ、なるほど。……よし」
佐伯くんは、机の下で小さくガッツポーズをして、自分の席へ戻った。
香坂が、ペンを構えたまま聞いてくる。
「今のは?」
「数えなくていい」
「なんで」
「あれは相談だから」
香坂は少し考えて、ペンのキャップを閉めた。
◇
十一月、大きな案件が来た。
ミナモ化粧品の新作美容液のキャンペーン。
Web広告、特設LP、SNS施策まで込みの、うちのチームにとっては今期いちばんの山だ。
タスク管理ツールには、こう書いてある。
案件責任者 佐伯悠斗
制作進行 水城美月
うちのチームのチェックシートでは、線引きはこうなっている。
LPやバナーみたいな制作物は、制作進行が確認する。
予算表や提案書みたいな提出資料は、案件責任者が作って、案件責任者が最終確認する。
……と、紙の上ではなっている。
実際には、提出資料の数字まで私が全部見て、黙って直していた。チェックシートのどの欄にも書いていない仕事だった。
二日後に黒川部長を交えた最終レビュー。そのあと、クライアントに提出。
レビュー前日の午後、私は制作進行として資料一式に目を通した。
引っかかったのは三か所。
広告予算の合計が、内訳を足した数字と合わない。
LPの価格表記が、旧版のまま。
提出資料の三ページ目に、前の案件の文章が残っている。よりによって、競合ブランドの商品名入りで。
佐伯くんの席へ行って、画面を見せながら伝えた。
「三ページ目、これ前の案件のだよね。競合の名前入ってる」
「うわ、やば」
「予算表は、内訳を変えたら合計も再計算して。ここ、手入力になってるから自動で変わらない」
「手入力……誰すか、これ作ったの」
「佐伯くん」
「俺か」
それから、タスク管理ツールにも同じ内容を書き込んで、スクリーンショットを添えた。
「ありがとうございます。今日中に直します」
「お願いね」
LPは制作チームに修正を頼んで、夕方、公開前の画面を自分で開いて確かめた。価格は直っていた。
こっちは、私の仕事だ。
予算表と提出資料は、佐伯くんの仕事だ。
席に戻る。
以前の私なら、ここから二時間後にこっそりファイルを開いて、直っているか確かめていた。直っていなければ、黙って直していた。
今回は、開かなかった。
十九時に退勤した。この案件が始まってから、初めての定時だった。
家に帰って、お風呂に入って、ドライヤーをかけながら、共有フォルダのことを考えた。
ベッドに入ってから、もう一回考えた。
スマホに手が伸びた。
私はスマホを持って玄関まで行き、靴箱の中にしまった。
そうでもしないと、開いてしまう気がした。
電気を消して、目を閉じる。
予算表の合計。LPの価格。三ページ目の文章。
頭の中で勝手にチェックリストが回り始めて、三周目くらいで、ようやく眠った。
朝、靴箱から出したスマホは、革靴の匂いがした。
出社してすぐに聞いた。
「佐伯くん。昨日のとこ、修正終わった?」
「大丈夫です! 全部直して、チェックシートにも確認済みって入れときました」
目の下にうっすらクマがあった。遅くまでやっていたんだろう。
タスク管理ツールを開くと、三件とも「対応済み」になっていた。
確認者の欄には、佐伯くんの名前。二十三時四十分。
私は、そこで信じることにした。
◇
最終レビューは、十階の大会議室だった。
黒川部長は、五十を少し過ぎた人で、老眼鏡を額に上げたまま資料を読む癖がある。無口で、何を考えているかわからないと言われている。私も、正直わからない。
部長は資料を一枚ずつめくった。
二ページ目。LPの価格。直っている。
三ページ目。競合の商品名。消えている。
心の中で、息をついた。
五ページ目で、部長の指が止まった。
「ここ。合計、おかしくない?」
予算表の一か所。
内訳の一行だけ、古い数字が残っていた。
佐伯くんが固まった。
椅子の上で、比喩じゃなく、固まっていた。
田島課長の首が、すっと私のほうへ回った。
「水城?」
会議室の全員の視線が、私に集まった。
「昨日、佐伯さんに修正をお願いした箇所です」
「いや、だから、最後に確認――」
「LPは私が確認しました。予算表の最終確認は、チェックシート上、案件責任者です」
一回、息を吸った。
「この案件の責任者は、佐伯さんですよね」
空調の音だけが聞こえた。
黒川部長が、額の老眼鏡を下ろして、タスク管理表のプリントに目をやった。
それから、何も言わずに佐伯くんを見た。
佐伯くんは、震える手で自分のノートパソコンを開いた。
「あ、あの、これは、内訳の、えっと、ここの行を、昨日……」
しどろもどろだった。
見ていられなかった。
見ていられなかったけど、見ていた。
膝の上で、右手がまた勝手に形を作ろうとする。
今ここで「私がやります」と言えば、三十秒で終わる。部長の前で佐伯くんが恥をかく時間も、三十秒で済む。
そして来月、同じことが起きる。その次の月も。
テーブルの下で、左手で右の手首をつかんだ。
「……水城さん、元データって、どこのフォルダでしたっけ」
「共有ドライブの、ミナモ、予算、の中の最新版」
「ありがとうございます」
それだけ答えた。
場所は教える。でも、開くのも、直すのも、説明するのも、佐伯くんだ。
五分かかった。
私なら二分でやれた。
佐伯くんは修正した数字を読み上げ、なぜずれたのかを説明した。昨日、三か所のうち二か所を直したところで安心して、予算表の再計算をかけ忘れていた、と。
部長は黙って聞いて、最後に一言だけ言った。
「次から、提出前に合計だけは自分で検算しなさい」
「……はい」
佐伯くんの声は、裏返っていた。
田島課長が、場をなごませるように笑った。
「いやあ、まあ、提出前でよかったですよね。な、佐伯」
部長は笑わなかった。
課長の笑い声だけが、会議室の天井にぶつかって、どこにも行けずに落ちてきた。
◇
レビューの最後に、黒川部長が言った。
「田島くん、水城。十五分後に小会議室で振り返りをしたい。私は電話を一本済ませてから行く」
先に小会議室に入ったのは、私と課長だった。
ドアが閉まるなり、課長が言った。
「お前、あれ気づいてたんだろ」
「はい」
「だったら、最後まで確認してやれよ」
「確認して、指摘しました。タスク管理にも残してあります」
「そういう意味じゃなくてさ」
課長は頭をがしがしとかいた。
「お前なら、直せただろ?」
また。
お前なら。
「佐伯はまだ若いんだよ。あいつ今、かなりいっぱいいっぱいだからさ。部長の前であれはきついって。お前はほら、この程度で潰れないだろ?」
その瞬間、頭の中で何かがつながった。
根岸さんの眉間の縦線。
「お前は大丈夫だろ」。
プリン。
経費精算のエクセル。
香坂の付箋。
全部、同じ話だった。
「課長。佐伯くんが怒られて傷つくのは、気にするんですね」
「そりゃそうだろ」
「私が怒られるのは?」
課長は一瞬、答えに詰まった。
「……いや、お前は大丈夫だろ」
「それです」
課長が黙った。
「できるから頼ってもらえるのは、嫌じゃないです。困ってたら助けますし、わからないことなら何回でも教えます」
言いながら、自分の声が思ったより落ち着いていることに驚いた。
「でも、できるから怒られてもいいとか。できるから、他の人の責任まで取って当然とか」
一回、言葉を切った。
「それって、信頼じゃなくて。私なら雑に扱っても大丈夫だと思ってただけですよね」
「そんなつもりは――」
「私も、そんなつもりじゃありませんでした」
課長は、何か言い返そうとして、口を閉じた。
それから、机の木目を指でなぞりながら、ぽつりと言った。
「……俺も若いころは、上の人にいろいろ拾ってもらってたけどな。そういうもんだと――」
課長はそこで言葉を切って、首をかしげた。
何かに引っかかったような顔だった。でも、それが何なのかは言わなかった。
私は続けた。
「私がやったほうが早いからって、ずっと人の仕事まで引き取ってました。貸して、って言って、パソコン引き寄せて。そのせいで、誰がどこで間違えたのか、誰にもわからなくなってた。佐伯くんが最後の一行を見落としたのも、半分は私が今までそうしてきたからだと思います」
だから、と続けた。
「だから、もうやりません」
課長は長いこと黙っていた。
それから、机に肘をついて、力なく言った。
「……プリン、足りなかったか」
「美味しかったです。でも、プリンで直る話じゃないです」
◇
ノックの音がして、黒川部長が入ってきた。約束の十五分ちょうどだった。
ドアのガラス越しに、最後のほうのやりとりは見えていたのかもしれない。部長は何も聞かずに座って、タブレットでタスク管理表を開いた。
「案件責任者、佐伯。制作進行、水城」
淡々と読み上げる。
「チェックシートでは、提出資料の最終確認は案件責任者だな」
「……そうです」
「それなのに、ミスが出たら制作進行を見る。田島くん。水城に最終責任を持たせたいなら、最初からそういう役割にするべきだろう」
「……はい」
「権限も時間も渡さずに、何かあったときだけ責任者にするのは、管理とは言わない」
課長の肩が、ひと回り小さくなった。
部長は、私のほうも見た。
「水城。君がこれまで、チェックシートにない確認をどれくらいやっていたか。把握できるか」
「……正直、わかりません。数分で終わるものばかりだったので」
「そうか。なら、それも含めて洗い出す」
それから、同じ調子で付け足した。
「それと、今後は他人の分を直したら、黙って直さないこと。直したなら、直したと残す」
「はい」
私の分の宿題も、ちゃんとあった。
「来週までに、役割分担を組み直す。田島くん、案を出してくれ」
◇
その日の帰り、エレベーターホールで佐伯くんに呼び止められた。
「水城さん」
佐伯くんは、手に缶コーヒーを二本持っていた。
一本は、ブラックだった。
「今日、すいませんでした。……っていうか、今までずっと、すいませんでした」
「ずっと?」
「俺、困ったら水城さんに聞けばいいって、たぶん入社したときから思ってて。聞くっていうか、渡してました。パソコンごと」
ブラックの缶を受け取る。まだ冷たかった。
「部長の前で固まったとき、頭の中で水城さん呼んでたんすよ。でも来なかった。当たり前なんすけど」
「うん」
「めちゃくちゃ怖かったです。でも、直したの、俺だったんで」
佐伯くんは、自分の缶を見つめて笑った。
「なんか、変な言い方ですけど。今日初めて、あの案件が自分の仕事だった気がしました」
エレベーターが来た。
私は缶を開けて、ひと口飲んだ。ちゃんと苦かった。
「私がブラック派なの、誰に聞いたの」
「香坂さんです」
「そう」
あの付箋、ほかにも何か数えていそうで怖い。
◇
洗い出しの初日、田島課長が私の席の横で固まっていた。
香坂のモニターの付箋を見ていた。二枚目の途中まで、正の字が並んでいる。
「……これ、何」
「『美月ちょっといい?』の回数です」と香坂が答えた。「全部が尻拭いってわけじゃないですよ。ポッキーの分とかも入ってるんで」
「ポッキー?」
課長は付箋をしばらく眺めて、それから自分の席に戻り、チャットの履歴を遡り始めた。私宛てのメンションと、タスク管理ツールの更新履歴を、三か月分。
結果がどうだったのかは、課長の顔色でだいたいわかった。
それから一か月で、チームの仕事の回し方が変わった。
タスク管理表に、案件責任者のほかに、レビュー担当、修正担当、最終確認者の欄ができた。
それから、「代理修正」という欄も。誰かが他人の作業を代わりに直したら、そこに記録する。
善意でやった仕事も、見えなくしない。そういう決まりだ。
私は十二月、二年ぶりに有休を取った。
特にすることもなかったので、田島課長の家の近所のプリン屋に並んでみた。四十分並んだ。やっぱり美味しかった。
課長はこれのために朝から並んだのか、と思うと、ちょっとだけ許せる気がした。ちょっとだけ。
私には、正式にレビュー責任を持つ案件が三つ割り当てられた。そのかわり、自分がメインで担当する案件は二つ減った。
責任が増えるなら、時間と権限もセット。部長がそう決めた。
田島課長は、あれ以来、私に何か頼むとき、最初に「これ、お前の担当だよな?」と確認するようになった。
ときどき「……いや、違うな」と自分で言って、引き返していく。
最初の週、「代理修正」の欄に一番多く名前が載ったのは、意外なことに田島課長だった。
佐伯くんの資料を、夜中にこっそり直していたらしい。
部長に呼ばれて、戻ってきた課長は、私の席の前で立ち止まって言った。
「……お前、これ毎日やってたのか」
「毎日ではないです。三日に二日くらい」
「ほぼ毎日じゃないか」
香坂は、モニターの付箋を剥がした。
「私の正の字、社内制度になっちゃった」
「特許とか取れば」
「取れるかな」
「取れないと思う」
剥がした場所に、香坂は新しい付箋を一枚貼った。
上のほうに、小さな字で「佐伯、自分で直した」と書いてある。
「今度はそっち数えるの?」
「こっちのほうが、たぶん増えるの遅いけどね」
その付箋には、もう三本、線が引いてあった。
◇
十二月の頭。
「水城さん、ちょっと確認お願いしていいすか」
佐伯くんが、ノートパソコンを抱えてやってきた。
岡持ちの持ち方は、変わっていない。
「いいよ」
佐伯くんは、パソコンを片腕に載せたまま、画面をこちらへ傾けた。
翌月分の運用レポート。
すぐにわかった。
「ここ、先月の数字が残ってる」
「あ、ほんとだ」
右手が、ぴくりと動いた。
パソコンの縁まで、あと十センチ。
止める。
画面を指さすだけにした。
「元データから確認したほうがいいよ。たぶん、ここだけじゃない」
「はい。直して、もう一回持ってきます」
佐伯くんはパソコンを閉じて、自分の席へ戻っていった。
二十分後。
「直しました。ついでに、ほかに二か所ずれてたんで、そこも」
「見せて」
確認する。合っている。
「うん。大丈夫」
「うっす」
それだけ。
佐伯くんが戻っていくのを見送っていると、隣で香坂が頬杖をついていた。
「珍しい。美月、自分で直さなかったんだ」
「うん」
「前なら三分で終わってたでしょ」
「二分」
「そこ張り合う?」
自分でやったほうが早い。
それは今でも、たぶんずっと変わらない。
でも。
向こうの島で、佐伯くんが画面に顔を近づけて、唇だけ動かしながら数字を追っている。一行ずつ、指でなぞりながら。
遅い。本当に遅い。
私はマグカップのコーヒーをひと口飲んで、自分の画面に戻った。
今日はブラックだ。
私は一度も、佐伯くんのノートパソコンを、自分のほうへ引き寄せなかった。
(了)




