第五話
カイルの言葉が、頭の中で何度も反響していた。
ーーお前の身体の中に、影が入り込んでいくのを。
「......影、ね」
冗談めかして言おうとしたが、声は思ったより低く、乾いていた。
カイルはそれ以上何も言わず、ただ俺の顔をじっと見つめている。
「......信じてないって顔だな」
「いや」
首を振る。
「むしろ、その逆だ」
そう言うと、カイルは小さく息を飲んだ。
「......あの時、もしかして”向こう”へ行ったのか?」
「ああ。それより腹が減った。運んでもらった礼に奢るよ。食べながら話そう」
食堂に入ると、夕飯の時間帯らしく人の気配が増えていた。
食器の触れ合う音。笑い声。湯気の立つ匂い。
そのどれもが、妙に現実味を帯びている。
「彼の分もよろしく」
パンとシチューを二人分、用意してもらう。
俺たちは一番人の少ない、右奥の席に腰を下ろした。
パンを一口かじりながら、カイルが言う。
「それで?向こうで何があった?」
セレナにはまだ伝えていないが、
カイルには以前、眠るともうひとつの世界へ行くことを話していた。
最初は疑われたが、俺の話す内容があまりにも具体的だったせいか、
いつの間にか本気で聞くようになっていた。
俺はスプーンを置いた。
「最初は、いつも通りだった。こっちでの記憶は、ほとんど無くて......」
知らないクラスメイトに挨拶されたこと。
ノートの端に書かれていた文字。
「ーー何よりおかしいと思ったのは、向こうにいた俺が、
”俺じゃない”気がしたことだ」
カイルは顎に手を当てる。
「なるほどな。それなら、あの影に何かしらの力があると考えた方が自然だ」
確かにそうだ。
今まで見てきた歪みとは、明らかに違っていた。
「セレナが言ってた。
十六歳より前のこと、何か引っかかることはないかって」
カイルは少し考え込む。
「......なあ、湊。
お前が初めてこっちに来たのは、十六の時だよな?」
「ああ」
「その時、身体はどうなってた?
寝てる間も、こっちに”残ってる”んだろ?」
「......」
「もしここが夢じゃないなら、だ。
今の湊の身体は、いつ出来た?」
ーーその問いに、言葉を失った。
「......!」
確かにおかしい。
ここが実在する世界なら、俺の身体は最初から”あった”はずだ。
「......でも、そうだとしても。
なんで”向こう”と同じ姿なんだ?」
俺は考えを整理しながら、口を開いた。
「なあ、セレナは...」
カイルが何か言おうとしたその時ーー
食堂の扉が勢いよく開いた。
「おい!!北門付近で、また歪みが発生した!」
兵士の叫びに、空気が変わる。
「今日二度目だぞ......湊、いけるか?」
「ああ。急ごう」
歪みの発生源に近づくにつれ、
空気が妙に重くなっていく。
薄い、というよりーー押し返されるような感覚だ。
「湊!」
先に到着していたセレナが、こちらに気づいて手を振る。
「待たせた」
「いいえ。それより......今回は、朝のとは違う感じがするわ」
セレナの視線の先。
森の奥、木々の隙間にーー黒い靄が漂っていた。
「視える?」
「ああ......」
答えた瞬間、胸の奥がざわつく。
靄は薄い。
だが、いつもと同じ質感だった。
「......セレナ頼んだ」
俺がそう言うと、
セレナは何も言わず、杖を構える。
詠唱もなく、ただ静かに杖を振り下ろした。
空気が、軋んだ。
黒い靄が抵抗するように揺れ、
一瞬ーーこちらを見た気がした。
「っ......!」
次の瞬間、靄は霧が晴れるように掻き消えた。
森に、音が戻る。
鳥の声。風の葉擦れ。
「......今回は、抑え込めたわね」
歪みが消え、森に静けさが戻る。
「......朝の歪み、やっぱりおかしい」
俺が呟くと、カイルがハッとした顔でセレナを見る。
「なあ、さっきの話の続きだが......
セレナ、あんた、何か知ってるんじゃないのか?」
「......何のこと?」
とぼけた視線。
その瞬間、俺の中で、ひとつの疑問がはっきりと形になった。
「......そういえば」
セレナを見据える。
「どうして、俺が”向こう”に行ったことを知ってた?」
風が止んだ。
答えは返ってこない。
ただ、セレナの沈黙だけが、そこにあった。




