第二話
北門を出ると、城壁の影がゆっくりと背中から離れていった。
朝の光は同じはずなのに、外の空気はどこか頼りなく薄い。
「この辺りで間違いないはずなんだけど」
セレナが地図を確認しながら言う。
俺は頷き、周囲に視線を巡らせた。
草の揺れ方も、風の音も、いつもと変わらない。
変わらない――はずなのに。
一歩踏み出した瞬間、
自分の足音が、ほんのわずかに遅れて聞こえた。
「......今、何か聞こえた?」
思わず口にすると、セレナがこちらを見る。
「聞こえたって?」
「いや......気のせいか」
そう答えたが、胸の奥がざわついている。
理由は分からない。ただ、落ち着かない。
巡回地点に着いても、異変らしい異変は見当たらなかった。
目に見える歪みも、形を持った兆候もない。
それなのに――
ここにいるだけで、世界が一枚ずれている気がする。
「湊」
セレナが小さく呼んだ。
「気分、悪い?」
「......大丈夫だ」
「...そう?」
彼女はそれ以上何も言わなかった。
ただ、視線を地面に落としたまま、地図を畳む。
「確認、終わりね」
「ああ」
本来なら、これで終わりだ。
歪みは確認できず、記録だけ残して帰る。
帰れるはずの仕事。
それなのに、俺はその場を離れるのが嫌だった。
何かを見落としている気がして。
「セレナ」
呼び止めると、彼女は少しだけ肩を揺らした。
「なに?」
「......いや、なんでもない」
言葉にしようとした瞬間、
それが、どこか別の場所に吸い込まれそうな気がした。
結局、何も起きなかった。
少なくとも、表面上は。
「......い。おーい、湊、セレナ」
城へ戻る道すがら、背後から追いかけるように走りながら声が飛んできた。
「こんにちは、カイル。何か用?」
「いやあ、歪みの調査に来てるって聞いてさ。
俺も依頼で森の方にいたし、様子を見に行こうと思ったんだけど......もう終わったのか?」
彼はカイル。
ルナリア王国を拠点に活動する冒険者だ。
剣の腕は、この国でも五本の指に入る。
だが騎士団に入る気はなく、その実力を公にすることもない。
「一応な。目に見える異常はなかった」
俺がそう答えると、カイルは足を止め、
俺たちの後ろ――森の方角へちらりと視線をやった。
「......そっか」
短く返したその声が、少しだけ硬い。
「何か言いたそうね」
セレナが気づいて問いかけると、カイルは肩をすくめた。
「いや。歪みがあるって聞いて来た割に、静かすぎるなと思ってさ」
「それ、いつも通りでしょ」
「いつも通り、ならいいんだけど」
カイルはそう言って、腰の剣に手を置いた。
抜くわけでもなく、ただ確かめるように。
「実はな、森の中で、変な感覚があった。
音が遠くなって、影が重くなる感じ」
――風、じゃない。
胸の奥が、またざわついた。
「それって......いつ頃?」
俺が聞くと、カイルは一瞬だけ言葉を選んだ。
「今朝だ。ちょうど、お前らが北門を出た頃なんじゃないか?」
セレナと視線が交差する。
「歪みは確認できなかったわ」
「だろうな」
カイルは苦笑した。
「確認できる”段階”じゃないとか...な?」
その言葉に、背中に冷たいものが走る。
「なあ、湊」
カイルが俺の名を呼ぶ。
さっきまでの軽い調子じゃない。
「今日は......ちゃんと帰れそうか?」
冗談みたいな口調だったが、
その目は、冗談じゃなかった。
「......どういう意味だ?」
俺がそう聞き返した瞬間、
遠くで、一度だけ草の揺れ方が変わった気がした。
「とりあえず、城に戻りましょう」
三人で城に戻る道は、いつもより静かだった。
足音も、風のざわめきも、どこか遠くで響いているように感じる。
「......気味が悪いな」
俺が小さく呟くと、セレナは肩をすくめた。
カイルは後ろを振り返ることなく、一定のリズムで歩き続ける。
その目は、何かを警戒しているようだった。
森の木々の間から差し込む光が、一瞬だけ歪む。
その瞬間、足下の土が小さく震え、微かな冷気が肌をなぞった。
「......今の、見えたか?」
カイルが低く問いかける。
「ああ、見えた」
俺が返すと、彼はわずかに口元を緩めた。
「やっぱりな、お前たちが北門を出た瞬間から、ずっと異変が起きている」
カイルの声に、緊張が滲む。
セレナと目を合わせる。
「今日の巡回、ただの確認で終わるはずじゃなかったの?」
森の奥から風が吹き付ける音が聞こえた。
「湊......気をつけろ」
カイルの声が低く響いた。
草も鳥も、すべてが止まったように感じる。
そして――突然、視界の端が黒く滲んだ。
影のような存在が、森の中からゆっくりと形を現す。
それは確かに在る。だが、何かはっきりした形を持たない。
「......どうしよう......」
セレナの声が震える。
俺は影を見つめながら、足が動かないことに気づいた。
胸の奥が締め付けられるようで、息が浅くなる。
「湊!」
カイルの声が耳元で響く。
目の前がぐらつき、視界が暗くなる。
胸の奥で、何かが消えるような感覚――
その瞬間、俺は意識を失った。




