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愛とは、育てなくてはいけない花のようなもの (ジョン・レノンの名言より)〜ヒロイン相談所・瑞沢千春編〜

恭二は、今日も趣味のラブコメ漫画を読んでいた。

「まったく……みんな悩んでいやがるなぁ。ほんとに幸せになれる相手は、とっくに目の前にいるのにな」


ページを閉じた、その瞬間。

ピンポーン、とインターフォンが鳴った。


画面に映った姿を見て、恭二は目を疑う。

「え……?この人は……」


そこに立っていたのは、見覚えのある制服姿の少女。

彼女は不安そうに唇を震わせ、こう言った。


「あの……私、わからないの。この気持ちが……どうしたらいいの……?」


恭二は黙ってドアを開け、家に招き入れた。

得意料理のカレーを出して、その姿を眺めながら、ただ耳を傾ける。


目の前の女の子は涙を流しながら話していた。こうして、物語は始まった。


 恭二には子どもがいる。

 もともとは共働きで、彼はビル清掃の仕事、妻の結菜は大病院の看護師として勤めていた。子どもが生まれたとき、まずは妻が産休と育休を取り育児を担っていたが、復職後すぐに、家事と仕事の両立に限界が訪れた。


 結菜の年収は、夫のそれを軽く超えていた。

 彼女自身、看護師という仕事に強いやりがいを感じており、できれば長く続けたいと願っていた。一方の恭二はというと、もともと料理や洗濯が好きで、家事全般に向いていた。そんな二人が真剣に話し合い、子どもが3歳になったタイミングで出した結論が、「夫が家に入る」という選択だった。


 恭二は“専業主夫”になった。


 結菜が職場へ向かい、子どもが幼稚園へ出かけると、彼に残るのはほんのひとときの自由時間。

 その時間、彼は決まってラブコメ漫画を読む。お気に入りの雑誌の最新号をめくりながら、気づけば夢中になっていた。


 今読んでいるのは『恋のラビリンス』。

 主人公の山下太郎と、ヒロインの瑞沢千春がようやくデートにこぎつけた回だ。

 キャバクラで出会ったふたり。最初は“お客とキャスト”という関係だったが、ある日、彼女が昼間は同じ会社に勤めていることに気づき、次第に距離が縮まっていく──そんな物語だ。


 「相変わらず素直になれないな、このヒロイン……。キャバ嬢の顔と、好きな人の前での“自分”の境目がわからなくなって、もがいてる感じ……」


 そうつぶやいたときだった。


 コツ、コツ──と、階段を下りる足音が聞こえた。

 ふと顔を上げると、そこには一人の女性。まるでため息が形になったような輪郭。長く艶やかな髪が、段を降りるたびにふわりと揺れる。その髪に朝の陽光が差し込み、宝石のようにきらめいた。整ったまつ毛、切れ長の猫のような目。吸い寄せられるような瞳。誰もが見惚れる、完璧な美貌。


 その彼女が、冷たく言い放った。


 「今日は、仕事の日でしょ。いつまで玄関で漫画読んでんのよ」


 玄関のすぐ横にある階段。その上からのひと声に、恭二は思わずため息をつく。


 「あー……そうだった。今日は“あの日”か。そろそろ来る頃かな」


 恭二が腰を上げた、その瞬間。

 ピンポーン、とインターフォンが鳴った。


 「さて、お出ましですね……」


 どこか芝居がかった口調でつぶやきながら、彼はモニターに目をやった。

 そこには、立っていた。


 ──瑞沢千春が。

 恭二は少しも驚いた様子を見せず、「はいはい、どうぞー」と軽く言いながら、腰にエプロンを巻きつけると、キッチンへ向かいコーヒーの準備を始めた。

 ガチャリ──玄関のドアが開く。


 階段の下からまどかが顔を出し、ふんわりと微笑む。

 その柔らかい笑顔は、包み込むような優しさを湛えていた。


 「……いらっしゃい。」


 戸口に立っていたのは、瑞沢千春だった。

 まだ状況が呑み込めていないのか、きょとんとした顔で辺りを見回す。


 「え……?ここ、どこですか? さっきまで山下くんとデートしてたはずなんですけど……」


 困惑する千春を見つめながら、まどかは静かに頷く。

 彼女の中に、かつての自分の姿が重なっていた。


 「私は、まどか。この相談所の所長をしているの。」


 「しょ、所長……?」


 「そう。ここは──“ラブコメヒロイン相談所”。」


 「……ラブコメ……ヒロイン……?」


 「そう。主に二次元のラブコメ作品のヒロイン限定。ここはね、“自分を素直に出せない”子たちが、心を裸にしてもいい場所なの。」


 千春は目を見開いた。

 戸惑いながら視線を泳がせ、生活感のあるダイニングテーブルを見つめる。

 椅子が並び、その中には子ども用の小さなテーブルまである。


 「今、コーヒーを淹れてくれてるのが黒岩恭二さん。40過ぎてラブコメばっか読んでたら、こうなっちゃったの。ただの……痛いおじさんよ」


 「うるせー、バカ。お前だって相当悩んでただろーが」


 まどかの皮肉に、恭二が茶化すように返す。

 二人の間には、不思議な信頼関係が流れていた。


 まどかが、ふっと視線を落とす。


 「……二次元のヒロインってね。

 その作品を描く漫画家や、強い想いを抱いた読者たちに、無言の“期待”を背負わされてしまうの。

 本当は“こんな人、好きになれない”って思ってても、そう言えない。

 “本当にこの人でいいの?”って葛藤してても、それを見せられない。

 でも、ヒロインにだって“気持ち”はあるの。

 そんな心の叫びに、この恭二おじさんが気づいて……この場所が生まれたの」


 その言葉に、千春はふと目を泳がせた。

 テーブルの奥にある冷蔵庫に、ふと目が留まる。

 そこにはカレンダーのようなものがかけられていた。縦に曜日、横に「朝・昼・夜・寝る前」と書かれた枠。よく見ると、小さな袋に薬が詰められている。


 「……これって……?」


 思わず指をさす千春。

 恭二は少し照れたように、金髪の頭を掻いた。


 「見られちまったか……。俺、病気なんだ。精神疾患ってやつ。

  ときどき妄想とか幻聴が出るから、薬で抑えてんの」


 千春は目を丸くした。

 元気そうに見える。肌も焼けて健康的、コーヒーも手際よく淹れていた。

 “そんな人でも病気なの?”──その事実に、少なからず驚いた。


 まどかが、続ける。


 「彼の“妄想力”と、私の“助けてほしい”って気持ち。

 そのふたつが重なって……この相談所は形になったの。

 私もね、気づいたらこの家の前に転がってたのよ。

 目の前にインターフォンがあって……押したら、金髪の彼が出てきて──。

 最初は怖かったけど、コーヒー出してくれて、ご飯作ってくれて、

 気づけば“気持ちを話すだけで楽になる”ってことに気づいたの。

 それから、私の連載中だったラブコメも、前向きに描けるようになったわ」


 「俺もビビったよ。絶賛連載中のヒロインがインターフォン押してくんだぜ?

 そりゃあ、びっくりするしかねぇだろ」


 恭二はそう言って笑いながら、カップを3つ並べて席に着く。


 瑞沢千春は、ただ立ち尽くしていた。

 目の前には、金髪でエプロンをつけた男。

 その隣には、まるで絵から飛び出してきたようなモデル体型の女性。


 頭が追いつかない。

 ここがどこで、なぜ自分がいるのかもわからない。

 なにを話していいのかさえも──


 ──グゥ~~……。


 お腹の音が、響いた。


 「……お腹、すいた……」


 千春がぽつりとつぶやいたその瞬間、

 まどかと恭二が顔を見合わせて、微笑んだ。

 千春がぽつりとつぶやいたその瞬間、

 まどかと恭二が顔を見合わせて、ふっと微笑んだ。


 ──千春が、この世界に来てから、初めて発した言葉だった。


 漫画の中では、ツンデレキャラとして知られる瑞沢千春。

 そんな彼女がここまで黙り込むほどの出来事が、いま自分の身に起きている。

 戸惑いの中に、ほんの少しの安心感が混ざる。


 まどかが優しく微笑む。


 「そうね。もうお昼だもの。私もお腹すいちゃった」


 恭二も立ち上がりながら、


 「じゃあ、カレーでも作るか」


 そう言って、エプロンの紐を締め直し、キッチンへ向かった。

 カレーを作るその背中は、どこか頼もしくて、あたたかかった。


 千春は、恭二とまどかの自然な空気に、少しずつ心を開いていくのを感じていた。

 ──もしかしたら、この場所なら。

 山下くんへの、本当の気持ちを話せるかもしれない。

 ずっと心に閉じ込めていた想いを、打ち明けられるかもしれない──


 


 恭二がテーブルにカレーを並べる。

 香ばしいスパイスの香りに包まれながら、3人で食卓を囲む。


 スプーンを口に運びながら、恭二が口を開いた。


 「そういやさ。瑞沢千春ってサイゼリア行くシーンあったよな?

 びっくりしたわ。あんなオシャレでキレイなキャラが、庶民派な場所にも行くんだなーって」


 ニヤニヤしながら語る恭二に、千春は少しムッとしたように頬をふくらませる。


 「はあ?行くわよ、そりゃ。安いしコスパ最強じゃん、サイゼリア」


 「いやいや、瑞沢千春クラスのヒロインって言ったら、

 夜景の見える高層レストランしか行かないイメージだったもんで……」


 まどかが呆れたようにため息をつき、ピシャリと言う。


 「女の子に幻想を押しつけすぎ。

 しかも、それをラブコメに持ち込まないでほしいわね」


 千春もそれに続く。


 「……さすが、こじらせ中2病男……」


 「うるせー!!」


 恭二の大声が響き、食卓に笑いが起きた。

 千春は、その笑いの輪の中にいる自分に、ふと気づく。


 ──こんなふうに笑ったの、いつぶりだろう。


 山下くんのことを考えると、胸が苦しくて、泣きたくなって、

 他のヒロインといるのを見るたび、心がズキズキして、

 でも、言葉にならなかった。


 


 千春の心に、あの“出会い”が蘇る。


 ──最初の出会いは、キャバクラ嬢と客だった。


 売れないキャバ嬢と、失恋直後のモテない青年。

 彼が言った。「恋の勉強がしたいんです。次の彼女のために」

 私は笑って、こう言った。「じゃあ、私が練習相手になってあげる」──


 それから二人は、頻繁に会うようになった。

 彼の友達にも“彼女”として紹介された。

 でもその後、驚くことが起きる。


 ──昼間の職場が、同じだったのだ。


 彼は保育士。

 私は“佐藤千春”という本名で、化粧もせず、地味な格好で働いていた。


 だけど、子どもたちはよく見ていた。

 「千春先生がいい!」「ねぇ、千春先生、私、正太郎くんが好きなの」

 「次、折り紙でうさぎつくってー!」


 人気のある先生として、慕われていた。


 ──でも、彼は気づかない。


 目の前にいるのに、彼は気づいていない。

 だから私は、LINEで“瑞沢千春”として連絡を取り続けた。


 《明日、デートの練習したい》

 《じゃあ、お台場でも行く? ジョイポリスとか》


 目の前にいるのよ、私。

 どうして気づいてくれないの?


 心の中で、何度も叫んでいた。


 


 ──今週号のラストは、デートの途中で終わっていた。


 夜の“瑞沢千春”としての私は、彼と両想いのように思える。

 でも昼間の“佐藤千春”は、ただの同僚のまま。


 


 「……なんとも複雑だよな」


 恭二がつぶやく。


 「両想いの彼女が、すぐそばにいて、でも気づかれない。

 夜は恋人、昼は他人──まるで、ラブとアンラブの二重生活だ」


 まどかも、静かに頷く。


 「ほんとよね。私は“まどか”としての一つの人格で恋をしてたけど……

 千春ちゃんの場合は、表と裏、昼と夜、素顔と仮面──

 そのどれもが“自分”なのに、同時に“自分じゃない”のよね」


 


 千春は、まどかの言葉に、そっとまつげを伏せた。

 誰にも見せられなかった感情が、ほんの少しだけ、こぼれ落ちたようだった──

 「そうなんです……彼は、佐藤千春が好きなのか、それとも瑞沢千春が好きなのか……わからないんです。

 もし彼が“瑞沢千春”を好きだとしたら、私が“佐藤千春”であることに気づいたとき、幻滅されるんじゃないかって……」


 カレーを食べ終えたあと、千春は深刻な表情でそう打ち明けた。

 恭二は食器を片付けながら、黙って聞いている。

 まどかはじっと千春を見つめ、語りかける。


 「相変わらず、ヒロインは全力で恋してるのね。……いい恋を。

 保育士をしてる彼を、ただ応援したいと思ったその気持ち。とても素敵だと思うわ」


 まどかは、ふと自分の過去を思い返すように、続ける。


 「私もね、全力で恋してた。

 でも、私の好きな人はすごく優柔不断でさ……。

 両想いのはずなのに、自分の親友がその人を好きになっちゃって、私は“その恋を応援しなきゃ”って思い込んだの」


 「……それで……どうされたんですか?」


 千春は、前のめりになって聞いた。

 まどかは、まるで妹に語りかけるようにやわらかく微笑む。


 「少し、距離を取ったの。

 お互いの距離を離して、自分の気持ちをちゃんと整理して。

 それでもやっぱり“好き”って思えたなら、その時は一緒に歩こうって決めたの」


 千春は息を呑んだ。

 ――確かに、今の自分は混乱している。

 自分の気持ちも、彼の気持ちも、どこか掴みきれない。

 だったら、少し離れて見つめ直す時間があってもいいのかもしれない。


 だが、恭二が静かに口を挟む。


 「……でも、それって逃げにならないか?

 男側からすれば、距離を置かれたら“嫌われたのかも”って思っちまうこともあるぜ」


 まどかがぴしゃりと返す。


 「あなた、私の漫画最後まで読んでるわよね?

 私の主人公が私の“距離”にどう反応したか、覚えてるでしょ」


 恭二はハッとしたように顔をそらし、窓の外を見ながらぼそりと返す。


 「……まぁな」


 「どういう態度取ったんですか!?」


 千春は、思わず身を乗り出し、机を叩いていた。

 だが、まどかはにこっと笑って手を添える。


 「ふふっ、それは――千春ちゃんが、“次の一歩”を踏み出したあとのお楽しみよ」


 「えええ……っ、まどかさんの漫画ここにないんですか? 続きが見たいです!」


 その必死な姿に、恭二がやや苦い顔で答える。


 「……悪いな。それは見せられない」


 「え?」


 「ヒロインが別の漫画の結末を見たら……その作品は消えてしまう。

 君を生み出した漫画家、編集者、そして今進行中のアニメ企画すら……すべてに影響が出てしまう。

 だから、他作品を“見る”ことは禁じられてるんだ。ドッペルゲンガーと同じ原理さ」


 千春は言葉を失った。

 今の状況がすでに現実離れしているというのに、さらにそんなSFみたいな話まで──

 けれど、今なら信じられる気がした。

 だって、たしかに“自分はここにいる”のだから。


 「……わかりました。今日は、帰ります。帰るには……どうしたら?」


 「簡単さ。さっき入ってきたドアから出るだけ」


 恭二は淡々と答えながら、食器を洗い終えてテーブルを拭いている。


 


 玄関で靴を履いた千春に、まどかがそっと声をかけた。


 「“この人といたら幸せになれる”って人はね、案外すぐそばにいるものよ。

 今はまだわからなくても、ちゃんとヒロインやっていれば、いつか見えてくるわ」


 千春は思わず笑顔になっていた。


 「……恭二さん、カレーとコーヒー……ごちそうさまでした。

 ありがとうございます。まどかさん……いや、」


 まどかはくるっと回り、お辞儀をして顔を上げる。


 「まどか先輩……」


 その呼び方に、まどかは母のような微笑みを返す。

 やさしくて、力強くて、あたたかい笑顔だった。


 「じゃあね。ちゃんと考えるのよ。

 また煮え切らなかったら、恭二が勝手に呼んじゃうからね?

 ……私は私で、自分の漫画の世界に戻って、優柔不断なあの人に喝を入れてこないと」


 まどかがため息まじりに言うと、千春は小さく笑った。


 「ありがとうございました。私……山下くんとの関係、前向きに考えてみます」


 そして千春は、ドアを開けて――

 静かに、元の世界へと戻っていった。


 


 


 「さて、私も戻ろうかな」


 まどかは恭二に言った。

 その顔は、どこか名残惜しそうだった。


 「……あの優柔不断主人公にまた付き合うと思うと、ため息しか出ないけどね……」


 ラブコメマニアの恭二が、茶化すように答える。


 「いいじゃんか。君の漫画、最終回まであるんだから。

 ……しかも、俺はそのラストを知ってるぞ」


 まどかがいたずらっぽく眉を上げる。


 「へぇ?どんなの?ちょっと見せてよ」


 その小悪魔みたいな笑顔に、恭二は一瞬くらっとする。が、すぐに顔を背けて答えた。


 「……見せるわけないだろ。

 君が“自分の未来”を知ったら、君まで消えてしまうかもしれないんだから。

 ……だいたい、君が今どの巻から来たのか、俺にもわかんないしな」


 まどかはふっと笑う。


 「冗談よ。……じゃあね」


 そう言って、2階へと向かい、

 恭二の部屋の前で、ふっと姿を消した。


 


 いつの間にか、窓の外は夕方になっていた。

 息子を迎えに行く時間だ。


 「さて……行きますか。瑞沢千春……来週号が楽しみだな」


 エプロンを外しながら、恭二は静かに歩き出した。

 夕焼けの中、いつもの幼稚園バスの集合場所へと向かっていった。


 

 

 その週の金曜日。

いつものように、恭二は息子を幼稚園に迎えに行ったあと、コーヒーを淹れて、テーブルに座った。

そして、お決まりのルーティン。

ラブコメ雑誌を広げて、今週号の『恋のラビリンス』に目を通す。


「さて……瑞沢千春、どう出るのかな」


 


読み進めるうちに、ページの中で物語が動き出す。


 


──太郎「俺、今日デートして気づいたんだ……やっぱり……君が好き。

 もう彼女のふりなんかじゃいられない。どうしようもないくらいに……」


 


ページの中の太郎は、ついに本心を口にした。

“瑞沢千春”の目の前で、真っ直ぐに想いを伝える。


長くて艶やかな髪が風に揺れ、ふわりとしたスカートの裾がめくれる。

沈黙のなかで、彼女の表情は――たしかに、微笑んでいるように見えた。


 


──太郎(よし……これはOKがもらえる)


 


だが、返ってきた言葉は予想と違っていた。


 


──千春「……ごめんなさい。少し、時間をもらえるかな……」

──太郎「えっ……?」

──千春「私、考えたいの。太郎くんが好きなのか、それとも“瑞沢千春”が好きなのか……。

 少し距離を取って、自分の気持ちを見極めたいの」


 


ページの中の太郎は、しばし沈黙し、そして――


 


──太郎「……わかった。だけど……」

──太郎「待ってるから! 千春が俺のことを好きになってくれるその日まで!!」


 


千春は目を伏せ、そして心の中で、こうつぶやいた。


(ああ……こういうことだったんだ。ありがとう、まどか先輩)


 


恭二は、そのページを閉じた。

本の裏表紙をしばらく眺めてから、苦笑いのような、少しだけあたたかい表情で、ぽつりと呟く。


「……食えない奴だな、まどかも、千春も……」


その日は、インターフォンも鳴らなかった。


まどかを呼び出すこともなく、

恭二は黙々と家の掃除をし、洗濯物をたたみ、夕飯の支度をした。


 


カレーの鍋には、今週は少しだけ多めににんじんを入れた。

理由はない。ただなんとなく、それが“彼女たちの好み”のような気がしたからだ。


 


いつもどおりの静かな午後。


けれど――

この家のどこかには、たしかに“ヒロインたちの声”が、まだ残っているような気がしていた。


 


そしてまた、来週もきっと、どこかで“誰かの恋”が進んでいく。


その結末を、ラブコメマニアの専業主夫は、カレーの香りの中で、そっと見守っていくのだった。

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