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不可逆の夢殻

作者: さば缶
掲載日:2025/04/07

 青い鴉が窓辺に止まり、時計の針は決して十二を指さなかった。


 エリスは顔のない女から手紙を受け取った。

「来て。湖の底にある部屋で、待ってる」  

署名はなかったが、インクのにおいに覚えがあった。

夜ごと枕元に立つあの人の影と、同じ香りだった。


 階段を逆に降りながら、彼女は靴の中の水音に耳を澄ませた。

水は昨日から止まらなかった。右足だけが濡れている。

医者は神経の問題だと言ったが、それならなぜ水は透明なのか。


 駅には誰もいなかった。

車掌だけが逆さまに吊られ、懐中時計の鎖でゆらゆら揺れていた。

「終点は、ここじゃない」

 彼の唇は動かず、言葉だけが空間に浮かんでいた。


 列車に乗ると、客室にはすでに何人もの自分がいた。

年齢も性別もまちまちの「エリス」が、同じ眼差しで窓の外を見つめていた。

誰もこちらを見ようとはしなかった。


 車窓の外には湖が広がっていた。

水は空を写し、空は火を孕み、火は音を殺していた。


 列車は沈んだ。

音もなく、水中にするりと入り込んだ。

窓に魚の影が流れ、時折、紙のように折れた木の葉が逆さに舞った。


「湖の底にある部屋」は、車両の終端にあった。

ドアを開けると、そこは石造りの礼拝堂で、天井には逆さの十字架が浮かんでいた。


 そこに、彼がいた。


「来たね」 「あなたは、死んだはず」 「死んだことなど、一度もない」


 声は、エリスの記憶から再構成された。

話すたび、彼の顔は彼女が忘れかけていた知人や、過去の恋人や、鏡の中の父に変わっていった。


「私は、何を忘れていたの?」

「全部さ。でも、その全部の中には、君自身も含まれている」


 床が揺れた。水の圧が高まり、壁の石の隙間から気泡が溢れた。


「それじゃあ、あの手紙は——」

「手紙を書いたのは、君だよ。君が君自身を招いたんだ」

「そんなことは……ない。私は……私で……」


 言いかけた言葉が、喉の奥で溶けた。

水が口まで届いていた。


「ミステリーは、答えを得るための儀式じゃない。問いの形を変えるための装置だ」  彼はそう言って、指先でエリスの額に触れた。


 瞬間、彼女の視界は裏返った。


 夜の市に立っていた。

人々の顔は全て紙で作られていて、笑顔が描き足されていた。

市場では記憶が売られていた。

瓶詰めの笑い声や、封筒に入った後悔、乾燥させた涙の結晶。


 店主は片腕が時計でできていた。

「ひとつ、いかがです」

「何が入っているの?」

「失われた証拠。あるいは、失う予定の記憶」


 エリスは瓶を一つ手に取った。

中には、赤いハンカチが沈んでいた。


 次の瞬間、部屋の中に戻っていた。

だが礼拝堂は消え、そこは畳の部屋だった。

古い日本家屋。欄間には桜が彫られていた。

ふすまの向こうから誰かが覗いている。


「あなたは……誰……?」

「……わたしは、あのときあなたを見殺しにした者」


 声の主は女だった。

顔はなく、代わりに文字が刻まれていた。

新聞の切り抜きのような文字列が、額から喉元まで縫い合わされていた。


「犯人は、常にもう一人の自分だ」  

彼女の言葉は、かつて読んだ小説の一節だった。

読んだ覚えはないのに、知っていた。


「では、死体はどこにあるの?」

「あなたの中。水音の中にね」


 右足の靴が、じゅわりと音を立てた。

中から何かが芽吹くような感触があった。


「これは、夢なの?」

「いいえ。夢はもっと現実的。これは現実のような仮象」


 ふすまが開き、無数のエリスたちがなだれ込んできた。

全員が泣いていた。

笑っていた。

無表情だった。

誰かが短剣を持っていた。

誰かが花を抱えていた。

誰かが叫んでいた。


「犯人は、——」


 言いかけた瞬間、頭の奥で音がした。


 ぱちん、と。


 眼が覚めた。


 枕元に、水に濡れた靴がひとつ、置かれていた。


 時計の針は、ようやく十二を指していた。

だが秒針は、最初からなかった。


 窓の外には、青い鴉が止まっていた。

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