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不可逆の夢殻

作者: さば缶

 青い鴉が窓辺に止まり、時計の針は決して十二を指さなかった。


 エリスは顔のない女から手紙を受け取った。

「来て。湖の底にある部屋で、待ってる」  

署名はなかったが、インクのにおいに覚えがあった。

夜ごと枕元に立つあの人の影と、同じ香りだった。


 階段を逆に降りながら、彼女は靴の中の水音に耳を澄ませた。

水は昨日から止まらなかった。右足だけが濡れている。

医者は神経の問題だと言ったが、それならなぜ水は透明なのか。


 駅には誰もいなかった。

車掌だけが逆さまに吊られ、懐中時計の鎖でゆらゆら揺れていた。

「終点は、ここじゃない」

 彼の唇は動かず、言葉だけが空間に浮かんでいた。


 列車に乗ると、客室にはすでに何人もの自分がいた。

年齢も性別もまちまちの「エリス」が、同じ眼差しで窓の外を見つめていた。

誰もこちらを見ようとはしなかった。


 車窓の外には湖が広がっていた。

水は空を写し、空は火を孕み、火は音を殺していた。


 列車は沈んだ。

音もなく、水中にするりと入り込んだ。

窓に魚の影が流れ、時折、紙のように折れた木の葉が逆さに舞った。


「湖の底にある部屋」は、車両の終端にあった。

ドアを開けると、そこは石造りの礼拝堂で、天井には逆さの十字架が浮かんでいた。


 そこに、彼がいた。


「来たね」 「あなたは、死んだはず」 「死んだことなど、一度もない」


 声は、エリスの記憶から再構成された。

話すたび、彼の顔は彼女が忘れかけていた知人や、過去の恋人や、鏡の中の父に変わっていった。


「私は、何を忘れていたの?」

「全部さ。でも、その全部の中には、君自身も含まれている」


 床が揺れた。水の圧が高まり、壁の石の隙間から気泡が溢れた。


「それじゃあ、あの手紙は——」

「手紙を書いたのは、君だよ。君が君自身を招いたんだ」

「そんなことは……ない。私は……私で……」


 言いかけた言葉が、喉の奥で溶けた。

水が口まで届いていた。


「ミステリーは、答えを得るための儀式じゃない。問いの形を変えるための装置だ」  彼はそう言って、指先でエリスの額に触れた。


 瞬間、彼女の視界は裏返った。


 夜の市に立っていた。

人々の顔は全て紙で作られていて、笑顔が描き足されていた。

市場では記憶が売られていた。

瓶詰めの笑い声や、封筒に入った後悔、乾燥させた涙の結晶。


 店主は片腕が時計でできていた。

「ひとつ、いかがです」

「何が入っているの?」

「失われた証拠。あるいは、失う予定の記憶」


 エリスは瓶を一つ手に取った。

中には、赤いハンカチが沈んでいた。


 次の瞬間、部屋の中に戻っていた。

だが礼拝堂は消え、そこは畳の部屋だった。

古い日本家屋。欄間には桜が彫られていた。

ふすまの向こうから誰かが覗いている。


「あなたは……誰……?」

「……わたしは、あのときあなたを見殺しにした者」


 声の主は女だった。

顔はなく、代わりに文字が刻まれていた。

新聞の切り抜きのような文字列が、額から喉元まで縫い合わされていた。


「犯人は、常にもう一人の自分だ」  

彼女の言葉は、かつて読んだ小説の一節だった。

読んだ覚えはないのに、知っていた。


「では、死体はどこにあるの?」

「あなたの中。水音の中にね」


 右足の靴が、じゅわりと音を立てた。

中から何かが芽吹くような感触があった。


「これは、夢なの?」

「いいえ。夢はもっと現実的。これは現実のような仮象」


 ふすまが開き、無数のエリスたちがなだれ込んできた。

全員が泣いていた。

笑っていた。

無表情だった。

誰かが短剣を持っていた。

誰かが花を抱えていた。

誰かが叫んでいた。


「犯人は、——」


 言いかけた瞬間、頭の奥で音がした。


 ぱちん、と。


 眼が覚めた。


 枕元に、水に濡れた靴がひとつ、置かれていた。


 時計の針は、ようやく十二を指していた。

だが秒針は、最初からなかった。


 窓の外には、青い鴉が止まっていた。

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