ルーベンスメモリー
エピローグ
片目を失くした競走馬がいた。
片目でレースをする事は、馬にとって暗闇の中に突っ込んでいくようなもの。
本来、自分の前脚や影さえも恐怖を感じる程、馬は見れる範囲が広い。
ひとつの目を失うと言うことは、1/2以上の景色を失うだけでなく、ひたむきに前に進む気持ちすら失ってしまう。
もしかしたら、自分の命を落とすかもしれない。
どれくらい走れば、その先にゴールがあるだろう。
片目の馬は、背中に乗った騎手の手を頼りに、真っ暗な景色の中を走っていく。
さあ、いくぞ!
騎手は、鞭を入れた。
もうすぐ最後のカーブがくる。
俺が、君の左目になるから。
まっすぐに、まっすぐに走っていけ。
1章 捨て猫と片耳のない女の子
「煌、早く食べちゃって。」
母の声が聞こえる。
橋川煌はベッドに寝転び、窓の外を見ていた。
大学3年の秋、姉の運転する車で、母と3人で父の法事へ行った帰り、後ろからきた大型トラックに追突される事故に遭った。医者からは、後部座席に乗っていた煌が無事だったのは、奇跡だと言われた。
事故から数日で出始めた後遺症は、時期に落ち着いていくとも思われたが、悪化するばかりで、最近は物が歪んで見える様にもなってきた。頚椎の他、脊椎や頭、心臓などいろいろな検査を行ったが、結局、長引く症状の原因は、はっきりわからないまま。
「姉ちゃんは?」
「仕事に行ったよ。煌はいつから学校へ行くの?」
「来月から行こうと思ってるけど。」
「あと1年ちょっとなんだし、ちゃんと卒業してよね。」
「わかってる。」
煌は少し目を閉じた。
「また目眩?」
母は煌を心配する。
「少し。」
「困ったね。そのうち治るだろうって言われたのに、どんどん悪くなって。」
「薬って、まだあった?」
「あるわよ。そろそろ病院に行ってもらってこないと。」
煌は薬を飲んだ。
母も仕事へ行き、一人になった煌は、パンをかじりながら、自分がもらってきたトロフィーやメダルを見ていた。
小学2年の頃、父が誕生日に買ってくれたグローブ。
嬉しくて暗くなっても、父と二人でキャッチボールをしていた。メキメキと投げる力をつけていった煌。
ただ大好きだっただけの野球が、いつしか生活の全てとなる。
父は野球の事は詳しくなかったけれど、父の友人から、煌をクラブチームへの入団させないかと勧められた。小学3年から、本格的に野球を始めたは煌は、いつしか地元では名の知れた選手となっていた。
中学に上がると、いくつかの強豪校からスカウトがあった。地元を離れ、新しい環境で甲子園を目指していく事も考えたが、結局、煌は地元の高校に進学し、中学からの仲間と、3年間野球をした。
高校3年の夏。
伏兵と呼ばれていたチームは、地区予選大会の決勝まで、駒を進めた。
甲子園にあとひとつ。
8回裏。
煌の投げた球は、逆転の2ランホームランを打たれた。誰も自分を責めることはなかった。監督は、最後まで投げきった自分を、ただ讃えてくれた。
たったひとつ、
キャッチャーのサインに首をふり、自分の意地で投げたボールが、自分の夏も仲間の最後の夏も、あっけなく終わらせる事になった。
気持ちも時間が経てば薄れていくけれど、あの日を思い出すと、いつも胸が締め付けられる。
煌が高校2年の頃。
父に肝臓ガンが見つかり、入退院を繰り返す父の介護で、母も姉も煌の野球に付き合う余裕がなくなっていた。
5つ違う姉の優里は、大学病院を辞め、父のために近くの診療所で訪問看護師として勤めた。
母の依子は老人ホームで調理員として働いていたが、父の介護で職場を休む事が多くなると、仕事を辞めるかいつも悩んでいた。
今まで、球場に駆けつけて応援してくれた家族の姿は、どこを探しても見当たらなくなった。
父を見舞いに行った日。
父は応援に行けない事を、煌にひたすら謝っていた。痩せた頬に流れる涙を見て、煌はその場にいるのが辛くなった。
そして、高2の秋。
父は死んだ。
大学に進学した煌は、野球部の寮に入り、朝早くから夜遅くまで練習に励んだ。スピードこそ速くないが、正確なコントロールを持つ煌は、1年生から中継ぎ投手としてレギュラーとなり、プロのスカウトが、練習を見に来る事もあった。
痩せこけた父の顔や、高校最後のあの夏を思い出す時間が減ってきた頃。
あの事故があるまでは、自分の華々しい未来を疑ってはいなかった。
後遺症がひどくなると、皆と同じ練習に参加ができなくなり、煌は野球を辞め、大学も休学の手続きをとった。
今は誰を恨む気持ちもない。
晴れる事のない心のモヤモヤのせいなのか、病まない頭痛のせいなのか、最近は、スッキリ目覚める事もないし、心から笑うこともなくなった。
煌はベッドに寝ころぶと、枕元に置いてあるボールを握った。野球しかしてこなかったから、時間があっても、何をしていいのかわからない。1日の大半をベッドで過ごしているので、あれだけ食べていたのに、食欲も湧いてこなかった。
今日もベッドに横になりながら、仕方なく目を閉じると、雨が窓を叩く音が聞こえてくる。煌は起き上がり窓に当たる雨粒を見ていた。
家の前を、青い傘が通って行くのが見える。雨粒のせいなのか、いつもより青が歪んで見える。
青い傘の横を車が通った。噴水の様な水しぶきが跳ね上がる。青い傘は少し立ち止まっていたけれど、そのまま雨の中を進んでいった。
夕方、玄関で靴を履いている所に、姉の優里が帰ってきた。
「出掛けるの?」
「うん。」
「送って行こうか?」
「いいよ、そこのコンビニだから。」
「何買いに行くの?」
「漫画。」
「それなら、本屋に連れて行こうか?」
「コンビニでも普通に買えるよ。」
「煌。まだ頭治らないの?」
「まぁ。」
「ごめんね、私があの道を通ったから。」
「別に。」
「野球、続けたかったでしょう。」
「もういいよ。」
煌は玄関のドアを開けた。
「まだ、雨が降ってるよ。」
優里は煌に傘を渡した。
「ありがとう。」
「気をつけてね。」
近所のコンビニに着くと、煌は漫画とコーラを買った。レジに持っていくと、レジの裏からお疲れ様でしたと言って、青い傘を持った女の子が出てきた。
煌がその傘を眺めていると、
「橋川くん。」
その女の子から、名前を呼ばれた。
「誰だっけ?」
「やだ、多岐だよ。忘れた?」
「忘れたよ。」
「ひどいなぁ。高校の時、同じクラスだったじゃない。多岐真咲。」
「あぁ、男みたいな名前だったクラス委員長の多岐か。」
「橋川くんの家、家の近くだったよね。一緒に帰ろう。」
二人は雨の中、歩き始めた。
「さっき、車に水掛けられて、びしょびしょになっちゃった。」
「見てたよ。」
「そうだ、橋川くんの家の前の水たまり。」
「あのコンビニでバイトしてるの?」
「そう。」
「多岐はずっとこっちにいるのか?」
「そうだよ。こっちの学校に通ってるからね。」
「頭、良かったもんな。」
「橋川くんは、休みで帰って来てたの?」
「うん。」
「みんな憧れてたんだよ。カッコ良かったから。」
「もう、昔の事だろう。それに、俺、野球辞めたし。」
「そうなの。」
「じゃあさ、乗馬やらない?」
「なんでだよ。」
「馬って賢いんだよ。心の中もみんなわかってるから。」
「多岐はずっとやってたのか?」
「大学に入ってからだよ。」
「せっかくだけど、俺はやらない。」
「ねえ、連絡先教えて。」
多岐は携帯を出した。
「早く、雨に濡れちゃう。」
「ほら。」
「あとで連絡する。」
多岐は煌の家の前に着くと、走って自分の家に向かっていった。
高校の頃は、こうやって話す事もなかったのに。俺、クラスのやつの事ってどれだけ覚えているのだろう。
「煌、遅かったね。ご飯できてるよ。」
依子が味噌汁を温め直す。
「あんまり、腹減ってない。」
「片付かないから、食べちゃって。」
「うん。」
煌が食卓につくと、母が言った。
「ねぇ、向こうに行く前に、アパート見つけないとね。」
「いいよ、ここから通えるから。」
「本当に野球、辞めちゃうの? 1軍じゃなくても、最後まで続けたらいいのに。」
「もういい。どうせ練習なんかついていけないし。」
「ごめんね、煌。」
優里がまた謝る。
「ご飯、こんなにいらないわ。」
煌はご飯が盛られた茶碗を母に渡した。
風呂上がり、また目眩がして、ベッドの上で目を瞑っていた。
携帯が鳴っている。
煌は手を伸ばし、携帯を見た。多岐からの電話だった。
「もしもし、橋川くん。」
「多岐かよ。さっき、会ったばっかりだろう。」
「ねえ、何してた?」
「何も。」
「橋川くんって、そんなに暗かった?」
「元々こうだよ。」
「明日、空いてる?」
「なんで? 俺は乗馬には行かないよ。」
「うちの学校の裏にね、子猫がいるの。ちょっと見に行かない。」
「多岐が拾ってくればいいだろう。」
「うちの姉ちゃん、猫アレルギーで、ダメなの。橋川くんの家、前にいたでしょう。茶色の猫。」
「よく、覚えてるな。」
「明日、一緒に見に行ってくれない?」
「今日の雨で、死んだんじゃないのか。」
「やだ、そんな事言わないで。」
「わかったよ。明日、何時?」
「9時に橋川くんの家の前で待ってる。」
「わかった。」
多岐は近所のお寺の子だった。
考えてみたら、幼稚園からずっと一緒だったけれど、話した記憶があまりない。
煌の周りには、いつも人が囲んでいた。自分から話さなくても、誰かがいろんな事を聞いてきた。女の子とは、たいして話しをした事はなかった。好きだとか嫌いだとか、野球に関係のない事に心を動かされるのまっぴらだ
野球のマネージャーの子が、何度か煌に声を掛けてきたが、もう何を話したのかも覚えていない。
枕元にあった硬球を上に投げ、煌はヘディングした。コロコロとボールは部屋の隅に転がった。
頭にボールが当たった衝撃で、何もかも忘れてしまえたらいいのに。煌は、歪んだボールを見つめていた。
「おはよう。」
煌が玄関を開けると、多岐が待っていた。
「おはよう。何時から待ってたんだよ。」
「少し前だよ。早く行こう。」
多岐は煌の手を引っ張った。
「俺、部外者だけど、入っていいのか?」
「大丈夫。」
「猫ってどんなに色?」
「鼻が黒くて、頭もちょっと黒くて、海苔をくっつけたみたい。」
「それってあんまり、かわいくないんじゃない?」
「すごく愛嬌がある子なのよ。」
「親猫は?」
「この子だけ、捨てられたんじゃないかな。」
「ふーん。」
「多岐が見つけたのか、その子。」
「そうだよ。授業中に泣いてから気になって見に行ったら、段ボールに入ってたの。」
「段ボールなら、昨日の雨で崩れたんじゃない?」
「だからさ、早く行ってみよう。」
多岐は煌の手を掴んで早足になった。
大学に着くと、こっちこっちと煌の手を引っ張る。
「あっ、真咲。」
「シオリ。」
「この人……。」
その女の子が煌の顔を覗く。
「高校の同期生。」
多岐は煌の服を引っ張った。
「野球やってる人でしょう。新聞で見たことある。」
煌は、自分の反対側の腕を掴んだその子のキラキラとした爪を見た。
「シオリのお父さん、新聞社だったもんね。」
「ねえ、やっぱり、プロに行くんでしょう。大学行っても注目されてるって、地元じゃ期待の星だからね。」
その言葉がとても悔しかった。
「シオリ、急いでるからじゃあね。」
「橋川くん。ここから入るの。少しかがんで。」
建物の間を通り裏山に出ると、段ボールから顔を出した子猫を見つけた。
「いた!」
「良かったね、まだ元気だった。」
「やっぱり、奇妙な模様だよ。」
「えー、そうかな。かわいいでしょう? はなくろちゃん。」
多岐は子猫を抱き上げた。
「多岐の家じゃ飼えないんだろう。確か、お寺だったしな。」
「そう。お姉ちゃんもアレルギーだし。」
「じゃあ、家の親に話してみるよ。」
「本当に。」
「仕方ないよな。見つけてしまったんだから。」
子猫を抱き上げ、多岐と煌は歩いていた。
煌が人とすれ違うと、ヒソヒソを何かが聞こえた。
「橋川くん。」
「私、右の耳が聞こえないの。こっちに来てもいい?」
「そうだったのか。知らなかった。」
多岐は煌の左側を歩いた。
「生まれつきなの?」
「そう。こっち、耳がないの。」
多岐は髪の毛をかき上げて見せた。
「やりたい事もたくさんあったけど、けっこう諦めた。」
「乗馬はやってるんだろう?」
「馬の上のからは私の耳が見えないし、馬にはなんでも聞こえる耳があるから。」
「どんな感じなの? 馬に乗ってる時って。」
「空と地面の間にいるんだよ。なんかこう、私だけ見てる景色。」
「全くわかんないわ。」
「別にわからなくてもいいよ。」
「何がどうなったら、勝ちなの?」
「そうだね。なんていうかな、キレイに障害を越えるだけじゃなくて、姿勢とか、馬の歩き方とか、いろいろ。」
「じゃあ、優秀な馬を選んで乗った方が勝ちなんだ。」
「そうじゃなくて、人との呼吸もあるんだって。」
「難しいんだな。」
「私の家、ここだから。今日はありがとう。」
多岐は家に入って行った。
煌は子猫を自分の部屋に連れて行くと、バスタオルで体をくるんだ。
「変な模様だな、おまえ。」
「母さん。猫飼いたいんだけど。」
「猫?」
「この子。」
「やだ、まだ赤ちゃんじゃない。優里、ちょっときて。」
「えー、変な模様だね。」
「どこで見つけたの?」
「教育大の裏山。」
「煌、なんでそんな所に行ったの?」
「多岐が、猫がいるから見に行こうって。」
「多岐って、あのお寺の子?」
「そう。」
「お寺なら、猫を飼えないだろうしね。だけど、見れば見る度、おかしな模様ね。」
「名前は?」
「はなくろ。」
「えっ、はなくろ?」
「多岐が言ってた。はなくろって。」
母と優里は猫を見つめて笑った。
「お母さん、私、猫の餌買ってくるね。煌も行こうよ。」
「俺はいいよ。腹減ったし。」
「今日は頭、痛くないの?」
「忘れてた。」
煌は子猫の写真を多岐に送った。
「鈴、つけてくれたの? かわいい。」
「みんなやっぱり変な模様だって言ってた。」
「大きくなったら、また変わるよ。」
「別にこのままでもいいけど。」
「今日はありがとう。」
「うん。」
「今度、見に行っていい?」
「いいよ。」
ある日の月曜日、煌のもとに大学の友人が訪ねてきた。
「煌。本当に野球辞めちゃうのか。」
訪ねてきた友人は煌と一緒にバッテリーを組んでいた、金山京吾だった。
「少しずつ練習すれば、また、いい球投げれるんじゃないのか。」
「無理だって。お前の顔も歪んで見えるし。」
京吾は煌の部屋に転がっているボールを握って、煌に投げた。ボールを受け取った煌は、はなくろに向けてボールを転がした。
「変わった模様の猫だなあ。」
「そうだろう。」
「京吾、今日は練習、休みだったのか。」
「そうだよ。」
「せっかくの休みなのに、こんな事してていいのかよ。」
「野球しかしてないと、時間があっても何をしていいかわかんないしさ。」
「そうだよな。俺なんか、一日がすごく長いよ。」
「そうだ。ヒロキ、彼女できたらしいよ。」
「ヒロキが?」
「同じ学部の子だって。」
「あいつ、授業なんか受ける暇あったのか。」
「そりゃ授業は受けるだろう。ヒロキは推薦で入ったわけじゃないんだし。」
「そうだったのか。」
「今も4番のままか?」
「この前の試合から7番だよ。足を痛めたみたいでさ。それに、1年のやつが、調子良くてさ。」
「あの、ショートのやつか。」
「煌、またお前の球を受けたいな。」
「もう、無理だよ。」
「具合はどうなんだよ。そんなに頭痛いのか。」
「時々な。集中すると、ダメなんだよ。」
「辛いな。」
「医者からは、怠け病って言われたわ。」
「ひでえーな。」
「いつから大学に来るんだよ。」
「来月には行くよ。」
「これからどうするんだ?」
「まだ何も考えてない。京吾は?」
「俺は教職とってるから、先生になるよ。」
「俺もなんか資格とっておけば良かったな。」
「まだ、諦めるなよ。あと1年あるんだぜ。」
はなくろが、煌の膝に乗る。
「しっかし、変な模様だな。適当に海苔をつけたみたいだな。」
京吾が帰ったあと、煌は目を閉じて投球の構えをした。暗闇の中だと、歪んで見える物は何もない。このままボールを投げたら、京吾のキャッチャーミットに収まる事が出来るのだろうか。
やっぱり、無茶だ。
煌は薬を飲んだ。
曇り空のせいか、頭痛がする。何もすることがないので、ベッドの上で目を閉じた。
はなくろが遊んでいるのだろうか、鈴の音が聞こえる。
本当はとっくに野球への情熱なんて冷めていたのかもしれない。あの事故が、野球を辞めるいいきっかけになったのだろう。
ウトウトしていた時、玄関のチャイムがなる。
「多岐か。突然くるなよ。」
「何度もラインしたよ。既読にならないから直接きた。」
「バイトは?」
「これから。ちょっとだけ、はなくろを゙見せて。」
煌は部屋に案内する。
「はなくろ、元気だった!」
多岐が子猫を抱き上げる。
「少し大きくなっただろう。」
「そうだね。橋川くん、ほら、これはなくろにあげて。」
多岐はカバンから子猫用のオヤツを出した。
「多岐があげればいいじゃん。」
「私、もう時間ないから、あとで煌くんがあげて。」
多岐の冷たい手が、煌の手触れる。
「冷たい手だな。」
「外、寒いもん。じゃあ。」
「あっ、俺も一緒に行くわ。漫画買いたいし。」
二人は揃って玄関を出た。
「バイトって、大変か?」
「橋川くん、バイトしたことないの?」
「ない。野球しかしてこなかったから。」
「大変な時もあるけど、楽しい時もあるよ。」
「俺、来月から大学に行くんだよ。」
「少し休んでたの?」
「交通事故に遭って、野球辞めたんだ。こっちに帰ってきて、毎日ゴロゴロしてた。」
「また、東京に住むの?」
「いや、こっちから通う。」
「じゃあ、これからもはなくろに会いに来れるね。」
「そうだな。」
コンビニの帰り、煌は曇り空の下を一人で歩いていた。めまいがして、少し立ち止まる。
「ねぇ、橋川さんでしょう? 北高のピッチャーだった。」
煌は通りかった高校生に声を掛けられた。
「そうだけど、もう野球はやってないよ。」
「正確なコントロールって言われてたじゃないですか。なんで、辞めたんですか?」
「いろいろあってさ。北高の生徒なのか?」
「そうです。俺、橋川さんに憧れてたんですよ。兄は橋川さんと一緒にやってた、石野です。」
「石野の弟か。懐かしいな。石野は元気か?」
「今、消防に勤めてます。」
「そっか。どこ、守ってるんだ?」
「右です。」
「なんだ、ピッチャーじゃないのかよ。」
「肩も足もそこそこだけど、ピッチャーは無理でした。」
「野球は楽しいか?」
「きついですよ、気を許したら下に突き上げられるし。」
「何年?」
「2年です。」
「一番いい時だな。俺は野球を辞めてしまったけど、腐らないで頑張れよ。」
煌が帰ってきているという噂はあっという間に拡がった。
同級生や、野球部の関係者達が、母や姉を通じて連絡してきた。
「いちいち辞めた理由を説明するのが嫌なんだよ。それに、皆昔の話しばっかりするし。」
夕食を食べていた時、煌は声を荒げた。
母と姉は、その話題を止めた。
はなくろが歩いている鈴の音が聞こえる。
「煌。やっぱり大学の近くにアパートを借りようか。こっちはいろんな人が見てるし。」
「別にいいよ。どうせわかる事だし。」
「ごめんね。せっかく頑張ってたのに、私のせいで台無しになって。」
「どうせ、もう辞めようと思ってたんだよ。姉ちゃんのせいじゃないって。」
家の中を重たい空気が漂う。
大学に通い始めた10月。
片道1時間の電車の中で、煌はいつも本を読んでいた。
こんなふうに文字を追うのはいつぶりだろう。作られた物語の中では、どんなに悲しみがあろうがなかろうが、はっきり言ってどうでもよくなる。
先週、大学からきた授業料の手紙を見て、母がため息をついていた。
今まで免除だった学費が、野球を辞めた事で、母に重くのしかかる。
「ごめんな、母さん。俺、バイトするからさ。」
煌はそう言った。
「大丈夫。そんな心配しなくてもいいから。」
「多岐に教えてもらって、居酒屋でバイトする事にしたんだ。夜もそこで食べるから、用意しなくてもいいよ。」
「煌、そんなところでバイトして、野球の話しになったらどうするの?」
「普通に、辞めたっていうよ。」
「それで、辛くないの?」
「仕方ないよ。」
煌の足元にはなくろがくる。
「ごめん、はなちゃんのご飯まだだったね。」
母が用意していると、煌は食べていた焼き魚を落としてはなくろに食べさせた。
「ダメだって。そんな事したら、いつも貰えるって思うじゃない。」
「貰ったらダメなのかよ。」
「さっきもテーブルに登ろうとしたから、優里が怒ったのよ。なんか、ずいぶん大きくなったと思わない? 煌、あんまり食べさせないでよ。」
「橋川といいます。今日からよろしくお願いします。」
バイトにきた煌は、皆に挨拶をした。
「橋川くんは、調理の方を担当してもらうから。この人について、よく教えてもらって。」
店長は、調理場にいる中年の男性を紹介した。
「金橋さん、この子、よろしくお願いします。」
「ああ。金橋と言います。よろしく。君、料理とかした事あるの?」
「ありません。」
「だろうな。出されたものを当たり前に食べてるんだろう。」
「まぁ、はい。」
「調理場は作るだけじゃなくて、洗い物もあるし、下拵えも力仕事だよ。そんな、ヒョロヒョロで大丈夫か?」
煌はそんな事を言われて、愕然とした。少し前までは、がっしりとして、日に焼けていたたくましい体が、あっという間になくなってしまった。
「頑張ります。」
煙と共にくる香ばしい匂いと、油の連れてくる揚物の匂い。
煌は少し目眩がして、洗い物の手を止める。
「どうした、新人。疲れたか?」
金橋が声を掛ける。
「おっちゃん、この人、あんまりいじめないでよ。」
多岐がそう言って調理場に入ってきた。
「多岐ちゃんの友達か?」
「そう。同級生。」
「好き嫌いしてるから、こんなにヒョロヒョロなんだろう。あとで、おにぎり握ってやるから、2人で食べな。」
「おっちゃん、いつもありがとう。」
バイトの帰り道。
「疲れた?」
多岐が煌に聞いた。
「けっこう疲れた。」
「煌はいつも動いてたから、へっちゃらかと思ったのに。」
「もう、そんな体力もなくなったんだな。」
「すぐに戻るよ。」
「多岐は明日もバイト入ってるのか?」
「明日はコンビニ行ってから、こっちにくる。」
「掛け持ちしてんのか。」
「コンビニだけなら、稼ぎ少ないし。」
「実家から通ってるなら、そんなにバイトしなくてもいいだろう。」
「そうだけどね。」
「乗馬はいつ行ってるの?」
「日曜日。煌くんも行ってみる?」
「俺は行かない。」
「頑固だね。行ったらきっと楽しいのに。」
「ずっと、目眩がして。それに、目の前の物が安定しないんだ。馬に乗ったら、落ちるかもしれないし。」
「そっか。」
「馬の上の景色、見せたいなぁ。」
「そのうちな。」
「待ってる。」
「これから、就職も不安だらけだよ。ずっと学生でいるわけにもいかないけど、働けるのかなって。」
2章 明け方の家事
バイトと家の往復に慣れた、12月の暮れ。
朝早く、けたたましい消防車のサイレンが町中になった。
大学は冬休みに入っていたので、やけに近いと思いつつ、煌はそのまま眠ろうと布団に包まった。
「ちょっと、煌。」
優里が起こしにきた。
「何?」
煌は寝たまま返事をする。
「お寺、火事だって。煌の友達の所。」
「えっ?」
煌は起き上がり窓を見た。
空に嫌な黒い煙が上っているのが見える。
窓を開けると、煙の匂いがする。
同じ様に窓を開け様子を伺っている人や、玄関先で様子を見ている人がいた。
「煌、行ってみよう。」
優里が煌にそう言った。
「うん。」
煌がベッドから出ると、はなくろがやっと目を覚ました。
「お前が寝てるなら、主人は大丈夫だろうな。」
優里と歩いて、多岐のいるお寺へ向かう。
灰色の煙は近くになるにつれて、赤い光りが見える。
「火、まだ消えないみたいだね。」
優里がそう言った。
「そういえば、母さんは?」
「お母さんは早番で、もう仕事に行ったよ。」
「いつから、早番なんてやってたの?」
「もう、2か月後前くらいかな。」
「俺の学費のせいか。」
「煌、そんなの気にしなくてもいいから。」
お寺の前にくると、水をかけてもかけても火の勢いが凄くて、多くの人だかりと、それを抑えてつける警察の人で、騒然としていた。
「友達から連絡はあった? けっこう燃えてるみたいだけど、中の人は大丈夫かな。」
煌は携帯を見た。
そういえば、昨日の夜、多岐は風邪を引いたとバイトを休んでいた。
煌は多岐に電話をする。
「もしもし。」
男の声がした。
「あれ、これ多岐さんの携帯じゃないんですか?」
「違うよ。」
携帯はガシャっと切られた。
「どうしたの?」
「番号が変わっている。」
「えっ? 電波が悪いじゃなくて?」
「違う人が出た。」
「それならラインしてみたら?」
「うん。」
煌は大丈夫か? とラインをしたが、いつもならすぐに既読になるはずのラインが既読にならない。
「どうしたんだろう。」
煌は気になって、人だかりをかき分けて中の様子を見ようとした。
「ちょっと、煌!」
優里が止めるのも聞かず、煌は進んでいく。
一番前まで行くと、警官が見ていない隙を狙って、燃えているお寺に近づいた。
「ちょっと君、危ないよ。」
「中の人は、大丈夫なんですか?」
「君は、ここの人達の知り合いかい?」
警官の1人がそう言った。
「ここの娘さんと友達なんです。」
「なんだ、親戚じゃないのか。」
「こっちは忙しいから、下がって下がって。」
煌は警官の手を払い、消防士が水を掛けている所で近づいた。
火からけっこう離れているのに、その場所ですら、熱くてたまらない。
「ちょっと、危ないって!」
消防士の1人が大声で怒鳴る。
「あの中に、友達がいるんです!」
「気持ちはわかるけど、俺達もこれでは中には近づけないよ。いいから下がって、早く!」
昼過ぎには、火が消えた。
優里は急変した末期がんの患者がいると、日曜日なのに、仕事へ行った。
部屋で1人になった煌は、ボールを握りながら、多岐の事を心配していた。
煌の電話がなる。
多岐だ!
電話の相手は、バイト先の店長からだった。
「橋川くん、多岐さんの所が火事になったって聞いたけど。」
「そうなんです。多岐とも連絡が取れなくて。」
「俺もさっきから、ずっと連絡してるんだけど、番号が変わってんだよ。」
「やっぱり、番号変わってますよね?」
「どうしたんだろうな、多岐さん。橋川くん、今日は店には出なくていいから、多岐さんから連絡がきたら、こっちにも教えて。」
「わかりました。」
煌は下に降りて、冷蔵庫の中を覗いた。
ソーセージが入っていたので、出して食べていると、はなくろが煌の足元にやってきた。
「お前の主人、どうしたんだろうな。」
煌はソーセージを小さくちぎって、はなくろの足に落とした。
ソーセージだけでは、空腹が満たされなかったので、コンビニに何か買いに行こうと、玄関で靴を履いていた。
母が帰ってくる。
「出掛けるの? ご飯食べてからにしたら?」
「そこのコンビニで、買ってくるよ。漫画も買いに行こうと思って。」
「そう。」
「お寺の火事、なんか聞いてる?」
「真希ちゃんの所ね。」
「多岐とずっと連絡が取れないんだ。」
「職場の人が、ろうそくの火が原因かもって言ってたよ。中の人はまだ確認できないみたいね。」
「そうなんだ。」
煌は視線を落とした。
「真希ちゃん、無事だといいね。あんなに、はなちゃんをかわいがってくれてたのに。」
「ああ。」
多岐のバイトしていたコンビニまで歩いてやってきた。
いつもと変わらない風景に煌は少しホッとした。
煌は漫画とおにぎりをカゴに入れた。コーラを手にとってレジに持っていくと、前に並んでいる女の子達が、今朝の火事の話しをしていた。
「多岐の所、ヤバイらしいね。全焼だって。」
「多岐も家族も、まだ見つからないんでしょう。」
「中にいたみたいよ。今、本人かどうか確認してるみたい。」
「それって、焼死体って事?」
「そう。時間かかるみたいだね。もう顔もわからないみたいだし。」
「でも変なのよ。家族は5人なのに、遺体は4つ。」
「外にいて、連絡が取れていない人がいるんじゃないの?」
「それがね、昨日はみんな家にいたらしいの。」
「真希は?」
「たぶん、終わってる。遺体の近くに焦げた携帯があって、それはきっと真希の物だろうって。」
「えっー。」
「シオリのお父さんは新聞社にいるから、よく知ってるね。」
煌はその名前を聞いて、列を逸れて、その子から見えないように棚に隠れた。
いろいろな感情が溢れてきた。
煌はカゴをその場に置いて、コンビニを出た。
どうしたんだよ、多岐。
やっぱり、片耳が聞こえなかったから、逃げ遅れたのか。
多岐は匂いには敏感だっただろう。
煙の匂いには気が付かなかったのかよ。
コンビニから帰ってきた煌は、部屋に入るとドアをバタンと閉めた。
様子がおかしい煌を心配した母が、
「ご飯買ってきたの? おそば茹でたから一緒にたべない?」
そう声を掛けた。
「いらない。」
ドア越しに煌はそう言った。
多岐、どうして急にいなくなったんだよ。
自分の周りにあるものは、突然自分に振り向かなくなる。
煌は頭痛がして、頭を抱えた。
「頭の薬、ある?」
煌は下に降りてきて、そばを食べている母に聞いた。
食べていた手を止めて、母は煌の薬を探す。
「ここにあったのに。あれ、こっちかな。」
薬を見つけた母は、煌に袋ごと渡した。
「これから、自分で管理しなさい。」
「わかった。頭痛の薬ってどれ?」
「これよ。」
煌はシートから出して口に入れると、冷蔵庫から水を出し、それを飲んだ。
「ちょっと、直接、口つけないで。」
「あっ、ごめん。」
「頭、痛むの?」
「時々。今日はけっこうひどい。」
「バイトは?」
「休んでいいって。」
「真希ちゃんの事、心配だね。」
「うん。」
母が見ていたテレビに、今朝の火事のニュースが映る。
今朝の早く、お寺が全焼。
中には住んでいた人は、全員安否が確認できない。
焼け跡から、4人の遺体が発見させた模様。
警察は身元の確認を急ぐと共に、
残りの1名の行方を探してる。
火事の原因は、ろうそくの火が近くの物に燃え移ったとみられている。
「あら、どうしましょう。」
顔色が変わった母が煌の方を向く。
「真希ちゃんとは連絡とれたの?」
「ううん。」
3章 脳腫瘍と唐辛子
年が明けた。
煌は久しぶりに家で新年を迎えた。
「煌、いつも野球の練習で、お正月はここにいなかったもね。」
優里がそう言った。
「今年はたまたまみんながいるけど、去年は私も仕事だっただし、優里も新年明けてすぐに呼ばれて、仕事へ行ったよね。」
母がそう言って、仏壇にお雑煮をあげた。
「ほら、こっち。」
3人は父に向かって手を合わせる。
「煌、真希ちゃん、まだ見つからないの?」
母が聞いた。
「見つからないみたいだね。」
「真希ちゃんの部屋が、一番火に近かったみたいだし、もしかしたら、何もかもなくなってしまったかもって、言われてるみたいね。」
「せっかく、こっちにきて話せる人ができたのね。煌、残念だよね。」
母はそう言って、煌のお雑煮をよそった。
「何個食べれる?」
「何が?」
「お餅よ。何個?」
「1つでいいよ。これ以上いらないよ。」
「えっー、煌が食べると思ってたくさん用意したのに。」
優里はそう言った。
「それなら、きな粉にしてくれる?」
「いいよ。そっか、煌はきな粉が好きだったよね。」
優里はそう言ったが、今からきな粉、と母はちょっと渋った。
「お母さん、せっかく煌が食べるって言ってるんだから、作ってよ。」
「仕方ないね。」
「俺、明日からバイトだから。」
「えっ、そうなの。お母さんも仕事だし、私1人で、留守番か。」
優里はそう言った。
「はなちゃん、一緒にいようね。」
「優里、はなちゃんにあんまりなんでもあげないでよ。やっぱり、この子、大きくなり過ぎてるよ。そのうち階段降りれなくなるよ。」
「煌が、抱っこすればいいでしょう。煌の部屋によく行くんだし。」
「けっこう、重いんだよ。こいつ。」
煌はそう言った。
食器を片付けると、煌は薬を飲んだ。
「来週、病院に行こうよ。もう一度、検査してもらおう。優里が聞いてきたんだけど、いい先生がきてるみたいよ。」
母はそう言った。
診療が始まった病院は、すごい人で溢れている。
人の声があちこちから聞こえてきて、あの火事の人だかりを思い出した。
煌は頭の検査を済ませ、診察の順番を待っていると、隣りにいる優里に、1人の男性が声を掛けた。
病院の職員なのか、その人は白衣を着ている。
そっか、姉ちゃん、昔ここで働いていた事があったんだ。
「優里、久しぶりだね。」
「久しぶりです。」
いつもは誰にでも愛想のいい優里なのに、その男性に対しては笑顔がなかった。
「少し、話せない?」
「無理です。家族の付き添いをしてるから。」
「弟さん?」
「そうですけど。」
「こんにちは。」
その男性は煌を見て挨拶をした。
「こんにちは。」
落ち着いた雰囲気のその男性の名札を見ると、脳外科医と書いてあった。
「あとで、連絡して。」
男性は優里にメモを渡した。
「橋川さん。」
診察室に呼ばれた。
初めてみる医師は、これまでの経過を煌に聞いた。
「あの事故から、ずっと頭痛と目眩があるんだね。」
「そうです。」
「物が二重に見えるのは?」
「少し前からです。」
医師はMRIの画像を指差すと、ここ、わかる?
そう、煌に言った。
優里も近くで画像を見る。
「これは事故とは関係ないし、君の症状と直接は関係ない。」
「じゃあ、これは?」
優里が医師に聞くと
「お姉さん、煌くんはもう成人過ぎてるんだろう。直接本人に説明してもいいかい?」
「はい。」
優里は不安そうな顔をした。
「ここに白く見えるのは、腫瘍だよ。まだ小さいから、これが頭痛やめまいを起こしているとも言えないけれど、通常なら回復していく後遺症も、なかなか改善していかないのは、もしかしてこの影響があるかもしれないね。」
医師は早口だけれど、煌がわかりやすいように説明している。
「手術を受けるかい?」
医師は煌に聞いた。
「受けなかったら、死にますか?」
「今の若い子はストレートだな。」
すみません、と優里が謝る。
「いいんだよ。手術を受けないと、君が思ってるより早く死んでしまう事になるよ。」
煌は優里の顔を見た。
「決めるのはお姉さんじゃなくて、君のだろう。」
「……。」
「手術はここではできないから、僕がいる北海道の病院に来てもらうよ。」
「北海道?」
「小さな腫瘍だから、精密な機械を使わないと行けないから。」
「煌、お願いしよう。」
医師は煌を見つめている。
「事故に遭ったのは残念だったけど、たまたま受けた検査で、腫瘍が見つかって、良かったな。お姉さんがいろいろ調べくれたんだ。感謝しなさい。」
病院からの帰り道。
「煌。何か食べて帰らない?」
「うん。」
「何食べたい?」
「なんでも。」
「自分で決めなさいよ。食べたいものとかってないの。」
「ラーメンかな。」
「いいよ。今日、寒いからね。」
「姉ちゃん、さっきの人は?」
「煌には、関係ないよ。」
「前に勤めてた病院で一緒だった人?」
「そう。」
「姉ちゃん、いつも自分の事は後回りだからさ。」
「そういう性格なのよ。」
「俺の頭も、姉ちゃんのせいじゃなかったし、好きな人と一緒になればいいのに。」
「生意気ね、いつからそんな事いう様になったの?」
優里はそう言って笑った。
「あの人、医者でしょう?」
「そう。私が新人の時に、研修医だったの。」
「ふーん。」
「煌は?」
「何が?」
「好きな人とか、いないの?」
優里はそう聞いた後、多岐の事を思い出して後悔した。
「ごめん、野球、忙しかったか。」
「野球、辞めた方が忙しいわ。」
煌はそう言って笑った。
「着いたよ。」
ラーメン屋に入ると、優里はたくさん注文した。
「いっぱい食べて。」
「そんなに食べれないよ。」
「残ってたら、お母さんに持っていくから。」
「最初から、テイクアウトで頼めばいいのに。」
「煌、昔はこんな量ペロッと食べてたじゃない?」
「そうだけど。今はあまり、お腹空かないし。」
「ねえ、頭が治ったら、また野球やったら? 地元にもチームはあるし、少年野球を教えたっていいんだし。」
「もう、無理だよ。」
「煌には野球しかないじゃない。」
「姉ちゃん、失礼だな。他にもあるよ。」
「たとえば?」
「たとえば、」
2人の前にラーメンが運ばれてきた。
「さっ、食べよ。」
優里が煌に割り箸を渡す。
「それとって。」
「何?」
「その赤いの。」
「あっ、唐辛子。」
唐辛子をたくさんラーメンの上にのせる煌を見て
「そんなに辛いもの好きだった?」
優里はそう聞いた。
「寮にいると、こうやって食べる事ってなかったから、やってみたくて。」
「大丈夫?」
煌は真っ赤になったラーメンを口に入れた。
本当は、北海道の病院で手術をしなければならない不安を隠そうとしていた。
費用の事もそうだったけど、手術がもし失敗してこれ以上家族に負担を掛ける事になったらと思うと、本当はラーメンの味なんて、よくわからなかった。
「母さん。」
「優里から聞いたよ。見つかって良かったね。」
「北海道で手術だって。」
「いい先生に会って良かったね。大丈夫、お母さんも休みとってついていくから。」
「うん。」
「もう、薬なんか飲まなくて良くなるかな。」
「そうだね。」
「うまくいかなかったら、どうなるの?」
「そんな事、考えないで先生にお任せしましょう。」
4章 入院と家族
2月。
煌は北海道に来ていた。一人で大丈夫だと言ったのに、母も姉も仕事を休んで、煌について来た。
「煌。入院する前に、美味しいものを食べに行こうよ。」
母がそう言った。
「別にいいよ。それに、こっちの物を食べたいのは、姉ちゃんの方だろう。」
「カニとかどう? お寿司にする? ジンギスカンもあるよ。ねえ煌、何する?」
優里が聞く。
「俺はラーメンがいい。」
「えっ、ラーメン?」
母と姉は少しがっかりした顔を見せる。
「俺が入院してる間に、2人でカニでも寿司でも食べにいけばいいだろう。」
「せっかく、煌と一緒に行こうと思ってたのに。」
優里はそれなら、ここにする? とネットでラーメン屋を選んだ。
3人でラーメンを食べていると、
病院で会ったあの男性が店に入ってきた。
「あっ、姉ちゃん。」
煌が優里を呼んだのに気がついたのか、男性がこちらの方を向いた。
「ほら、煌が余計な事するから。」
男性は隣のテーブルに座った。
こんにちは、と丁寧に頭を下げる。
「弟さん、明日入院だったね。」
「はい、そうです。」
「俺、黒木先生の助手で入るから。」
「そうですか、よろしくお願いします。」
煌が挨拶をしているのに、そっけない優里。
男性は煌の方を向くと、
「入院する前だからといって、あんまり刺激の多いものを食べるのはダメだからね。」
そう言った。
煌の真っ赤になったラーメンを見て、母と優里は笑った。
「それで、味がわかるの?」
優里が煌に聞くと
「あんまり。」
そう答えた。
「この前もそう。どうして、そんなふうにして食べるのかな。」
男性は優里に向かって、
「すごく、緊張してるんだよ。いろんな事を考えれば考えるだけ、悪い方に想像してしまって、味もわからなくなる程、不安でたまらないんだ。頭の手術を受ける時って、みんな怖いんだよ。」
優里は男性の方を見ていたが、男性が優里に視線を合わせると
「煌、早く食べちゃって。」
そう言って、優里は視線を逸らした。
ラーメン屋を出た後、3人は少し離れた宿へ向かった。
せっかくだから、3人で寝ようと、母は広い部屋を予約していた。
「母さん、大丈夫なの?」
煌は心配して、母の顔を覗く。
「大丈夫。お父さんが残してくれたものもあるから。」
「ごめん。野球も辞めて、病気にもなって、俺ばっかり迷惑掛けて。」
「それは言わないの。野球を辞めるって決めたのだって仕方ないし、病気になったのは別に煌が悪くない。」
母がそう答える。
「私があの道を通ったせいで、事故に遭って……。みんなの人生を狂せたのは私なの。ごめんなさい。」
優里がそう言った。
「姉ちゃん、誰のせいでもないんだって。こうして病気が見つかったのは、姉ちゃんのおかげなんだし、もうやめよう、この話し。」
3人は煌を゙真ん中に布団に並ぶ。
「明日、入院するんだね。」
優里が言った。
「お父さんの時は、お母さん、一人だったよね。」
「最初の入院は、すぐに帰ってくれると思ったからね。」
母がそう言った。
「さっき会った人、優里の知り合い?」
「大学病院にいた頃の人。」
「煌の手術に入るって、頼もしいじゃない。」
「そうだね。」
「優里、いい人いたら、家を出ていっていいんだからね。」
「いい人がいたら、ね。」
「はなちゃん、ちゃんと食べてるかな。」
「おばあちゃんの家に預けてきたんでしょう?」
「そう。」
「そう言えば、真希ちゃんのところ、捜査終了したんでしょう。」
「煌。寝てるの?」
優里はそう言ったか、煌はぐっすり眠っていた。
「腫瘍が見つかってから、ずっと眠れなかったんでしょう。自分から話す子じゃないから、本当は怖いんだろうなって思ってても、ゆっくり気持ちも聞けなかったね。」
「本当は野球を続けたかったのに、ごめんね。」
「優里、もういいの。こうして頭の病気が見つかったのは、いろんな偶然が重なったからだよ。優里のおかげだよ。」
煌が入院する朝。
「大きな病院ね。」
母は驚いていた。
「私、手続きしてくるね。」
受付で待っていると、若い看護師が煌達を迎えにきた。
「福井から来たって聞きましたけど、こっちは寒いですか?」
看護師は煌に声を掛ける。
「寒いです。」
煌はそう言った。
病室へ案内されると、優里はここは違いますよ、と看護師に言った。
「平井先生から、こちらにって、言われましたので。」
「平井先生から?」
優里が看護師に聞いた。
「手術のあとは、熱も出るだろうし、しばらく辛い状態が続くかもしれないから、周りに遠慮なく過ごせる環境にするようにって。」
黒木医師が平井を連れて病室に入ってくる。
「やぁ、よくきたね。福井からは遠かっただろう。」
「はい。」
煌は辛い状況が続くと聞いて、一気に気持ちが下がった。
「橋川くん、あとで詳しく手術の説明をするから、お母さんと一緒に外来の方へ降りてきてくれるかい?」
「わかりました。」
「あの、平井先生。」
優里が平井を呼び止めた。
「お姉さんは、あとで僕から説明するから。」
煌と母が黒木医師から説明を受けている間、平井は優里が1人残る病室へやってきた。
「個室を用意してとは頼んでませんよ。親切にしてくれるのはありがたいですけど、うちにも事情があるんです。」
優里は平井にそう言った。
「優里の家族は、みんな謝り続けて生きているね。お父さんのがんの事も、弟さんの事故の事も、自分のせいだって、そうやって責めて生きてる。」
「幸せな家庭で育った卓也にはわからないよ。」
「俺は養子なんだ。親に捨てられて施設にいた時、子供のいない医者夫婦にもらわれたんだ。赤ん坊の頃だから、覚えてないけど。」
「そんな話し聞いた事もなかった。」
優里は平井の顔を見つめた。
「ここの部屋は医者の一言で使う事ができる。費用も心配しなくてもいい。弟さんは、難しい手術をするからね。俺もしっかり勉強させてもらうつもり。」
「卓也。」
「今日、少し話せない? 病院の裏に居酒屋があるから、19時に待ってる。」
平井は病室を出ていった。
手術の説明を聞いた煌と母は、エレベーターを待っていた。
「なんか、飲むものでも買っていこうか。」
「いいよ。」
「煌、思ったより長くかかる手術なんだね。今のうちにもたくさん食べておこうよ。」
「そんなに腹なんか減ってないよ。」
廊下をモップ掛けしている若い女性の方をチラッと見ると、その女性の耳が片方なかった。
「あれ、多岐?」
エレベーターが空いて、母は早くと煌を急かした。
「やっぱり、飲み物買ってくる。」
煌は次の階で降りた。階段を降りると、さっきの女性を探しに行った。息を切らした母が煌の腕を掴んだ。
「何、急に。」
「ごめん。水を買いに行くわ。」
「売店はこっち。」
部屋に戻ると、優里がどうだった? と2人に聞いた。
煌は何も言わず、ベッドで水を飲んでいた。
「手術、少し長くかかりそうなの。」
母はそう言った。
「優里は話したの? 平井先生だった? ここの部屋、どうしようね。」
「先生がうまくやってくれたから、大丈夫だって。」
「そう。いい方ね。医者なのに、偉ぶらないし。」
「お母さん、今晩、少し出てきてもいい?」
「いいわよ。煌は夕飯出ないし、私は食堂で食べるから。」
「お母さん、今日はここに泊まるんでしょう。」
「そうね、ベッドもあるし。優里だけホテルに泊まって。」
「わかった。」
「手術が終わったら、次の日帰るつもりだったけど、さっき本当は少し残ってほしいって言われて……。優里、あなた、なんとかならない?」
「どれくらい? 1週間は容体が安定しないって。」
「1週間かあ。所長と相談してくる。」
話しを聞いていた煌が
「別にいいよ。俺は1人で。」
そう言った。
「そういうわけにはいかないの。」
母は煌が見ている窓を眺めた。
「すごい車ね。これだけ、病気の人がいるのかしらね。」
「家族だっているから、全部が全部じゃないだろう。」
「この車の数を見てたら、病気になる事よりも、ならない方が奇跡って思うよ。」
「俺、いつからご飯食べれるの?」
「明後日から。優里に食べさせてもらって。」
「そんなの恥ずかしいよ。」
「所長、1週間、休んでいいって。」
「良かったね、煌。優里一緒にいてくれるって。」
煌は小さく、優里にありがとうと言った。
「家に母さんだけしかいないなら、はなくろはおやつもらえないな。」
煌はそう言った。
5章 優里の恋
平井が待っていると言った居酒屋のドアを開ける。
先に来た平井が、こっちと優里を呼んだ。
「来ないかもしれないと思った。」
「個室をとってもらって、お礼くらい言わないと。」
「そっか。何飲む?」
「私、お茶でいい。煌は何も食べれないんだし。」
「少しだけ、いいだろう。」
そう言って、平井は優里にはサワーを頼んだ。
「卓也は飲んでるの。」
「飲んでるよ。」
「明日、手術なのに。」
「明後日も手術だし。」
「よく、飲めるね。」
「今日は、飲まないと話しができないと思ってね。」
「お酒の力を借りるの、昔から変わってないね。」
優里のお酒が運ばれてきた。
「乾杯しよう。カンって鳴らせば、厄除けになるみたいだから。」
優里がグラスを持つと、平井は自分のグラスを優里のグラスに近づけて、カンっと音を鳴らした。
「優里、なんで急にいなくなったんだ。」
「いろいろあったからね。」
「お父さんのガンだって、優里の責任じゃないだろう。」
「会社の健康診断で見つかって、病院の予約がなかなか取れないうちにどんどん進行して、もっと早く手術をしていたら助かったかもしれないと思うと、自分がせっかく看護師をしてたのに、情けなくって。」
「急に病院を辞めて、俺の前からも消えて、実家の近くの小さな診療所にいるって聞いて、何度も連絡したし、会いにも行ったのに……。」
「ごめんなさい。どうしても、会うと辛くなるから。」
「弟さんの事も、もう、責める事はないよ。優里が病院に連れてきたおかげで、病気が見つかったんだから。黒木先生に会えたのも、みんな優里のおかげなんだよ。」
「自分だけ、幸せになる事はできないの。」
「……。」
「やり直さない?」
「ごめん。私だけ、幸せになるわけにはいかないの。」
「俺は家族がいないけど、優里の家族はみんなが気を使って、謝りながら生きてる。せっかく家族なのに、一緒にいる方がかえって淋しくなるだろう。」
「そうかな。」
「大丈夫。弟さん、また野球やらせてあげるから。優里もお母さんも、また、大声で応援してやりなよ。みんなが笑ったら、優里は俺の所へ戻ってきてくれるだろう。」
「無理だよ。本人、その気がないし。」
「大丈夫だよ。彼には野球しかないんだから。」
居酒屋を出た2人。
「今日は宿を取ってるの?」
平井が優里に聞いた。
「お母さんは病院に残ったから、私だけ泊まるの。」
「それなら隣りひとつ空いてる?」
「空いてるけど、別の所へ行けばいいじゃない。医者なら、いくらでもいい所に泊まれるでしょう。」
「医局に泊まろうと思ってたから、ちょうどいいなって思ってさ。」
平井はずっと優里の後をついて来た。
「しつこさは昔のままだね。」
「優里の弟は、どこを守ってたの?」
「ピッチャーよ。」
「へぇ。速さはないけど、コントロールがいいみたいね。お父さんがそう言ってた。」
「俺も小学生の時、少しだけ野球をやらせてもらって、母さんが怪我すると危ないからって、なるべく球のこない所にしてくださいって監督に頼んでた。」
「それなら、野球やる意味がないじゃない。」
「そうだろう。それから勉強しかしてこなかったから、何かに打ち込む事がある人って、すごく羨ましいよ。」
「弟はね、野球しかしてこなかったから、なにもする事がないってよく言うの。最近はずっと漫画読んでた。せっかくバイトも始めて、なんとなく新しい生活に慣れようとしてたのに。」
「なんの漫画?」
「さあ? 時々コンビニに買いに行ってたのは知ってるけど。」
「優里はなんかやってたの?」
「私は、職場と家の往復。」
「昔から真面目だったからね。」
「ねぇ、いつまでついてくるの? 病院はあっちよ。」
平井は優里の手を握る。
「何? やめてよ。」
手を振り払った優里を、平井は黙って抱きしめた。
「優里。ずっと会いたかった。」
午前2時。
眠れずに窓を見ていた煌。
見回りにきた看護師が声を掛ける。
「早く寝てください。明日、手術なんでしょう。」
「この雪、ずっと降るんですか?」
「さっき大雪警報が出てましたよ。」
「こんなに積もったら、あそこに車停められないですね。」
「大丈夫。こっちには除雪のプロがちゃんといるのよ。」
「ほら、もう横になって。」
俺、死ぬのかな。
もし、手術が失敗したら、多岐と同じく、何もなくなってしまうのかな。
6章 手術と覚めない夢
手術は朝早くから始まる。
ストレッチャーに乗せられた煌に
「おはよう。よく眠れたかい?」
黒木が声を掛ける。
「ここは大学病院だからね、今日は勉強もさせてもらうからね。」
黒木の後ろには何人かの学生がいた。
平井が煌の顔を覗く。
「本当は目をつぶるなんて怖いだろう。」
平井の言葉に、煌の目がみるみる赤くなった。
「お姉さんと約束したんだ。手術が終わったら、また野球ができるように必ずするからって。」
「先生、もう無理ですよ。」
「煌くん。君が良くならないと、お姉さんがずっと暗闇から抜けられないんだ。だから、良くなって、お姉さんを解放してあげな。君に野球をやってもらわないと、俺が困るんだ。」
「手術は本当にうまくいきますか?」
煌は初めて不安に口にする。
「ここは一流のものが揃ってるからね。すごい腕の医者が手術するんだし、安心して。」
煌の口にマスクがかけられる。
数なんて数える間もなく、煌は一瞬で暗闇に落ちた。
小学生の頃、一度だけ練習をサボった事がある。
友達とゲームをしているうちに夢中になり、練習の時間が過ぎても煌は行こうとしなかった。
「1日くらいサボったって、平気だよ。」
煌はそう言って、友人の家で夕食まで食べさせてもらった。
「今度、泊まりでやろうぜ。」
家に着くと、父が玄関先で待っていて、煌を突き飛ばした。
いつも温厚な父が、そんなに怒るなんて、煌はとんでもない事をしたと、慌てて謝った。
「ごめんなさい。」
「どこ行ってたんだ!」
「健一の家。」
「練習をサボって何してた?」
「ゲームしてた。」
「そんなにゲームがやりたかったか。」
「やった事なかったからおもしろくて。」
「チームのみんなも監督も、お前が来るのを待ってたんだぞ。」
「俺以外にも、人はたくさんいるじゃないか!」
「煌、野球は1人じゃできないんだ。」
「知ってるよ。」
「監督もコーチも、みんなお前達のために時間を割いて教えてくれてるんだ。勝手な事するな。」
次の日。
「煌、昨日どうしたんだよ。」
同級生が声を掛ける。
「ちょっと。」
「サボりだろ。健一の家にいたって聞いた。」
「それ、言うなよ。」
「新しいゲーム面白いのか?」
「面白かった。」
「お前達!」
監督が2人の首を捕まえた。
「俺は関係ないだろ。悪いのは煌。」
同級生がそう言うと、
「野球の時も、そうやって人のせいにする気か!」
「いえ、しません。」
監督は2人を離すと、
「1人で野球してると勘違いしてるけど、いろんな人のおかげで、こうして野球をさせてもらってるんだぞ。」
昔の思い出を見ているのか、本当は夢なのかわからない。
何度も繰り返される話し。
もう、たくさんだ。
少しくらいゲームをしたっていいだろう、もう許してくれよ。
「煌。」
母の声で目が覚めた。
「煌、わかる?」
「答えたくても、声が出ない。」
手術、失敗したのかな。
最初から、だから、受けなければ良かったんだ。
朦朧とする意識の中で、煌はまた目を閉じるしかなかった。
「煌。」
「父さん。」
「おまえ、またサボったのか。」
「サボってないって。」
「これ以上、サボったら野球やめてもらう。」
また、父さんかよ。
もうサボらないから、許してくれよ。
煌は、どれくらい意識がなかったのかわからない。
めくれたカレンダーを見ると、手術の日から3日が経っていた。
「姉ちゃん。」
「煌。もう起きても大丈夫だよ。」
優里が支えて煌の体を起こす。
「どう、フラフラする?」
「大丈夫。」
「お昼から、重湯が出るって。」
「母さんは?」
「福井に帰ったよ。手術が成功したって安心してた。」
「ぜんぜん覚えてないよ。」
「ずっと、熱を出してたからね。仕方ないんだって。脳の大事な所を手術したから。」
「あの先生は? あの、なんだったかな、そう平井先生。」
「先生も、福井に戻ったよ。」
「そっか。あの人、姉ちゃんの彼氏なんだろう?」
優里は笑った。
「そこの記憶も切り取ってくれれば良かったのにね。ほら、煌の電話、鳴りっぱなし。」
優里は煌の携帯を見せる。
「京吾か。あいつ、手術の事知ってたのか。」
野球部の仲間が次々と送ってきたラインに、煌は一つ一つ目を通す。
「そんなに見て、めまいしない?」
「大丈夫。」
「また野球やってみたらいいのに。」
「姉ちゃんの彼氏もそう言ってた。」
「そうなの?」
「ねぇ、歩いてもいい?」
「まだダメだって。少し体を慣らしてからじゃないと。」
「わかった。」
「そういえば、見てほら。」
優里は猫の動画を見せる。
「はなちゃん、また大きくなったと思わない?」
「本当だ。」
「ばあちゃんの所で、すごい食べさせてもらったらしいよ。お母さん、怒ってた。変な模様だけど、愛想がある猫だから、ばあちゃんも、たくさんおやつをあげたらしいよ。」
「姉ちゃん、多岐の事、なんか知ってる?」
「みんな死亡で、お寺ももう取り壊しだって。」
「そっか。」
「悲しいね。」
「そうだね。」
次の日から、少しずつ歩けるようになった煌は、姉に連れてきてもらい、売店で漫画を買った。
「いつも読んでるけど、それなんの漫画なの?」
「北海道の牧場の話し。」
「へぇ。牛が出てくるの?」
「違うよ。馬の方。」
「どんな、話し?」
「血統のない馬がオリンピックを目指してる話し。」
「そんな話しもあるんだ。」
エレベーターの前にいると、清掃員が近くを通った。
煌はその人を目で追ったが、多岐とは別人だった。
やっぱり、俺の勘違いか。
「煌。エレベーター来たよ。」
7章 退院とキャッチボール
4月。
大学のグランドの隅で、煌は京吾とキャッチボールをしていた。
「ぜんぜん、体がついてこないな。」
煌はそう言った。
「また、お前とやれて嬉しいよ。」
「他のやつとやればいいだろう。まだ、レギュラーなんだし。」
「そんなんじゃないんだよな。キッチャーは女房って言うじゃないか。練習終わったら、少し走ろうぜ。早く体力戻せよ。」
「今日は帰る。バイトあるから。」
「バイトなんか、やってたのか。」
「バイト先にも野球が好きな人がいて、好きなチームが負けたら、すっごくイライラするんだよ。」
「煌、こっちにまた戻ってこいよ。お前の球、まだちゃんと生きてるぞ。」
2人がキャッチボールをしていると、監督が煌に声を掛ける。
「少し、感覚が戻ってきたか?」
「まだ、ぜんぜんです。」
「うちは左が少ないから、おまえが戻ってくれたら助かるんだけどな。」
「きっと、ちゃんと投げれるようになった頃には、みんな卒業してますよ。」
「また、寮に戻らないか。もう、目眩はしないんだろう。」
「みんなと同じに動くなんて無理です。それに、電車で通うのもけっこう慣れました。」
「もったいないな。お前のピークはまだこれからだぞ。もう少し考えてみろよ。」
煌はバイト先に向かって走っていた。1本電車を遅らせたせいで、バイトの時間はとっくに過ぎていた。
金曜日の夜は、ただでさえ忙しいのに、イライラしている店長の顔が浮かぶ。
「すみません、遅れました。」
「さっさと着替えて、これ運べ。」
「はい。」
店長が大声で、煌に言う。
調理場の金橋は笑っていた。
「すみません、遅れて。」
「これ運んだら、洗い物。」
「はい。」
「今日はカープが勝ってるから、遅刻くらい許してやるよ。」
「すみません。」
客がいなくなった午前1時。煌は店を掃除していた。
「橋川くん。毎日、大学に電車で行って、野球して、ここにバイトに来るのは、大変だろう。」
店長はそう言った。
「手術が成功して、良かったな。」
「はい。」
「もう、ここは辞めて、野球に専念したらどうだ。」
「ここを辞めたら、他にバイトするって言ってもどこも思い当たらないし。」
「確か、多岐さんの紹介だったよな。」
「そうです。」
「あの時は、なんにもしてないからって聞いたけど、今はちゃんとやりたい事をやってるじゃないか。バイトなんかしてないで、思う存分に野球をやったらいいじゃないか。」
「店長、俺は少しでもお金を稼がないとダメなんです。親にもたくさん迷惑掛けてるし。」
「だったら、練習して、野球で稼げるようになれよ。」
「ほら、ここ。」
店長は煌にチラシを渡した。
「野球スクールですか?」
「投手専門のな。」
「ここなら大学から近いし、バイトするのにちょうどいいんじゃないか。ここの経営者とは、昔バッテリーを組んでてな。」
「店長はどっちですか?」
「俺は投げるほうだ。橋川くんの事は知ってたよ。肩の筋肉が落ちていくのを見るのが、なんだか昔の俺を見てるようで辛くってね。チャンスがあるなら、まだ諦めるなよ。」
次の日。
煌は姉と病院に来ていた。
手術をしてから3か月。
黒木医師が来る外来は、座る所がない程に人で溢れていた。
「姉ちゃん、これじゃ、いつ診てもらえるかわからないな。俺1人でも大丈夫だから、姉ちゃんは仕事に戻ってもいいよ。」
「今日は休みを取ったから大丈夫だよ。」
「あの先生、今日はいないのか。」
「病棟にいるんじゃないの。」
「姉ちゃん、たまに会うんだろう。」
「たまにね。」
「あの時、個室にしてくれてちゃんとお礼言わないと。」
「本当だね。」
「病室の窓から、雪ばっかり見てた。」
「あんなに雪って降るんだね。私もびっくりした。」
「橋川さん。1番にお入りください。」
「やあ、橋川くん。その後、変わった事はないかい?」
黒木は煌を見て言った。
「MRIでも、キレイになっているのがわかるよ。ほら。」
煌と姉は黒木が指を指した先を真剣に見ていた。
「頭痛はある?」
「いいえ。」
「目眩とか、目がかすむのはまだあるかい?」
「大丈夫です。」
「そっか。それなら、もう普通の生活に戻ってもいい。次に会うのは1年後にしよう。」
煌と優里は、病院の近くのラーメン屋にきていた。
「煌が食べたい物って、いつもラーメンだよね。」
「そうだね。」
「何が食べたいとか、お腹減ったとか、そういう気持ち、湧いてきた?」
「練習に行くようになってから、腹が減ってしょうがないんだ。」
「そう、良かった。」
「姉ちゃん、家を出て、大学の近くで暮らすってダメかな。あと、1年もないのに勝手だけど。」
「いいんじゃない? 野球、本格的にやるんでしょ?」
「今までみたいにやるなんて無理だけど、もう少しやりたいんだ。」
「卒業したら、どうするの?」
「野球が続けられる所を探すよ。ちゃんと仕事もして、野球もできる場所。強くなくてもいいから。」
「母さん、少し淋しいかもね。」
「姉ちゃんも嫁に行くんだろう。」
「私の事は別にいいの。」
8章 卒業とサイレンと音
5月の連休が終わった後。
煌は実家を離れ、一人暮らしを始めた。
居酒屋の店長から紹介された野球スクールでのバイトは、思った以上にお金になった。
平日は野球の練習に参加させてもらい、試合のない週末は野球を教えるバイトをする。
今まで塞ぎ込んでいた自分が、嘘のように感じる。
誰かと笑ったり、ちょっとした事で熱くなったり。
気に障った人の声も、親切にしてくれた人の声も、ただの通り雨のように思えてくる。
今でも時々、頭が痛くなる。
遠くのサイレンや、赤いランプ。
人だかりを見ると、まだ燃えていた炎と、煙の匂いが目の前を漂う。
多岐、本当に死んでしまったのか。
6月になると、就活が本格的に始まり、煌は野球チームがある会社から、いくつか声が掛かる。
「今は左がほしいって流れがきてるから、煌は引っ張りだこで羨ましいよ。」
「京吾はどうするんだ?」
「俺は、教職採ったって言っただろう。秋に地元の教職採用試験を受けるよ。」
「地元って、どこだっけ?」
「俺は熊本だよ。」
「京吾、そんな所から来てたのか。」
「煌、知らなかったのか。そういえば、そんな話しなんかしたことなかったよな。」
「京吾の家の猫の、どうしてる? あの変な模様の。」
「元気だよ。なんでも食べるから、大きくなりすぎてる。」
「トボけた顔してたよな、あいつ。」
「捨て猫だったんだよ。あの模様のせいなのか、あいつだけ、段ボールに入れられて捨てられてたんだ。」
「煌の家の前にか?」
「実家の近くの大学の裏に。」
「煌はそれをどうやって見つけたんだ?」
「そこに通う高校の同級生が、見つけてさ。」
「同級生は女の子か?」
「そうだよ。」
「煌は彼女作らないのかよ。」
「野球しかやってこなかったから、女の子と話したりできないよ。」
「その同級生とは話してたんだろう。」
「少しな。」
「今でも会うのかよ、その子。」
「それが、去年、その子の家が火事になって、いなくなったんだ。」
「ごめん、嫌な事聞いて。」
「京吾は誰かいないのか?」
「俺はさ、どうせ熊本帰るし、告白されても断るよ。」
「そんな事あったのか?」
「ない。」
2人が話しをしていると、女の子達が笑いながら通り過ぎていく。
「あんな子達と一緒に話しができたらなぁ。」
京吾が言った。
「これから、教員になるんなら、たくさん話せるんじゃないの?」
「配属先が、工業高校だったらどうするよ。」
「そりゃ、野球に打ち込むしかないだろうな。」
煌はいくつかの企業と話しをしたが、地元の市役所へ就職した。
野球の腕を見込んで自分を採用してくれたとしても、もし野球ができなくなった時、一度にたくさんのもの失う怖さを知っていた。
地元で朝野球でもやりながら、細く長く野球を続けて行こう。煌はそう思っていた。
優里はあと少しで、この家を離れて行くだろう。
しばらくは、1人残る母の近くにいよう。
それに、多岐がもし生きていたら、はなくろを見に来るかもしれないし。
卒業式。
後輩達が、卒業生を1人ずつ胴上げする。
煌はその様子を離れて見ていたら、1人の後輩が煌を指さしてみんなが煌の前に集まる。
「俺はいいって。」
「橋川は軽いから10回上げてやれ。」
どこからかそんな声が聞こえる。
10回上がった煌が地面に足をつけると、京吾が泣いてた。
「金山先輩は5回で勘弁してください。」
京吾は7回上がった。
いろんな思い出が染み込んだグランドにくると、煌と京吾は涙が溢れてきた。
9章 再会と日に焼けた中学生
着慣れないスーツで向かった4月1日。
辞令交付を待つ間、煌の後の席の人が、煌の背中を突付いた。
煌が振り向くと、
「ねえ、橋川さんでしょう、野球やってた人。真希と一緒に大学に来てたじゃない。」
話し掛けてきたのは、多岐がシオリと呼んでいたあの女の子だった。
「何課になったの?」
たった1回会っただけなのに、ずいぶん親しげだな、煌のさはそう思った。
ちょうど、煌の名前が呼ばれる。
「はい。」
煌は立ち上がる。
1年前まで、あれだけ人に会うのが嫌だったのに、また、この町に戻ってきたのか。
辞令交付式が終わり、それぞれの配属先の課長が、新人を迎えにくる。
「ねえ、橋川くん。私、織田汐里、よろしくね。」
「よろしく。」
「教育委員会なの?」
汐里は煌の名札を見た。
「私は総務。今日、仕事が終ったら、みんなでご飯食べにいかない?」
汐里は煌との距離を縮める。
「俺、このあと用事があるから。」
ちょうど、教育委員会から迎えがきて、汐里との話しを終わらせる事ができた。
終業のチャイムがなり、煌は帰りを急いだ。
汐里は煌を玄関で待っていた。
「仕事、終わったの?」
「うん。」
「じゃあ、これからどこにいくの? 用事なんて嘘でしょう?」
「嘘じゃないよ。じゃあ。」
煌は自分が通っていた中学へ向かっていた。
学校につくと、スーツからユニフォームに着替え、グランドに向かった。
「橋川くん、来てくれたのか。」
顧問の先生が声を掛ける。
「こんにちは。」
中学生達はまだ肌寒い日が続いてると言うのに、すでに日に焼けて真っ黒だった。
「あっちにいるのが、投手達だよ。1人ずつ、見てやってくれないか。」
「わかりました。みんな、一生懸命ですね。」
「本当にかわいいだろう。それしかないって顔で球に食いつくんだよ。」
監督はそう言った。
練習が終わり、中学生達が煌を囲む。
「ねえ、明日も来てくれますか?」
「ああ、来るよ。」
「明日は別の投げ方教えてください。」
「明日もちゃんと練習に来いよ。」
煌は練習を休んで父に怒られた日のことを思い出していた。
煌に監督が声を掛ける。
「橋川くん、このあとちょっと、飲みに行かないか。」
「いいですね。」
煌がバイトしていた居酒屋の店長と、ここの監督は一緒に野球をやっていた。最近、腰を痛めた監督がコーチを探していたところに、ちょうど煌がこっちに戻ってくると聞いた店長は、煌を監督に紹介した。
「久しぶりだな。」
店長が煌に声をかける。
ビールが運ばれると、乾杯と言うなり、監督はすぐにそれを半分近くまで飲んだ。
「早いですね。」
「橋川くん。練習を手伝ってもらっておきながらなんだが、なんで公務員なんかになったんだよ。」
監督はそう言った。
「地元で暮らしたかったんですよ。」
「橋川くんなら、企業からも話しがきてただろう。さっき見てたら、まだまだいい球、投げてたぞ。」
「数か月離れただけなのに、周りはその10倍のスピードで進んで行きますよ。俺は大学でだいぶ遅れたんで。」
「いろいろあったって聞いたよ。」
「まあ。」
「頭の方は、もう大丈夫なのか。大きな手術をしたって聞いたけど。」
「大丈夫です。時々、少し頭痛がある日があるけど、目眩か、物が二重に見えるとか、そんな事はなくなりました。」
「そっか。まさか、こんないいコーチがきてくれるとはな、本当にありがたいよ。」
「多岐さんとは、結局それっきりになってしまったな」
店長はそう言った。
「本当ですね。」
「明るくていい子だったのにな。」
「俺も多岐が逃げ遅れるなんて、信じられません。」
次の日。
「橋川くん、います?」
昼休みに汐里が教育委員会にやってきた。
「ねぇ、土曜日、空いてる?」
「夕方なら、空いてるけど。」
「橋川くん、結構忙しいんだね。もしかして野球でもやってるの?」
「手伝い程度にやってるよ。」
「土曜日、一緒にご飯行こうよ。」
「休みの日は、家で食べればいいだろう。それに、織田さんなら、友達たくさんいるじゃないか。」
「えー、橋川くん一緒に行こうよ。美味しい所、教えるから。」
土曜日。
朝野球が終わったあと、中学生の練習を手伝い、家に着く頃には、煌はヘトヘトになっていた。
本当はこのまま横になりたかったけど、汐里に根負けした煌は、言われた店の前まで来ていた。
今日は少し頭が痛む。
入口を開けると、
「橋川くん、こっちこっち。」
汐里はすでに数人と飲んでいて、自分の隣りの席へ呼んだ。
「何飲む?」
「俺、お茶でいいわ。」
「飲まないの?」
「うん。」
「仕事、どう?」
「まだ、よくわからないよ。」
「なんで、こっちに帰って来たの? もっと名の知れたところで、野球、続ければ良かったのに。こんな小さな町で趣味程度でやってても、やってないと一緒じゃん。期待の星だったって、お父さんも言ってたよ。」
「織田さんの親、そう言えば、新聞社だったんだよな。」
「そう。」
「家族でよく話すの? そういう事。」
「話すよ。うちはみんな仲がいいから。」
煌の飲み物が運ばれてきた。
「乾杯!」
汐里と数人の女子が、煌を囲んだ。
「ねぇ、プロの知り合いっていないの? あの大学から、何人がドラフトで指名されてたじゃない? 友達でしょう。」
「俺は途中で寮を出たから、それ以来あんまり話してないんだ。」
煌はそう言った。
「そう、残念。」
「彼女はいるの?」
汐里の隣りの女子が聞いた。
「いません。」
「へぇ~。今度、女友達連れてくるから、一緒に飲まない?」
「毎日、朝早いから無理だよ。」
「なんか、冷たいね。ちょっと、チヤホヤされてた人って、こうなんだ。」
その女子の言葉に、煌は黙っていた。
「ねえ、橋川くん。ライン教えて?」
汐里がそう言った。
煌は携帯を出すと、汐里は煌に近づいた。
「なあ、多岐は本当に死んだのかな?」
「さあ。」
「多岐の新しい携帯番号ってわかる?」
「死んだじゃん、あの子。それに、私そんなに仲良くなかったし。」
「そっか。」
煌はウーロン茶を飲み干すと、帰るわ、と言って席を立った。
汐里からは時々ラインが来たけれど、煌はそっけない返事をしていた。
どんなに景色を見ても、どんな人と話しても、いつも多岐の事が気になっていた。
10月。
煌は北海道へきていた。
コツコツやってきた草野球も、最近どんどん強くなった。
勝ち進んだ決勝戦の舞台、北海道へ仲間達とやってきた。
「橋川、今日はおまえが先発か?」
「はい。」
仲間の1人が声を掛ける。
「お前の球は誰も手が出ないから、すでに勝ちをもらったみたいなもんだな。」
投手不足の草野球。
煌は中継ぎから先発に変更していた。
「橋川、打撃の方も少しは上達しろよ。」
煌は苦笑いした。
快勝だった試合が終わった後、羽目を外したやつが風呂場で転んだ。
煌が病院までその人を連れていくと、念の為、頭のCTを撮ると言われ、レントゲン室まで連れてきた。
「悪いな、橋川。」
「いいえ。」
煌はその人がCT室に入っている間、煌は病院の廊下を見ては、いろんな事を思い出していた。
病院の廊下を歩く人はみんな足早だ。
誰も目を合わせる事も、声を掛ける事もしない。
煌は何気なく奥に見える廊下を眺める。
職員なんだろうか、数人ずつ話しながら、通っていく。
「あれ?」
「多岐!!」
煌はその人の肩を掴むと、髪の毛をかきあげ、右の耳を見た。
「やっぱり、多岐だ!」
10章 手紙と片目の馬
「橋川くん、ありがとう。今まで楽しかった。」
「多岐、なんで、お前、高校生のままなんだよ。」
「橋川くんも高校生のままじゃない。」
「もっとたくさん話しておけば良かったな。」
「そうだな。」
煌は夢を見ていた。
北海道から帰ってきて、少し風邪を引いた。
体のあちこちが痛くて、寝返りを゙打ちながら、明け方にようやく眠った夜。
ぼんやりとした意識の中で、多岐はまだ生きていた。
あの日。
煌が多岐を見つけたあの日。
「橋川くんに耳の事、教えるんじゃなかった。」
「多岐、ずっと探してたんだよ。どうして、急にいなくなってしまったんだよ。あの火事の日、本当は何があったんだ?」
「ごめん。」
煌の手を振りほどくと、多岐は走って行ってしまった。
多岐を見掛けた事は誰にも言わなかった。
きっと、自分を隠して生きるほど、言いたくない事がたくさんあるんだろう。
だけど、多岐、俺はまた多岐と話しをしたいって思ってる。
野球ができなくなって閉じこもっていた俺は、多岐の明るさにどれだけ救われたか。
また、はなくろ、見に来いよ。
風邪が少し良くなった月曜日。
少し寝込んだだけでも、筋肉が落ちているのがわかる。
「コーチより、澤山の方が足が速いよ。」
「悔しいな、もう一回勝負させてくれないか。」
3年生がいなくなって、次の学年へと引き継がれたチームは、一回り小さくなった印象をうける。
まだ体ができていないヒョロヒョロの中学生に、走って負けた煌は、悔しくてもう一度勝負しようと頼んでいた。
「何回、やっても同じだよ。」
中学生達がそう言って笑っている。
「澤山くんは、ショートだったか?」
「外野だよ。どんな球にも追いつくから。」
「ショートも練習したらどうだ?」
「俺、みんなの背中見てる位置がいいんだ。」
「そうか、その足なら、ショートの方がいいのに。」
「コーチ、明日も練習にこれる?」
「明日はどうかな。」
「もうすぐ中体連の新人戦があるんだ。」
「もう、そんな時期か。」
夕暮れが早くなってきたこの頃。
仕事は少しずつ溜まり、帰りが少し遅くなってきた。
朝野球のシーズンが終了し、中学生の練習には、週末に少しだけ顔を出す程度になっていた。
野球漬けの日々が、本当に趣味の程度に変わってしまったんだな。
社会人野球をしているやつらは、一体どんな生活をしているんだろう。
教師になった京吾は、どんな毎日を送っているんだろう。
「橋川くん。隣り、空いてる?」
新人研修の日。
汐里が煌に声を掛けた。
「橋川くん、日に焼けて真っ黒じゃない。」
「そうか。」
煌は自分の顔を触った。
「中学生、教えてるんだってね。」
「よく知ってるね。」
「そこの出身なの?」
「違うよ。俺は別の中学。」
「橋川くんの家ってどこ?」
「多岐の家の近くだよ。」
「真希の家って、燃えた所?」
「ああ。」
「今度、遊びに行っていい?」
「ダメだよ。」
「なんで?」
「なんで来るんだよ。」
「真希はよく行ってたんでしょう?」
「あいつが、見つけた猫が家にいるからね。」
「私にも見せて。」
「ダメ。」
家に変えると、煌に手紙が来ていた。差出人の名前がない封筒を開ける。
橋川くん
私だってよくわかったね。
あの火事の日、私は部屋で寝ていたの。
お堂が燃えているのに気がついて、慌てて玄関を出た。
父も母も姉は、私が呼んでいるのに、大切なものを持ち出そうと、まだ家の中にいる。
燃えていく家を見ている私を、男の人が手を握ってくれたの。
私は彼の言うまま、北海道へやってきた。
彼はね、毎日絵を描いている。
本当は馬にも乗れるのに、毎日毎日、私を描くの。
もう、何もかも捨てて生きていくから。
私の事は全部忘れて。
多岐。
忘れる事なんかできるかよ。
煌は手紙を机に置くと、窓を開けた。
雨の日、ここから多岐を見たんだよな。
なんで、そんな人と遠い所に行ってしまったんだよ。
金曜日。
汐里は煌の後をつけていた。
「橋川くん。」
「なんだよ、ついて来てたのか、悪趣味だな。」
「いつも、話そうと思っても話せないじゃん。今日は、絶対私の話しを聞いてほしい。」
「じゃあ、店にでも行くか?」
「ううん。真希が見つけた猫がいるんでしょう、私にも見せて。」
「どうしても家に来るつもりなのかよ。」
「真希は入れたのに、私は断るって変じゃない?」
煌の家にきた汐里は、母に挨拶する。
ちゃっかりご飯まで食べている汐里の事を、母は彼女だと勘違いした。
「食べたら、送って送っていくよ。」
「今日は泊まるつもりだったのに。」
「走るついでに、織田さんの家まで送っていく。」
「じゃあ、猫見せてよ。」
「あれ、はなくろ、今日はいないな。俺の部屋かも。」
煌は二階に探しに行くと、汐里がついてくる。
部屋のドアを開けると、はなくろが煌のベッドにいる。
「なーに、この猫、変な模様してる。」
汐里が近づくと、はなくろは逃げて行った。
「愛想のない子ね。飼い主と同じ。」
「そんな事ないよ。」
汐里はベッドに座った。
「けっこう、図々しいな。」
「橋川くん、野球しかしてこなかったんでしょう? せっかく大学に行ったのに、合コンとかしたことないの?」
「ないよ。」
「彼女は?」
「いない。」
「1度も?」
「どうだっていいだろう、送っていくから、ほら。」
煌は汐里の腕を掴んだ。
「これ、真希?」
汐里は煌の机に上がっていた手紙を見つける。
煌が汐里の手から手紙を取ろうとすると、汐里は体の向きを変え、その手紙を読んでいた。
「返せよ。」
「真希、生きてるんだ。はい、これ。」
汐里は、手紙を煌に渡す。
「なんで、隠してたの?」
「言いたくない事なんか、誰にもあるだろう。」
「でも、これってダメな事だよね。家族はみんな死んでるんだし、自分だけ逃げたら、罪になるじゃん。」
「いいから、早く送って行くから。」
煌は手紙を机の中にしまった。
気まずい雰囲気の中、最初に話したのは汐里だった。
「橋川くん。私、高校の時から橋川くんを見てたよ。」
「そう。どうも。」
「冷たいね、女の子と話すのって苦手なの?」
「あんまり話した事ないから。」
「ねぇ、さっきの手紙、内緒にするから、付き合おうよ。」
「ごめん。」
「なんで。」
「別に俺じゃなくてもいいだろう。他にも話すやついるんだろうし。」
「真希の事が好きなの?」
「そうじゃないけど、手紙の事は内緒にしてくれないか。」
「だったら、2人で出掛けようよ。橋川くん、絶対私の事、好きになるから。」
「しつこいな、本当。」
日曜日。
汐里の推しに負けて、煌は待ち合わせの場所に来ていた。
「おはよう。」
汐里は先に待っていた。
「おはよう。」
「今日、野球はなかったの?」
「あったけど、断った。」
「私を優先したって事だね。」
「そうじゃないけど。」
「どこ行く?」
「ここらへんに乗馬やってる場所があるって聞いたんだけど、知らない?」
「ああ、ふたば乗馬クラブね。橋川くん、乗馬なんてするの?」
「したことないけど、ちょっと見てみたくって。」
「あそこね、競馬を引退した馬を引き受けて、馬術競技に使ってるみたいね。」
「へぇー。」
乗馬クラブにきた2人。
「せっかくだから、馬に乗ってみようよ。」
汐里がそう言った。
煌は2人分の受付を済ませると、汐里は早速自分が乗る馬を探しに行った。
「あの、ここに多岐という子が来てたと思うんですけど。」
煌は男性に聞いた。
「ああ、真希ちゃんね。」
男性はこっち、と言うと煌を1頭の馬の前に案内した。
「この馬ね、右目を柵にぶつけてなくしてね。競馬じゃ使い物にならないから、ここにきたんだ。真希ちゃんはこの子をすごくかわいがってくれて。ほら、あの子、右の耳が、なかっただろう。だから、左周りしかできないこの馬によく乗ってくれてね。」
「片目がなくても、走れるんですか?」
「馬って見える範囲が広いからね。片目をなくしたら、暗闇を走っているようだろうね。」
男性は、その馬を馬房から出した。
「乗ってみる?」
「はい。」
煌は一通り馬の扱い方を教えてもらうと、初めて馬に乗った。
「すごく高い景色ですね。」
多岐の見ていた景色。
地上と空の間。
温かい馬の背中は、足の内側から煌に何かを伝えている。
「足で腹を蹴ってごらん。進めって気持ちでね。」
馬はゆっくり歩き出した。
「君は真希ちゃんの彼氏かい?」
「友達です。」
「真希ちゃんが亡くなったって、未だに信じられなくてね。あの日、ここにいた従業員も急に1人いなくなってね。真希ちゃんによく話しをしてたから、そいつと逃げたのかもって、噂になってたんだよ。だけど、結局、真希ちゃんは亡くなったんだろう。どこかで生きててくれれば、そんな噂もできるのに、残念だな。」
手綱を引いていた男性は、
「今度は自分で歩かせてみてごらん。」
そう言って手綱を外した。
歩く、止まるの繰り返しだけでも、煌は体が緊張して、ひどく疲れた。
「どうもありがとうございます。」
「難しいだろう。すぐに走れるようになると思ったら大きな間違いだよ。」
「なかなか気持ちは伝わりませんね。」
「馬は本当はいつも走りたがってる。背中に乗った感覚で、この人が走らせてくれるかそうじゃないか、すぐにわかるんだよ。」
「多岐は、走らせてたんですか?」
「あの子は、すぐに走らせる事はできたんだ。この馬だけね。」
乗馬クラブを後にし、汐里をレストランに入る。
食事を終えた汐里は、
「橋川くんの家に行ってもいい?」
そう言った。
「なんで、家なの?」
「だって、他に行く所ないし。もう1回、あの変な猫見せてよ。」
煌は汐里を家に入れた。
「こんにちは。煌のお友達?」
姉の優里が彼氏の平井と家に来ていた。
「こんにちは。」
汐里は姉を見て、静かに挨拶をした。
「猫は?」
「あれ、はなくろは?」
煌が探すと
「はなちゃん、さっき二階に行ったよ。」
優里はそう言った。
「煌くん、体調はいいの?」
「はい。」
「それは良かった。」
「煌、中学生に野球教えてるのよ。今の子は、すごく足が速いんだって。」
「みんな手足も長いからね。」
煌の部屋に行くと、はなくろはいなかった。
「あれ、どこに行ったんだ。」
汐里は疲れたとベッドに横になった。
「乗馬って、本当に疲れる。」
「煌、ケーキあるよ。取りに来て。」
姉から呼ばれ、煌は下に降りた。
煌が下に降りている間、汐里は机を開いた。
多岐からきた手紙を出すと、それを写メし、新聞社に勤めている父に送った。そして、何もなかったように手紙を机の中にしまい、煌が戻って来るのを待っていた。
煌の後をついて来たはなくろは、汐里を見るなり、なぜか威嚇した。
「なーに、この猫。」
「どうした?」
煌が頭を撫でると、煌の足に乗って丸くなった。
「どうぞ。」
煌は汐里にケーキを出した。
「橋川くん、甘いもの食べるんだね。」
「食べるよ。」
「今度、お菓子作ってあげるよ。」
「作れるの?」
「私、けっこうなんでもできるよ。」
「それは、楽しみだな。」
「教育委員会はどう?」
「人が少ないから、みんな残業してる。」
「うちもだよ。なんかさ、定時で帰れない雰囲気あるよね。」
汐里は、煌の足の中で寝ているはなくろを指さした。
「ねぇ、その猫どけて。」
「どうして?」
「さっきみたいにされたら怖いよ。」
煌ははなくろを起こし、後でおいでと部屋から出した。
「ありがとう、橋川くん。」
汐里は煌に近づいた。
「何? 俺はそんな気ないから。」
「ずっと、好きだったんだよ。」
「それは、どうも。」
「彼女いないんでしょう、じゃあ、付き合ってよ。」
「ごめん。」
「そういうの、女子に言わせないでよ。他に好きな人でもいるの?」
「俺、多岐の事が気になってて。」
「もう、いない人でしょう。」
「そうだけど。野球辞めてこっちにきた時、多岐は昔と変わらないで、俺には話してくれて、いなくなってから、いつも多岐の事を考える様になって。」
「もう、忘れなよ。」
汐里は、煌にキスしようと顔を寄せた。
「織田、もうこれ以上ダメだ。」
煌は汐里から離れた。
「きっと後悔するからね、私を振った事。」
汐里が出ていったあと、はなくろが戻ってきた。
11章 本当の別れ
月曜日の朝。
まだ開けきらない目をこすりながら居間にくると、
「煌、ちょっとこれ。」
母が新聞を見せた。
多岐が、警察に捕まった。
あの火事の重要参考人として、家族をおいて逃げた罪として、逮捕された。
煌にあてた手紙の消印で、隠れていた場所が特定された。
「織田のやつ。」
電話がなる。
手紙の事を聞きたいという、マスコミが玄関で待っている。
煌と母は、職場に連絡し、今日は家から出られない事を伝えた。
9時過ぎに警察が家にきた。
「君の所に届いた手紙を見せて欲しいんだ。」
煌は多岐の手紙を刑事に渡した。
「多岐はどうなるんですか?」
「これからいろんな事がわかれば、罪の重さが変わってくるよ。」
「罪って、多岐は家族を残して、逃げたわけではないですよ!」
「この火事は、いろいろとわからない部分も多くてね。」
「刑事さん、誰がこの手紙の事を、話したんですか?」
「それは言えない。君だって、本当は、彼女が放火しようとしてたのを隠してた罪になるんだからね。」
「放火って、多岐が自分の家に火をつけたわけじゃないでしょう。」
「だからこの人は、その罪から逃げていたんだよ。何もやましい事がなかったら、あの日、助けを求めたって良かったのに、黙って姿を消したりするから、こっちも疑わざるを得ないんだ。」
「多岐は今どこにいるんですか? 北海道にまだいるんですか?」
「一緒にいた男の人と、これからこっちに来るみたいだ。」
煌は膝から崩れ落ちた。
「君もこれから、話しを聞かせてもらうから、一緒に来てくれるかい?」
殺風景な警察の取調室。
煌は多岐の事をぽつりぽつりと話していくと、あっという間に夕方になり、夜になった。
「彼女、少し前、こっちについたみたいだよ。」
刑事が煌にそう言った。
「君の友達は、薬の方でも逮捕されるかもしれないよ。正直、良かったんじゃないか。ボロボロになる前に見つけてくれて。君があの子を救ったって、思えば少しは気分が軽くなるだろう。」
「家に送っていくよ。」
刑事が、煌を車に乗せた。
「まだ、マスコミがいるのか、家族に連絡をしてみたら?」
煌は母に連絡をする。
「煌、大丈夫?」
電話の向こうの母の声に、煌は目が熱くなった。
「まだ、玄関の前に人がいるの?」
「もう、いないよ。夕方、パーッといなくなった。」
「わかった。もうすぐ帰る。」
「ご飯、まだでしょう。お昼も食べなかったんじゃない?」
「何もいらない。」
「用意して待ってるから。」
家につくと、母はしばらくここを離れると言った。
「優里の所に行くからね。」
「姉ちゃん達は?」
「優里は、卓也さんの実家に行ってるから。1週間も経てば、騒ぎは落ち着くでしょう。」
母は車に煌を乗せると、ほら、とおにぎりを渡した。
「少しは食べなさい。」
「母さん、はなくろは?」
「餌をおいてきたから大丈夫よ。」
「どうして、こんな事になってしまったんだろう。」
「煌にきたっていう手紙の事、誰かに話したの?」
「話してないよ。」
「それじゃあ、誰が。あの記事だって、ずいぶん悪意のある書き方よね。まるで真希ちゃんが火をつけて逃げたみたい。あの火事で自分だけ助かって、真希ちゃんは、自分を責めていたんだろうに。」
「わからないやつにはわからないんだよ。」
「煌、明日は仕事休むんでしょう?」
「そうする。」
水曜日。
刑事から、多岐が会いたがっていると聞いて、面会に行った。
未だに何も話さない多岐は、このままなら放火殺人になってしまう可能性があると、刑事は言った。
何もない白い部屋で、煌は多岐が来るのを待った。
ドアが空いて、多岐がやってくる。
「多岐。」
「橋川くん、迷惑掛けてごめんね。」
多岐はうっすら笑った。虚ろな目で生きる気力のない顔は、煌の知っている多岐ではなかった。
「俺が手紙を、」
煌が言い掛けると、
「本当は見つけてほしかったのかも。もう、疲れた」
多岐はそう言うと、横の刑務官と話し、立ち上がった。
「多岐!」
振り返る事なく去っていく多岐の背中は、小さく震えていた。
木曜日。
多岐が拘置所のドアノブに、服を巻きつけて自殺した。
多岐が何をしたっていうんだ。
多岐の本当の気持ちを知ろうとしない、みんなが殺したんだ。
部屋から出てこない煌の所に、平井がやってきた。
「お姉さんが来ても、君はドアを開けてくれないだろう。」
「先生、誰とも話す気にならないよ。」
「そっか。少ししたら、出ていくよ。」
平井はベッドに座った。
「彼女が最後に会ったのは君なんだろう?」
「そう。」
「辛い思いだけが残ったな。」
「俺が、手紙を見せなかったらこんな事にはならなかったのに。先生、俺の記憶をみんな切り取ってくれないか。」
平井は少し微笑むと、部屋を出ていった。
12章 暗闇の中の光り
大学時代にバッテリーを組んでいた京吾から、社会人野球の誘いがあった。
京吾の住んでいる町で、新しい野球チームができるから、一緒にやらないかと、煌に声を掛けてきた。
4月。
京吾は教師を辞め、煌も市役所を辞めた。
チームの母体となっている会社に勤めてはいるけれど、それだけでは生活できず、煌と大吾は警備員のアルバイトを掛け持ちしていた。
「まったく煮えきらないな、俺達。結局、野球しかする事がないのか。」
京吾は煌にそう言った。
「また、京吾に受けてもらえて嬉しいよ。」
キャッチボールをしている京吾の返球が大きく逸れた。
「おい!」
「煌、見てみろよ。お前の事、また見に来てるぞ。」
京吾は土手にいる女子高生の事を、煌に目で合図した。
「知らねーよ。いいから、ちゃんと投げてくれよ。」
練習を終えた2人は、久しぶりに休みが合い、飲みに行こうと話していた。
他の仲間たちも集まり、結局、監督の行きつけの店でみんなで飲むことになった。
「おまえ、市役所辞めて後悔してないのか。むこうで、野球もやってたんだろう。中学生も教えてたって聞いたし。」
「京吾だって、そうだろう。硬い仕事手放してまで、野球を続けるなんて、俺達はバカなんだろうな。」
「なんか大変な事、あったよな。また、塞ぎ込むんじゃないかって、心配したよ。」
「俺が彼女を殺してしまったんだよ。なんでこんな事になっただろうな。」
「やっぱり、思い詰めてるのか。」
「ここにいたら、1日があっという間で、そんな事、考えようかって思ってるうちに朝になるけどな。」
煌はビールを飲み干した。
「なぁ、京吾は馬に乗った事ってあるか?」
「なんだよ急に。」
「俺、1回だけ乗った事あってさ。彼女がよく乗っていた片目の馬なんだけど、止まらせたり、歩かせたりするだけでも、すごく大変なんだよ。馬って片目だと、暗闇を全速力で走ってるみたいなんだって。そんな馬を、彼女はすんなり走らせていたんだよ。」
「お前はその人の事を、ちゃんと信じているんだろう。」
「ああ。」
「一回、目をつぶって俺に投げてみるか?」
「勇気がいるよ。」
「俺は、煌の球なら目をつぶってでも受けられると思うぞ。」
「本当かよ。投げてほしい球を要求しても、本当にそれを投げるかは俺が決めるんだぞ。」
「やっぱり、怖いな。」
秋。
メキメキと力をつけていったチームに、いくつかのスポンサーがついた。
煌と京吾は、あい変わらず警備のバイトをしていた。
「今日は福井に帰るのか。」
「ああ。親父の命日だからな。」
「明日には戻ってくるのか?」
「帰りは明後日になる。」
「煌、また見に来てるぞ。」
煌は土手の方をチラッと見た。
「あの高校生か?」
「ずっと来てるぞ。」
「どうせ、あっちのほうだろう。」
煌は去年までプロでやっていたショートを指さした。
「いや、お前だよ。」
父の墓参りを終えた煌は、平井の運転する車で家まで帰ってきた。
「向こうは暑いだろう。」
平井が言った。
「暑いですね。」
「野球は楽しい?」
優里が後ろを振り向く。
「うん。」
「少し見ないうちに、たくましくなったね。」
母がそう言った。
「ここにいた時より、10キロ増えたし。」
「そんなに?」
母は煌の腕を触った。
「煌が熊本へ行くって言った時は、淋しかったけど、ここにいるのは、辛かっただろうし。」
平井が車を停めた。
「煌、お花とお水。」
すっかり更地になった多岐の家があった場所で、4人は手を併せた。
「そう言えばね、この前、あの時の刑事さんが来て、真希ちゃんは、あの火事の日、燃え続ける家に入ろうとして、知り合いの男性が慌ててその場から連れ出したらしいよ。男性の実家の札幌に身を寄せて、精神科に通いながら、気持ちの整理をしてたらしいの。薬をやってたって疑われたのは、病院からもらってた薬のせいだって。」
母はそう言った。
「もう少し、違う方法だったら、真希ちゃんを救えたかもしれないって、刑事さんは言ってた。人ってどうしても疑う事から入るからね。信じる事より、疑うほうが楽だし。」
「俺が手紙の事をちゃんと話していたら、こんな事にならなかったのに。」
「君はちゃんと彼女を見つけたじゃないか。その後の事を選んだのは、彼女自身なんだよ。全部話して、潔白を証明することだってできたのに、それをしなかったのは、言い出せない辛さや、誰にも言えない理由がいろいろあったんじゃない。周りだって、いつでも彼女を救えたんだし。」
「そうですかね。」
「煌、ラーメン食べていかない? 煌の好きな辛いやつ。」
優里は言った。
「俺、辛いのは好きじゃないって。」
「嘘。よく真っ赤なの食べてたじゃない?」
「優里、あれは味がわからないほど緊張してた時だろう。」
「そうなの、煌?」
「もう、覚えてないよ。」
熊本に戻ってきた煌と京吾は社長から呼ばれた。
「今度、社会人代表と台湾のチームと試合をする事になって、2人に声が掛かったんだよ。」
煌と京吾はお互いの肩を掴んだ。
「やったな。」
「橋川は、左で良かったな。今はどこも左がほしいからな。それに金山とのコンビは、阿吽の呼吸だしな。」
「煌、台湾行ったら、何食う?」
「京吾、楽しそうだな。」
「コツコツやってきて良かった。そう言えば、お前の家の変な猫、元気だったか?」
「元気だったよ。家は母さんだけになったから、おやつもらえなくなって、なんかほっそりしてた。」
「あの猫、本当に変な模様だったよな。」
「よく、覚えてるな。」
「なあ。今日も、あの子が土手に見に来てたら、名前くらい聞けよ。」
「なんだよ。そんな事どうでもいいって。それに、高校生なんかと話してたら、犯罪だろう。」
「煌、俺に任しておけって。」
煌が休憩をとって水を飲んでいた時、京吾がその女子高生を連れてきた。
チームのみんながその子に注目する。
「北校で野球部のマネージャーをやってたんだって。部活動は引退したけど、野球がすごく好きで、ここでお手伝いをしたいってさ。」
「勉強はいいの、3年生なんでしょう?」
監督は聞いた。
「はい。あの病院の看護学校に行くことに決まりましたから。」
彼女はここから見える病院を指さした。
「親御さんは?」
「あそこにいます。」
会社を指さした。
「社長の娘さんかよ。いつの間にこんなに大きくなったんだ。」
監督はそういうと、その子の頭を撫でた。
「石山佐和です。よろしくお願いします。」
佐和は煌の方を見てニッコリ笑った。
練習が終ったあと、佐和が煌の元にくる。
「橋川さんの事、黒木先生から聞きました。」
「黒木先生って、君もあの先生を知ってるの?」
「知ってますよ。私も手術をしたから。」
「黒木先生が、手術の前の日に橋川さんの事話してくれて、こうして本物が見れると思ってなかった。」
「俺、あの時の記憶って、あんまりないんだよ。それも切り取られたみたいにさ。」
「私も。」
「きっと、みんな、嫌な事から逃げようとするんだね。看護師になろうと思ったのは、病気をしたから?」
「そう。」
「うちの姉ちゃんも看護師してるんだ。」
「そうなの?」
「大変みたいだね。休みでも呼び出しもあるし。」
「そっか。ねえ、橋川さん、今度どうやって投げるのか教えて。」
「ええ! できるの?」
「できないけど、投げてみたくって。」
「そうだ。京吾!」
「なんだよ。」
「今度、この子の球を受けてほしいんだ。」
「煌が受けろよ。俺、怖くて受けられないわ。」
「そんな事言うなよ。俺が投げ方教えるから、京吾を目がけて投げるんだよ。」
「わかった。」
佐和がそう言うと、
「お前ら二人でやればいいだろう。俺を巻き込むな。」
3人は顔を合せて笑った。
練習が休みの月曜日。
佐和と煌と京吾はグランドにきていた。
「せっかくの休みなのに、俺、用事あるからすぐに帰るからな。」
京吾はそう言った。
「佐和ちゃん、まずは普通に投げてみて。」
京吾は素手だった。
「京吾、それは失礼だろう。」
「女子高生の球なんか、ミットなんかいらないって。」
佐和は橋川の真似をして、京吾に向かって投げる。
はずんだ球は大きく逸れて、京吾はそれを追いかけた。
煌が教えて投げるたびに、京吾がボールを追いかける。
「おい、俺はもうヘトヘトだって。二人でキャッチボールからやれよ。」
京吾はボールを煌に渡すと、
「佐和ちゃん、なかなか道は厳しいかもよ。」
そう言って帰っていった。
2人になった、煌と佐和は、緩い球でキャッチボールをしていた。
「だいぶ取れる様になったね。もう少し、離れてみようか。」
煌は佐和との距離を伸ばす。
「疲れた?」
タオルで汗を拭いていた佐和に、煌は水を渡した。
「疲れました。」
煌は佐和の手のひらを見る。
「やっぱり、豆ができたね。」
「本当だ。少し痛かったのはこのせいだったんだ。」
「高校は楽しい?」
「うん。私、高校1年の時に手術して、もう死ぬかもって、毎日考えた。だから、どうせ拾ってもらった命だもん、なんでもやってやろうと決めたの。」
煌は多岐の事を思い出していた。
せっかく見つけた命なのに、自分には救う事ができなかった。
「どうかした?」
佐和が煌を覗き込む。
佐和のまっすぐでキラキラした目が、煌の心を映し出す。
「ごめん。ちょっと思い出す事があってさ。」
「彼女の事?」
「違うよ。彼女なんかいないし。」
「じゃあ、昔の失敗の事か。」
佐和はケラケラと笑った。
「また、教えて、すごく楽しかった。」
佐和はそう言うと、走って帰っていった。
土手の草が、ハラハラと風に揺れているのがわかる。
人ってあんなふうに笑うんだな。
煌は小さくなった佐和の背中を見つめていた。
何かを失くすと、失くしたもの以上に大きな物を失う。
少しずつそれを取り返そうとしても、焦れば焦るたびに、大切なものは、また自分から離れていく。
暗闇を走る勇気なんかない。
誰だってそうだろう。
だけどもし、自分を呼ぶ声が聞こえたら、少しだけ歩いてみようか。
秋の冷たい風は、グランドの砂を少し巻き上げた。
多岐、
片目で見ている景色って、本当に真っ暗なのか。
見える片方の景色は歪むけど、見えない片方の景色は、本当は澄んでいるんだろう。
多岐が聞こえていた音ってなんだよ。
風の音なのか?
足音なのか?
誰かの声なのか?
急にいなくなってしまった本当の理由を教えろよ。
次に会えたら、大きな声で名前を呼んでやるから。
「橋川さん。」
佐和が煌の前にいる。
「なんだ、まだ帰らなかったのか?」
「帰る途中に、猫がいたの。ちょっと、一緒にきて。」
「佐和ちゃんが連れて帰ればいいだろう。」
「家のお父さん、猫がアレルギーなの? 橋川さん、飼えない?」
「俺はアパートだから、飼えないよ。」
「それなら、京吾さんに頼もうよ。だって実家でしょう?」
佐和は煌の手を掴んだ。
終