父との時間
その日は珍しく、朝からお母さんとお姉ちゃんの姿が見えなかった。村の外れで魔法の訓練でもしているのだろう、と一人納得し、朝の支度を済ませる。
支度を終え、いざ木剣を携えて広場に向かおうとした時。がちゃりと家の扉が開き、お父さんが現れた。
「ああ、アニュエ。ここにいたか」
「どうしたの、お父さん」
担いでいた農具を玄関の壁に立てかけると、そのまま地面に座り、タオルで汗を拭う。
「実はな。明日の朝、街まで野菜を納品しにいく予定だったんだが、一緒に行くはずだったダルケンが風邪で寝込んじまってな……」
「ダルケンさんが?」
例の一件で左腕を失ったダルケンさんは、それでも元気に農作業に従事している。挫けることなく立ち上がるダルケンさんに奥さんが惚れ直して、村一番のおしどり夫婦になっているとかなんとか。
そんなダルケンさんが、風邪を引いたと。何とまあ、タイミングの悪い。
「一人で馬車を走らせるのも退屈だし、向こうでの作業もあるから、できれば一人、手伝ってくれる人間が欲しくてな……」
「へえ……」
お父さんはそう言って、チラリと私を見た。一体、何が言いたいのだろう。
……いや、そうか。まさか、そういうことか。
「……街まで連れて行ってくれるってこと!?」
私が聞くと、お父さんは首を縦に振った。
「アニュエはまだ、この村の外に出たことがなかっただろ? 良い機会だし、一緒にどうだろうと思ってな」
野菜の納品も兼ねた小旅行といったところか。魔獣との戦いで森の方へは行ったことがあるけれど、この世界に生まれてから、人里に関してはこの村以外に見たことがない。
「ああ、もちろん、アニュエにも予定はあるだろうから……」
「行く! 予定とか全部キャンセルで!」
行かない理由がなかった。そんな魅力的な話を聞いて、断る人間がこの世にいるだろうか。いや、いない。私に前世の記憶というものがなくても、同じ答えを返しただろう。そもそも、予定なんてものはザックとの訓練以外に何もない。ザックには悪いが、帰ってくるまではお休みだ。
食いつくように返事をした私に、お父さんはやや驚きながらも、『良かった』といって頬を緩ませる。
「なら、準備をしておいてくれ。出発は明日の早朝。向こうで一泊するから、着替えも忘れないようにな」
「分かった!」
約束を取り付け、浮き足だって家を後にする。広場に到着するなり、ザックに『気持ち悪い笑顔だな』と罵倒されたが、何も気にならない。魔法で思い切り吹き飛ばしておいた。
——そして翌朝。幌馬車の荷台に必要な荷物を乗せ、自らも乗り込む。あまり質の良い馬車ではないものの、これも旅の醍醐味といったところだろう。揺れの酷い荷台も、ある意味では趣がある。
「じゃあ、明日の夕方には帰ってくるから」
御者台に乗ったお父さん。足元には、見送りのお母さんたちがいた。
「気をつけてね、あなた。アニュエも、楽しんで」
「お土産、待ってるね」
そうして、馬車はゆっくりと前へと進み始めた。何も問題がなければ、夕方までには街に到着する算段だ。
ガタガタと激しい揺れを伴う荷台に乗って、そんなことも気にせず、私は景色を楽しんでいた。街道方面に来たのはこれが初めてで、同じ森の中ではあるものの、魔獣と戦った深部とは少し違った風景が広がっていた。
「楽しそうだな、アニュエ」
「うん。街に行くの、初めてだし」
御者台の方から、お父さんの、どこか嬉しそうな声が聞こえてくる。
思い起こせば、お父さんと二人でこうして長い時間を過ごすのは、これが初めてかもしれない。普段は農作業で、野生の獣が多くなる時期になると防衛組として働くお父さんは、日中はほとんど家にいない。かくいう私も訓練で家にいないから、必然的に家族団欒の場は夜に限られる。夜からどこかに出かけることもないから……こうして二人で過ごすのは、これが初めてだ。
「まあ……アニュエはあまり、我儘を言わない子だったからな。オリビアなんて、一緒に街に行きたいって、一晩中泣いていたこともあった」
「お姉ちゃんが?」
「ああ」
初耳だ。初耳だけど……何となく、想像はできる。それに比べると、私は楽な子供だっただろう。前世の記憶があるから無駄に泣き喚くこともないし、剣と魔法の訓練ができればそれで良かったから、必要以上に物をねだることもなかった。子供らしくない子供だったと言われれば、そうかもしれない。
「……悪いな」
突然、そう言ってお父さんが謝った。荷台からはお父さんの表情は見えないけれど、いつもより少しだけ、声が低かった。
「どうして謝るの?」
「その、なんだ……アニュエはどこか、大人っぽい子供だったから……それを良いことに、あまり遊びにも連れて行ってやらなかったな、と思って」
確かに、家族で村の外へ出た記憶もなければ、どこかへ遊びに行った記憶もない。私からそれを望むこともなかったし、特別、それを不満だと思ったこともなかった。
……前世の私、オルタスフィアでのアニュエ・ストランダーという人間は、生まれながらにして孤独だった。意識が芽生えた頃にはどことも知れない洞窟の中に一人で、家族も友人もいなかった。気がついた頃にはもう立ち上がって歩き回れるようになっていたし、そこらの木の枝と石ころで狩りをすることもできていた。まるで、神様からの贈り物だとでも言わんばかりの恵まれた身体能力を駆使して、一人で生きてきた。
だから、家族がいるだけで、友人がいるだけで、それだけで幸せだと思っていた。高望みをするものでもないし、実際、高望みをしなくても幸せだった。お父さんが心配しているような不満を、私は抱いたことがなかったのだ。
けれど、それは私だけが知る事実だ。お父さんやお母さん
、お姉ちゃんからすれば、私はただのアニュエ・バースであり、前世の記憶を持つ人間だなんてことは想像もしていないだろう。
「……そんなに心配しなくても、私は十分楽しんでるよ」
「そういうところが、子供らしくないなと思ってしまうんだ。つい、お前のその子供らしくない部分に甘えてしまう」
頭の後ろを掻きながらそう話すお父さん。顔は見えないけれど、きっと、困ったように笑っているんだと思う。
「家族ってそういうものじゃない? お父さんが仕事とか村のことで忙しいのは分かってるし、私はそんなお父さんのことを尊敬してる。それだけじゃダメ?」
「ダメじゃないが……アニュエだって、今年で八歳になったばかりだろ。もう少し、旅行にだって連れて行ってやれたら……」
「だから、連れてきてくれたんでしょ?」
実は、昨日の晩、広場から帰る時に、お父さんとダルケンさんの奥さんが密会しているところを目撃してしまったのだ。何でも……ダルケンさんが風邪を引いている、ということにしておいてくれて、ありがとうと。
お父さんは、初めから私を街に連れて行くつもりだったのだ。小っ恥ずかしかったのか、はたまた、何か遠慮があったのか。わざわざ私からバラす必要性もないし、そういうことにしておこう。
「それに……村の中にも遊び場はあるから、平気だよ。子供ってのは、大人が思ってる以上に、一人で勝手に楽しんでるものだから」
「そう言えば、バッツんとこの息子と仲が良いんだって? オリビアに聞いたよ」
「……ま、まあ、仲が良いというかなんというか……」
口が軽すぎる。お姉ちゃんを心の中で恨みながら、私は冷や汗を垂らした。
「あの子は良い子だぞ。素直で言うこともよく聞くし、村の将来のことも考えてる。父さんは賛成だ」
「……いや、そういうんじゃないからね。本当に」
「そうか? あいたっ」
何を誤解しているのかと、お父さんの背中を小突き……そのまま馬車はゆっくりと、街道を進んでいった。
途中何度か休憩を挟みつつ、盗賊や獣に襲われるといったお約束的展開もなく、空が赤くなるより前に、私たちは目的地に到着したようだった。
「お」
「ん?」
お父さんが声をあげ、私は荷台から顔を出して前方を見る。そこには、この世界に来て初めての……大きな『街』があった。
「わぁ……」
「あれがパンタナだ。この辺りでは一番大きな街だな」
お父さんが定期的に野菜や果物を納品しにきている街だ。大都会というほど大きな街でもないが、ヴェガ村と比べたら、天と地ほどの差があるだろう。
馬車が街に乗り入れると、途端に、空気感が変わる。都会のがやがやとした喧騒に包まれて、なんだか、新鮮な気持ちが胸に広がる。
お父さんは馬を操り、街の中心地にある大きな建物を目指した。どうやらここが、お父さんが定期的に品物を納品している商人組合という場所らしい。
「ここまで来れば、あとは商人組合に物を納品して終わりだ。それが終わったら……少し、街を散策しようか」
「うん!」
今世初の、街でのショッピングに心を躍らせ、私は意気揚々と返事をした。




