Never Enough.
「やぁ、お待たせ。
遅くなってごめんよ、ちょっと年下の子たちに捕まっちゃってね。追いかけっこと木登りに付き合ってたんだ。
若い子たちはすごいよね。何でも吸収するし、いつまでも走っていられる。僕はもうお爺ちゃんだから、ついていくだけで精一杯さ。追いかけっこでも、真っ先に捕まるのは僕だし。
……え、わざと負けてるんじゃないかって? そんなことないよ。僕はいつだって全力さ。二番目のお兄ちゃんだからね。
でも、勝ちすぎてもいけないし、負けすぎてもいけないだなんて、『きょうだい』って難しいね。もう何百年も『お兄様』をしてるけど、まだまだ分からないや。アナってば、いつも無理難題なことばっかり言うんだから、僕らも困っちゃうよね。
え? うん、アナは元気だよ。甘党も健在。もう八十歳を超えたんだから、少しは砂糖の量を減らしてほしいよね。
――うん、八十歳。八十歳かぁ……。僕たちが八十歳だった時は、何してたっけ。
あ、そうだそうだ。あの頃はまだ植物人の数も少なくて、分かってないことも多かったから、人間たちにアレコレ研究されてたっけ。色んな薬とか飲まされて、何人も弟と妹たちが死んじゃったっけな。
あの子たちは、もう何世代も生まれ変わってしまったから、顔も性格も全く別のものになってしまったね。生まれてから一度も、枯死も種核に戻ってもいないのは、僕と君だけかな。
もう君のことを知っている子たちは、だいぶ少なくなったよ。僕と、タッカくらいじゃないかな。彼もそろそろ寿命だけど、きっとまた覚えて――いや、ごめん、どうだろうな。
今年、あの子の土が死んでしまったんだ。二十年以上もパートナーだったから、精神的な喪失が大きくてね。今は普通に振る舞っているけれど、いつかは心が壊れちゃうんじゃないかな。優秀な子だから、種核は遺してほしいけれど……どうだろうね。タッカは人間も植物人も、世界樹のことさえも嫌いだろうから。
タッカと彼の土の関係は、ある意味お手本のようだったよ。人間と植物人が対等で、言いたいことを何でも言い合って。信頼という愛があった。僕とアナにはないものだ。
愛といえば……今日ローズが咲いたよ。彼女の土が大切に育ててくれたからね。ローズは管理が大変な子だけど、向けられた愛にはきちんと応えてくれる子だ。
ローズが人間に恋をした時は、本当に驚いたよ。そんな感情、世界樹が取り除いたと思っていたから。……本来なら、植物が肉に恋をするなんて、考えられないことだった。でも、実際に恋をして、温室を抜け出す子が現れたんだ。愛のために、自分の命さえ危険に晒すことすら、厭わない子が。
長い時間をかけて、僕たちは愛を持つように進化した。けれど、それ以上の喪失と、憎しみもまた得てしまった。ライラックのように、人間との別離に耐えられなくて、蟲にパートナーを殺されて、この世界自体に憎悪を覚える子もいる。
……実はね、ライラックが世界樹の枝から生まれたんだ。いつもなら姿も性格もまっさらになって還ってくるんだけど、どこか似て生まれてきたんだ。頭はいいけれど、純粋な子さ。だからきっと、前の子と同じように、土に影響されやすいんだろうね。でも、本人は契約をするのは嫌みたいなんだ。無意識に喪失を恐れているんだと思う。
世界樹は僕らが還る場所だ。僕らが経験した記憶。抱いた感情。その全てが、あの枝葉の一片に至るまでに集約されている。
世界樹が何を考え、何をしようとしているのか……僕にも分からない。けれど、いつしか僕たちは人間のようになっていくんじゃないかと思っているよ。
……嫌? うん、僕も同じだよ。あんな自己中心的で、他責的で、強欲な存在にはなりたくないな。でも、だからこそ……世界樹は味方することを決めたんだろうね。だから植物人を創ったんじゃないかって思うよ。旧時代の植物にはできなかった、喋って、動いて、同じカタチで愛し合えるように。
だから僕は、最期まで付き合うことにしたよ。人間にも、世界樹にも。まだまだ生き飽いてはいないよ。悲しみも憎しみもあるけれど、愛を喪うほどじゃない。まぁ……時々眠っている君が羨ましく思う時もあるけどね。
――じゃ、そろそろ僕は行くよ。幼い子たちに、言葉を教えなきゃいけないんだ。
また来るから、君はゆっくり眠っていて。
おやすみ、ダフネ姉さん」
◆◇◆
植物人たちの家である『常磐の庭』の中心に立つ世界樹。その洞の底深くには、ひとりの植物人が眠っている。
名をダフネ――ローリエと同時期に世界樹より生まれた、彼の姉である。
植物人という存在が、まだ未知の存在で研究対象だった頃。ダフネは人間からの投薬実験により、濃度の高いミアズマシッドを持つようになってしまった。それは彼女自身の身体を蝕むほどで、枯死すればそれが放出されて人間どころか植物人すら殺す毒となる。
故に、彼女は世界樹の中で眠りにつくことを選んだ。今、『常磐の庭』に満ちているミアズマシッドは、彼女の寝息から放出されたものである。それを知っているのは、弟のローリエと、世界総督のアナスタシアくらいだ。植物人の弟妹たちですら、ダフネの存在を知らない者は多い。
ローリエが人知れず洞を訪れ、ダフネと会っていることも。
――それでいい。ダフネには僕だけがいればいい。
己を見つけ、無垢な笑顔で駆け寄ってくる弟妹たちに、ローリエは美しい微笑みを向けた。
心の奥底に溜まり続ける、冷たい澱みからは目を背ける。
その感情の名前は、数百年の間、分からないままだ。