表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/3

Kiss of Rose.

 その光景は、ローズの目に強く焼き付いた。

 照明を消した暗い部屋の中、古い映画が白い壁にプロジェクターで投影とうえいされていた。人間の男女が土砂降どしゃぶりの雨の中で大喧嘩おおげんかをしていたと思えば、ずぶれになりながら抱き締め合って唇を触れ合わせている。

 その行動を、植物人プランツのローズは知らない。理解できないからこそ、ローズは興味を引かれた。なぜ画面の向こうの男女は、こんなにも幸せそうなのだろう。男の方もさっき女に頬をひっぱたかれていたのに、優しく抱きしめて甘やかな視線を向けているのは、なぜだろう。

 ローズは横目で隣に座る自身のソイル――バートン・セルヴォーを見た。彼はシルバーグレーの髪を撫でつけ、口元でそろえられたひげ一切いっさい汚さずに紅茶を飲み、映画の結末を静かに見守っている。

 バートンは上流階級の紳士のような出立ちだが、職業は植物管理士だ。ローズたち植物人プランツの家である『常磐ときわの庭』の温度や湿度の管理だけでなく、植物人の髪を剪定せんていしたり、枯死こしした時にのこされた種核たねを育てたりする。

 二十年勤務のベテランで、ソイルとなるのも年齢的に厳しいと言われていたが、世界総督マダムと本人たっての希望で五年前にローズのパートナーとなった。ローズは生まれつきミアズマシッドの含有量がんゆうりょうが少なかったから、白羽しらはの矢が立ったのだ。

 最初こそ「こんなお爺さんなんて」と不満に思ったが、常に礼儀正しく大らかなバートンに心を開くまでそう時間はかからなかった。我ながら簡単な女だと思ったが、バートンが紳士しんしすぎるのがいけない。いつの間にか、ローズもバートンに合わせて淑女しゅくじょのような言動や行動をするようになった。彼の隣にいても恥ずかしくないように。

 パートナーに影響されて変わっていくことに漠然ばくぜんとした恐怖を抱いていたが、すぐにあながち悪いものではないと思い直した。だって、彼のものになったという証は、この上なく嬉しかったから。

 ローズは映像から視線を動かさないバートンの服を引いた。

「ねぇバートン。彼らは何をなさっているの? どうして唇をくっつけ合っているのかしら」

「それはだね、ローズ。映画のふたりは愛し合っているからさ」

「なぜ愛し合うと唇をくっつけるの? 何か意味があること?」

「もちろん。唇というのは、人体の中でも敏感で繊細せんさいな部分だ。だが、だからこそ触れ合うことで幸福感や安心感を得ることができる。生きるために重要な器官であるから、本来は触れられたくないと本能的に思う部分だが……それを許すほど、相手を愛しているという意味になるんだよ」

「ふぅん……」

 ローズは曖昧あいまいな返事をして、自分の下唇したくちびるを指でつまんだ。柔らかい感触だと思うが、バートンが言うような感情はき上がらない。

 怪訝けげんな表情で自分の唇を押したりつまんだりするローズに、バートンが鷹揚おうように笑った。

「自分では分からないだろうね。キスは他人から与えられて初めて感じるものだから」

「『キス』……何だか、子供っぽくて変な響きですこと」

「だが、とても高潔こうけつなものなんだ。愛し合う者たちだけに許された、最上級の愛情表現だよ」

「じゃあ、私もバートンにキスをしていいかしら」

 ローズの何気なにげない言葉に、バートンがわずかに目を見開いて視線を向けてきた。

 何か変なことでも言っただろうかと、ローズは首をかしげる。バートンはすぐに普段見せる優しい微笑みを浮かべ、ローズの頭を撫でた。

「嬉しいお誘いだが、僕みたいなお爺さんは君に釣り合わないよ。それに、こういうことは愛し合う者たちだけに許されていると言っただろう?」

「愛なら知っていてよ。自分以外に向ける好意的な感情でしょう。私、バートンのことは好きですわ」

「それは嬉しい。しかしね、ローズ、それだけではないんだよ。愛というのはもっと複雑で、簡単なものではない。君には少々難しいかもしれないね」

 まるで幼子おさなごたしなめるような口振くちぶりのバートンに、ローズは苛立いらだちを覚えた。ソファに腰掛こしかける彼の膝に向かい合わせで乗り上げ、ん、と唇をとがらせる。さっき、映画の中で女がしていたものと、同じ仕草しぐさだ。

 根でつながったパートナーであるバートンには、ローズが何を考えているかなどお見通しだろう。彼はかたわらにティーカップを置き、乾燥した指先でローズの頬と髪を撫で――唇に四角い固形肥料を押し入れてきた。

 ローズは咀嚼そしゃくしながらバートンをにらむが、彼は穏やかな微笑みを崩すことはなかった。

「夜食は程々にね、ローズ」

「もう、分かってるくせに! 意地悪なさらないで!」

「君とキスをしたら、さすがの僕でもミアズマシッドに負けてしまうよ。――さぁ、映画も終わったし、君はそろそろ『庭』へ戻ろうか。明日も作業があるから、ちゃんと睡眠をとらないとね」

 頬を膨らませたが、ローズはバートンの膝を下ろされる。

 温室職員に与えられている宿舎階層には、パートナーの植物人プランツであれば出入り可能だ。かざのないアイボリーのリノリウムを、バートンと共に歩く。彼は一年前から足を悪くしていて杖をついているから、ローズも歩調ほちょうを合わせる。

 研究棟への扉の前まで見送ってくれたバートンに手を振って、ローズは宿舎階層を出てエレベーターに乗った。ゆっくりと下降していく庫内こないで、壁に頭をあずけて寄りかかる。四角い鏡に映る不貞腐ふてくされて不細工ぶさいくな自分の顔に、溜め息を吐いた。

 なぜバートンはローズとの『キス』を拒んだのだろう。愛し合う者たちに許された行為こういだと言っていたが、それならばローズとバートンの間にも成立するはずだ。ローズはバートンを愛しているのだから。

『愛』とは好意の最上級表現だと、兄姉けいしたちから聞いている。大事にしたい、いつくしみたいと相手を思う感情の総称であり、心が一番最初に持つものだと言っていた。ローズは彼のことを守りたいし、助けになりたいし、笑顔でいてほしいと思っている。これが『愛』でないならば、何だというのだろうか。

「……ローリエお兄様なら、知ってるかしら」

 ぽつりと浮かべた植物人プランツたちの長兄の名に、ローズはひとりうなずいた。博識はくしきな最年長のローリエならば、きっとローズの望む答えをくれるはずだ。

 明日、バートンとの仕事が終わったら尋ねてみよう――無意識に唇を指でつまむローズを乗せたエレベーターは、軽い音を立てて『庭』の入口がある階層で止まった。


  ◆◇◆


 大振りなはさみくきを切る小気味こぎみのいい音が、アルフヘイムの一室に響いた。

 はさみを握るバートンの手は、迷いなく植物人プランツの髪をっていく。植物人にとって、髪は種核たねの次に重要な部分だ。己の名前となった花や葉で形作かたちづくられており、種類によっては武器にもなる。植物人にとって、髪は矜持きょうじなのだ。

 とはいえ、植物人プランツは髪が伸び過ぎれば不都合ふつごうの方が多くなる。摂取した栄養が体に行き渡らなくなるし、頭も重くなって日常生活に支障ししょうが出る。そのため、定期的な剪定せんていが義務付けられているのだ。

「――はい、終わったよ。お疲れ様」

「ありがとう、頭が軽くなったわ」

 バートンが首にかけていたケープを取ると、淡い紫色の花弁かべんや若緑色の葉が散った。剪定せんていされていたのはライラックだ。彼女の花弁かべんは小指ほどの大きさだが、低木ていぼくらしく枝は硬い。それをバートンは器用に結び、両耳の下で輪を作った。彼女はそれを気に入ってくれたらしい。前のパートナーの影響で皮肉めいたことを言うことが多くなった彼女にしては、素直な笑顔と謝礼の言葉が返ってきた。

 ローズはアシスタントとしてこの場にいるが、ほとんど見ていただけなのに誇らしい気持ちになった。床に散ったライラックの花弁かべんや葉をほうきで片付けていると、彼女から肩を叩かれた。

「ローズ、あなたのパートナーはさすがね。安心して髪を任せられるわ」

「そうでしょう、バートンは私の自慢のパートナーですもの」

「ちゃんと技術を継承してもらいなさいね。彼が死んだら、次はあなたが剪定せんていや庭の管理をするんだから」

 ライラックの言葉が終わると同時に、部屋にひとりの女が入ってきた。ライラックのパートナーである、エリザベスだ。

 エリザベスはライラックのアレンジされた髪を見るなり、口元を押さえて「可愛い!」と叫んで飛び跳ねた。彼女の興奮ぶりにライラックは呆れたような溜め息を吐いたが、その表情は微笑みをたたえている。

「もう、はしゃがないのエリザベス。そんなだからチームメイトに子供っぽいって言われるのよ」

「だって本当に可愛いんだもの! ありがとうございます、セルヴォーさん。私じゃ上手くアレンジできなくて……」

「はは、コツさえつかめば簡単にできますよ。後で教えて差し上げましょう」

「ぜひ! あ、そうだ。これ、よろしければ飲んでください。以前、紅茶がお好きだって仰ってましたよね」

 エリザベスがバッグの中から取り出したのは、四角い茶葉の缶だった。それをバートンが嬉しそうに受け取る様が、何故かローズの心に小さく刺さった。

 胸に手を当てて、ローズは首をかしげる。ローズは体から無数のとげを出すことができるが、自分で自分を刺すなどありえない。

 疑問符ぎもんふばかりを浮かべるローズの頭に、バートンのてのひらが置かれた。

「お疲れ様、ローズ。掃除が終わったら昼食にしよう。どれ、ほうき寄越よこしなさい」

「ダメよバートン。貴方は足が悪いんだから、そこで座っててくださいまし。掃除くらい、私でもできますわ」

 差し出された彼の手をかわして、ローズは床の掃除を手早く終えた。道具を片付けている最中にバートンへ視線を向けると、彼は先程エリザベスから渡された紅茶の缶を見つめていた。成分表を見る表情はにこやかで、それにまたローズの胸の内が痛んだ。

 カフェテリアで軽い昼食を終えた後、バートンは定期的な通院のため中層へと出かけて行った。人間は不便なものだ。年を重ねれば重ねるほど、急激に体が劣化れっかしていくから。

 バートンがいない以上、必然的にローズも休日となる。『庭』へ戻ると、頭ひとつ小さな植物人プランツたちが駆け寄ってきた。皆、ローズがバートンと共に種核たねから育てた子たちだ。かつては頼りになる兄姉けいしだった植物人プランツらも、一度種核(たね)に戻れば無垢むく弟妹ていまいになる。植物人プランツはそうやって立場を入れ替えながら、生命をつなげてきた。

「やぁローズ。おかえり」

「ただいま帰りましたわ、ローリエお兄様」

 振り返ると、長兄ちょうけいのローリエが美しく微笑んでいた。

 大抵の植物人プランツは長くても百年ほどで寿命が来て種核たねになるが、彼だけは数百年以上生きている。何故かは本人も分かっておらず、生みの親である世界樹せかいじゅは沈黙してたたずむだけだから、知りようがないというのが正しい。

 しかし、そのおかげで誰よりも深い知識と豊富な経験を持つ彼には、いつも助けられている。彼ならば、ローズの胸を刺すとげの意味も教えてくれるかもしれない。

「ねぇお兄様。私、聞きたいことがあるんてすの」

「おやおや、頭のいいローズでも分からないこと? 僕に分かるかなぁ?」

「お兄様は『愛』とは何か、ご存知?」

 一瞬だけ表情をなくしたローリエは、数回(まばた)きをして大きく笑った。

 思ってもみなかった彼の反応に、ローズは馬鹿にされたと感じて唇をとがらせた。

「どうして笑うんですの、もう! 私、何か変なことでも言いました?」

「はは、違う違う。君からそんな言葉が出てくるとは思わなくてね。愛……愛かぁ……難しいな」

 ひとしきり笑ったローリエが、今度は腕を組んでうなる。

 いつもであれば瞬時しゅんじに回答をくれる彼がここまで悩むなど想定外で、ローズは途端とたんに不安がふくれてきた。

「ごめんなさい、変なこと聞いてしまいましたわ。困らせるつもりはなかったのだけど……」

「んー、そんなことないよ。確かにとても難しい質問ではあるんたけどね。それにしても、どうして急に『愛』について知りたくなったの?」

 近くの木の根本に腰を下ろしたローリエに、ローズは昨夜バートン都見た映画のことを話した。

 幸福そうに抱き合い、キスを交わす男女の光景が、ローズの脳裏から離れない。映画の始めで女は『愛なんていらない』と言っていたくせに、最終的には男に唇を許すくらいにほだされていた。その原因が『愛』だというのだろうか。

 他人のために心を変えてしまうことが『愛』だというのなら、植物人プランツソイルの関係もまた『愛』なのだろうか。だったら何故、バートンはローズのキスを拒むのか。

「私、自分で自分の心が分からなくなってしまいましたわ……どうしてバートンが他の女性と親しくしていたら、胸にとげが刺さるのかしら。彼の素晴らしい仕事を褒められることは、私も誇りに思っておりましたのに……今は何だか素直に喜べない自分がいますの」

「ローズ……もしかして君、バートンに恋をしたのかい?」

「……恋?」

 その感情の名前も、ローズは聞き覚えがあった。映画の中で何度も出てきた言葉だ。恋をすると心臓が高鳴って、思考回路が全て対象に帰結きけつしてしまう、厄介な病だと女優は言っていた。

 首をひねるローズに、ローリエは穏やかに微笑んで自分の隣を手で示した。ローズがそこへ座ると、彼は優しく目を細めて髪の乱れを直してくれた。

「ローズ、君はバートンといて楽しいかい?」

「えぇ、もちろん。楽しいわ」

「常に隣にいたいと思ってる?」

「当然でしてよ。今だってバートンが心配ですの。転ばないで病院に着けたかしら」

「バートンの長所や短所は、自分が一番知ってると思う?」

「そんなこと、当たり前ですわ。バートンは私のパートナーですもの。長所はたくさんありますけど、短所なんてまったく……もう、お兄様! どうして変なことばかり聞くんですの?」

「はは、ごめんごめん。でも、これで僕も分かったよ。ローズ、君はやっぱりバートンに恋をしているね」

 頬を膨らませるローズの鼻先を指でつついたローリエは、誰よりも深くて濃い緑の瞳を細めて続けた。

「何をするでもなくずっと一緒にいたいと思う、長所ばかりに目がいってしまうというのは、恋の特徴だよ。といっても、僕もよく知らないから、見聞きした情報での判断だけど」

植物人わたし人間かれに恋を……? そんなはずないわ、植物人プランツは『愛』は持っても、生殖せいしょくに関わる感情は持たないはずですわ」

「そうだね。君の言う通り、本来は恋なんて植物人ぼくらには不要なものだから、芽生めばえるはずがない。でも、むしが瘴気に対応するために進化していったように、僕らも進化して新しい感情を得ていくことは、何も不思議なことではないと思うな。信じられないなら、想像してみてごらん。バートンの微笑みや、声、そして彼の隣に自分以外の誰かがいて、その全てを向けられているところをさ」

 ローリエに言われたことを、ローズは頭に思い浮かべる。

 目尻にしわを浮き立たせながら細められるアイスブルーの瞳も、頭を撫でる時の優しいてのひらも、ローズではない誰かに与えられる。己はそれを遠くから見ているだけ――そんな風景を考えた瞬間、むしへ抱くのと同じくらいの嫌悪感がき上がった。それはローズの体表たいひょうにも無数のとげ突出とっしゅつするほどで、二十年生きてきた中で感じたことのない動揺どうように全身がさいなまれる。

 それから遅れて、胸の内側に火が灯った。炎とは真っ赤で熱くて恐ろしいものだと聞いていたのに、その火は夜の如き黒色だった。こごえるほどに冷たいのに、体中が内側から焼け落ちていくようだ。

 ローズはこの名前も知らぬ強烈きょうれつ情動じょうどうに、混乱よりもひどく戦慄せんりつした。己の体を抱き締めるローズを、ローリエの腕が優しく包んだ。

「あぁ、ローズ……びっくりしたね。深く息を吸って、落ち着こうか」

「お兄様……この感情は、なんですの? 私が私じゃなくなったみたいで、とても怖い……!」

「それが『嫉妬』――恋の副産物さ。ある程度の知能がある動物にそなわっているもので、繁殖相手を独占したいがために生まれる感情だよ。不思議だよね、自分以上に優れた存在を排除はいじょしたくなるなんてさ」

 植物人プランツの感性は植物だ。物言わぬ緑だった頃から養分の争奪そうだつはすれど、隣の花の美しさにねたましさを感じることはなかった。心を得た今も、いうらやましいと思いはしても害してまで美を誇ることはない。皆それぞれに特徴があり、尊重そんちょうされることだと認識しているからだ。

 新たな感情を得たことに、ローズを絶望が襲った。

 愛のような温かな感情ならいざ知らず、こんなに冷たく恐ろしい感情は要らなかった。まるで自分がみにくむしにさえ思えて、恥を感じる。

 そんなローズの胸中きょうちゅうを察したのか、ローリエが向かい合うように回り込んでしゃがんだ。

「君が何を思おうと、僕は君の進化を祝うよ。どのような形であれ、それは僕ら植物人プランツの可能性だ。だから君には、その感情のぎょし方を考えてほしい」

「……ぎょし方?」

「そう。心はプラスの感情もあれば、嫉妬のようなマイナスの感情も持つ。コントロールできなきゃ、かつての人間と同じ道を歩むことになってしまうからね。……僕は植物人みんなにそうなってほしくない。アナも世界樹せかいじゅもそう望んでいるよ」

 アナ――この『移動植物園ユグドラシル』の頂点に君臨する世界総督せかいそうとくであり、ローリエのソイルであるアナスタシア・メルクーリのことだ。就任から一貫いっかんして植物人プランツと人間の契約を推し進め、研究対象でしかなかった植物人プランツを我が子のようにいつくしむ老女である。

 ローズは何だか、常に優しい長兄ちょうけいの微笑みが怖く思えた。彼の深い緑の瞳には何が見えているのか、ここにいる誰も分からない。ずっと遠い未来を夢想しているようで、過去の出来事を思い出しているようにも見える。

 もしくは、近々に訪れるであろう未来か――頭を振って、ローズは思考を止めた。ローズがどれだけ頭を回しても、彼と世界総督マダムの考えを図ることはできない。ならばせめて、未来の弟妹たちが『嫉妬』の感情に苦しんだ時のために、己の経験をのこすことがローズの役目だろう。忌々《いまいま》しい炎のような嫉妬をコントロールする方法など、今は皆目かいもく見当けんとうもつかないが。

 不意にローリエが『常磐ときわの庭』の天井をあおぎ見た。パートナーのアナスタシアと会話をしているのだ。

 契約を結んで一年程度のローズでは三階層が限界だが、何十年も関係を継続しているローリエは移動植物園ユグドラシルの頂点と最下層まで離れていてもクリアな意思疎通ができる。ローリエ以外でそれができる兄弟は、タッカ・シャントリエリくらいではないだろうか。

 数回頷いたローリエが、ローズに向き直る。いつもの笑みではなく、わずかに口元が強張こわばった真顔まがおだった。

「ローズ、今すぐアナのところへ行こう。大切なお話があるんだ」

「いいけれど……何があったの、お兄様」

「上で話すよ。さぁ、行こう」

 ローリエに手を引かれるまま、ローズは立ち上がり『庭』の出口へとけた。

 シャツのボタンを通す指が震える。ローズは胸騒むなさわぎがしていた。バートンはまだ中層から帰ってきていないようで、繋げた根の先を辿れない。不穏ふおんな予感が杞憂きゆうであることを祈りながら、ローズはエレベーターで二十六階まで上がった。

 ワンフロア全てが世界総督であるマダム・アナスタシアの執務室しつむしつであり私邸していである二十六階には、ローズも数えるほどしか入ったことはない。植物を愛する彼女らしく、エレベーターを降りた真正面にある執務室は、『常磐ときわの庭』のレプリカのようだ。草木の植わっているはち所狭ところせましと置かれ、『庭』とよく似た匂いがする。

 ローリエの呼びかけに振り向いたのは、葉脈ようみゃくのようなしわはだに刻んだ白衣の老女だった。

 彼女こそ世界総督であるアナスタシア・メルクーリである。杖をつき、人型機械アンドロイドに背を支えられながら植物に水をやる姿は穏やかな老婦人だが、かつてはローリエと共に外界がいかいむしを何匹も狩っていた軍人だ。スズランの如き柔和にゅうわな瞳には、その片鱗へんりんか思わず背筋が伸ばされる苛烈かれつな光が宿っていた。

「待っていましたよ。突然呼び立ててごめんなさいね、ローズ。ローリエもありがとう」

「構いませんわ、マダム。でも、何がありましたの?」

「座ってお話ししましょうか。ちょっと大事な内容なの」

 アナスタシアにうながされ、ローズはソファに腰を下ろした。すぐに人型機械アンドロイド真水まみずと色とりどりな菓子をテーブルに並べていく。

 本来植物人(プランツ)は人間の料理を食べることはできない。今の人間が食べているのは、全て温室が本物そっくりに作った化学物質かがくぶっしつかたまりだから、植物人プランツにとっては毒となる。しかし、アナスタシアの食事は無添加むてんかで作られているため、多少なら食べても害はないのだ。

 アナスタシアは角砂糖を四つ入れた紅茶をすすり、口を開いた。

「ローズ、落ち着いて聞いてちょうだいね。貴女のパートナー、バートン・セルヴォーさんについてのことなの」

 バートンの名前を聞いた瞬間、ローズの中で根がざわついた。指先が冷たく、理由もなく逃げ出したい衝動しょうどうられる。

「さっきね、中層のミズガルズ病院から連絡があったの。セルヴォーさんの体に気になることがあったから、上層で精密検査をしてほしいって。だから、しばらく病院に入院することになるわ」

「入院……って、体の状態がとても悪い時にすることでしょう? マダム、バートンはそんなに具合が悪いんですの? しばらくって、一体いつまで?」

 身を乗り出すローズの頬を、アナスタシアのかわいた指先が撫でた。

「貴女の心配は分かりますよ、ローズ。でもね、今回の入院はあくまで検査が目的なの。セルヴォーさんの体に病気がないか、機械やお薬を使ってきちんと調べてあげるのよ。だから、何も問題がなければすぐに退院できるわ」

「ローズ、バートンが入院している間、君にはひとりで植物管理士の仕事をしてもらうことになるんだ。いつもそばで見ていたから、大丈夫だろ? それから『ディスラディケート』を飲んでもらうことにもなる。ちょっと苦しいだろうけど、頑張れる?」

 薬の名前を聞いて、ローズは一瞬身構(みがま)えた。

『ディスラディケート』とは、植物人プランツソイルをつなぐ根を一時的に断つ薬だ。

 根は植物人プランツが作り出す瘴気しょうきの浄化成分を人間へと送るものだが、時に人間が摂取した成分を植物人プランツに送ってしまうことがある。食事の栄養ならまだしも、人間用の薬は植物人にとって害となるものが多い。そのため、人間が強い薬を服用ふくようせねばならなくなった時などは植物人に影響が及ばないよう、『ディスラディケート』でつながりを断つ必要があるのだ。

 ローズは渋面じゅうめんを作りながらも頷いた。一時的とはいえ、つながっている根を断つのは多少の苦痛がともなうと聞いている。かつて『ディスラディケート』を服用ふくようした植物人プランツが、かなりぐったりしていたのを見たこともあった。元気のかたまりのようだった兄弟ですらしなびさせる怖い薬を、まさか自分も飲むことになるとは思わなかったが、バートンのためである。薬もつながりが断たれることも怖いが、彼の健康には代えられない。

 不安に揺れるローズの心を反映はんえいするように、てのひらに包まれたティーカップの中で、真水まみずが小さく波打った。


  ◆◇◆


『ディスラディケート』の副作用は、想像以上にローズの体力を奪った。

 根が断たれたことによって生まれた喪失は、すぐにだるさや悪心あくしんで埋められた。植物人プランツ嘔吐おうとができないから、体の中を冷水が上から下へと移動し続けているような気持ち悪さがずっと続くのだ。

 しかも、一度服用(ふくよう)すれば終わりというわけでもない。根は一度断たれたくらいでは再度つなぎ直そうとするから、継続して飲み続けなければならないのだ。

 副作用に慣れたローズが動けるようになったのは三日後で、『常磐ときわの庭』から出られたのは更にその三日後のことだった。今までは何とも思っていなかった、アルフヘイムに満ちる薬品の匂いがいやに鼻をつついてきて不快だが、バートンのためだと思って何とか耐えた。

 バートン抜きで植物管理士の仕事をするのは、ローズも初めてのことだ。だが、この五年間ローズもただ見学していたわけではない。彼から教わったことをひとつひとつ思い出しながら、生育せいいくフロアで植物人プランツ種核たねたちを管理する。

 フロアには約二メートル四方の小部屋が連なっている。ひと部屋ににひとつ種核たね生育せいいくされており、温度や湿度が厳格に管理されているのだ。現在、四十の種核たね植物人プランツとなることを待っている。

 ローズはそのひとつであるベゴニアの生育室せいいくしつへ入った。丸い素焼すやきのはちから溢れるほどに、濃い緑の葉が伸びている。り絡まったくき人型ひとがたを作り、髪には小さな赤いつぼみをつけていた。

 このつぼみが開く時、植物人プランツもまた目を開ける。それまでローズたち植物管理士は気が抜けない。開花間近だったのに原因不明で枯死こしするなど、これまでに何度もあった。そうなればまた種核たねから育て直しとなり、時間と労力の無駄となる。

 ローズはベゴニアのはちの周りをグルグルと回りながら、葉や茎に触れて病気や生育不良せいいくふりょう兆候ちょうこうがないかを確認していく。

「生育状況は良好。気温、湿度、日照共にオーケー。土は……少しかわいてるかしら」

 ローズは部屋の隅にある真水まみずの出る蛇口じゃぐちを見やる。

 ベゴニアは生育に多量の水が必要だが、過湿かしつでは根腐ねぐされを起こしてれてしまう。表土ひょうどかわいていても、内側は湿っている可能性も十分あった。

 ローズは少し悩んだ後、腰に巻いたツールバッグから竹串を一本取り出してベゴニアの土に刺す。数秒待って引き抜くと、串がしっとりと濡れていた。

「水やりはもう少し後でも大丈夫そうですわね。昼過ぎ頃にまた来ますわ、ベゴニア。あなたの開花を、ここの皆様全員が待っていますわよ。だからいつでも開花なさいな」

 返事がなくとも、声をかけることは忘れない。これも重要な生育せいいくプロセスだ。たったひと言だろうと、かけるとかけないでは植物人プランツの開花率に大きな差があることが分かっている。

 土の湿潤具合しつじゅんぐあいを見るために竹串を刺すのは、バートンがやっていたことだ。君の時もそうやって育てたんだよ、と言う彼の微笑みが思い出された。それだけでローズの心はむずがゆくなる。

 ローズは旧時代から育てにくい品種だったようで、それを色濃く受け継いでしまったらしい。実際、こうして目を開けるまで、三度は開花直前に種核たねに戻ったと聞いている。

 そんなローズを根気こんきよく育てたのはバートンだ。目覚める前のことは覚えていないが、きっとつぼみに優しく触れてくれただろう。指先でくきを撫でて、病気がないか葉の裏や根本をアイスブルーの瞳でながめて――考えただけで、ローズの体がふるりと震えた。

 震えは恐怖や嫌悪をいだいた時の悪寒おかんに似ていたが、き上がってくる感情は甘やかなものだ。植物管理士としては当たり前の仕事で、先程ローズもベゴニア相手にしたことなのに、何故か羞恥心しゅうちしんつのる。

 ローリエからバートンへの恋心を指摘された時から、ローズは変になってしまった。今までは何とも思っていなかった事柄ことがらに、バートンを重ねてしまう。

 カフェテリアで他の職員がサンドイッチを食べているのを見れば、バートンはスモークサーモン入りのものが好きだと思い出す。

 本の話題が耳に入れば、バートンの好きな作家の新作小説が発売間近だったことを思い出す。

 足を止めたローズは、無機質なパーテーションの壁に肩を預けて深く息を吐いた。

「……バートン、早く退院しないかしら」

 彼の声が聞きたい。

 穏やかな声で「大丈夫」と言って、頭を撫でてほしい。

 どれだけ根を辿っても行き着く先は壁ばかりで、ローズの願いに応えてくれる者はいない。まるでだだっ広い外界の砂漠にひとり放り出された気分だ。

 ブーンと頭上で低くうなる空気清浄機の音で、ローズは現実に引き戻された。

 ぴしゃりと、ローズは自分の頬を両手で叩いて弱気を追い出す。今は仕事の最中だ。バートンが戻ってきた時、種核たねの世話が不十分で失望されるわけにはいかない。

 寂しさも『ディスラディケート』の副作用も、いずれバートンから称美しょうびをもらうための試練と思いながら、ローズは仕事に邁進まいしんした。


  ◆◇◆


 ローリエから声をかけられたのは、バートンと切り離されてからひと月が経った頃だった。

 今すぐ、病院へ来てほしい――彼のそのひと言で、ローズは願っていた方向とは、正反対の方へ運命が傾いたことを悟った。

 上層の病院は、本来なら植物人プランツは入れないエリアだ。温室職員ではない民間人も利用しているから、ローズは大きな帽子を被って髪の真っ赤な花弁かべんを隠す。帽子の息苦しさも、研究棟であるアルフヘイムより強い薬品の臭いも、バートンに会うためならローズは耐えられた。

 ペールブルーのリノリウムを一歩一歩進むごとに、ローズの胸中きょうちゅうはさやぐ。

 相当顔に出ていたらしく、付き添いで共に来てくれたローリエに小さく笑われた。

「緊張しなくても大丈夫だよ、ローズ。髪さえ隠してしまえば、僕らは普通の子供に見えるから。それに、アナが医者や看護師たちに話を通してるしね」

「えぇ……大丈夫ですわ、お兄様……」

 ローズは小さく頷いたが、何故か進む足が重い。

 バートンに会うことはずっと望んでいたことで、嬉しさがあることも確かだ。しかし、同じくらいの恐ろしさもある。どうしてそう思うのか、ローズ自身も分からない。

 なかばローリエに引きずられるように、伝えられていた病室の前まで来た。心の準備ができていないローズが止める間もなく、彼はノックをしてスライドドアを引いた。

 ツンと強い薬品臭の中に、たおやかな薔薇ばらあわく香っている。生気のない白いベッドの上で、バートンは上体を起こして本を読んでいた。

「やぁ、バートン。具合はどうだい?」

「おやローリエさん。それに……久し振りだね、ローズ」

 ベッドの上で、バートンが微笑んでいる。心なしか頬のくぼみに落ちる影が濃く見えて、胸がぎゅっと痛んだ。

 バートンとローリエが何やら話をしていたが、ローズの耳には入ってこない。やっとバートンに会えたことや、想像以上にやつれていることに、嬉しいやら悲しいやらで、ローズの心は忙しかった。

 ドアのそばから動かないローズに、バートンが眉尻を下げる。

「ローリエさん。すみませんが、ローズとふたりきりにさせて頂いてもよろしいですか? 自分のことは自分で伝えたいのです」

「そうかい? 分かった。ローズ、僕はさっき通ったエレベーターの所で待ってるから。場所は覚えてるよね?」

「え……えぇ、お兄様。一本道でしたから、多分大丈夫だと思いますわ」

 じゃ、とローリエは軽い挨拶と共に、病室を出て行った。

 残されたら残されたで、ローズは困る。バートンと会えたら言いたいことがたくさんあったはずなのに、どこへ散ってしまったのか、何も言葉が出てこない。胸の前で指をもじもじとさせるだけのローズに、バートンが微笑む。

「ローズ、そんな遠くにいないで、もっと近くに来てくれるかい。君の花の香りを、久し振りに感じたいんだ」

「い、今行こうと思っていましたのよ。急かさないでくださいまし!」

 思わず、高飛車たかびしゃな物言いになってしまい、ローズは内心ないしんで後悔した。こんな刺々《とげとげ》しい言い方をしては、バートンに嫌われてしまうかもしれないと、頬が熱くなる感覚がした。

 だが、バートンは鷹揚おうように笑っただけで、ローズへと手を差し出した。契約を結んだばかりの頃、今のような高慢こうまんな態度をとっていたローズを、彼は微笑みで許してくれていたのを思い出す。


 ――あぁ、私、あの時から彼が好きだったんだわ。


 ローズはバートンの手を取り、彼の腕の中へ飛び込んだ。少しだけ薬臭い彼の匂いに、途方もなく安心する。

「すまないね、ローズ。寂しがりな君を、長らくひとりにしてしまったね」

「えぇ――えぇ、本当ですわ! 薬で根を断っていたから、バートンのことを感じられなくて、とても寂しかったんですのよ! 体の具合は、どうなんですの?」

「……ちょっとだけ、思わしくないようだ。ローズは、がんというものを知っているかい?」

「名前だけなら……」

 植物人プランツは人間と似た見た目をしているが、体の構造はまるで違う。かかる病気も植物しょくぶつ由来ゆらいのものであるから、がんが少々厄介な病気だとは認識していても、どんなものなのか詳細は分からない。

 ローズと体を離したバートンが、トントンと自分の胸を指さした。

「肺のところに、良くない病気があるみたいなんだ。詳しく調べたら、骨や他の臓器にも転移てんいしているらしくてね」

「転移って――」

 その時、病室の扉が開く音がした。

 ローリエが戻ってきたのかと思ったが、現れたのは老齢の女だった。薄灰色の長い髪を肩で結い、気難しそうに引き結んだ口は深紅しんくの口紅でいろどられている。身にけている衣服から上層の住人だろうかとローズが考えている横で、バートンがわずかに目を見開いた。

「……マリアンナ?」

「あら、わたくしのことを覚えてらしたの? お久し振りね、バートン」

 マリアンナと呼ばれた女は、感情のこもっていない声をしていた。病室へ入ってきた彼女は、ベッドにいるバートンをジロジロと見て、小さく鼻を鳴らした。

 ローズは知り合いかと思い彼を見たが、それにしては表情に笑みがなく、強張っている。

「あぁ……久し振りだね、マリアンナ。二十年振りだったかな?」

「二十三年よ」

「そうか……もうそんなになるのか。ジーナは元気にしてるかい?」

「貴方に伝える義理はなくてよ。自分で捨てたくせに、よくも娘のことを聞けるわね」

「……どちら様ですの? バートンにひどいことを言わないでくださいまし」

 マリアンナの言葉に感じた刺々《とげとげ》しさに我慢ならず、ローズはバートンをかばうように前に出た。突然口をはさまれたマリアンナは、ローズを一瞥いちべつして眉をひそめた。

「バートン、この子は? 貴方、幼児趣味にでも目覚めたの?」

「はは、そんなわけがないだろう。この子は事情があって、僕が預かっている子さ」

 バートンがローズの頭を帽子の上から撫でる。植物人の存在は、上層の住人にも公にされていないことであるから、彼の説明は至当しとうのものだ。

 しかし、マリアンナにとっては眉間のしわをより深めるものだったらしい。彼女の口の右端が、不機嫌そうに震えた。

「わたくしたちを捨てておきながら、自分は親子ごっこをしていたってこと? ふざけないでちょうだい!」

「一方的に家を出て、ジーナに会わせなかったのは君だろう、マリアンナ。君が不倫相手にも逃げられたことは、噂で僕も知っている。上層のご実家に戻ったこともね」

 マリアンナの奥歯がきしむ音が聞こえた。

 ローズはとげを投げ合うようなふたりのやりとりを横で聞いていたが、マリアンナがバートンの妻であったと何となく理解した。思わずバートンへ視線を送る。そんなこと、彼は一度も口にしたことはなかった。妻がいたことも、ジーナという娘がいたことも。

 しかし、分からないことがある。何故ふたりは言い争っているのだろう。夫婦はふたりの間に『愛』があったから成立した関係のはずだ。映画のように、今は喧嘩けんかをしていても後で仲直りをするのだろうか。だが、そんな雰囲気にはならないようにも感じる。

 ローズは『ディスラゲート』で根が断たれていることを後悔した。根がつながっていれば、バートンが今どんな気持ちでいるのか分かったから。彼が厳しい表情を浮かべている理由を、知りたかった。

 バートンが重苦しい溜め息を吐き出す。マリアンナへの呆れというわけではなく、自分自身の感情をコントロールするような溜め息だった。

「今日はどうしてここに来たんだい、マリアンナ」

「貴方が死にかけてるって、温室から連絡があったのよ。ジーナにね。わたくしとは夫婦でなくなっても、ジーナの父親であることには変わらないもの。……がんなんですってね」

って、あと二ヶ月くらいと言われてしまったよ。……安心してほしい、今更いまさらジーナには会うつもりはない。別れた時、あの子はまだ三歳だ。僕のことなんて、覚えていないだろう」

「言われなくても、会わせる気はないわ。あの子は今、色々と大事な時期なの。余計な心配をさせるようなことはしないで。死ぬならわたくしたちに迷惑をかけないで、ひとりで死んでちょうだい」

「――……どうして?」

 思わず、ローズは呟いていた。

「貴女はどうして、そんな残酷ざんこくなことをおっしゃれるの? バートンと夫婦だったのでしょう? 『愛』があったから夫婦になって、子供を授かったのでしょう? 貴女は彼から愛されることができるのに、それが許されている立場なのに、どうして否定するようなことをおっしゃるの?」 

 ローズは理解できなかった。植物人プランツのローズと違い、人間であるマリアンナは何の障害もなくバートンから愛されることができる。ふたりの遺伝子を混ぜ合わせた、子供をもうけることができる。ローズがどれだけ望んでも手に入れられないものを、彼女は無惨むざんに傷つけるだけ傷つけて捨てようとしている。それがローズは許せなかった。

 ずるい、ねたましい、うらやましい――マリアンナへの苛烈かれつな感情は涙となって、ローズの頬を冷たく濡らした。

 泣きながら非難ひなんするローズに、マリアンナは顔を歪めた。

「何なの、人を悪者みたいに……貴女みたいな子供には関係ないし、分からないことよ。安心して、わたくしはもうここへは来ないから。それだけを言いに来たの。……お大事に」

 きびすを返したマリアンナは、振り返ることなく病室を出て行った。

 ローズはバートンのベッドに顔をうずめ、しぼり出すように嗚咽おえつする。ジクジクとむような、とてもみじめな気持ちだった。

 頭を撫でられ、顔を上げると困ったような表情のバートンがいた。

「見苦しいところを見せてしまったね、ローズ。……怒っているかい?」

「えぇ、怒ってるわ。結婚していたことも、子供がいたことも、なんにも教えてくれなかったのは何故ですの?」

「僕の中では、もう終わっていたことだったから。マリアンナと別れたのは二十年以上も前のことだしね」

「……どうして、別れたんですの?」

「僕が駄目だめな男だったから、かな」

 バートンが天井をあおぎ、溜め息をひとつ浮かべてから、ぽつぽつと話し始めた。

 バートンとマリアンナの結婚は、家同士が決めた見合いだったという。伴侶はんりょの顔や声を結婚式の時に初めて知るというのは、上流階級の者たちにとって普通のことらしい。

 ふたりの間に『愛』などなかった。だが、それでもバートンはマリアンナを愛し、夫婦であろうと努力した。やや浪費家ろうひかだったマリアンナに不自由させないよう、温室での仕事に邁進(まいしん)していた。当時から彼は温室勤務であったが、植物人(プランツ)とは関係のない中層担当の役人をしており、朝早くから夜遅くまで家を留守るすにしていた。

「――けれど、それが逆にマリアンナには不満だったらしい。いつしかお互いに歩み寄ることをやめてしまったから、僕たちは結局『愛』を生み出せないまま、子供を授かってしまった」

 ジーナが生まれた時、バートンは心の底から喜んだ。きっと人生も好転こうてんすると感じたのだ。実際、ジーナを介して夫婦の会話は増えた。これまでの事務的なものから、血の通った人間の会話がマリアンナとできたことが嬉しかった。

 だが、一度狂った時計が二度と正常な時間を刻まないように、ふたりの歩調ほちょうはズレていった。

 決定的に関係が崩れたのは、マリアンナが自宅に男を連れ込んでいた瞬間だ。たまたま家に忘れ物をして、昼に取りに戻った際、寝室から妻の声と知らない男の声が聞こえたことだ。つやめいた嬌声きょうせいに、バートンの世界は壊れてしまった。

「あとはもう、口汚くちぎたなののしり合いだったよ。彼女はジーナがいる前で不倫していて、僕はそれをとがめた。彼女は僕に大切にされなかったことが寂しかったと言った。あの時は僕も、裏切られたショックと怒りしか頭になくて、自分のことをかえりみる余裕がなかったんだ。……今思えば、僕は家族のために働くことが自分の使命だと思っていて、マリアンナがジーナのひど夜泣よなきに苦しんでいても、自分の方が辛いんだと気に留めることはなかった。離婚してしばらく経って、ジーナの顔を思い出せないことに気づいて愕然がくぜんとしたよ……生まれた時は、僕の全てに替えてもジーナを愛すると決めていたのに、笑顔のひとつも僕の中には残っていなかったんだ」

 バートンが己のしわだらけの手に目を落とす。

 苦しそうな懺悔ざんげを聞いても、ローズにはその半分も理解できない。植物人プランツだから。バートンの行動のどこが駄目だめだったのか、マリアンナの行動のどこが許されないことなのか、植物のローズには分からない。それが、ただただ歯痒はがゆい。

 バートンの親指が、濡れたローズの頬をぬぐう。

「ローズ、僕はもうすぐ死ぬだろう。彼女には二ヶ月と言ったけれど、そこまで生きられるかどうかは、正直分からない」

「いや……嫌よ、バートン。そんなこと言わないで!」

「もう十分過ぎるほど生きたくらいさ。君のパートナーになれたこと、とても幸せだったよ」

「私、貴方とまだ一緒にいたい! 教えてもらいたいこともたくさんあるし、やりたいこともたくさんあるのよ! バートンだってあるでしょう?」

「僕が思い残したことは、何も――あぁ、ひとつだけあるかな」

「何ですの?」

 ローズはベッドへ身を乗り出す。

 彼が好きな映画や小説をもう一度見たいという要望だろうか。病院でどれだけ対応してもらえるかは分からないが、願いはできる限り叶えたい。

 バートンが窓へと目を向ける。そこに広がっているのは、液晶パネルに映し出された青空だ。

「ジーナの……娘の顔を、最期にもう一度見たかった……」

 悔恨かいこん寂寞せきばくにじむバートンの声音に、ローズはただ、ベッドのシーツを涙でらす事しかできなかった。


  ◆◇◆


 上層の居住区画は、ローズが話で聞いていたよりも息苦しかった。

 縦に長い塔型とうがたに造られた『移動植物園ユグドラシル』は、下層になるほど瘴気しょうき濃度のうどが高いとされている。『移動植物園ユグドラシル』は頑強がんきょう外殻がいかくを持つが、微量の瘴気しょうき隙間すきまって入り込んでしまう。上層になればなるほど、効果の高い空気清浄機能が備えられているのだ。

 だが、植物人プランツのローズにとっては濃度の高過ぎる二酸化炭素と日光のない空間に、眩暈めまいがしそうだった。バートンたち植物管理士によって、いかに植物人プランツが快適にすごせているのかを、ローズは身をもって知った。

 ローズが訪れているのは、広い緑地りょくち公園だ。今日は人間たちにとっての休日であるからか、そこかしこで家族らしい男女や子供が遊んでいる。ローズはベンチに座り、持ってきていた真水まみずをひと口飲んだ。今すぐにでも『常磐ときわの庭』へ帰りたかったが、目的のためにはそうもいかない。本来は温室から出ることも許されていないから、今ここにローズがいることは完全なる重大違反だ。バレても命に関るような折檻せっかんはされないだろうが、仕事を降ろされる覚悟はした方がいいかもしれない。

 これまで積み重ねてきたバートンとの日々を代償だいしょうにしてでも、今日の目的は遂行したかった。

「……あの」

 不意に、おずおずと声をかけられた。振り向いたそこには、ひとりの若い女が立っている。

 淡い栗色の髪を緩く巻いて、たけの長いボルドーのワンピースに、黒いレースのカーディガンを羽織った彼女は、いかにも上層のお嬢様といった出立いでたちだ。やや目尻の垂れたアイスブルーの瞳は、悪意など知らないように澄んでいて――そして、バートンの面影があった。そのことに、ローズの胸の内がチクリと痛む。

 女はローズを頭から爪先まで見て、困惑を隠さずに口を開いた。

「あなたが、連絡をくれたローズさん?」

「えぇ、貴女がジーナさんね。初めまして。……あら、どうなさったの? 変なお顔をなさって」

「ご、ごめんなさい。電話の時は、もっと年上の人かと思ったから……」

 ジーナの素直な言葉に、ローズは思わず声を上げて笑う。

「私が子供で、ビックリなさったかしら」

「えっと、その……ごめんなさい」

「構いませんわ。本当のことですもの。どうぞ、お座りになって。そのままは疲れるでしょう」

「し、失礼します」

 隣に腰を下ろしたジーナの横顔を、ローズはじっと観察した。彼女の鼻筋(はなすじ)や唇はマリアンナと似た形をしているが、目元はやはりバートンにそっくりだ。マリアンナは奔放ほんぽうな女であると思っていたから、もしかしたら別の男との子供ではないかとの疑惑もいだいていたが、その心配はなさそうだった。胸をよぎった一瞬の落胆を、ローズは無視することにした。

 あの、と沈黙を破ったのはジーナの方だった。

「ご用件は、なんでしょうか。実は、これから仕事に行かなきゃいけなくて……」

「あら、そうだったの。お仕事は何を?」

「温室に勤めています。福祉課で、中層の児童福祉を担当しているんです」

 そう、とローズは平坦な語気で返す。温室と聞いた時は一瞬身構(みがま)えたが、中層を担当しているなら植物管理士のバートンと顔を合わせることはないはずだ。温室は一般人も利用する役所の面もあるが、植物人(プランツ)瘴気(しょうき)について研究をするエリアとは明確に分けられている。温室の上層では何をしているのか、知らない一般職員も多い。

「じゃあ、手短に話しますわね――会って頂きたい人がおりますの」

「父ですか」

 間髪(かんぱつ)()れずに返ってきた言葉に、ローズはジーナを見た。

 彼女の表情はやや強張っていて、怒っているようにも、恐れているようにも見えた。

 ローズが何も言えずにいると、彼女の首がゆっくりと横に振られる。

「申し訳ありませんが、わたしは父に会えません。今までずっと……二十三年間、父は死んだと母から聞かされていました。今更、父が生きていて、病気で死にそうだと言われても……。どうすればいいのか、わたしには分かりません」

「どうすればって……会えば良いだけの話ですわ。バートンは貴女に会いたがっておりますのよ。死ぬ前にもう一度、自分の娘の顔を見たい……ただそれだけなのに!」

「会って何を話せばいいんですか⁉︎ 二十三年ですよ。わたしの記憶に、父はいません。わたしの人生の大半(たいはん)にいなかった人を、いきなり父親と思えなんて……できるはずがありません! ……今は、あなたが父の(そば)にいるんですよね。なら、あなたが娘として暮らせばいいじゃないですか。わたしはもう、関係ないです」

 勢いよくジーナがベンチから立つ。彼女は公園の出口へ爪先(つまさき)を向け、パンプスの(かかと)を鳴らしながら足早に去ろうとする。

 引き止めねばならない――そう直感したローズは、ジーナの手首を掴んで近くの茂みへと引っ張っていった。十歳程度の子供とは思えない力に、彼女はギョッとしてローズを見る。

「ちょ、ちょっと、放し……力、(つよ)っ……!」

「貴女たちは(ずる)いわ! 私はバートンと貴女たちの間で起こったことはよく分からないけれど、(ずる)いってことは分かりましてよ!」

「狡いって、何が? もう、どこまで行くの!」

 どこまでかなど、ローズの方が自分に聞きたかった。

 木立(こだち)の中を走り、人気(ひとけ)のない所でやっとローズは足を止める。ジーナはすっかり息が上がってしまったようで、ローズが掴んでいた手を放すとその場に膝をついた。

 ローズもまた肩で息をしていた。ただでさえ清浄な空気と自然の太陽光がない『庭』の外で、エネルギーを大量に使えば超生命体の植物人(プランツ)でも疲労を感じる。しかし、それよりも止めどなく溢れる涙と激情が、ローズの全身を戦慄(わなな)かせていた。

(ずる)いわ……貴女もマリアンナも、バートンから愛される権利を生まれながらに持っているのに、どうしそれを捨てようとするの? 私は人間じゃないから、どれだけ願ってもバートンと愛し合うことはできないのに!」

「どういう、こと? あなたは一体……?」

「私はローズ……バートンと契約を結んだ植物人(プランツ)よ」

 ローズは目深(まぶか)に被っていた帽子を取った。明らかに人間ではありえない真紅の花弁(かべん)の髪に、ジーナが目を(みは)る。

「それ、花……? それに、植物人(プランツ)って? あなた、人間じゃないの……?」

「えぇ……詳しくは省略しますけれど、私は人間ではなくて、植物ですの。私とバートンは、仕事のパートナーになって五年になりますわ。でも、彼の心にはずっと貴女がいましたのよ。二十年も前に、たった三年しか一緒にいなかった貴女が」

 ローズはジーナが(ねた)ましくて、(うらや)ましい。別れて会うことができなくなっても、ずっとバートンの心に住まわせてもらえた彼女が、憎たらしくてたまらない。バートンとの日々を否定したいわけではないのだ。ローズがどれだけ仕事ができるようになろうと、バートンが褒めた女優のような振る舞いをしようと、ジーナに勝つことができないと知ってしまった。

 ローズはその場に膝から崩れ落ちて、声を上げて嗚咽(おえつ)する。

「私だって、本当は貴女に会いたくなかった! バートンを愛している私なら、代わりになれると思った! でも、やっぱり駄目なのよ……本当の娘である貴女でなきゃ、バートンの心は埋められない。たった五年しか一緒にいなかった植物人わたしは、二十年間思い続けていた人間あなたには絶対に勝てないのよ……!」

 悔しい、悔しいとローズは拳を握る。

 バートンがジーナに会いたいと願っていることを知った時、ローズの心はすぐに「嫌だ」と思った。父親が余命よめいわずかと知りながら顔も見せない不義理ふぎりな女より、ローズの方が愛されるに相応ふさわしいとさえ考えた。

 しかし、ローズを見つめる彼の瞳の奥に、幼いまま時間を止めた娘の面影おもかげを見つけてしまった。ローズは決して娘に勝つことはできない――それを悟った瞬間、ローズの中でくすぶっていた黒く冷たい感情が、跡形あとかたもなく風にさらわれていった気がした。

 ジーナとコンタクトを取ることに、葛藤かっとうがなかったわけじゃない。ジーナと会うことはバートンも諦めていることだから、このまま彼の命が尽きるまでローズがそばにいる選択肢もあった。だが、それで本当に良いのかと、自分の声に問いかけられた。

 ローズの幸福と、バートンの幸福――それをはかりにかけて、ローズは行動した。

 植物人プランツの中でも電子機器の扱いに長けたイクソラに、上層の住民データベースにアクセスしてもらい、ジーナの連絡先を取得した。電話は変装をして役所の公衆電話からかけ、温室から抜け出す時はアイビーから教えてもらって排気ダクトを使った。本当は薄汚れたダクトなど通りたくなかったが、背に腹は代えられない。

 全て見つかれば叱られる程度では済まない違法な行為だが、バートンのためと考えれば、一切の後悔はなかった。

 ローズは袖で頬を拭い、キッとジーナをにらんだ。

「勘違いしないで。私がここにきたのは、貴女にバートンの娘だと認めてほしいわけじゃありませんわ。彼が死んでしまう前に、娘に会いたいという願いを叶えてあげたいだけ。会ったのなら、貴女は好きに生きればいい。バートンには私が寄り添う……私は薔薇ローズですもの」

 なかば押し付けるように、ローズはバートンの病室番号が書かれた紙をジーナへ渡した。

 立ち上がると、クラリと眩暈めまいがした。泣き過ぎて水分を消耗しょうもうしたのだろう。長居ながいをしすぎて病葉わくらばにでもなってしまったら、温室を抜け出したことがバレてしまう。

 帽子を被りなおし、座り込んだままのジーナに背中を向けて歩き出したローズの手を、彼女が掴んだ。

「ま、待って! あの……ごめんなさい」

「何に謝ってらっしゃるの?」

「あなたに。あなたは父をこんなに愛してくれているのに……わたし、自分のことばかり考えてた。父のことを知ろうとしなかったのも、わたしなのに。あなたが知ってる父のこと、教えてください」

 ジーナから頭を下げられ、ローズは「知ってることだけなら」と前置きして口を開いた。

 バートンとマリアンナの馴れ初めや、離婚に至った経緯けいい、バートンの後悔など、病室で聞いたことを彼女へ伝えた。これはバートン側の事情であるから、これまでマリアンナから彼女が聞いてきたことと相違そういがあるだろう。それでも、ジーナは口を挟まずに黙って聞いていた。

 ローズが説明を終えると、ジーナは小さく「ありがとう」と言った。

「そっか……やっぱり、ふたりが別れたのは母の不倫だったんだ」

「やっぱりって……貴女、覚えているの? 人間って、五歳くらいから記憶が脳に定着するものじゃなかった?」

「もちろん、はっきりとは覚えてはいないわ。でも、ちょっとだけなら写真みたいに記憶に残っているの。母と知らない男の人がベッドで寝ているところとか、言い争っているところとか……。そのことをくとすごく怒られたから、もしかしてとは思ってたの」

 不格好ぶかっこうな微笑みを作るジーナの声音には、わずかな自嘲じちょうが含まれていた。彼女自身、真実を知る手段がなかったのだろう。あの高慢こうまんそうなマリアンナが、自分の非を認めるとは考えにくい。どれだけ問いただしても「父親は死んだ」の一言で突っぱねられてしまって、気弱そうな彼女にはそれ以上の追及はできなかったのだろう。

 その静かで、優しく、だが真実をまっすぐに見つめるジーナの瞳は、バートンそのものだった。

 突然、ジーナが持っていたポーチをまさぐり、携帯端末を取り出した。細い指が手早く操作して、端末を耳に押し当てる。

「――もしもし、中層福祉課のジーナ・ティレットです。急で申し訳ありませんが、本日は有休を使わせて頂きたくて。……えぇ、急ぎの仕事もありませんから、問題ありませんよね。実は……父が、危篤きとくなんです。話ができる、最後のチャンスになるかもしれないんです。そういう理由ですから、よろしくお願いします」

 一方的に告げて、ジーナは通話を切った。くるりとローズを振り向いた彼女の表情は、決意に満ちていた。

「あ、貴女……」

「ローズさん、わたし、父に会いたいです。でも……本当は、まだちょっと迷ってます。二十年間、探そうともしなかった親不孝おやふこうな娘なのに、会いに行ってもいいのかって……」

「きっとそれは、バートンも同じですわ。彼だって、貴女に会いに行こうと思えば行けたはず。行かなかったのは、バートンの中で諦めていたのもあったのでしょうけれど、一番は怖かったからだと思いますわ」

 マリアンナと離婚して二十三年、ジーナのことは常に彼の頭にあっただろう。奔放ほんぽうな母親に連れられていったがために、何かしらの苦労をしていないか、心配だったはずだ。それでもコンタクトを取ろうとしなかったのは、ジーナから父親であることを否定されるのを恐れたからだ。逡巡しゅんじゅんしているうちに植物管理士になるよう辞令じれいが出て、彼はついに叶わないと諦めてしまった。植物人プランツに関係する仕事は、家族への情報漏洩(ろうえい)危惧きぐしているから、独身の職員がなることが多いのだ。

 ローズは小さく笑って、ジーナへ手を差し出した。

「そろそろ行きましょう。ここは息苦しいですもの」

「あ、あの、ついでにあなたのことも教えてもらってもいいですか? 植物人しょくぶつひとって、何なんですか?」

「秘密。でもひとつだけ言えることは……植物人わたしたちは人間あなたたちを愛し、寄り添う存在よ」

 まるで幼子おさなごのような目をしたジーナの手を引いて、ローズは日溜りの中を温室へ向かって歩いて行った。


  ◆◇◆


 カフェテリアの壁に掛けられたカレンダーを見て、ローズは今日がバートンの命日だと思い出した。

 だが、特段ローズがバートンのためにできることはない。三年前に旅立った彼の遺体いたいは上層居住区の墓地に埋葬まいそうされてしまったから、植物人プランツのローズは行くことができないのだ。

 前のようにダクトを使って温室を抜け出すこともできるが、正直、もうやりたくはない。髪も肌もほこりで汚れるし、何より外は居心地が悪い。あの時も結局は軽度の病葉わくらばになってしまい、外に出たことも、一般人のジーナに植物人プランツであることを明かしたこともバレてしまった。

 世界総督マダムとローリエに情状じょうじょうんでもらったことで厳重注意だけで済み、ローズは今も植物管理士として種核たねの育成業務に従事じゅうじしている。

「ローズさん!」

 若い女の声が飛んできて、振り向いた先には白衣を着たジーナが手を振っていた。彼女の腕の中には、たくさんの付箋ふせんが飛び出している分厚い本が抱えられている。植物人プランツの生育に関する専門書で、バートンの私物だったものだ。

 三年前、ローズはバートンの最期の望みであった娘のジーナと引き合わせた。病室でただ涙と共に抱き合うふたりを見て、ローズの胸の内にあった黒い感情は嘘のように消え去った。ジーナへの嫉妬も、バートンへの恋慕れんぼも、紅茶に入れた砂糖のように溶け落ちたのだ。後に残ったのは、朝露あさつゆに濡れて瑞々《みずみず》しい、たおやかな薔薇のような愛だけだった。

 穏やかに、眠るようにったバートンを看取みとった後、ジーナは植物管理士を目指して勉強を始めた。そして、半年前に正式に辞令じれいくだり、今は見習いとしてアルフヘイムの研究エリアで働いている。

 ジーナはパンプスの(かかと)を鳴らしながら、ローズの座っているテーブルに駆け寄ってきた。

「お待たせしました! 今日もご指導、よろしくお願いします、先輩!」

「貴女はいつも元気ですわね、ジーナ。これから生育室を回りますわよ」

 はい、と元気な返事をしたジーナが、ローズの後に続く。

 生育フロアへ向かう途中も、ジーナは歩きながら専門書を開いていた。勉強熱心なのは良いことだが、研究員とぶつかってサンプルを台無しにでもしたら、責任を取るのは先輩であるローズだ。そうなる前に、ローズはジーナの脇腹を指でつつく。ひゃあ、と()頓狂(とんきょう)な声を上げて、彼女は体をよじった。

「何するんですか、先輩!」

「何度も言っているでしょう、歩く時は本を閉じなさいな。転んで怪我をいたしますわよ」

「大丈夫です、ちゃんと周りも見てますから」

「……貴女、本当に後悔はありませんの?」

 ローズはジーナの顔を見上げて(つぶや)く。

 三年前に出会った時、ジーナには婚約者がいた。相手は上層に住む大企業の令息(れいそく)で、結婚も控えていたのだ。そのまま過ごしていれば安泰(あんたい)な人生だっただろうに、ジーナはその結婚を断ったという。

 ジーナに父親がいない理由を死別したからだと、マリアンナは相手方(あいてがた)に説明していたようだ。しかし、バートンは生きていて病床(びょうしょう)にいること、マリアンナの不倫が原因で離婚したことをジーナが明かした。醜聞(しゅうぶん)を嫌った婚約者の両親はすぐに結婚を取りやめ、ジーナも母と決別(けつべつ)して家を出たという。

 ジーナは穏やかな表情で、首を横に振る。

「結婚のことは、もういいんです。黙って結婚しても、母の不倫が明るみに出ればお相手から離婚されてたでしょうから。母はこの事実をお墓まで持っていく気だったんでしょうけれど、秘密なんていつか思いがけない形でバレるものです」

「バートンのようにね」

「えぇ。それに、むしろ良かったのかもしれません。だって、夫がいるとアルフヘイムに配属されないじゃないですか! わたし、いつか必ずローズさんの(ソイル)になりますから」

「……そう。貴女がいいなら、私もこれ以上は言いませんわ。それなら、遠慮なく植物管理士として教育させていただきますわ。生育室の巡回を終えたら、次は剪定(せんてい)の訓練をいたしますわよ」

「ひぇ……お、お手柔らかにお願いします……」

 ローズは声を上げて笑った。自分も植物人(プランツ)にしては高齢になってきたが、まだまだ種核(たね)に戻るわけにはいかなそうだ。

 苦手な剪定(せんてい)も行うとなり、前回注意された点などを見返しているのだろう。手帳を(めく)るジーナを、ローズは足を止めて呼んだ。耳をこちらに近づけるように指で指示すると、彼女は身を(かが)めて顔を寄せてきた――その頬に、ローズはキスをする。

 突然のローズの行動に、ジーナが驚いて飛び退()いた。一気に顔を紅潮(こうちょう)させた彼女に、ローズはまた笑った。

「貴女が一人前の(ソイル)にも植物管理士にもなれるまで、私が寄り添ってさしあげますわ。私は薔薇(あい)植物人(プランツ)ですもの」

 再び歩き出したローズの後を、ジーナが慌てて追いかけてきた。

 アルフヘイムの白い照明を受けて、ローズの象徴である真っ赤な花弁(かべん)の髪がたおやかに揺れていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ