Kiss of Rose.
その光景は、ローズの目に強く焼き付いた。
照明を消した暗い部屋の中、古い映画が白い壁にプロジェクターで投影されていた。人間の男女が土砂降りの雨の中で大喧嘩をしていたと思えば、ずぶ濡れになりながら抱き締め合って唇を触れ合わせている。
その行動を、植物人のローズは知らない。理解できないからこそ、ローズは興味を引かれた。なぜ画面の向こうの男女は、こんなにも幸せそうなのだろう。男の方もさっき女に頬をひっぱたかれていたのに、優しく抱きしめて甘やかな視線を向けているのは、なぜだろう。
ローズは横目で隣に座る自身の土――バートン・セルヴォーを見た。彼はシルバーグレーの髪を撫でつけ、口元で揃えられた髭を一切汚さずに紅茶を飲み、映画の結末を静かに見守っている。
バートンは上流階級の紳士のような出立ちだが、職業は植物管理士だ。ローズたち植物人の家である『常磐の庭』の温度や湿度の管理だけでなく、植物人の髪を剪定したり、枯死した時に遺された種核を育てたりする。
二十年勤務のベテランで、土となるのも年齢的に厳しいと言われていたが、世界総督と本人たっての希望で五年前にローズのパートナーとなった。ローズは生まれつきミアズマシッドの含有量が少なかったから、白羽の矢が立ったのだ。
最初こそ「こんなお爺さんなんて」と不満に思ったが、常に礼儀正しく大らかなバートンに心を開くまでそう時間はかからなかった。我ながら簡単な女だと思ったが、バートンが紳士すぎるのがいけない。いつの間にか、ローズもバートンに合わせて淑女のような言動や行動をするようになった。彼の隣にいても恥ずかしくないように。
パートナーに影響されて変わっていくことに漠然とした恐怖を抱いていたが、すぐにあながち悪いものではないと思い直した。だって、彼のものになったという証は、この上なく嬉しかったから。
ローズは映像から視線を動かさないバートンの服を引いた。
「ねぇバートン。彼らは何をなさっているの? どうして唇をくっつけ合っているのかしら」
「それはだね、ローズ。映画のふたりは愛し合っているからさ」
「なぜ愛し合うと唇をくっつけるの? 何か意味があること?」
「もちろん。唇というのは、人体の中でも敏感で繊細な部分だ。だが、だからこそ触れ合うことで幸福感や安心感を得ることができる。生きるために重要な器官であるから、本来は触れられたくないと本能的に思う部分だが……それを許すほど、相手を愛しているという意味になるんだよ」
「ふぅん……」
ローズは曖昧な返事をして、自分の下唇を指でつまんだ。柔らかい感触だと思うが、バートンが言うような感情は湧き上がらない。
怪訝な表情で自分の唇を押したりつまんだりするローズに、バートンが鷹揚に笑った。
「自分では分からないだろうね。キスは他人から与えられて初めて感じるものだから」
「『キス』……何だか、子供っぽくて変な響きですこと」
「だが、とても高潔なものなんだ。愛し合う者たちだけに許された、最上級の愛情表現だよ」
「じゃあ、私もバートンにキスをしていいかしら」
ローズの何気ない言葉に、バートンがわずかに目を見開いて視線を向けてきた。
何か変なことでも言っただろうかと、ローズは首を傾げる。バートンはすぐに普段見せる優しい微笑みを浮かべ、ローズの頭を撫でた。
「嬉しいお誘いだが、僕みたいなお爺さんは君に釣り合わないよ。それに、こういうことは愛し合う者たちだけに許されていると言っただろう?」
「愛なら知っていてよ。自分以外に向ける好意的な感情でしょう。私、バートンのことは好きですわ」
「それは嬉しい。しかしね、ローズ、それだけではないんだよ。愛というのはもっと複雑で、簡単なものではない。君には少々難しいかもしれないね」
まるで幼子を窘めるような口振りのバートンに、ローズは苛立ちを覚えた。ソファに腰掛ける彼の膝に向かい合わせで乗り上げ、ん、と唇を尖らせる。さっき、映画の中で女がしていたものと、同じ仕草だ。
根でつながったパートナーであるバートンには、ローズが何を考えているかなどお見通しだろう。彼は傍らにティーカップを置き、乾燥した指先でローズの頬と髪を撫で――唇に四角い固形肥料を押し入れてきた。
ローズは咀嚼しながらバートンを睨むが、彼は穏やかな微笑みを崩すことはなかった。
「夜食は程々にね、ローズ」
「もう、分かってるくせに! 意地悪なさらないで!」
「君とキスをしたら、さすがの僕でもミアズマシッドに負けてしまうよ。――さぁ、映画も終わったし、君はそろそろ『庭』へ戻ろうか。明日も作業があるから、ちゃんと睡眠をとらないとね」
頬を膨らませたが、ローズはバートンの膝を下ろされる。
温室職員に与えられている宿舎階層には、パートナーの植物人であれば出入り可能だ。飾り気のないアイボリーのリノリウムを、バートンと共に歩く。彼は一年前から足を悪くしていて杖をついているから、ローズも歩調を合わせる。
研究棟への扉の前まで見送ってくれたバートンに手を振って、ローズは宿舎階層を出てエレベーターに乗った。ゆっくりと下降していく庫内で、壁に頭をあずけて寄りかかる。四角い鏡に映る不貞腐れて不細工な自分の顔に、溜め息を吐いた。
なぜバートンはローズとの『キス』を拒んだのだろう。愛し合う者たちに許された行為だと言っていたが、それならばローズとバートンの間にも成立するはずだ。ローズはバートンを愛しているのだから。
『愛』とは好意の最上級表現だと、兄姉たちから聞いている。大事にしたい、慈しみたいと相手を思う感情の総称であり、心が一番最初に持つものだと言っていた。ローズは彼のことを守りたいし、助けになりたいし、笑顔でいてほしいと思っている。これが『愛』でないならば、何だというのだろうか。
「……ローリエお兄様なら、知ってるかしら」
ぽつりと浮かべた植物人たちの長兄の名に、ローズはひとり頷いた。博識な最年長のローリエならば、きっとローズの望む答えをくれるはずだ。
明日、バートンとの仕事が終わったら尋ねてみよう――無意識に唇を指でつまむローズを乗せたエレベーターは、軽い音を立てて『庭』の入口がある階層で止まった。
◆◇◆
大振りな鋏が茎を切る小気味のいい音が、アルフヘイムの一室に響いた。
鋏を握るバートンの手は、迷いなく植物人の髪を伐っていく。植物人にとって、髪は種核の次に重要な部分だ。己の名前となった花や葉で形作られており、種類によっては武器にもなる。植物人にとって、髪は矜持なのだ。
とはいえ、植物人は髪が伸び過ぎれば不都合の方が多くなる。摂取した栄養が体に行き渡らなくなるし、頭も重くなって日常生活に支障が出る。そのため、定期的な剪定が義務付けられているのだ。
「――はい、終わったよ。お疲れ様」
「ありがとう、頭が軽くなったわ」
バートンが首にかけていたケープを取ると、淡い紫色の花弁や若緑色の葉が散った。剪定されていたのはライラックだ。彼女の花弁は小指ほどの大きさだが、低木らしく枝は硬い。それをバートンは器用に結び、両耳の下で輪を作った。彼女はそれを気に入ってくれたらしい。前のパートナーの影響で皮肉めいたことを言うことが多くなった彼女にしては、素直な笑顔と謝礼の言葉が返ってきた。
ローズはアシスタントとしてこの場にいるが、ほとんど見ていただけなのに誇らしい気持ちになった。床に散ったライラックの花弁や葉を箒で片付けていると、彼女から肩を叩かれた。
「ローズ、あなたのパートナーはさすがね。安心して髪を任せられるわ」
「そうでしょう、バートンは私の自慢のパートナーですもの」
「ちゃんと技術を継承してもらいなさいね。彼が死んだら、次はあなたが剪定や庭の管理をするんだから」
ライラックの言葉が終わると同時に、部屋にひとりの女が入ってきた。ライラックのパートナーである、エリザベスだ。
エリザベスはライラックのアレンジされた髪を見るなり、口元を押さえて「可愛い!」と叫んで飛び跳ねた。彼女の興奮ぶりにライラックは呆れたような溜め息を吐いたが、その表情は微笑みを湛えている。
「もう、はしゃがないのエリザベス。そんなだからチームメイトに子供っぽいって言われるのよ」
「だって本当に可愛いんだもの! ありがとうございます、セルヴォーさん。私じゃ上手くアレンジできなくて……」
「はは、コツさえ掴めば簡単にできますよ。後で教えて差し上げましょう」
「ぜひ! あ、そうだ。これ、よろしければ飲んでください。以前、紅茶がお好きだって仰ってましたよね」
エリザベスがバッグの中から取り出したのは、四角い茶葉の缶だった。それをバートンが嬉しそうに受け取る様が、何故かローズの心に小さく刺さった。
胸に手を当てて、ローズは首を傾げる。ローズは体から無数の棘を出すことができるが、自分で自分を刺すなどありえない。
疑問符ばかりを浮かべるローズの頭に、バートンの掌が置かれた。
「お疲れ様、ローズ。掃除が終わったら昼食にしよう。どれ、箒を寄越しなさい」
「ダメよバートン。貴方は足が悪いんだから、そこで座っててくださいまし。掃除くらい、私でもできますわ」
差し出された彼の手を躱して、ローズは床の掃除を手早く終えた。道具を片付けている最中にバートンへ視線を向けると、彼は先程エリザベスから渡された紅茶の缶を見つめていた。成分表を見る表情はにこやかで、それにまたローズの胸の内が痛んだ。
カフェテリアで軽い昼食を終えた後、バートンは定期的な通院のため中層へと出かけて行った。人間は不便なものだ。年を重ねれば重ねるほど、急激に体が劣化していくから。
バートンがいない以上、必然的にローズも休日となる。『庭』へ戻ると、頭ひとつ小さな植物人たちが駆け寄ってきた。皆、ローズがバートンと共に種核から育てた子たちだ。かつては頼りになる兄姉だった植物人らも、一度種核に戻れば無垢な弟妹になる。植物人はそうやって立場を入れ替えながら、生命をつなげてきた。
「やぁローズ。おかえり」
「ただいま帰りましたわ、ローリエお兄様」
振り返ると、長兄のローリエが美しく微笑んでいた。
大抵の植物人は長くても百年ほどで寿命が来て種核になるが、彼だけは数百年以上生きている。何故かは本人も分かっておらず、生みの親である世界樹は沈黙して佇むだけだから、知りようがないというのが正しい。
しかし、そのおかげで誰よりも深い知識と豊富な経験を持つ彼には、いつも助けられている。彼ならば、ローズの胸を刺す棘の意味も教えてくれるかもしれない。
「ねぇお兄様。私、聞きたいことがあるんてすの」
「おやおや、頭のいいローズでも分からないこと? 僕に分かるかなぁ?」
「お兄様は『愛』とは何か、ご存知?」
一瞬だけ表情をなくしたローリエは、数回瞬きをして大きく笑った。
思ってもみなかった彼の反応に、ローズは馬鹿にされたと感じて唇を尖らせた。
「どうして笑うんですの、もう! 私、何か変なことでも言いました?」
「はは、違う違う。君からそんな言葉が出てくるとは思わなくてね。愛……愛かぁ……難しいな」
ひとしきり笑ったローリエが、今度は腕を組んで唸る。
いつもであれば瞬時に回答をくれる彼がここまで悩むなど想定外で、ローズは途端に不安が膨れてきた。
「ごめんなさい、変なこと聞いてしまいましたわ。困らせるつもりはなかったのだけど……」
「んー、そんなことないよ。確かにとても難しい質問ではあるんたけどね。それにしても、どうして急に『愛』について知りたくなったの?」
近くの木の根本に腰を下ろしたローリエに、ローズは昨夜バートン都見た映画のことを話した。
幸福そうに抱き合い、キスを交わす男女の光景が、ローズの脳裏から離れない。映画の始めで女は『愛なんていらない』と言っていたくせに、最終的には男に唇を許すくらいにほだされていた。その原因が『愛』だというのだろうか。
他人のために心を変えてしまうことが『愛』だというのなら、植物人と土の関係もまた『愛』なのだろうか。だったら何故、バートンはローズのキスを拒むのか。
「私、自分で自分の心が分からなくなってしまいましたわ……どうしてバートンが他の女性と親しくしていたら、胸に棘が刺さるのかしら。彼の素晴らしい仕事を褒められることは、私も誇りに思っておりましたのに……今は何だか素直に喜べない自分がいますの」
「ローズ……もしかして君、バートンに恋をしたのかい?」
「……恋?」
その感情の名前も、ローズは聞き覚えがあった。映画の中で何度も出てきた言葉だ。恋をすると心臓が高鳴って、思考回路が全て対象に帰結してしまう、厄介な病だと女優は言っていた。
首を捻るローズに、ローリエは穏やかに微笑んで自分の隣を手で示した。ローズがそこへ座ると、彼は優しく目を細めて髪の乱れを直してくれた。
「ローズ、君はバートンといて楽しいかい?」
「えぇ、もちろん。楽しいわ」
「常に隣にいたいと思ってる?」
「当然でしてよ。今だってバートンが心配ですの。転ばないで病院に着けたかしら」
「バートンの長所や短所は、自分が一番知ってると思う?」
「そんなこと、当たり前ですわ。バートンは私のパートナーですもの。長所はたくさんありますけど、短所なんてまったく……もう、お兄様! どうして変なことばかり聞くんですの?」
「はは、ごめんごめん。でも、これで僕も分かったよ。ローズ、君はやっぱりバートンに恋をしているね」
頬を膨らませるローズの鼻先を指でつついたローリエは、誰よりも深くて濃い緑の瞳を細めて続けた。
「何をするでもなくずっと一緒にいたいと思う、長所ばかりに目がいってしまうというのは、恋の特徴だよ。といっても、僕もよく知らないから、見聞きした情報での判断だけど」
「植物人が人間に恋を……? そんなはずないわ、植物人は『愛』は持っても、生殖に関わる感情は持たないはずですわ」
「そうだね。君の言う通り、本来は恋なんて植物人には不要なものだから、芽生えるはずがない。でも、蟲が瘴気に対応するために進化していったように、僕らも進化して新しい感情を得ていくことは、何も不思議なことではないと思うな。信じられないなら、想像してみてごらん。バートンの微笑みや、声、そして彼の隣に自分以外の誰かがいて、その全てを向けられているところをさ」
ローリエに言われたことを、ローズは頭に思い浮かべる。
目尻に皺を浮き立たせながら細められるアイスブルーの瞳も、頭を撫でる時の優しい掌も、ローズではない誰かに与えられる。己はそれを遠くから見ているだけ――そんな風景を考えた瞬間、蟲へ抱くのと同じくらいの嫌悪感が沸き上がった。それはローズの体表にも無数の棘が突出するほどで、二十年生きてきた中で感じたことのない動揺に全身が苛まれる。
それから遅れて、胸の内側に火が灯った。炎とは真っ赤で熱くて恐ろしいものだと聞いていたのに、その火は夜の如き黒色だった。凍えるほどに冷たいのに、体中が内側から焼け落ちていくようだ。
ローズはこの名前も知らぬ強烈な情動に、混乱よりもひどく戦慄した。己の体を抱き締めるローズを、ローリエの腕が優しく包んだ。
「あぁ、ローズ……びっくりしたね。深く息を吸って、落ち着こうか」
「お兄様……この感情は、なんですの? 私が私じゃなくなったみたいで、とても怖い……!」
「それが『嫉妬』――恋の副産物さ。ある程度の知能がある動物に備わっているもので、繁殖相手を独占したいがために生まれる感情だよ。不思議だよね、自分以上に優れた存在を排除したくなるなんてさ」
植物人の感性は植物だ。物言わぬ緑だった頃から養分の争奪はすれど、隣の花の美しさに妬ましさを感じることはなかった。心を得た今も、羨ましいと思いはしても害してまで美を誇ることはない。皆それぞれに特徴があり、尊重されることだと認識しているからだ。
新たな感情を得たことに、ローズを絶望が襲った。
愛のような温かな感情ならいざ知らず、こんなに冷たく恐ろしい感情は要らなかった。まるで自分が醜い蟲にさえ思えて、恥を感じる。
そんなローズの胸中を察したのか、ローリエが向かい合うように回り込んでしゃがんだ。
「君が何を思おうと、僕は君の進化を祝うよ。どのような形であれ、それは僕ら植物人の可能性だ。だから君には、その感情の御し方を考えてほしい」
「……御し方?」
「そう。心はプラスの感情もあれば、嫉妬のようなマイナスの感情も持つ。コントロールできなきゃ、かつての人間と同じ道を歩むことになってしまうからね。……僕は植物人にそうなってほしくない。アナも世界樹もそう望んでいるよ」
アナ――この『移動植物園』の頂点に君臨する世界総督であり、ローリエの土であるアナスタシア・メルクーリのことだ。就任から一貫して植物人と人間の契約を推し進め、研究対象でしかなかった植物人を我が子のように慈しむ老女である。
ローズは何だか、常に優しい長兄の微笑みが怖く思えた。彼の深い緑の瞳には何が見えているのか、ここにいる誰も分からない。ずっと遠い未来を夢想しているようで、過去の出来事を思い出しているようにも見える。
もしくは、近々に訪れるであろう未来か――頭を振って、ローズは思考を止めた。ローズがどれだけ頭を回しても、彼と世界総督の考えを図ることはできない。ならばせめて、未来の弟妹たちが『嫉妬』の感情に苦しんだ時のために、己の経験を遺すことがローズの役目だろう。忌々《いまいま》しい炎のような嫉妬をコントロールする方法など、今は皆目見当もつかないが。
不意にローリエが『常磐の庭』の天井を仰ぎ見た。パートナーのアナスタシアと会話をしているのだ。
契約を結んで一年程度のローズでは三階層が限界だが、何十年も関係を継続しているローリエは移動植物園の頂点と最下層まで離れていてもクリアな意思疎通ができる。ローリエ以外でそれができる兄弟は、タッカ・シャントリエリくらいではないだろうか。
数回頷いたローリエが、ローズに向き直る。いつもの笑みではなく、わずかに口元が強張った真顔だった。
「ローズ、今すぐアナのところへ行こう。大切なお話があるんだ」
「いいけれど……何があったの、お兄様」
「上で話すよ。さぁ、行こう」
ローリエに手を引かれるまま、ローズは立ち上がり『庭』の出口へと駆けた。
シャツのボタンを通す指が震える。ローズは胸騒ぎがしていた。バートンはまだ中層から帰ってきていないようで、繋げた根の先を辿れない。不穏な予感が杞憂であることを祈りながら、ローズはエレベーターで二十六階まで上がった。
ワンフロア全てが世界総督であるマダム・アナスタシアの執務室であり私邸である二十六階には、ローズも数えるほどしか入ったことはない。植物を愛する彼女らしく、エレベーターを降りた真正面にある執務室は、『常磐の庭』のレプリカのようだ。草木の植わっている鉢が所狭しと置かれ、『庭』とよく似た匂いがする。
ローリエの呼びかけに振り向いたのは、葉脈のような皺を膚に刻んだ白衣の老女だった。
彼女こそ世界総督であるアナスタシア・メルクーリである。杖をつき、人型機械に背を支えられながら植物に水をやる姿は穏やかな老婦人だが、かつてはローリエと共に外界で蟲を何匹も狩っていた軍人だ。スズランの如き柔和な瞳には、その片鱗か思わず背筋が伸ばされる苛烈な光が宿っていた。
「待っていましたよ。突然呼び立ててごめんなさいね、ローズ。ローリエもありがとう」
「構いませんわ、マダム。でも、何がありましたの?」
「座ってお話ししましょうか。ちょっと大事な内容なの」
アナスタシアに促され、ローズはソファに腰を下ろした。すぐに人型機械が真水と色とりどりな菓子をテーブルに並べていく。
本来植物人は人間の料理を食べることはできない。今の人間が食べているのは、全て温室が本物そっくりに作った化学物質の塊だから、植物人にとっては毒となる。しかし、アナスタシアの食事は無添加で作られているため、多少なら食べても害はないのだ。
アナスタシアは角砂糖を四つ入れた紅茶を啜り、口を開いた。
「ローズ、落ち着いて聞いてちょうだいね。貴女のパートナー、バートン・セルヴォーさんについてのことなの」
バートンの名前を聞いた瞬間、ローズの中で根がざわついた。指先が冷たく、理由もなく逃げ出したい衝動に駆られる。
「さっきね、中層のミズガルズ病院から連絡があったの。セルヴォーさんの体に気になることがあったから、上層で精密検査をしてほしいって。だから、しばらく病院に入院することになるわ」
「入院……って、体の状態がとても悪い時にすることでしょう? マダム、バートンはそんなに具合が悪いんですの? しばらくって、一体いつまで?」
身を乗り出すローズの頬を、アナスタシアの乾いた指先が撫でた。
「貴女の心配は分かりますよ、ローズ。でもね、今回の入院はあくまで検査が目的なの。セルヴォーさんの体に病気がないか、機械やお薬を使ってきちんと調べてあげるのよ。だから、何も問題がなければすぐに退院できるわ」
「ローズ、バートンが入院している間、君にはひとりで植物管理士の仕事をしてもらうことになるんだ。いつも傍で見ていたから、大丈夫だろ? それから『ディスラディケート』を飲んでもらうことにもなる。ちょっと苦しいだろうけど、頑張れる?」
薬の名前を聞いて、ローズは一瞬身構えた。
『ディスラディケート』とは、植物人と土をつなぐ根を一時的に断つ薬だ。
根は植物人が作り出す瘴気の浄化成分を人間へと送るものだが、時に人間が摂取した成分を植物人に送ってしまうことがある。食事の栄養ならまだしも、人間用の薬は植物人にとって害となるものが多い。そのため、人間が強い薬を服用せねばならなくなった時などは植物人に影響が及ばないよう、『ディスラディケート』でつながりを断つ必要があるのだ。
ローズは渋面を作りながらも頷いた。一時的とはいえ、つながっている根を断つのは多少の苦痛が伴うと聞いている。かつて『ディスラディケート』を服用した植物人が、かなりぐったりしていたのを見たこともあった。元気の塊のようだった兄弟ですら萎びさせる怖い薬を、まさか自分も飲むことになるとは思わなかったが、バートンのためである。薬もつながりが断たれることも怖いが、彼の健康には代えられない。
不安に揺れるローズの心を反映するように、掌に包まれたティーカップの中で、真水が小さく波打った。
◆◇◆
『ディスラディケート』の副作用は、想像以上にローズの体力を奪った。
根が断たれたことによって生まれた喪失は、すぐに怠さや悪心で埋められた。植物人は嘔吐ができないから、体の中を冷水が上から下へと移動し続けているような気持ち悪さがずっと続くのだ。
しかも、一度服用すれば終わりというわけでもない。根は一度断たれたくらいでは再度つなぎ直そうとするから、継続して飲み続けなければならないのだ。
副作用に慣れたローズが動けるようになったのは三日後で、『常磐の庭』から出られたのは更にその三日後のことだった。今までは何とも思っていなかった、アルフヘイムに満ちる薬品の匂いがいやに鼻をつついてきて不快だが、バートンのためだと思って何とか耐えた。
バートン抜きで植物管理士の仕事をするのは、ローズも初めてのことだ。だが、この五年間ローズもただ見学していたわけではない。彼から教わったことをひとつひとつ思い出しながら、生育フロアで植物人の種核たちを管理する。
フロアには約二メートル四方の小部屋が連なっている。ひと部屋ににひとつ種核が生育されており、温度や湿度が厳格に管理されているのだ。現在、四十の種核が植物人となることを待っている。
ローズはそのひとつであるベゴニアの生育室へ入った。丸い素焼きの鉢から溢れるほどに、濃い緑の葉が伸びている。縒り絡まった茎は人型を作り、髪には小さな赤い蕾をつけていた。
この蕾が開く時、植物人もまた目を開ける。それまでローズたち植物管理士は気が抜けない。開花間近だったのに原因不明で枯死するなど、これまでに何度もあった。そうなればまた種核から育て直しとなり、時間と労力の無駄となる。
ローズはベゴニアの鉢の周りをグルグルと回りながら、葉や茎に触れて病気や生育不良の兆候がないかを確認していく。
「生育状況は良好。気温、湿度、日照共にオーケー。土は……少し乾いてるかしら」
ローズは部屋の隅にある真水の出る蛇口を見やる。
ベゴニアは生育に多量の水が必要だが、過湿では根腐れを起こして枯れてしまう。表土は乾いていても、内側は湿っている可能性も十分あった。
ローズは少し悩んだ後、腰に巻いたツールバッグから竹串を一本取り出してベゴニアの土に刺す。数秒待って引き抜くと、串がしっとりと濡れていた。
「水やりはもう少し後でも大丈夫そうですわね。昼過ぎ頃にまた来ますわ、ベゴニア。あなたの開花を、ここの皆様全員が待っていますわよ。だからいつでも開花なさいな」
返事がなくとも、声をかけることは忘れない。これも重要な生育プロセスだ。たったひと言だろうと、かけるとかけないでは植物人の開花率に大きな差があることが分かっている。
土の湿潤具合を見るために竹串を刺すのは、バートンがやっていたことだ。君の時もそうやって育てたんだよ、と言う彼の微笑みが思い出された。それだけでローズの心はむず痒くなる。
ローズは旧時代から育てにくい品種だったようで、それを色濃く受け継いでしまったらしい。実際、こうして目を開けるまで、三度は開花直前に種核に戻ったと聞いている。
そんなローズを根気よく育てたのはバートンだ。目覚める前のことは覚えていないが、きっと蕾に優しく触れてくれただろう。指先で茎を撫でて、病気がないか葉の裏や根本をアイスブルーの瞳で眺めて――考えただけで、ローズの体がふるりと震えた。
震えは恐怖や嫌悪を抱いた時の悪寒に似ていたが、湧き上がってくる感情は甘やかなものだ。植物管理士としては当たり前の仕事で、先程ローズもベゴニア相手にしたことなのに、何故か羞恥心が募る。
ローリエからバートンへの恋心を指摘された時から、ローズは変になってしまった。今までは何とも思っていなかった事柄に、バートンを重ねてしまう。
カフェテリアで他の職員がサンドイッチを食べているのを見れば、バートンはスモークサーモン入りのものが好きだと思い出す。
本の話題が耳に入れば、バートンの好きな作家の新作小説が発売間近だったことを思い出す。
足を止めたローズは、無機質なパーテーションの壁に肩を預けて深く息を吐いた。
「……バートン、早く退院しないかしら」
彼の声が聞きたい。
穏やかな声で「大丈夫」と言って、頭を撫でてほしい。
どれだけ根を辿っても行き着く先は壁ばかりで、ローズの願いに応えてくれる者はいない。まるでだだっ広い外界の砂漠にひとり放り出された気分だ。
ブーンと頭上で低く唸る空気清浄機の音で、ローズは現実に引き戻された。
ぴしゃりと、ローズは自分の頬を両手で叩いて弱気を追い出す。今は仕事の最中だ。バートンが戻ってきた時、種核の世話が不十分で失望されるわけにはいかない。
寂しさも『ディスラディケート』の副作用も、いずれバートンから称美をもらうための試練と思いながら、ローズは仕事に邁進した。
◆◇◆
ローリエから声をかけられたのは、バートンと切り離されてからひと月が経った頃だった。
今すぐ、病院へ来てほしい――彼のそのひと言で、ローズは願っていた方向とは、正反対の方へ運命が傾いたことを悟った。
上層の病院は、本来なら植物人は入れないエリアだ。温室職員ではない民間人も利用しているから、ローズは大きな帽子を被って髪の真っ赤な花弁を隠す。帽子の息苦しさも、研究棟であるアルフヘイムより強い薬品の臭いも、バートンに会うためならローズは耐えられた。
ペールブルーのリノリウムを一歩一歩進むごとに、ローズの胸中はさやぐ。
相当顔に出ていたらしく、付き添いで共に来てくれたローリエに小さく笑われた。
「緊張しなくても大丈夫だよ、ローズ。髪さえ隠してしまえば、僕らは普通の子供に見えるから。それに、アナが医者や看護師たちに話を通してるしね」
「えぇ……大丈夫ですわ、お兄様……」
ローズは小さく頷いたが、何故か進む足が重い。
バートンに会うことはずっと望んでいたことで、嬉しさがあることも確かだ。しかし、同じくらいの恐ろしさもある。どうしてそう思うのか、ローズ自身も分からない。
半ばローリエに引きずられるように、伝えられていた病室の前まで来た。心の準備ができていないローズが止める間もなく、彼はノックをしてスライドドアを引いた。
ツンと強い薬品臭の中に、たおやかな薔薇が淡く香っている。生気のない白いベッドの上で、バートンは上体を起こして本を読んでいた。
「やぁ、バートン。具合はどうだい?」
「おやローリエさん。それに……久し振りだね、ローズ」
ベッドの上で、バートンが微笑んでいる。心なしか頬の窪みに落ちる影が濃く見えて、胸がぎゅっと痛んだ。
バートンとローリエが何やら話をしていたが、ローズの耳には入ってこない。やっとバートンに会えたことや、想像以上に窶れていることに、嬉しいやら悲しいやらで、ローズの心は忙しかった。
ドアの傍から動かないローズに、バートンが眉尻を下げる。
「ローリエさん。すみませんが、ローズとふたりきりにさせて頂いてもよろしいですか? 自分のことは自分で伝えたいのです」
「そうかい? 分かった。ローズ、僕はさっき通ったエレベーターの所で待ってるから。場所は覚えてるよね?」
「え……えぇ、お兄様。一本道でしたから、多分大丈夫だと思いますわ」
じゃ、とローリエは軽い挨拶と共に、病室を出て行った。
残されたら残されたで、ローズは困る。バートンと会えたら言いたいことがたくさんあったはずなのに、どこへ散ってしまったのか、何も言葉が出てこない。胸の前で指をもじもじとさせるだけのローズに、バートンが微笑む。
「ローズ、そんな遠くにいないで、もっと近くに来てくれるかい。君の花の香りを、久し振りに感じたいんだ」
「い、今行こうと思っていましたのよ。急かさないでくださいまし!」
思わず、高飛車な物言いになってしまい、ローズは内心で後悔した。こんな刺々《とげとげ》しい言い方をしては、バートンに嫌われてしまうかもしれないと、頬が熱くなる感覚がした。
だが、バートンは鷹揚に笑っただけで、ローズへと手を差し出した。契約を結んだばかりの頃、今のような高慢な態度をとっていたローズを、彼は微笑みで許してくれていたのを思い出す。
――あぁ、私、あの時から彼が好きだったんだわ。
ローズはバートンの手を取り、彼の腕の中へ飛び込んだ。少しだけ薬臭い彼の匂いに、途方もなく安心する。
「すまないね、ローズ。寂しがりな君を、長らくひとりにしてしまったね」
「えぇ――えぇ、本当ですわ! 薬で根を断っていたから、バートンのことを感じられなくて、とても寂しかったんですのよ! 体の具合は、どうなんですの?」
「……ちょっとだけ、思わしくないようだ。ローズは、癌というものを知っているかい?」
「名前だけなら……」
植物人は人間と似た見た目をしているが、体の構造はまるで違う。罹る病気も植物由来のものであるから、癌が少々厄介な病気だとは認識していても、どんなものなのか詳細は分からない。
ローズと体を離したバートンが、トントンと自分の胸を指さした。
「肺のところに、良くない病気があるみたいなんだ。詳しく調べたら、骨や他の臓器にも転移しているらしくてね」
「転移って――」
その時、病室の扉が開く音がした。
ローリエが戻ってきたのかと思ったが、現れたのは老齢の女だった。薄灰色の長い髪を肩で結い、気難しそうに引き結んだ口は深紅の口紅で彩られている。身に着けている衣服から上層の住人だろうかとローズが考えている横で、バートンがわずかに目を見開いた。
「……マリアンナ?」
「あら、わたくしのことを覚えてらしたの? お久し振りね、バートン」
マリアンナと呼ばれた女は、感情の籠っていない声をしていた。病室へ入ってきた彼女は、ベッドにいるバートンをジロジロと見て、小さく鼻を鳴らした。
ローズは知り合いかと思い彼を見たが、それにしては表情に笑みがなく、強張っている。
「あぁ……久し振りだね、マリアンナ。二十年振りだったかな?」
「二十三年よ」
「そうか……もうそんなになるのか。ジーナは元気にしてるかい?」
「貴方に伝える義理はなくてよ。自分で捨てたくせに、よくも娘のことを聞けるわね」
「……どちら様ですの? バートンに酷いことを言わないでくださいまし」
マリアンナの言葉に感じた刺々《とげとげ》しさに我慢ならず、ローズはバートンを庇うように前に出た。突然口を挟まれたマリアンナは、ローズを一瞥して眉を顰めた。
「バートン、この子は? 貴方、幼児趣味にでも目覚めたの?」
「はは、そんなわけがないだろう。この子は事情があって、僕が預かっている子さ」
バートンがローズの頭を帽子の上から撫でる。植物人の存在は、上層の住人にも公にされていないことであるから、彼の説明は至当のものだ。
しかし、マリアンナにとっては眉間の皺をより深めるものだったらしい。彼女の口の右端が、不機嫌そうに震えた。
「わたくしたちを捨てておきながら、自分は親子ごっこをしていたってこと? ふざけないでちょうだい!」
「一方的に家を出て、ジーナに会わせなかったのは君だろう、マリアンナ。君が不倫相手にも逃げられたことは、噂で僕も知っている。上層のご実家に戻ったこともね」
マリアンナの奥歯が軋む音が聞こえた。
ローズは棘を投げ合うようなふたりのやりとりを横で聞いていたが、マリアンナがバートンの妻であったと何となく理解した。思わずバートンへ視線を送る。そんなこと、彼は一度も口にしたことはなかった。妻がいたことも、ジーナという娘がいたことも。
しかし、分からないことがある。何故ふたりは言い争っているのだろう。夫婦はふたりの間に『愛』があったから成立した関係のはずだ。映画のように、今は喧嘩をしていても後で仲直りをするのだろうか。だが、そんな雰囲気にはならないようにも感じる。
ローズは『ディスラゲート』で根が断たれていることを後悔した。根がつながっていれば、バートンが今どんな気持ちでいるのか分かったから。彼が厳しい表情を浮かべている理由を、知りたかった。
バートンが重苦しい溜め息を吐き出す。マリアンナへの呆れというわけではなく、自分自身の感情をコントロールするような溜め息だった。
「今日はどうしてここに来たんだい、マリアンナ」
「貴方が死にかけてるって、温室から連絡があったのよ。ジーナにね。わたくしとは夫婦でなくなっても、ジーナの父親であることには変わらないもの。……癌なんですってね」
「保って、あと二ヶ月くらいと言われてしまったよ。……安心してほしい、今更ジーナには会うつもりはない。別れた時、あの子はまだ三歳だ。僕のことなんて、覚えていないだろう」
「言われなくても、会わせる気はないわ。あの子は今、色々と大事な時期なの。余計な心配をさせるようなことはしないで。死ぬならわたくしたちに迷惑をかけないで、ひとりで死んでちょうだい」
「――……どうして?」
思わず、ローズは呟いていた。
「貴女はどうして、そんな残酷なことを仰れるの? バートンと夫婦だったのでしょう? 『愛』があったから夫婦になって、子供を授かったのでしょう? 貴女は彼から愛されることができるのに、それが許されている立場なのに、どうして否定するようなことを仰るの?」
ローズは理解できなかった。植物人のローズと違い、人間であるマリアンナは何の障害もなくバートンから愛されることができる。ふたりの遺伝子を混ぜ合わせた、子供をもうけることができる。ローズがどれだけ望んでも手に入れられないものを、彼女は無惨に傷つけるだけ傷つけて捨てようとしている。それがローズは許せなかった。
狡い、妬ましい、羨ましい――マリアンナへの苛烈な感情は涙となって、ローズの頬を冷たく濡らした。
泣きながら非難するローズに、マリアンナは顔を歪めた。
「何なの、人を悪者みたいに……貴女みたいな子供には関係ないし、分からないことよ。安心して、わたくしはもうここへは来ないから。それだけを言いに来たの。……お大事に」
踵を返したマリアンナは、振り返ることなく病室を出て行った。
ローズはバートンのベッドに顔を埋め、絞り出すように嗚咽する。ジクジクと膿むような、とても惨めな気持ちだった。
頭を撫でられ、顔を上げると困ったような表情のバートンがいた。
「見苦しいところを見せてしまったね、ローズ。……怒っているかい?」
「えぇ、怒ってるわ。結婚していたことも、子供がいたことも、なんにも教えてくれなかったのは何故ですの?」
「僕の中では、もう終わっていたことだったから。マリアンナと別れたのは二十年以上も前のことだしね」
「……どうして、別れたんですの?」
「僕が駄目な男だったから、かな」
バートンが天井を仰ぎ、溜め息をひとつ浮かべてから、ぽつぽつと話し始めた。
バートンとマリアンナの結婚は、家同士が決めた見合いだったという。伴侶の顔や声を結婚式の時に初めて知るというのは、上流階級の者たちにとって普通のことらしい。
ふたりの間に『愛』などなかった。だが、それでもバートンはマリアンナを愛し、夫婦であろうと努力した。やや浪費家だったマリアンナに不自由させないよう、温室での仕事に邁進していた。当時から彼は温室勤務であったが、植物人とは関係のない中層担当の役人をしており、朝早くから夜遅くまで家を留守にしていた。
「――けれど、それが逆にマリアンナには不満だったらしい。いつしかお互いに歩み寄ることをやめてしまったから、僕たちは結局『愛』を生み出せないまま、子供を授かってしまった」
ジーナが生まれた時、バートンは心の底から喜んだ。きっと人生も好転すると感じたのだ。実際、ジーナを介して夫婦の会話は増えた。これまでの事務的なものから、血の通った人間の会話がマリアンナとできたことが嬉しかった。
だが、一度狂った時計が二度と正常な時間を刻まないように、ふたりの歩調はズレていった。
決定的に関係が崩れたのは、マリアンナが自宅に男を連れ込んでいた瞬間だ。たまたま家に忘れ物をして、昼に取りに戻った際、寝室から妻の声と知らない男の声が聞こえたことだ。艶めいた嬌声に、バートンの世界は壊れてしまった。
「あとはもう、口汚い罵り合いだったよ。彼女はジーナがいる前で不倫していて、僕はそれを咎めた。彼女は僕に大切にされなかったことが寂しかったと言った。あの時は僕も、裏切られたショックと怒りしか頭になくて、自分のことを省みる余裕がなかったんだ。……今思えば、僕は家族のために働くことが自分の使命だと思っていて、マリアンナがジーナの酷い夜泣きに苦しんでいても、自分の方が辛いんだと気に留めることはなかった。離婚してしばらく経って、ジーナの顔を思い出せないことに気づいて愕然としたよ……生まれた時は、僕の全てに替えてもジーナを愛すると決めていたのに、笑顔のひとつも僕の中には残っていなかったんだ」
バートンが己の皺だらけの手に目を落とす。
苦しそうな懺悔を聞いても、ローズにはその半分も理解できない。植物人だから。バートンの行動のどこが駄目だったのか、マリアンナの行動のどこが許されないことなのか、植物のローズには分からない。それが、ただただ歯痒い。
バートンの親指が、濡れたローズの頬を拭う。
「ローズ、僕はもうすぐ死ぬだろう。彼女には二ヶ月と言ったけれど、そこまで生きられるかどうかは、正直分からない」
「いや……嫌よ、バートン。そんなこと言わないで!」
「もう十分過ぎるほど生きたくらいさ。君のパートナーになれたこと、とても幸せだったよ」
「私、貴方とまだ一緒にいたい! 教えてもらいたいこともたくさんあるし、やりたいこともたくさんあるのよ! バートンだってあるでしょう?」
「僕が思い残したことは、何も――あぁ、ひとつだけあるかな」
「何ですの?」
ローズはベッドへ身を乗り出す。
彼が好きな映画や小説をもう一度見たいという要望だろうか。病院でどれだけ対応してもらえるかは分からないが、願いはできる限り叶えたい。
バートンが窓へと目を向ける。そこに広がっているのは、液晶パネルに映し出された青空だ。
「ジーナの……娘の顔を、最期にもう一度見たかった……」
悔恨と寂寞が滲むバートンの声音に、ローズはただ、ベッドのシーツを涙で濡らす事しかできなかった。
◆◇◆
上層の居住区画は、ローズが話で聞いていたよりも息苦しかった。
縦に長い塔型に造られた『移動植物園』は、下層になるほど瘴気濃度が高いとされている。『移動植物園』は頑強な外殻を持つが、微量の瘴気は隙間を縫って入り込んでしまう。上層になればなるほど、効果の高い空気清浄機能が備えられているのだ。
だが、植物人のローズにとっては濃度の高過ぎる二酸化炭素と日光のない空間に、眩暈がしそうだった。バートンたち植物管理士によって、いかに植物人が快適にすごせているのかを、ローズは身をもって知った。
ローズが訪れているのは、広い緑地公園だ。今日は人間たちにとっての休日であるからか、そこかしこで家族らしい男女や子供が遊んでいる。ローズはベンチに座り、持ってきていた真水をひと口飲んだ。今すぐにでも『常磐の庭』へ帰りたかったが、目的のためにはそうもいかない。本来は温室から出ることも許されていないから、今ここにローズがいることは完全なる重大違反だ。バレても命に関るような折檻はされないだろうが、仕事を降ろされる覚悟はした方がいいかもしれない。
これまで積み重ねてきたバートンとの日々を代償にしてでも、今日の目的は遂行したかった。
「……あの」
不意に、おずおずと声をかけられた。振り向いたそこには、ひとりの若い女が立っている。
淡い栗色の髪を緩く巻いて、丈の長いボルドーのワンピースに、黒いレースのカーディガンを羽織った彼女は、いかにも上層のお嬢様といった出立ちだ。やや目尻の垂れたアイスブルーの瞳は、悪意など知らないように澄んでいて――そして、バートンの面影があった。そのことに、ローズの胸の内がチクリと痛む。
女はローズを頭から爪先まで見て、困惑を隠さずに口を開いた。
「あなたが、連絡をくれたローズさん?」
「えぇ、貴女がジーナさんね。初めまして。……あら、どうなさったの? 変なお顔をなさって」
「ご、ごめんなさい。電話の時は、もっと年上の人かと思ったから……」
ジーナの素直な言葉に、ローズは思わず声を上げて笑う。
「私が子供で、ビックリなさったかしら」
「えっと、その……ごめんなさい」
「構いませんわ。本当のことですもの。どうぞ、お座りになって。そのままは疲れるでしょう」
「し、失礼します」
隣に腰を下ろしたジーナの横顔を、ローズはじっと観察した。彼女の鼻筋や唇はマリアンナと似た形をしているが、目元はやはりバートンにそっくりだ。マリアンナは奔放な女であると思っていたから、もしかしたら別の男との子供ではないかとの疑惑も抱いていたが、その心配はなさそうだった。胸をよぎった一瞬の落胆を、ローズは無視することにした。
あの、と沈黙を破ったのはジーナの方だった。
「ご用件は、なんでしょうか。実は、これから仕事に行かなきゃいけなくて……」
「あら、そうだったの。お仕事は何を?」
「温室に勤めています。福祉課で、中層の児童福祉を担当しているんです」
そう、とローズは平坦な語気で返す。温室と聞いた時は一瞬身構えたが、中層を担当しているなら植物管理士のバートンと顔を合わせることはないはずだ。温室は一般人も利用する役所の面もあるが、植物人や瘴気について研究をするエリアとは明確に分けられている。温室の上層では何をしているのか、知らない一般職員も多い。
「じゃあ、手短に話しますわね――会って頂きたい人がおりますの」
「父ですか」
間髪入れずに返ってきた言葉に、ローズはジーナを見た。
彼女の表情はやや強張っていて、怒っているようにも、恐れているようにも見えた。
ローズが何も言えずにいると、彼女の首がゆっくりと横に振られる。
「申し訳ありませんが、わたしは父に会えません。今までずっと……二十三年間、父は死んだと母から聞かされていました。今更、父が生きていて、病気で死にそうだと言われても……。どうすればいいのか、わたしには分かりません」
「どうすればって……会えば良いだけの話ですわ。バートンは貴女に会いたがっておりますのよ。死ぬ前にもう一度、自分の娘の顔を見たい……ただそれだけなのに!」
「会って何を話せばいいんですか⁉︎ 二十三年ですよ。わたしの記憶に、父はいません。わたしの人生の大半にいなかった人を、いきなり父親と思えなんて……できるはずがありません! ……今は、あなたが父の傍にいるんですよね。なら、あなたが娘として暮らせばいいじゃないですか。わたしはもう、関係ないです」
勢いよくジーナがベンチから立つ。彼女は公園の出口へ爪先を向け、パンプスの踵を鳴らしながら足早に去ろうとする。
引き止めねばならない――そう直感したローズは、ジーナの手首を掴んで近くの茂みへと引っ張っていった。十歳程度の子供とは思えない力に、彼女はギョッとしてローズを見る。
「ちょ、ちょっと、放し……力、強っ……!」
「貴女たちは狡いわ! 私はバートンと貴女たちの間で起こったことはよく分からないけれど、狡いってことは分かりましてよ!」
「狡いって、何が? もう、どこまで行くの!」
どこまでかなど、ローズの方が自分に聞きたかった。
木立の中を走り、人気のない所でやっとローズは足を止める。ジーナはすっかり息が上がってしまったようで、ローズが掴んでいた手を放すとその場に膝をついた。
ローズもまた肩で息をしていた。ただでさえ清浄な空気と自然の太陽光がない『庭』の外で、エネルギーを大量に使えば超生命体の植物人でも疲労を感じる。しかし、それよりも止めどなく溢れる涙と激情が、ローズの全身を戦慄かせていた。
「狡いわ……貴女もマリアンナも、バートンから愛される権利を生まれながらに持っているのに、どうしそれを捨てようとするの? 私は人間じゃないから、どれだけ願ってもバートンと愛し合うことはできないのに!」
「どういう、こと? あなたは一体……?」
「私はローズ……バートンと契約を結んだ植物人よ」
ローズは目深に被っていた帽子を取った。明らかに人間ではありえない真紅の花弁の髪に、ジーナが目を瞠る。
「それ、花……? それに、植物人って? あなた、人間じゃないの……?」
「えぇ……詳しくは省略しますけれど、私は人間ではなくて、植物ですの。私とバートンは、仕事のパートナーになって五年になりますわ。でも、彼の心にはずっと貴女がいましたのよ。二十年も前に、たった三年しか一緒にいなかった貴女が」
ローズはジーナが妬ましくて、羨ましい。別れて会うことができなくなっても、ずっとバートンの心に住まわせてもらえた彼女が、憎たらしくてたまらない。バートンとの日々を否定したいわけではないのだ。ローズがどれだけ仕事ができるようになろうと、バートンが褒めた女優のような振る舞いをしようと、ジーナに勝つことができないと知ってしまった。
ローズはその場に膝から崩れ落ちて、声を上げて嗚咽する。
「私だって、本当は貴女に会いたくなかった! バートンを愛している私なら、代わりになれると思った! でも、やっぱり駄目なのよ……本当の娘である貴女でなきゃ、バートンの心は埋められない。たった五年しか一緒にいなかった植物人は、二十年間思い続けていた人間には絶対に勝てないのよ……!」
悔しい、悔しいとローズは拳を握る。
バートンがジーナに会いたいと願っていることを知った時、ローズの心はすぐに「嫌だ」と思った。父親が余命わずかと知りながら顔も見せない不義理な女より、ローズの方が愛されるに相応しいとさえ考えた。
しかし、ローズを見つめる彼の瞳の奥に、幼いまま時間を止めた娘の面影を見つけてしまった。ローズは決して娘に勝つことはできない――それを悟った瞬間、ローズの中で燻っていた黒く冷たい感情が、跡形もなく風に浚われていった気がした。
ジーナとコンタクトを取ることに、葛藤がなかったわけじゃない。ジーナと会うことはバートンも諦めていることだから、このまま彼の命が尽きるまでローズが傍にいる選択肢もあった。だが、それで本当に良いのかと、自分の声に問いかけられた。
ローズの幸福と、バートンの幸福――それを秤にかけて、ローズは行動した。
植物人の中でも電子機器の扱いに長けたイクソラに、上層の住民データベースにアクセスしてもらい、ジーナの連絡先を取得した。電話は変装をして役所の公衆電話からかけ、温室から抜け出す時はアイビーから教えてもらって排気ダクトを使った。本当は薄汚れたダクトなど通りたくなかったが、背に腹は代えられない。
全て見つかれば叱られる程度では済まない違法な行為だが、バートンのためと考えれば、一切の後悔はなかった。
ローズは袖で頬を拭い、キッとジーナを睨んだ。
「勘違いしないで。私がここにきたのは、貴女にバートンの娘だと認めてほしいわけじゃありませんわ。彼が死んでしまう前に、娘に会いたいという願いを叶えてあげたいだけ。会ったのなら、貴女は好きに生きればいい。バートンには私が寄り添う……私は薔薇ですもの」
半ば押し付けるように、ローズはバートンの病室番号が書かれた紙をジーナへ渡した。
立ち上がると、クラリと眩暈がした。泣き過ぎて水分を消耗したのだろう。長居をしすぎて病葉にでもなってしまったら、温室を抜け出したことがバレてしまう。
帽子を被りなおし、座り込んだままのジーナに背中を向けて歩き出したローズの手を、彼女が掴んだ。
「ま、待って! あの……ごめんなさい」
「何に謝ってらっしゃるの?」
「あなたに。あなたは父をこんなに愛してくれているのに……わたし、自分のことばかり考えてた。父のことを知ろうとしなかったのも、わたしなのに。あなたが知ってる父のこと、教えてください」
ジーナから頭を下げられ、ローズは「知ってることだけなら」と前置きして口を開いた。
バートンとマリアンナの馴れ初めや、離婚に至った経緯、バートンの後悔など、病室で聞いたことを彼女へ伝えた。これはバートン側の事情であるから、これまでマリアンナから彼女が聞いてきたことと相違があるだろう。それでも、ジーナは口を挟まずに黙って聞いていた。
ローズが説明を終えると、ジーナは小さく「ありがとう」と言った。
「そっか……やっぱり、ふたりが別れたのは母の不倫だったんだ」
「やっぱりって……貴女、覚えているの? 人間って、五歳くらいから記憶が脳に定着するものじゃなかった?」
「もちろん、はっきりとは覚えてはいないわ。でも、ちょっとだけなら写真みたいに記憶に残っているの。母と知らない男の人がベッドで寝ているところとか、言い争っているところとか……。そのことを訊くとすごく怒られたから、もしかしてとは思ってたの」
不格好な微笑みを作るジーナの声音には、わずかな自嘲が含まれていた。彼女自身、真実を知る手段がなかったのだろう。あの高慢そうなマリアンナが、自分の非を認めるとは考えにくい。どれだけ問い質しても「父親は死んだ」の一言で突っぱねられてしまって、気弱そうな彼女にはそれ以上の追及はできなかったのだろう。
その静かで、優しく、だが真実をまっすぐに見つめるジーナの瞳は、バートンそのものだった。
突然、ジーナが持っていたポーチをまさぐり、携帯端末を取り出した。細い指が手早く操作して、端末を耳に押し当てる。
「――もしもし、中層福祉課のジーナ・ティレットです。急で申し訳ありませんが、本日は有休を使わせて頂きたくて。……えぇ、急ぎの仕事もありませんから、問題ありませんよね。実は……父が、危篤なんです。話ができる、最後のチャンスになるかもしれないんです。そういう理由ですから、よろしくお願いします」
一方的に告げて、ジーナは通話を切った。くるりとローズを振り向いた彼女の表情は、決意に満ちていた。
「あ、貴女……」
「ローズさん、わたし、父に会いたいです。でも……本当は、まだちょっと迷ってます。二十年間、探そうともしなかった親不孝な娘なのに、会いに行ってもいいのかって……」
「きっとそれは、バートンも同じですわ。彼だって、貴女に会いに行こうと思えば行けたはず。行かなかったのは、バートンの中で諦めていたのもあったのでしょうけれど、一番は怖かったからだと思いますわ」
マリアンナと離婚して二十三年、ジーナのことは常に彼の頭にあっただろう。奔放な母親に連れられていったがために、何かしらの苦労をしていないか、心配だったはずだ。それでもコンタクトを取ろうとしなかったのは、ジーナから父親であることを否定されるのを恐れたからだ。逡巡しているうちに植物管理士になるよう辞令が出て、彼はついに叶わないと諦めてしまった。植物人に関係する仕事は、家族への情報漏洩を危惧しているから、独身の職員がなることが多いのだ。
ローズは小さく笑って、ジーナへ手を差し出した。
「そろそろ行きましょう。ここは息苦しいですもの」
「あ、あの、ついでにあなたのことも教えてもらってもいいですか? 植物人って、何なんですか?」
「秘密。でもひとつだけ言えることは……植物人たちは人間たちを愛し、寄り添う存在よ」
まるで幼子のような目をしたジーナの手を引いて、ローズは日溜りの中を温室へ向かって歩いて行った。
◆◇◆
カフェテリアの壁に掛けられたカレンダーを見て、ローズは今日がバートンの命日だと思い出した。
だが、特段ローズがバートンのためにできることはない。三年前に旅立った彼の遺体は上層居住区の墓地に埋葬されてしまったから、植物人のローズは行くことができないのだ。
前のようにダクトを使って温室を抜け出すこともできるが、正直、もうやりたくはない。髪も肌も埃で汚れるし、何より外は居心地が悪い。あの時も結局は軽度の病葉になってしまい、外に出たことも、一般人のジーナに植物人であることを明かしたこともバレてしまった。
世界総督とローリエに情状を汲んでもらったことで厳重注意だけで済み、ローズは今も植物管理士として種核の育成業務に従事している。
「ローズさん!」
若い女の声が飛んできて、振り向いた先には白衣を着たジーナが手を振っていた。彼女の腕の中には、たくさんの付箋が飛び出している分厚い本が抱えられている。植物人の生育に関する専門書で、バートンの私物だったものだ。
三年前、ローズはバートンの最期の望みであった娘のジーナと引き合わせた。病室でただ涙と共に抱き合うふたりを見て、ローズの胸の内にあった黒い感情は嘘のように消え去った。ジーナへの嫉妬も、バートンへの恋慕も、紅茶に入れた砂糖のように溶け落ちたのだ。後に残ったのは、朝露に濡れて瑞々《みずみず》しい、たおやかな薔薇のような愛だけだった。
穏やかに、眠るように逝ったバートンを看取った後、ジーナは植物管理士を目指して勉強を始めた。そして、半年前に正式に辞令が下り、今は見習いとしてアルフヘイムの研究エリアで働いている。
ジーナはパンプスの踵を鳴らしながら、ローズの座っているテーブルに駆け寄ってきた。
「お待たせしました! 今日もご指導、よろしくお願いします、先輩!」
「貴女はいつも元気ですわね、ジーナ。これから生育室を回りますわよ」
はい、と元気な返事をしたジーナが、ローズの後に続く。
生育フロアへ向かう途中も、ジーナは歩きながら専門書を開いていた。勉強熱心なのは良いことだが、研究員とぶつかってサンプルを台無しにでもしたら、責任を取るのは先輩であるローズだ。そうなる前に、ローズはジーナの脇腹を指でつつく。ひゃあ、と素っ頓狂な声を上げて、彼女は体をよじった。
「何するんですか、先輩!」
「何度も言っているでしょう、歩く時は本を閉じなさいな。転んで怪我をいたしますわよ」
「大丈夫です、ちゃんと周りも見てますから」
「……貴女、本当に後悔はありませんの?」
ローズはジーナの顔を見上げて呟く。
三年前に出会った時、ジーナには婚約者がいた。相手は上層に住む大企業の令息で、結婚も控えていたのだ。そのまま過ごしていれば安泰な人生だっただろうに、ジーナはその結婚を断ったという。
ジーナに父親がいない理由を死別したからだと、マリアンナは相手方に説明していたようだ。しかし、バートンは生きていて病床にいること、マリアンナの不倫が原因で離婚したことをジーナが明かした。醜聞を嫌った婚約者の両親はすぐに結婚を取りやめ、ジーナも母と決別して家を出たという。
ジーナは穏やかな表情で、首を横に振る。
「結婚のことは、もういいんです。黙って結婚しても、母の不倫が明るみに出ればお相手から離婚されてたでしょうから。母はこの事実をお墓まで持っていく気だったんでしょうけれど、秘密なんていつか思いがけない形でバレるものです」
「バートンのようにね」
「えぇ。それに、むしろ良かったのかもしれません。だって、夫がいるとアルフヘイムに配属されないじゃないですか! わたし、いつか必ずローズさんの土になりますから」
「……そう。貴女がいいなら、私もこれ以上は言いませんわ。それなら、遠慮なく植物管理士として教育させていただきますわ。生育室の巡回を終えたら、次は剪定の訓練をいたしますわよ」
「ひぇ……お、お手柔らかにお願いします……」
ローズは声を上げて笑った。自分も植物人にしては高齢になってきたが、まだまだ種核に戻るわけにはいかなそうだ。
苦手な剪定も行うとなり、前回注意された点などを見返しているのだろう。手帳を捲るジーナを、ローズは足を止めて呼んだ。耳をこちらに近づけるように指で指示すると、彼女は身を屈めて顔を寄せてきた――その頬に、ローズはキスをする。
突然のローズの行動に、ジーナが驚いて飛び退いた。一気に顔を紅潮させた彼女に、ローズはまた笑った。
「貴女が一人前の土にも植物管理士にもなれるまで、私が寄り添ってさしあげますわ。私は薔薇の植物人ですもの」
再び歩き出したローズの後を、ジーナが慌てて追いかけてきた。
アルフヘイムの白い照明を受けて、ローズの象徴である真っ赤な花弁の髪がたおやかに揺れていた。