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Solitude Letters.

 タッカ・シャントリエリにとって、人間は『馬鹿の集まり』だった。

 長い歴史の中、老いも若きも男も女も、白色(はくしょく)人種(じんしゅ)有色(ゆうしょく)人種(じんしゅ)も争いに争って、世界がそっぽを向いた途端(とたん)に手を取り合った。地球は瘴気(しょうき)という猛毒によって、己に巣食う命を全て刈り取るつもりだったのだろう。だが、予想外にも人間という強欲(ごうよく)な存在は生き残ってしまった。加えて、人間共はタッカら植物人プランツ命懸(いのちが)けで契約してまで、世界を再生しようとしている。

 妹のミントのようなしぶとさと、弟のデルフィニウムのような傲慢(ごうまん)さを(あわ)せ持った(おろ)かな存在――それが人間だ。

 もはや地球は自浄(じじょう)も諦めたのだから、こちらも延命(えんめい)足掻(あが)きなどせず、なるように任せればいい。そう思うからこそ、タッカは長年人間との契約を拒み続けていた――そのはずだった。

 眠りの(ふち)揺蕩(たゆた)っていた脳内に、おーい、と呼びかける間の抜けた男の声が響いた。

 思わず眉を(しか)めたタッカは早々に無視することに決め、木の上での昼寝を継続する。しかし、無粋(ぶすい)な男の声は絶えず『おーい、タッカー』と呼び続けている。鬱陶(うっとう)しさに根負(こんま)けしたのはタッカだった。

五月蠅(うるさ)いぞ、ブラッドリー。阿呆(あほ)だからパートナーが昼寝していることも気づかないのか?」

 非難(ひなん)たっぷりに刺々(とげとげ)しい言葉を送ると、頭が痛くなるほどの大きな笑い声が返ってきた。

『起きてたくせに意地悪言うなよ、タッカ。この間の任務について話があるんだ。二十階のカフェテリアまで来てくれ』

 待ってるぜー、と一方的に約束を取り付けられ、一方的に会話が遮断された。

 タッカは溜息と共に、渋々(しぶしぶ)木から降りて『常磐(ときわ)の庭』の出口に向かう。すっぽかそうかという考えも頭をよぎったが、それはそれで後々面倒なことになる。一応は外界調査隊の一員となっている立場だ、長兄(ちょうけい)のローリエに鬱陶(うっとう)しい小言(こごと)を言われたくはなかった。

 ゲートで麻編(あさあ)みの服を脱ぎ、小奇麗(こぎれい)な屋外用衣服に着替える。柔らかに()える草原から冷たくて硬いリノリウムに足を乗せた瞬間、タッカは顔を(ゆが)めた。庭の外は、いつも暴力的なほどに薬品臭い。

 タッカら植物人プランツにとって、植物が繁茂(はんも)する『常磐(ときわ)の庭』以外はどこも汚れた『外』だ。空気は微細(びさい)(ほこり)や細菌で汚れているし、二酸化炭素も多い。何より、人間たちの不躾(ぶしつけ)な視線が鬱陶(うっとう)しい。

 植物人プランツたちは皆、整った顔をしている。人間と共存するために、生みの親である世界樹(せかいじゅ)がそう(つく)ったからだ。人間が不快感を(いだ)かず、無条件に守るべきものだと判断するよう、姿は十歳程度の子供から成長しない。

 その何もかもが、タッカを苛立(いらだ)たせた。

 外界(がいかい)で巨大な(むし)と戦うのは、(おも)に自分たち植物人プランツだ。なのに小柄な体躯(たいく)から成長せず、人間のケアなしでは満足に力を発揮できない。その上、こちらの方が長生きなのに、当然のように子ども扱いをして(あなど)ってくる人間も多い。一応、声をかけたり触れたりできるのは既にパートナーがいる『ソイル』か、特別に許可を得た研究員しかいないのは不幸中の幸いだが。

 遠巻(とおま)きに刺さってくる若い研究員からの熱っぽい視線に、侮蔑(ぶべつ)を込めた睨視げいしを返しながら、タッカは階段を登っていく。

 超生命体の植物人プランツでも十階層分の階段は辛いが、タッカにとってはエレベーターの方が苦行(くぎょう)だ。人間と狭い庫内(こない)に閉じ込められるなど、一秒たりとも我慢できない。

 砂袋(すなぶくろ)のように重くなっていく足が最後の段差を越え、タッカは息を整える。首元(くびもと)のボタンを(ゆる)めた時、すぐ隣から「よぉ」と声が聞こえて肩が跳ねた。

「お疲れサマ、タッカ」

「……阿呆あほブラッドリー……」

 タッカの苦々しい声に、パートナーである外界調査員のブラッドリー・カーターは大きく口を開けて豪快な笑い声を響かせた。

 彼は人生折り返しの三十歳も越えたというのに深緑色の制服をだらしなく着崩(きくず)し、うなじ無造作(むぞうさ)に縛った焦げ茶の髪も中途半端に刈り(そろ)えられた顎髭(あごひげ)も清潔感がない。上層に住む富裕層の出でありながら、選民思想(せんみんしそう)嫌気(いやけ)がさして死と隣り合わせの外界調査員となった変わり者。素行不良(そこうふりょう)など問題も多いくせに、部隊長を任せられている軍部の鼻つまみ者だ。

 汗の(にじ)んだ額を、ブラッドリーが笑いながら(そで)(ぬぐ)ってきた。

「あーあー、汗だく。エレベーターくらい使えよ」

五月蝿(うるさ)い。あんな地獄の空間にいるくらいなら、汗まみれになる方がまだマシだ。……やめろ、(こす)るな。痛い、臭い」

「臭いって……お前の人間嫌いは相変わらずだなぁ。ま、いいや。さっさとカフェ行こうぜ。真水(まみず)(おご)ってやるからよ」

「その前に、何の用事なのか教えろ。また溜めた報告書の手伝いなら断るからな」

 ブラッドリーの手が止まる。表情はからかうもののままだが、十年パートナーをしているタッカにはその感情など筒抜(つつぬ)けだ。

 タッカはくるりと背を向けた。

「帰る」

「待て待て待て! ちょっとくらい手伝ってくれよ、パートナー! もう三日も提出期限を過ぎてんだよォ!」

自業自得(じごうじとく)だ! お前はいっぺん、こっぴど(しか)られてこい!」

「そン時ゃお前さんも一緒だぜ、タッカ。植物人プランツソイルは一心同体だからな」

「違う! ビジネスパートナーだ!」

 タッカは抱きついて(すが)ってくるブラッドリーを引きはがそうとするが、無駄に力のある彼の腕を振り解けない。それに大きく舌打ちをして、(ひじ)をブラッドリーの脳天(のうてん)に振り下ろした。ゴツッと硬い音がして、彼は頭を押さえてリノリウムの床をのたうちまわる。

 タッカは大きく溜息を吐いて、その尻を蹴飛ばした。

「……レッドミール、箱でくれるなら」

 (つぶや)かれた言葉に、ブラッドリーがパッと顔を上げる。その顔にじんわりと喜色(きしょく)(にじ)んで、タッカを抱き上げて頬擦(ほおず)りしてきた。

「タ、タッカ〜! やっぱお前は最高のパートナーだぜェ〜!」

「ひっつくな鬱陶(うっとう)しい! 最高級の新品以外は認めないからな!」

「分かってるって、タッカはグルメさんだからな。そうと決まれば、さっそく取りかかろうぜ!」

 鼻歌を歌いながらカフェテリアへと向かうブラッドリーの後を、タッカはズボンのポケットに手を突っ込みながらついていく。

 甘い、と我ながら思う。甘くなってしまったのだ。ブラッドリーと契約した十年の月日の中で、彼の能天気(のうてんき)さが移ってしまった。

 植物人プランツと土は影響し合う。根が土壌(どじょう)の養分で花の色を決めるように、性格や嗜好(しこう)が変化していく。植物人(プランツ)も人間も、それを拒絶することはできない。

 ガラスパーテーションの中には、不吉な真っ黒い花弁かみの下から不機嫌そうに(にら)()り目と、不服そうに唇を歪めた自分がいた。他の植物人プランツたちとは比べ物にならないくらい、不愛想(ぶあいそう)不細工(ぶさいく)な、数十年変わっていない少年の姿だ。

 しかし、見えない部分は確実にブラッドリーに影響され、変化している。その事実に、タッカは口の中で舌打ちをした。


  ◆◇◆


 温室の二十階には、いつもコーヒーの香りがあった。

 ワンフロアを丸ごと占有(せんゆう)しているカフェテリアは、やつれた研究員や明日も知れない調査員の(いこ)いの場だ。日々世界のために尽力(じんりょく)してくれる職員たちが休めるようにと、今から数代前の世界総督(せかいそうとく)がエリアを拡張(かくちょう)したらしい。だというのに、人間たちは人型販売機ベンダーが提供した飲食物を片手に、小難しい研究の話やら血腥ちなまぐさい外界の話やらをしている。

 非生産的で矛盾的だとタッカは思っていた。思い悩むのは勝手だが、わざわざ休息に来てまで辛気臭(しんきくさ)い顔をしないでほしい。本当に人間と言う生き物は馬鹿ばかりだ。

 人型販売機ベンダーからブラッドリーが買ってきた真水(まみず)植物人(プランツ)用の食糧であるレッドミールを受け取り、タッカは彼の溜め込んだ書類仕事を進めた。一週間前の出撃報告書も提出していなかったとは思わず、ブラッドリーのすねを蹴飛ばしながらペンを走らせた。

 結局、ブラッドリーの尻拭(けっきょく)いはいつもタッカがすることになる。他のパートナーは互いに記憶を(おぎな)い合いながら報告書をまとめると知って、タッカは羨望(せんぼう)より羞恥心(しゅうちしん)が勝った。ブラッドリーより年下の人間の方が、よっぽどしっかりしている。

 タッカとブラッドリーの大きな溜息が重なった。

「……進んでいないな、ブラッドリー」

 んー、とブラッドリーは肯定(こうてい)とも否定とも取れない、曖昧(あいまい)(うな)り声を上げる。

 彼の眼前(がんぜん)に置かれているのは、白い便箋(びんせん)だ。整然(せいぜん)と並ぶ薄茶色の罫線(けいせん)の上には、ただ『ブレナン夫婦へ』と書かれていた。

「一週間前に殉死(じゅんし)したコーディ・ブレナンの家族宛てか」

「そ。先にコレ書いてから報告書って思ったんだが……ペンが動かなくてな」

「書くことがないなら、定型文でいいじゃないか。どうせ職務範疇外なんだ、『勇猛に戦って死んだ』とか『世界再生の(いしずえ)となった』とかで十分だろう」

「タッカ」

 名前を呼ぶブラッドリーの声音は固く、タッカの耳を刺した。まっすぐに見据(みす)えてくる眼光が(するど)く光る。――パートナーだから分かる。ブラッドリーは、タッカに怒っている。

 (ばつ)が悪く思ったタッカが目を()らすと同時に、ブラッドリーもまた大きく背中を()らせて天井を(あお)いだ。

「書くことがないんじゃなくて、ありすぎるから困ってんだ。弱いくせに強い酒が好きで、よく酒瓶(さかびん)(かか)えて寝てたこととかさ」

「コーディを(つぶ)してたのはお前だぞ、アルハラブラッドリー」

「二年つき合った彼女にフラれて、ひと晩中ガチ泣きしたこともあったな」

「あぁ、ブラッドリーが横取りした女だろう」

「違ェよ! 向こうから勝手に言い寄ってきただけだっつの。俺は誓って手は出してねェよ! ……多分」

「多分と言っている時点で説得力がないな、阿呆(あほ)ブラッドリー。あの時はパートナーのトリトマまで泣くものだから、しばらく使い物にならなくて大変だったんだぞ」

「ふたりとも思い込み激しかったなー。温室はソイル植物人プランツが互いを(おぎな)い合うようにマッチングさせるんじゃなかったのかよ」

「コーディとトリトマのマッチングは、コーディの立候補だった。お前もそうだったろう、ブラッドリー」

 まぁなぁ、と相槌(あいづち)を打って、ブラッドリーは甘いココアを(すす)った。

 五人――それが今までにタッカが殺した人間の数だ。

 正確には、ソイルになれなかった人間である。タッカの髪に含まれたミアズマシッドに耐えきれず、命を落とした大馬鹿者たちだ。

 同時期に生まれた植物人きょうだいたちの中では一番戦闘に長けていたから、温室の人間たちはタッカにソイル(あて)がいたかったらしい。適性検査でソイル候補(こうほ)を五人殺した植物人プランツは、パートナー適性なしとして『常磐(ときわ)の庭』で後進(こうしん)を育てるなどの内勤(ないきん)()くことになっている。

 人間と契約など死んでも御免(ごめん)であったタッカにとって、それは僥倖(ぎょうこう)であった。

 しかし、そこへ手を上げた男がいたのだ。


 ――泣きの一回、やらせてくれよ、な?

 

 そう温室に頼み込んだのが、外界調査員になったばかりのブラッドリーだった。

 彼にも温室が用意した契約候補の一覧が配られていたはずだが、全て「なんかイマイチ」という理由で断っていたのだ。

 五人殺して契約用植物人(プランツ)から(はず)れたタッカと、契約相手を決められずにいたブラッドリー。

 ブラッドリーがタッカの適性検査の場を偶然通りかかっていなければ、今のふたりの関係はなかっただろう。

 彼の言う『泣きの一回』は成功し、晴れてパートナーとなったが、タッカはすぐに庭へ戻れるだろうと考えていた。しかし、ブラッドリーは悪運の強い男だった。

 生還率三十パーセントの外界調査でも、何だかんだと生き残り、気づけば『速攻出撃、速攻帰還』を標榜(ひょうぼう)する第八八一部隊の隊長となり、高い成果と帰還率を誇る後続増援部隊となった。

 そのおまけとして、タッカには報告書の代筆業務や生活態度の監視業務がくっついてきたが。

 タッカは無駄話を打ち切るように、ペン先でテーブルを打った。

「手紙だろうが何だろうが、書くならさっさと書け。提出書類は報告書の他にも、まだまだあるんだ」

「わーかってますって。――悪いな、タッカ。奪っちまって」

「お前が俺の時間を奪うことは、いつものことだろう」

「違う。お前の『きょうだい』を、奪っちまった」

 神妙(しんみょう)な顔で、ブラッドリーは呟く。

 それは、ふたりがパートナーとなった日に()わした約束だ。

 タッカは植物人きょうだいを守り、ブラッドリーは人間きょうだいを守る。だが実際は、お互いに守れたことよりも(うしな)ったことの方が多い。

 タッカは紙面(しめい)に走らせていたペンを止めた。

「……それは俺も同じだ。お前の『きょうだい』を奪った。奪い続けている、十年間ずっと」

「十年か……いっぱい死んじまったな。ベック、ノーマン、アイリーン、テリー、エリシア……そのパートナーのアマリリス、スノードロップ、タンジー、クリビア、シーマニア……はは、もう両手じゃ数えきれねェな」

「その(たび)に、お前は遺族に手紙を書いて届けた。突き返されても、殴られても、お前は手紙を書くのをやめない。そんなことをする温室の人間はお前だけだ。贖罪(しょくざい)か?」

「んな大層(たいそう)な理由じゃねェ。ただのエゴだよ。温室にとっちゃ外界調査員は使い捨ての鉄砲玉だろうが、実際はひとりの人間だ。過去も未来も、感情も大切な物も持っている、誰かにとって大事な命だ。中には身寄りのない奴もいた。だから、隊長の俺だけは覚えていてやりてェのさ」

 ブラッドリーは手元に転がっていたネイビーブルーのペンを取り、便箋(びんせん)に美しい流線(りゅうせん)を書いていく。どうやら、書くべきことは決まったらしい。タッカもまた、報告書を黙々(もくもく)と埋めていった。

 静かなカフェテリアに、固いペン先が紙を(こす)る軽やかな音が響く。調査の報告書が終われば、次は部隊員の補充申請書だ。きっとまた若い新人が配属されるのだろう。近年は入隊者よりも殉職者(じゅんしょくしゃ)の方が多く、牢獄階層のニヴルヘイムに収監されている囚人(しゅうじん)すらも駆り出している状況だ。

「なぁタッカ」

「何だ、ブラッドリー」

「お前も書いてくれよ」

「はぁ?」

 彼の言葉の意味が分からず、タッカが視線を向けると、ただ微笑むブラッドリーの穏やかな赤茶色の瞳に見つめられていた。武骨(ぶこつ)な指がコツコツと、こちら側に向けられた便箋(びんせん)をつつく。最後の二行が、まだ白いままだった。

「俺に、コーディとの思い出なんて無いぞ」

「お前になくても、トリトマにはあるだろ。トリトマから聞いたコーディのことを、ここに書いてくれよ」

「いきなり言われても、そうすぐに思い出せるわけが……」

「思い出せるさ。優秀な俺のパートナーだからな」

 (なか)ば強引に便箋(びんせん)寄越(よこ)され、渋々(しぶしぶ)タッカは記憶の根を下っていく。

 トリトマは少々夢見がちな少女型植物人プランツだった。感受性が豊かで、機器察知能力が高かったことから外界調査でも周囲の哨戒(しょうかい)を任されていた。彼女とコーディの相性は良く、休日にはこのカフェテリアでカードゲームに(きょう)じ、恋愛話をすることも多かった。


 ――コーディはね、スピードがとても弱いのよ。あぁ、足の速さじゃなくて、トランプのこと。

 ――コーディ、すごい奥手なのよ。でも、そこが彼の魅力なんだけどね。

 ――タッカ兄さん、聞いてよぉ! コーディ、彼女にフラれちゃったのよ!? 信じらんない、あんなに良い人なのに!


 便箋びんせんの上に、ブラッドリーよりも小さな文字がつづられていく。

 トランプが苦手なこと。

 料理が下手で前髪をがしたまま任務に来たこと。

 サッカーやラグビーが趣味だったこと。

 歌が上手くて流行はやりの曲をよく歌っていたこと。

 全て、この世界にもういないトリトマの目を通したコーディのことだ。

 彼女はいつもコーディのことを話していた。だからタッカも人間に興味などなかったが、コーディの性格や嗜好しこうを覚えてしまった。ひとつ思い出せばふたつ、みっつと泡のように記憶が浮かんでは、書きしるすごとに消えていく。

 最終段の右端みぎはじまで埋まった便箋びんせんを見たブラッドリーが、クシャッと顔をほころばせた。

「ありがとうな、タッカ。やっぱりお前の記憶力は頼りになるぜ」

「……たまたま覚えていただけだ。手紙が終わったのなら、書類を……」

「俺のことも覚えといてくれよ、タッカ」

 便箋びんせん丁寧ていねいに折り、封筒ふうとうに収めながら、ブラッドリーは続けた。

「ほんのちょっとでいいんだ。髪が茶色だったとか、ひげが生えてたとか、そンくらいで。ブラッドリー・カーターという存在が、この世界にいたという証明になってほしい」

「いきなり、何を……冗談はよせ、阿呆あほブラッドリー」

「そうやってお前に『阿呆あほ』って言われるの、結構好きなんだぜ? お前、他の奴のことは『馬鹿』とか『能無し』とか散々に言うけど、『阿呆あほ』って言うのは俺にだけだ。俺だけ特別なんだって思えば、嬉しいもんだ」

けなされて喜ぶな、阿……」

 ついいつもの調子で『阿呆あほブラッドリー』と言いかけて止めた。言えば逆にブラッドリーがニヤニヤするだろうと、タッカの天邪鬼あまのじゃくな性格が止めたのだ。

 だが、そんなタッカの反応も予想通りとばかりに、ブラッドリーは大きく口を開けて笑う。見透みすかすような態度に無性むしょうに腹が立ったタッカは、強めに彼のすねを蹴り上げた。

 ブラッドリーは「痛ェ、痛ェよ」と言いながらも、口元は笑んだままだ。

 ――ふと、タッカは視界が大きく揺れた。強烈な睡魔すいまが頭を揺さぶる。

「どうした、タッカ。眠いか? 昼寝の途中って言ってたもんな」

「……なんでも、ない……」

「眠いなら寝ちまえ寝ちまえ。後のことは、俺がやっとくさ」

 平気だ。眠くない。そう言いたいのに、声が出ない。体の力が抜けて、まぶたが勝手に下がっていく。

 ――嫌だ。まだ起きていたい。まだ『ここ』にいたい。

 そう強く思っても、意識はどんどん眠りの水底みなそこへ沈んでいこうとする。

 その時、大きなてのひらがタッカの頭に乗せられた。温度のない、てのひらだ。


「なぁ、タッカ。口が悪くて足癖あしくせも悪い、ひん曲がった性格の俺の半身きょうだい。俺を選んでくれて、ありがとうな」

「おれが……選んだ、わけじゃ……」

「お前のミアズマシッドは俺を殺さなかっただろ。それが証明だよ」

 違う、そんなのは偶然だ。

 植物人プランツが持つミアズマシッドがむしだけでなく人間にまで猛毒なのは、世界樹せかいじゅが人間すらも世界の敵だと認識しているから――これはタッカの推測すいそくだが、きっと正解だと思っている。だからタッカのミアズマシッドでブラッドリーだけが生き残ったのは、ただ運が良かっただけなのだ。タッカが選んだわけじゃない。

 そう言ってやりたいのに、もう口も上手く開かない。頭をでる感触が悔しいほどに心地よくて、優しくて、無性むしょうに泣きたくなる。

「じゃあな、タッカ。目が覚めたら現実だぜ」


  ◆◇◆


「――タッカ。タッカ、こんなところで寝ちゃダメだよ」

 肩を揺すられ、タッカは目を開けた。

 ひどく頭が重い。なまりを埋め込まれたようだった。罅割ひびわれたテーブルの天板てんばんに手をつくと、振動でペンが転がり落ちる。せたネイビーブルーが、タイルの隙間すきまから顔を出したカタバミに受け止められた。

 それを拾い上げたのは、ローリエだ。鮮やかな深緑色の丸い瞳が、タッカを見下ろしていた。

「君はここが好きだね。何を書いていたんだい?」

 ローリエが身をかがめて、タッカの腕の下に広げられた紙を見る。特に隠し立てするようなものでもないから、タッカは仰け反るように椅子の背凭せもたれに重い体を預けた。

「『外界調査報告書』……? タッカ、もうこんなものを書かなくてもいいんだよ。外界に出撃したことは、世界樹せかいじゅを通して僕らに共有されるからね」

「癖のようなものだ……放っておいてくれ」

「……人間と組んでいた時、報告書を書くのは君の仕事だったね。君のソイルだった男は腕は立つけれど、こういう雑事ざつじは苦手だった」

「夢を、見ていた……昔の夢を……」

 まぶたを閉じれば、夢の余韻よいんが残っていた。

 ブラッドリーは死んだ仲間の家族に手紙を書いていたから、いつも報告書が遅れ気味ぎみだった。人間は無駄に仲間意識の強い生き物だ。しかし、慣れも早い生き物でもある。最初こそ誰かの死には大いに悲しむが、それが続けば精神が慣れて何も感じなくなっていく。可愛がっていた部下が死んでも無機質に補充申請書を書くだけで終わりにする部隊長が当たり前の中、ブラッドリーだけは手紙を書き続けた。死ぬ間際まぎわまで。

 ローリエが己の足元に落ちていた紙を一枚拾い上げる。それはタッカの文字がびっしりと書き込まれた便箋びんせんで、五十センチ四方のテーブルの周りに二十枚ほど散らばっていた。

「タッカ、君は記憶力がいいね。三百年前に死んだブラッドリー・カーター隊長のことを、こんなに詳細に覚えているなんて意外だよ。人間嫌いだった君がさ」

「嫌いだ……今も昔も」

「人間だけじゃない。植物人ぼくらのことも嫌いだろう」

 ローリエの穏やかな声音こわねの指摘に、タッカの肩がビクリと震えた。

「君の『嫌い』は『愛』にとても似ているね。かつては人間と契約していても、パートナーのことは忘れている子も多いのに、君はたくさんのことを鮮明に覚えている。愛がなければできないことだ」

「違う!」

 タッカは大きくかぶりを振った。

 タッカは傲慢ごうまんでしぶとくて、愚かで馬鹿な人間が嫌いだ。だが、同胞の植物人プランツのこともまた嫌いだった。人間にびを売るために子供から成長しない体も、人間の造った肥料がなければ永く生きられない存在に創った世界樹せかいじゅも、ままならないもの全てが憎らしい。

 目をてのひらおおったタッカの指の隙間すきまから、大粒のしずくつたう。ひとつ、ふたつと落ちたそれは、罅割ひびわれたテーブルをらした。

「嫌いだ、嫌いだ……何もかも。世界を壊した人間も、同胞をむしも、俺を置いていったブラッドリーも、忘れられない俺自身も……! 世界樹せかいじゅはどうして植物人おれたちをこんな不完全な存在に創ったんだ!」

 タッカはネイビーブルーのペンを強く握り締める。

 ブラッドリーが愛用していたものを、彼が死んだ時に譲り受けたのだ。タッカにとってはかせにしかならないと分かっていた。事実、ペン先がつぶれてろくな文字が書けなくなっても、捨てられずにいる。

 ――タッカは変わった。ブラッドリーに変えられてしまった。

 無尽むじん献身けんしんを知り、挺身ていしん容赦ようしゃを知り、永訣えいけつを恐れる甘く弱い精神になった。胸の奥に拳大こぶしだいの穴が空いてしまって、どれだけ時間が経っても埋まらない。ブラッドリーが死んだ時、タッカの種核たねも奪われたのだ。もはやタッカは、空虚くうきょ喪失そうしつかかえたまま記憶を反芻はんすうするだけの亡霊となってしまった。

 タッカの頬を濡らすしずくを指でぬぐったローリエに、頭を胸にき込まれた。白磁はくじてのひらがタッカのまぶたおおい、視界が黒く染まると共に睡魔すいまが襲ってきた。

「だいぶ疲れが溜まっているようだね、タッカ。少し眠るといいよ」

「おれは……疲れてなんて……」

「君とブラッドリーがパートナーだった期間は一万と三百七十五日……二十八年、五ヶ月二十八日間だ。温室でも長期の契約期間になる。その全てを思い出していたら、疲れるのも当たり前さ。少し、記憶を整理したらどうだい」

「断る……」

 タッカはゆるく首を横に振った。ブラッドリーは覚えていてほしいと言っていた。だからタッカは留めておかねばならない。それが最期さいごの約束だから。

 この手の中には、ネイビーブルーのペンがある。無造作むぞうさくくった茶髪も、り残したひげも、軽薄けいはくなようで誠実な言葉も、まだこの頭の中にある。

 それでも温度はうしなってしまった。あの時は鬱陶うっとうしいと感じていたのに、今はがれるほどにいとおしい。

「夢を見たい……そうすれば、俺は……孤独じゃないから……」

「……そっか。じゃあ、おやすみタッカ。ブラッドリーに会えるといいね」

 ローリエに解放されたタッカは、テーブルにす。起き上がることはもう難しかった。

 ローリエの足音が遠ざかると共に、タッカの意識は眠りの中へと落ちていく。眠りの海を揺蕩たゆたいながらも、タッカの手に握られたままのペンが黄ばんだ紙の上を走った。

 温室の二十階。カフェテリアの隅のテーブル。そこがタッカとブラッドリーの定位置だった。

 澄んだ真水まみずとレッドミール。ほのかにブランデーの香る、甘いココア。

 ブラッドリーは甘党で、ついぞコーヒーは飲めなかった。そのくせ大酒飲みでもあったから、舌が死んでるんじゃないかとよくからかわれていた。それを知っていたのはタッカと、数少ない友人だけだ。

 引き出される記憶をかすれた線がしるたび、タッカのまぶたの裏にブラッドリーの輪郭りんかく形作かたちづくられていく。

 うなじで縛った茶髪に、目尻の垂れた奥二重おくぶたえ。笑った時は左側の口角が上がって、形の良い白い歯が見えていた。タッカの悪態あくたいは聞き流して、しかし度が過ぎればちゃんとしかる常識もあった。すねを蹴られても「痛ぇって」と笑う声が、耳の奥で反響する。


 ――大丈夫。大丈夫。まだ覚えている。この頭にブラッドリーがいる限り、俺は何度でもアイツに会える。


 夢へとぼっするタッカの手から、ペンが離れてテーブルを転がり落ちた。

 つぶれたペン先から漏れたインクは、誰にも読まれることのない手紙を、黒く染めていった。

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