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【コミカライズ作品】私の愛しい人

私の愛しい人 彼女たちの世界

作者: りったん

 公爵家の令嬢ながら、リヨネッタは牢獄の中で生きている。四肢を縛る枷も無慈悲な鉄格子もないが、『公爵家』自体が彼女を蝕む地獄だった。


「ほら、お嬢様、食事ですよ!! 犬ですら呼べばすぐ来るのにお嬢様は犬以下ですね! 私は忙しいんですから早くして下さい」

 侍女はそう吐き捨てると、残飯といっていい代物をテーブルの上にガチャンと音を鳴らして置いた。繕い物をしていたリヨネッタは手を止め、よろよろとテーブルへと近づくと、開けっ放しの扉からもう一人の侍女が入って来た。



「あら、お嬢様。もう食事なんですか。それなら繕い物は終わったんですね? 終わったら持ってきてと言ったじゃないですか。早く渡して下さい」


 リヨネッタの目の前に手を突き出したが、繕い物が終わっていないと分かると激高した。


「お嬢様!! あれは急ぎだと言いましたよね?! カミラさまが夜会でお使いになるレースなんですよ。 まったく、ロクに仕事もできないで優雅に食事するなんて旦那様の言う通りロクでもない人間ですね!! 罰として食事は抜きです!! 終わるまでこの部屋から出ないで下さいね!」

 父の愛人に仕える侍女はそう言って怒鳴りつける。リヨネッタは顔を上げた。それは『人の目を見ないなんて失礼極まりない!』と昨日、叱責されたからだ。


「なんですその眼は? 病気がちで娘の躾ができていない奥様に代わってわざわざ私たちが指導してあげているのに、そんな態度を取られるのは心外ですね」

 侍女はそう言ってリヨネッタの頬をぶった。


「お嬢様。言っておきますけれど、これは公爵様もご存じですからね。ごくつぶしのお嬢様の世話をしてあげている私たちにちゃんと感謝して下さいね?」

 侍女たちの笑い声が室内に響き渡る。



 リヨネッタは彼女たちの望むとおりに床に額をこすりつけて謝罪と感謝を述べた。そうしなくては、いつまでたってもこの暴力と暴言が収まらないのだ。


 侍女たちはそれを見て満足し、日頃の鬱屈した気分を解消する。それを嘲笑いに来るのは父の愛人たちだ。


「オホホ。使用人に頭を下げるなんてどっちが使用人かわかりませんわねえ。床に這いつくばってまるでカエルのよう。おぞましいわね」

 今、この屋敷で父の寵愛を受けているのはイグリットという女で、寵愛争いに敗れた愛人たちはその憂さをリヨネッタで晴らしていた。


「貴族のプライドがこの娘にはないのね。いっそのこと娼婦になるのがいいかもしれないわ。あの女みたいにどこかの貴族に見初められるかもよ」


「アラ、無表情で可愛げのないこの娘を気に入るなんてそんな酔狂な殿方がこの世にいるかしら?」

 オホホと女たちはリヨネッタをあげつらう。



 グリーンガルズ公爵家の当主である父、ルイースは無能で傲慢、そして無類の女好きだった。リヨネッタの母、公爵夫人のメラニーは病気がちで部屋にこもり、父の寵愛を得た愛人が女主人気取りで屋敷を支配する。そして父、ルイースは止めるどころか、むしろリヨネッタを詰った。


「脳なしのごくつぶしめ。生かしてもらっていることに感謝しろ!!」


 何かを言えば、暴力や言葉のナイフとなってリヨネッタに返って来た。痣が消えても、リヨネッタに深く切り刻まれた心の傷はより痛みを増して膿を孕んでいった。母の公爵夫人は優しかったが、リヨネッタに謝りながらいつも泣いていた。ルイースに求婚され、愛ある生活を夢見た彼女は夫の心無い振る舞いに心身が疲弊してもはや笑う事すらできなくなっていた。そんな母をリヨネッタは小さいころから支え、弟を守って来た。

 『お父様たちと連絡が着けば……』と泣く母に、リヨネッタは心が冷えていくのを感じた。


(お母さまはああいうけれど、三大公爵家のお父様の権力を前にすれば、どんな貴族だって何もできないわ。誰も助けてくれないのよ)


 出入りの商人や訪れた行政官、家臣たち……助けを求めたことは何度もあった。だが、公爵家を恐れて誰もが見て見ぬふりをする。


 母は故郷を懐かしんで遠い昔を語るが、リヨネッタにそんな輝かしい思い出は何もない。弟、エドガーを守るときも、母を慰めるときも、リヨネッタの心は常に空虚だった。





 吊り上がった目は意地悪く見え、にこりともしない唇はその傲慢さを際立たせる。ゼスティバウス公爵家令嬢コーネルディアは悪い意味で有名だった。整った目鼻立ちや艶やかな髪を持つ彼女は間違いなく美少女だったが、彼女の険しい顔つきや傲慢な態度がその利点を打ち消していた。


「ゼスティバウス令嬢! 申し訳ありませんっ!!」

 震えた手で持ったカップが落ち、中身の紅茶がコーネルディアの皿に入ったのだ。コーネルディアの給仕を任された女が、真っ青な顔でひれ伏す。


「仕方がないわね。違うものと取り換えて」

 ため息を吐いてコーネルディアは言う。すると、奥から血相を変えてやってきた責任者が女と並んでひれ伏した。


「どうか、どうかお許しください。彼女はこの店に長年勤めてくれた優秀なスタッフなのです」


「て、店長、いけません。店長まで恐ろしい罰を受けることに……!!」


「ふっ。君にやめられては困る。君なしで私は……いや、なんでもない」


「て、店長……」

 涙ぐむ女、赤らめる店長。

 それを見ながらコーネルディアは心の中でため息を吐き、遠い目をした。


(ハァ。新しいお料理と取り換えて欲しかっただけなのに、店員を取り替えろと勘違いしたのね……)

 すぐさま誤解を解きたいが、これまでの経験上、余計混乱を招いて悪化することは明白だった。よく通る大きな声、強面の顔がコーネルディアの言葉を恐ろしい武器に変換してしまうのだ。


(強面のお父様似の顔が原因かもしれないけれど、お兄様たちは『冷たそうなところが素敵!』と言われるのに……)

 コーネルディアの父、ゼスティバウス公爵は英雄の称号を持つ大将軍だ。『北の悪夢』とも呼ばれる父は凶悪な顔をしているが、老若男女共に人気が高い。もちろん、上級将校の兄たちもだ。



 コーネルディアだけ、多くのの悪意にさらされていた。



 向けられる視線は嫌悪、そして恐怖だ。泣く子供を必死に宥める母親、神に祈りをささげる老婆、恋人の肩を抱く紳士。レストランの中は混乱を極めた。


(ハァ……。お兄様おすすめのタルトが食べたくて来たのだけど、気まずくて味がしないわ。やはり、貸し切りにすれば良かったかしら……でも、そうするとまた悪評が増えるのよね)

 コーネルディアは頭を抱えた。


 専属侍女のアンも気まずそうな顔だ。以前、似たような場所でアンが『コーネルディアさまはそういう意味で言ったのではないわ!』と指摘したことがあったのだが、逆に『自ら手を下さず、使用人を使って人を虐げる悪女』という誤解を招いたため、アンもうかつに間に入れない。


 結局、この日も早々に店を出てコーネルディアは屋敷に戻った。



「お帰り、コーネルディア。暗い顔をしてどうかしたか? もしかして誰かに虐められたのか?」


「なんだって! コーネルディアが虐められただと!? 誰だそいつは俺の剣のサビにして二度とコーネルディアに近づけないようにしてやる!!」


 帰宅早々、熱烈な歓迎をするのは二人の兄だ。長兄のデミアンは母親似の優し気な目元の整った美しさを、ユートスは父親の雄々しさと母の美しさを半々に、精悍で凛々しい顔つきをしていた。どちらも社交界でご令嬢の熱い視線を集める美形で、彼らはコーネルディアを溺愛してお姫様のように扱っていた。少々こそばゆくもあるのだが、コーネルディアは二人の兄が大好きだった。


「お兄様ったら、公爵家の令嬢を虐める人間なんてそういませんわよ。ただ、タルトを一人きりで食べるのは味気ないと思っただけですわ」

 コーネルディアの言葉に兄二人はホっと表情を緩ませる。ユートスは剣の柄から手を離した。


「そうだったのか。そういうことなら今度私と一緒に行こう。コーネルディアが笑顔で美味しいと思えるよう趣向を凝らしてエスコートするよ」

「ず、ずるいぞ。兄者。コーネルディア、俺もお前が楽しめるように全力で頑張るぞ。」

 上品な笑みを浮かべてデミアンが言えば、負けじとユートスが主張する。二人の兄の優しさにコーネルディアの表情も綻び、向日葵のような明るい笑顔を浮かべた。





 コーネルディアを溺愛しているのは兄だけではない。父の公爵もそうだ。

 愛娘の様子がおかしいと伝え聞いた公爵は、愛娘の気分転換にドレスをプレゼントしようと思い立った。


 そして、そのドレスこそ社交界で圧倒的な人気を誇る『テリオン・ヒルシュ』だ。


 基本、大貴族は仕立屋を屋敷に呼ぶものだが、『テリオン・ヒルシュ』だけは違った。「自分の店という城でなければ実力を出せない」それが、この店に代々伝わるポリシーであるため、彼の腕が必要ならば、公爵家であっても自ら出向くしかない。傲慢な店でもあるのだが、当代の店主ロン・ヒルシュは白いフサフサの髪と丸メガネをした品のいい紳士で、誤解されやすいコーネルディアを色眼鏡で見ない人物だった。

 そのため、いつもはおっくうなお出かけも、仕立屋に行く時だけはコーネルディアも心が浮き立った。


「今日はどんなドレスをお願いしようかしら。この前は黄色を基調としていたから、今回は落ち着いた色にするのもいいわよね」


「そうですねえ。紫や深い緑もお似合いでしょうが、いっそのこと冒険してみても良いのではないでしょうか。金糸銀糸を縫い込んで宝石を散りばめたらステキですわよ」

 コーネルディアを着飾らせることが大好きなアンは目をキラキラさせ、色々なアイディアを出していく。二人でああだこうだとドレス談議に花を咲かせるうちに馬車はザクセン通りに入った。


「お嬢様。申し訳ありません。先客がいるようです。馬車を店の前に付けることができません。いかがいたしましょう」

 御者の困惑した声が響く。


「おかしいわね。今日の午後に行くとロンに伝えているのに先客なんて一体……馬車はどこのものかしら?」

 コーネルディアの疑問に答えるため、アンは窓から身を乗り出した。

「あれは。あっ……」

 アンの声が忌まわしいものでも見たといわんばかりに、低くなる。


「どうかしたの?」


「……グリーンガルズ公爵家のものですわ」

 苦々しい顔でアンが答えた。

 王妃の生家で名門と名高い公爵家だが、当主の放蕩ぶりは社交界デビュー前のコーネルディアでさえ知っていた。多くの愛人を持ち、酒浸りで癇癪もち。要職についていないのが幸いといわれるほどの奸悪だった。


「ウチと同じく三大公爵の一つね。たしかに権力も地位もあるけれど、予約がないのにいきなり押し入るのは品がないわ。ロンが困っているかもしれないから行ってみましょう」

  コーネルディアは立ち上がった。


「い、いけません、お嬢様。お気持ちはわかりますが、グリーンガルズ公爵家ともめごとを起すのはよくありません。あちらも公爵家、そして王后陛下の生家です。どうかご辛抱ください。それに、ロンは客のあしらいもうまいですから、大丈夫ですよ」

 

「アン。言いたいことはわかるわ。でもね、わたくしは我慢ならないの」

 コーネルディアは言い切って馬車を降りた。


(ごめんなさいね、アン。でも、こういうとき、熱血で正義感の塊のようなお父様の血を実感するわ)

 自分でも悪手と分かっていながらも、コーネルディアは止まれなかった。父に迷惑がかかるかも、そんな考えがよぎったが、それは逆にコーネルディアの足に勇気を与えた。


(お父様なら躊躇なく突っ込むわ!!)

 弱きを助け悪を挫くのが父の信念だ。むしろ、ここで引き下がる方が父の顔を曇らせるだろう。


 コーネルディアは堂々と店の扉を開いた。


 そして、中にいた人物を見て思わず息を飲んだ。


 美しい銀の髪、神秘的な紫の目、透き通るように白い肌……物語に出てくるような美しい少女が立っていた。コーネルディアは驚きのあまり声が出なかった。


「私のドレスを作らないなんてどういう了見よ!!」

 品のない声にコーネルディアはようやく我に返った。見れば、少女の数歩先で巻き毛の女がヒステリックに怒鳴り散らしている。


「ですから、あなたにお作りすることはできません」


「どうしてよ!! 金ならあると言っているでしょう!!」


「この店が紹介制ということはご存じのはず。私は信頼できるお客様に丹精を込めて衣装を仕立て上げるのです。お金の問題ではありません」


「紹介制ってことを知っているからこの鈍くさい娘を連れてきたのよ。この娘の母親の服はあんたのところで作っていたんでしょう。だったら私のも作りなさい」

 女は妖精の少女の背中を強く叩く。うめき声一つ立てず、彼女は俯くままだった。


「お嬢様に非道な真似はおやめください。公爵夫人はご生家からの贈り物として服を仕立てたのです。あなたは関係ありません」


「はっ。あの女はただの置物だわ。寝込んでてロクに表に出てこないんですもの。公爵様の寵愛を受ける私こそ公爵夫人として扱われるべきよ!!」

 女はたまらないとばかりに叫んだ。

 そしてその衝動は留まることを知らず、賎しみながら少女を見た。


「まったく、ろくに女主人として振る舞えない女が公爵夫人の座にいるなんて身の程知らずだと思わないのかしら?あなたからお母さまに離縁を勧めてあげればいいのに。まさか公爵家の財産が惜しくて居座り続けているのかしら?欲深い母子だこと」

 好きなように嫌味を言い続ける女に、少女は一切顔を変えなかった。ただ薄いピンクの唇が微かにふるえていた。


 表情を変えない少女に業を煮やした女が声を荒げ、手をあげた。

「何とか言ったらどうなの!」

 しかし、その手をコーネルディアは払いのけた。自慢の扇でその手を叩き落したのだ。


「愛人風情が出入りするような店なんて聞いていないわ。おまえ、この店はわたくしが気に入っているのよ。二度と近寄らないで!」

 コーネルディアが怒鳴ると女は一瞬怯んだが、ものすごい形相で睨んできた。

「な!わ、わたくしを誰だと思っているの!公爵家の……グリーンガルズ公爵家の人間よ!」

「それが何?」

 コーネルディアの腹は熱く煮えたぎっていた。


「追い払って」

 コーネルディアは護衛の騎士に一言命じた。心配性な父がつけてくれた忠実な騎士は、『グリーンガルズ公爵家』の権威を振りかざす女を羽交い絞めにして外へと歩き出した。


「きゃあ、何をするの!! 離しなさいっ。お前っ!! 絶対に許さないから!! 公爵さまにお願いしてお前の家門を潰してやるわっ!!」

 女のヒステリックな叫びが次第に遠ざかっていく。



 スッキリしたコーネルディアはふんと鼻を鳴らしたが、妖精のような少女の前で怒鳴り散らしたことが急に恥ずかしくなった。ただでさえ、人から恐れられる風貌の自分が暴力を働いた上に声を荒げるなんて危険人物扱いされても仕方がない。

 恐る恐るコーネルディアが振り返ると、彼女は宝石のような目を潤ませて泣いていた。コーネルディアはびっくり仰天して、慌てて駆け寄った。


「ど、どうして泣くの?!わたくしはあなたに何かしたかしら?! あなたに怒鳴ったわけではなくて、あの女を懲らしめてやりたかっただけなのよ」

 コーネルディアは一生懸命に笑顔を作って彼女を宥めた。ぽろぽろこぼれる彼女の涙をハンカチで拭いながら、コーネルディアは焦る。


(や、やっぱり怖がらせてしまったんだわっ!! もうちょっとうまく立ち回ればよかったのに私のバカバカ!! どうしたら笑ってくれるのかしら)


 自己嫌悪に浸るコーネルディアは、ふと自分の胸元にあるブローチの存在を思い出した。兄たちが外国から取り寄せてくれた『月の涙』と呼ばれる逸品だ。普段は普通の真珠だが、夜になると淡く光る。神秘的で温かな光はそれだけで心が満たされ、悲しい時の慰めになった。


(お兄様たちなら、むしろ喜んで下さるわ)

 コーネルディアはブローチを外して彼女に見せた。


「ねえ、これをあげるわ。私の宝物!真珠のブローチよ。これは夜に淡く光って見ていると心細いのがすっかり消えてなくなるわ!!」


 彼女はびっくりした顔でコーネルディアを見たが、涙にぬれた顔で笑ってくれた。

 その微笑がとても綺麗で美しく、コーネルディアも自然と顔がほころぶ。


 その後はロンが入れてくれたお茶を二人で飲みながらドレスの生地を選んだり、好きな本や音楽の話を楽しんだ。もっぱらコーネルディアが話すだけだったが、彼女は微笑を浮かべながら時折頷いて聞いてくれた。

 紅茶が冷め、窓の外がすっかり暗くなったところでアンが言いにくそうな顔で話を遮った。

「お嬢様、ご歓談中に申し訳ありませんが、そろそろお屋敷にお戻りくださいませ。お兄様方がお嬢様を心配なさいます」

 アンの指摘に不安顔の兄たちが想像できてしまい、コーネルディアは焦った。同時に、長時間にわたって彼女を引き留めてしまったことにあわてふためく。


「は、話しが長くなり過ぎたわっ!! 本当にごめんなさい! お家の人も心配なさっているわよね。ぜひ、送らせてくださいな。カロル卿、お兄様にお友達を送っていくから遅くなると伝えて」

 コーネルディアは焦りながらも騎士に指示を飛ばす。自分の我が儘で引き留めた以上、最後まで責任を取らなければという使命感、そしてもう少し一緒にいたいという我が儘がそうさせた。


「え、あ、あの。それは申し訳ないです。一人で帰れますから」

 彼女──リヨネッタと名乗ってくれた少女は首を振ってコーネルディアの提案を丁重に辞退した。

「申し訳ないのはこちらの方よ。もし、嫌でないのならぜひ私の我が儘に付き合って欲しいわ」

「……でも」

 リヨネッタは戸惑った表情で俯いた。煮え切らない態度……そう思われて仕方のない様子だが、彼女の迷いは別のところにあった。彼女の中に根付いた恐怖が、コーネルディアの厚意を素直に受け取られないでいる。

 まっすぐなコーネルディアはそれに気づかなかった。しかし、リヨネッタの顔が曇ったことにひどく心が痛んだ。



「お嬢様!」


 先に行かせた騎士が険しい顔でコーネルディアを呼ぶ。


「どうしたの!?」


「グリーンガルズ公爵家の馬車が見当たりません」

 信じられないと言わんばかりに騎士は狼狽した様子で言う。行きの馬車は例の女を押しこんで帰したが、直系の令嬢が帰宅していないなら迎えを寄こすはずだ。

 これにはコーネルディアもアンも絶句した。だが、リヨネッタはそれを聞いても驚かず、逆に謝った。


「困惑させてしまいましたね。ごめんなさい、大丈夫ですので」


「え?」

 コーネルディアが聞き返すとリヨネッタは曖昧に笑い、ぺこりとお辞儀をした。そのまま踵を返して外へ通じる扉へ向かう。


「ま、待って! 送らせて!! 一緒に馬車に乗って!!」

 コーネルディアは彼女の後を追ってその肩に手をのせた。振り向いたリヨネッタは目を真ん丸にしていた。


「え、えと、私はあなたともう少し一緒に居たいの!!」

 思わず出た本音と大きな声にコーネルディア自身も驚くが、逆に言い切ってすっきりした。リヨネッタはそんなコーネルディアを真ん丸な目で見る。


 そんな中、興奮した声が店に響いた。

「コーネルディア!!! 無事だったか!!!」

「やっぱり私も行くべきだったな。 こんなに遅くなるなんてどうしたというのだ」

 大声は血相を変えた次兄のユートス、落ち着きながらも冷や汗を掻いていたのは長兄のデミアンだ。コーネルディアの帰宅が遅いのを心配して屋敷を飛び出してきた。


「お、お兄様……。あ、心配をかけてごめんなさい。お友達とのお話がとても楽しくてつい時間を忘れてしまったの」

 コーネルディアの言葉に兄二人は優しい笑顔を見せた。


「そうか! 楽しい時間を過ごせてよかったな!」

「友達と過ごすのはとてもいいことだ。だが、今度からは誰かを屋敷にやって報せてくれ。そうすれば、私もユートスも安心して屋敷で待ってい……いや、やはり心配だから迎えに行く。邪魔になるだろうから、話が終わるまで馬車の中にいるよ」

 普段は知的で聡明なデミアンだが、コーネルディアのことになると頭のネジが緩む。


「もう、お兄様ったら」

 くすっとコーネルディアが笑うと兄二人の顔も笑顔になる。そこに流れる温かい雰囲気にリヨネッタは目を瞬いてみていた。

 その視線にいち早く気付いたのがデミアンだ。


「ああ、大変失礼しました。あなたがコーネルディアのお友達ですね。初めまして、コーネルディアの兄のデミアンと申します。 妹が大変お世話になりました。夜も遅いのでぜひお家まで送らせてください」

 紳士らしく、彼は丁寧にお辞儀をし、手をリヨネッタに差し出した。


「え、あ……」

 リヨネッタは差し出された手を前に驚きと戸惑いが混ざった複雑な表情をした。


「リヨネッタ。お兄様もこう言っているし、お願いだから送らせてちょうだい。ね?」

 コーネルディアが懇願するとリヨネッタは困ったように、だが小さく頷いた。

 ぎこちない返事ではあったが、コーネルディアはそれだけでも十分に嬉しく、リヨネッタの両手を取って馬車へ案内した。二人の兄はその後に続き、一台の馬車で全員が乗り込んだ。

 行きと違って手狭ながらも、この妖精のように綺麗な少女とおとぎ話のような馬車で過ごせることは、コーネルディアの心を浮き立たせた。興奮と嬉しさを噛みしめるコーネルディアにユートスは良かったなと言わんばかりにニカっと笑う。だが、デミアンだけは、浮かない顔の少女をじっと見ていた。



 ■



 大きな窓越しに月の光が差し込む部屋で、コーネルディアに追い払われた女、イグリットがグリーンガルズ公爵家の当主ルイースに泣きついていた。

 

「公爵様ぁ……わたくし、悔しくって悔しくって……。ただ、ドレスを作りに行っただけなのに、酷い言葉を浴びせられて追い出されたんです」


「可哀そうなイグリット。もう大丈夫だ。私がいるからにはもうお前をそんな目に合わせやしない」

 無能なルイースは綺麗なイグリットに縋られ、まるで自分が英雄になったように気分が良かった。


「お優しい公爵様。あなた様の愛を受ける私への無礼は公爵様への無礼に違いありませんわ。どうか、あのこまっしゃくれた小娘に罰を!! 家門を取り潰し、あの女を使用人の身分に落として下さい!!」

 イグリットの苛烈な願いにルイースはあっさりと頷いた。綺麗で可愛いイグリットを泣かす輩は許しておけない。


「そして、リヨネッタにも罰を与えて下さい。あの娘は私が酷い目にあっても庇うことはおろか、眉一つ動かさなかったのです。母親代わりにといつもよくしてやっているのに、それを裏切るなんて恐ろしい娘ですわ」

 イグリットは顔を手で覆って涙を溢した。


「可哀そうなイグリット。すべてお前の言う通りにしよう。あの不気味で情のないリヨネッタならやりそうなことだ」

 ルイースはイグリットの言葉をそのまま受け取り、娘のリヨネッタに怒りを覚えた。自分に懐かず、いつも無表情で不気味なリヨネッタをもとよりルイースは疎んじていた。



「だ、旦那様!!」

 焦った様子の執事が息を切らして部屋に入ってくる。顔は真っ青で今にも倒れそうだ。


「なんだ!!」

せっかくの英雄気分を壊され、ルイースは荒い声で執事に聞き返す。


「お。お嬢様が……戻られました」

 執事の声は震えていた。



「リヨネッタが戻ったか。さっそくここに連れてこい!! イグリットを侮辱したらどうなるか、しっかりと教え込んでやる」


「あ、あの。その、お嬢様は、ゼ、ゼスティバウス公爵家のご令嬢とご一緒です……」

 執事自身も信じられないと言わんばかりに震えた声で言う。


「な、なぜ、ゼスティバウス公爵家が!?」

 さすがのルイースも驚いた。グリーンガルズ公爵家と匹敵する……いや、下手をすればそれ以上の権力を持つゼスティバウス公爵家がなぜ自分のところに来るのか。ルイースは戸惑った。そんなルイースを驚いた様子で見上げるイグリットと目が合い、ルイースはひきつった顔で尋ねた。


「イグリット。お前を追い払ったという娘、そいつの馬車の紋は金獅子だったか?」


「え? ええ……たしか」

 イグリットは思い出しながら答えた。

 ルイースはカっとなってイグリットを殴りつけた。


「キャア!!」

「金獅子の紋はゼスティバウス公爵家の紋章だ!! 貴様、こともあろうにゼスティバウス公爵家の令嬢と事を構えたのか!!」

 ルイースは先ほどまで慰めていたイグリットに大声で怒鳴りつけた。三大公爵家の中でも、ゼスティバウス公爵家は代々軍人の家柄だけあって軍事力はケタ違いだ。そしてなによりも、『北の悪夢』が当代だ。いかに無能なルイースであっても、ゼスティバウス公爵家を敵に回す恐ろしさは理解できていた。いくら王后と姉弟とは言え、仲はけしてよくなかった。下手をすればゼスティバウス公爵家の肩を持つだろう。



「ハルド。応接間に客人たちを通せ。最上級の茶……いや、酒と料理でもてなすんだ。イグリットの衣服を下女のものとかえさせろ。この女は平民でありながら公爵家のドレスを勝手に使い、名を振りかざした無礼者だとゼスティバウス公爵家に申し開きをするのだ」

 ルイースの言葉にイグリットは悲鳴じみた声を上げた。

「だ、旦那様!! 私をお見捨てになるのですか?! 私は誠心誠意、ずっとお仕えしてきましたのに!!」

 イグリットは公爵の裏切りに失望と怒り、そしてゼスティバウス公爵家の恐怖で顔をしわくちゃにして縋った。彼女の美貌は影もなく、腐りきった性根のように醜悪な顔がそこにあった。


「うるさいうるさい!! 何が誠意だ!! 貴様のせいでとんでもない災厄が降りかかったわ!! この疫病神め!!」

 ルイースはいきり立ってイグリットを蹴り倒す。床に手をついたイグリットは悔しさに目を滲ませた。

(どうして私がこんな目にあうの!!! 無能で傲慢な男に必死で媚びを売ってきたのに、公爵夫人になれるはずだったのに!! なんとかしなければ、首を跳ねられてしまうわ)


「や、疫病神はリヨネッタですわ。あの娘は相手がゼスティバウス公爵家の令嬢と分かっていながら止めなかったんですもの!! 悪いのはあの娘です!!」

 イグリットはルイースに向かってはっきりと言った。いつものルイースならそれで丸め込めるはずだった。悪いことはすべてリヨネッタのせいにすれば収まっていた。しかし、ルイースはイグリットの言葉に激怒した。


「リヨネッタが止めてもお前は言うことをきかないだろう!! これはお前の傲慢さと身の程知らずの欲望が招いた結果だ!! ハルド!! 今すぐこの女を拘束しろ!!」

 ルイースの声で執事はイグリットの肩を掴んだ。

「は、離しなさいよっ!! 公爵様公爵様!! お願いです。お願いです。助けて下さい」

 ハルドはイグリットの言葉に耳を貸さず、腕を掴む手、肩を掴む手に不必要に力を入れ、部屋から連れ出した。


 ■


 グリーンガルズ公爵家についたコーネルディアは大勢で押しかけては失礼だと言考え、渋る兄たちを馬車に押しとどめてリヨネッタと二人だけで屋敷に踏み入った。

 屋敷というものはその家門の性格が色濃く出るものだ。ゼスティバウス公爵家は代々当主の甲冑や剣が広間に飾られ、その歴史の深さを垣間見れる。グリーンガルズ公爵家もゼスティバウス公爵家と同様に長い歴史を持っているはずだが、美しい年月の流れを感じさせる調度品と見栄えだけを重視した異色の装飾品が混在し、内心でコーネルディアは困惑した。

(なんだかチグハグね。それに贋作を堂々と額縁に入れて飾っているのもおかしなこと……)

 有名な画家の作品であるが、繊細な点描が売りの作家にしてはタッチが荒い。そして、何よりも気になるのはリヨネッタの様子だ。実家に帰ってきたはずなのに、外にいた時よりも体に力が入っているような気がした。

 コーネルディアが声をかけようとした矢先、酒で焼けた声が響いた。


「これはこれはゼスティバウス公爵家のご令嬢!! ようこそ参られました。どうも我が下女が無礼を働いたようで面目次第もない」

 ガッハッハと笑いながら、かつては美男子だっただろう顔に笑みを浮かべ、両手を広げてコーネルディアたちを迎えた。


「おお、リヨネッタ。ご令嬢に無礼を働いてはいないだろうな? お前が下女の管理を怠ったからこうなるのだ。よく覚えておきなさい」

 公爵家当主、ルイース・グリーンガルズの声はおよそ肉親の温かみとは程遠かった。優しい父の存在しか知らないコーネルディアは驚き、ルイースが未知の

獣であるかのように思えた。とてもではないが人間の父親のふるまいと思えなかったからだ。

しかし、リヨネッタはそれがさも当然のように受け入れた。一言も反論することなく、無表情でこくりと頷く。糸で操られたマリオネットのような姿にコーネルディアは無性に腹が立った。


「お初にお目にかかります。グリーンガルズ公爵。私はゼスティバウス公爵家のコーネルディアと申します。リヨネッタさんに私の話し相手になって頂きましたの。リヨネッタさんの帰宅が遅くなって申し訳ありません」

 コーネルディアはにこやかにあいさつしたが、お辞儀どころか突っ立ったままでそこに敬意の欠片など見えない。しかし、それ以上にルイースはその無礼を咎めることはできなかった。


「そ、そうでしたか!! 鈍くさくて不気味な娘ですが、お嬢様のお気に召してよかった良かっ……た」

 イグリットの件を持ち出されているものと思っていたルイースは安堵したように顔をほころばせた。しかし、猛ったコーネルディアの目に彼は怯えた。


「リヨネッタさんはとても優しくて素敵な女性ですわ」

 目を吊り上げたコーネルディアがはっきりと告げるとルイースはバツが悪そうな顔で唇を噛んだ。自分の意見を小娘に否定されたことが彼の自尊心を傷つけた一方で、気が強そうなコーネルディアの目が怖かったのだ。


「そ、そうですか……それはそれは。御用はそれでおわりですかな。夜も遅いのでお帰り下さい。令嬢が遅くまで遊び歩くのはよろしくありませんぞ」



「オホホホ。ご安心くださいな。百戦錬磨の兄たちが迎えに来てくれましたもの。むしろ、グリーンガルズ公爵家からリヨネッタさんの迎えがなかなか来ないから驚きましたわ」

 コーネルディアは口元に笑みを浮かべながら、ぎろりとルイースを睨みつけた。吊り上がった目、毒々しい真っ赤な唇が獰猛な狼の口のように思えてルイースはぞくりとする。

(……そういえばゼスティバウス公爵家の令嬢は傲慢で残酷だと聞いたことがあるな。ここは機嫌を損ねないようにせねば)

 三大公爵家の一つで同格とはいえ、ルイースの代でその権威は失墜していた。いくつもの商会や事業を売却し、それでも補えずに負債額は増えるばかりでゼスティバウス公爵家とやりあうだけの力がもはや残っていないのだ。



「はははは。どうも執事が怠けていたようです。あとでしっかりと言って聞かせますゆえ、ご心配なく」



「まあ! 公爵家の執事たるものがそんな失態を侵すなんて恐ろしいですわ。公爵夫人が病がちですので屋敷の管理が甘くなってしまうようですわね。お気に入りの仕立屋でひどい無礼を受けましたもの、あのような人間が公爵家の名前を振りかざすのは家名に傷がつきますわ」


「あ、あのものは食い詰めていたのを哀れに思って雇ってやった下女なのですが、善意に付け込んで自由気ままに振る舞っていたようです。どうぞ令嬢の気のすむように処罰なさって下さい。今、連れてまいります」

 ルイースの号令で執事のハルドがイグリットを連れてきた。薄汚れた下女の衣服にぼさぼさの髪は、かつて女主人然としてこの屋敷を君臨していた面影はない。

 イグリットの頬は腫れあがり、腕や手には擦り傷があった。真新しいそれにコーネルディアは絶句した。


「た、助けて!! 助けてリヨネッタ!! わ、私は……あなたに辛くあたったわけじゃあないのよ。心を開いてほしくて冗談を言っただけなの。お願いリヨネッタ。あなたは優しい子でしょう? いつも私の言うことを聞いてくれたわよね」

 イグリットは自分に課される罰に恐怖し、今までさんざん虐げていたリヨネッタに縋った。


 リヨネッタは一瞬戸惑ったが、ゆっくりとコーネルディアに向き直ると頭を下げた。


「コーネルディアさん。家人の非礼をお詫び申し上げます。どうか、彼女を許してあげてください」


 コーネルディアはリヨネッタの言葉に目を見張った。あんな振る舞いをされたのに、リヨネッタが庇ったことが理解できなかった。しかし、リヨネッタの清らかな顔、まっすぐな目を見て納得した。

(彼女はとても優しい人なのね)

 コーネルディアは彼女の気持ちを無下にはできなかった。

「あなたがそう言うなら許してあげるわ。イグリットとか言ったわね。今度あんな真似をしたらただじゃあおかないわよ」

 コーネルディアが睨みつけるとイグリットは青ざめた顔で深く頭を下げた。


「こ、これで気は済みましたかな?」

 にこやかに笑うルイースの顔がカエルのように気味が悪く、コーネルディアは吐き気すら催した。さっさと帰りたくはあったが、この気味の悪い屋敷にリヨネッタを置いておくことが、身の毛がよだつほど嫌だった。


「私、リヨネッタさんとまだ話し足りないわ。もちろん、泊っていっても構いませんわよね?」

 コーネルディアの言葉はルイースを凍り付かせた。こうして話すだけでも胃がきりきりと痛むのに、これ以上この娘と同じ空間にいることは耐え難かった。


「そ、それは承りかねます! 第一、未婚の娘が他家に寝泊まりするなど令嬢の評判にも関わりますぞ!!」


「オホホホ!! 私の評判をご存じないようね。他家に寝泊まりしたところで私の評価が変わることはありませんわ」

 コーネルディアはルイースを嘲笑った。傲慢で冷酷な悪女と名高いコーネルディアにそんな脅しはきかない。


(悪女呼ばわりが初めてそれが役に立ったわね)


 コーネルディアの迫力にルイースは絶句し、兄二人は帰るという条件で仕方なしに受け入れた。一晩泊らせれば満足するだろう、そうルイースは安易に考えていたのだが、コーネルディアは傍若無人だった。


 客人用に用意された部屋ではなく、案内を振り切ってリヨネッタの部屋に行き、渋る彼女を押しのけて入った。

「ちょっと、どういうことなの。公爵家の令嬢の部屋のシャンデリアがなぜ壊れているの? カーテンも擦り切れてクッションもほつれだらけ。埃の積もったサイドテーブルはとてもじゃあないけれど、貴族令嬢が過ごす部屋ではないわね。誰がこの部屋を掃除したの!!」

 コーネルディアは怒鳴り散らした。案内した執事はしどろもどろで要領を得ず、布団に入ったルイースは呼び出されることになった。


(私は公爵だぞ!! ゼスティバウス公爵家のとはいえ小娘の分際で私を呼びつけるとはいい度胸だ!!)

 ルイースの心の罵声は外に出ることはなかった。

 ぎらりと光る猛獣の瞳……コーネルディアの顔が獣のように恐ろしかったからだ。


「妻が病がちゆえに使用人の躾が甘くなっていたようですな。リヨネッタに代理を任せているのですが、やはり若輩ゆえに行き届かないようです」


「リヨネッタさんはとても優しい方ですものね。そんな彼女に使用人はついつい甘えてしまうのでしょう」

 にこっとコーネルディアは優しく笑った。ルイースはその顔に少しだけ気を緩めた。だが、コーネルディアは手加減する気は全くなかった。

「公爵。ご心配はいりませんわ。私が使用人の躾というものをリヨネッタさんにお教えします。手始めに、陰口だらけの女たちの処分をいたしましょう。閣下のお世話をする者たちのようですが、私を罵る声がしっかりと聞こえてきましたわよ」

 コーネルディアは扇でバシっと公爵の後ろを指した。柱の陰で縮こまっている女たちはルイースの愛人だ。いつものようにリヨネッタを虐めに来たのだが、コーネルディアがいるせいで手が出せず、その不満を廊下で囁き合っていたのだ。


 いかにルイースの寵愛を持っていたとしても、平民出身である彼女たちが公爵令嬢のコーネルディアに無礼を働いたとなれば処罰は免れない。ルイースはコーネルディアの言葉通りに愛人たちを罰した。リヨネッタが口を挟まなかったのは、コーネルディアがあらかじめお願いしたからだ。


「リヨネッタさんがお優しいことは十分知っていますわ。でも、今回ばかりは私の我が儘を聞いてくださいね。あなたには刺激が強すぎるかもしれません。先にお休みになって下さい」と。


 優しいリヨネッタが寝ているうちに、コーネルディアは使用人を集めさせた。

「私をリヨネッタさんと思っていつも通りに世話をしてちょうだい」

 怯える使用人たちに、コーネルディアは笑顔を向ける。

「怖がらないで。いつもあなたたちがリヨネッタさんにしているようにすれば大丈夫なのだから」

 コーネルディアの言葉は針のように使用人たちの肌を刺した。リヨネッタの世話どころか、罵倒して嘲笑し、時には暴力まで振るった彼女たちに使用人としての振る舞いはできなかった。先代に仕えてきた使用人たちはルイースの怒りを買いすべて入れ替え、または辺鄙な領地に追い払われていた。ここにいるのは、ルイースの目に留まった人間だけだ。


「あらあなた。とても素敵なブレスレットをしているわね。使用人ごときがどうやって手に入れたの?」

 コーネルディアの目は冷ややかだ。

「あ……そ、その。リヨネッタ様に褒美として頂きました」

 使用人の一人は目を逸らす。

 装飾など外してくるべきだったのだが、それすらもぬるま湯に浸かり、甘い汁を吸っていた彼女たちは失念していた。

「そこにいるお前たちも?」

「は、はい」

「それならさぞリヨネッタさんの好みも知っているのでしょうねえ。彼女の好きなアリア《詠唱》は何かしら? メヌエット《宮廷舞踊曲》は何がお得意?」

 コーネルディアは次々に問いかけた。好きな香り、紅茶、オペラ、絵画……しかし、使用人たちは答えられなかった。

「はっ。主人の好みもわからず、埃だらけで穴の空いたシーツをそのままにする使用人に褒美だなんてリヨネッタさんは優しすぎるわ。教育をしっかりしなおす必要があるわね」

 コーネルディアは使用人たちを睨みつけると事細かく指示した。お風呂に浮かべる花の種類、リネンに焚き染める香水、髪を解くブラシのつよさ、湯上りに飲む紅茶、蝋燭の明るさからクッションの置く場所まで注文を付け、ときには大声を出し、癇癪まで起こした。

 使用人たちはいつコーネルディアからの叱責が飛んでくるかと始終ビクビクと怯えた。



 怯えたのは侍女たちだけではない。公爵の愛人たちは息を殺して部屋の中に引きこもって生活した。

(部屋から出なければ大丈夫よ。私は何もやっていないし、リヨネッタを虐めたのは侍女たちだもの)

 リヨネッタを嘲笑ったことなど忘れ、彼女たちは自分だけは大丈夫と言い聞かせた。


 そんなカミラの部屋の扉が、バンと大きな音を立てて開いた。地獄の悪鬼でも従えていそうな凶悪な笑顔でコーネルディアが言う。


「ここ、公爵夫人のお部屋よりもステキね?」



 ■


 

 冷酷無比の悪魔、傲慢な女王、北の毒花……コーネルディアの蔑称は山ほどある。つまり、何をしてもこれ以上、コーネルディアの名前は地に落ちない。


(色々頑張って名誉を挽回しようとしたこともあったけれど、どれも実を結ばなかったわ。それなら悪女を全うして思う存分暴れ回ってやろうじゃあない)


 コーネルディアは公爵の愛人をこき使った。


「あーやだやだ。正妻への礼儀も知らない愛人がわが物顔で公爵家を跋扈するなんておぞましいったら。ねえ、お前。ちゃんとわかっているわよね?」

 カミラのものだった豪華な椅子にふんぞり返り、コーネルディアは床に座らせたカミラに言う。


「も、もちろんでございます。私は公爵様、そして公爵夫人にお仕えする身、これからも誠心誠意お仕えするつもりでございます」


「その割には公爵夫人よりも豪華な部屋、美しいドレス……これは流行り物ね。いっぱい持っているわね? ずいぶん身分不相応じゃあない」


「も、申し訳ございません!! 恐れ多くも公爵様にお願いして買って頂きました!! すべて公爵夫人に御渡しします!!」

 カミラは床に這いつくばってコーネルディアに許しを乞うた。

 

「は? 愛人風情が使っていたものを公爵夫人に渡すなんて正気?」

 カミラの謝罪にコーネルディアは態度を軟化させるどころか、大きな目でカミラを睨みつける。食い殺されそうなほどの気迫にカミラは呼吸が止まりそうだった。


「ひっ……、も、申し訳ございませっ」

 息をするのもやっとのカミラはのどから声を絞り出す。涙を流し、恐怖で青ざめた彼女は何度も何度も頭を床に打ち付けて謝罪を繰り返した。



(侍女たちからあんたのことは聞いているのよね。優しいリヨネッタさんを虐めて苦しめた癖に許されるとでも思っているのかしら?)

 コーネルディアは手を緩めることはなかった。


 というのは、コーネルディアの振る舞いに耐え切れず、ルイースに助けを乞う者が続出したからだ。さすがのルイースも我慢の限界がきてコーネルディアに抗議しに来た。


「ご令嬢。これ以上の振る舞いは目に余りますぞ!! グリーンガルズ公爵家として正式にゼスティバウス公爵家に抗議いたします!! お父上に叱られたくなければ早急にお戻りください!!」

 怒りを必死にこらえ、血走った目でコーネルディアを睨むルイースだが、そんな脅しに負けるはずがない。


「どうぞご自由になさって下さいな。でも無駄だと思いますわよ。お父様はわたくしがすることをなんでも許して下さいますし……むしろ、邪魔するものを片付けて下さいますの」

 にっこりとコーネルディアは笑みを見せる。無邪気に笑うコーネルディアの顔はまさに悪魔だ。


 しかし、ルイースは引かなかった。

「く……、他家でわが物顔に振る舞うと社交界で噂になっても良いのですか!!」


「あら、公爵は私の噂をご存じありませんの? 武勇伝が一つ増えたくらいでわたくしは一切困りませんわ。それよりも、躾のなっていない使用人と身の程知らずの愛人がいるほうが公爵家のためになりませんわ。でも、ご安心なさって? わたくしがしっかりと教育してさしあげますから」

 コーネルディアはわざと愛らしい笑顔を作った。彼女がそういう顔をするときが、より一層周囲を恐怖に陥れることをコーネルディアは知っていた。


(皮肉よね。あれほどコンプレックスだった悪役面がこんなにも役に立つなんてね)


 コーネルディアの笑顔はルイースをけん制するのに十分だった。尻尾を丸めてすごすご戻っていく公爵の後姿をコーネルディアは高笑いで見送った。



 コーネルディアが公爵家に滞在して十日が過ぎようとしていた。大方、使用人の教育も終え、愛人たちも分をわきまえて質素な格好になり、リヨネッタや夫人に礼儀を尽くすようになった。

 最後の仕上げとばかりに、その日の朝は食堂で公爵、そしてリヨネッタ、リヨネッタの弟のエドガー、そしてコーネルディアが食卓を共にしていた。


(愛人に入れあげようが父親だもの。一緒に過ごしていたら情を思い出すはず)

 そんな甘いコーネルディアの考えだった。



 朝食メニューは、スープにパン、サラダ。ハムにチーズ。夕食に重きを置くため、朝は軽いもので済ますのが一般的だ。

 しかし、エドガーはそんな簡単なものですらお腹いっぱい食べられることに感激していた。

「ねえさま。おいしいね。おいしいね。ぼく、こんなおいしいものはじめてたべたよ!!」

 そういいつつ、エドガーはほとんどの食事を残した。


「あらどうしたの? お腹いっぱいなのかしら?」

 そうコーネルディアが尋ねるとエドガーは首を振った。そして小さくお腹がキュウと鳴る。その小さなお腹をさすりながらエドガーは満面の笑みで言った。


「お母さまに持っていくんだ。お母さま、おどろくよ!!」



 ルイースはそのとき、幼い息子を叱った。

「エドガー!! 余計なことは言うな!! 黙って食え!!」



「あら公爵。こんな幼い子を怒鳴りつけるなんていけませんわ。リヨネッタさん、エドガーを連れて公爵夫人の部屋に行って頂ける? お食事を運ばせるから三人で楽しくお食事の続きをしていらして」

 コーネルディアは怯えるエドガーの頭を撫でた。リヨネッタは戸惑いながらもエドガーに促されて部屋を出た。その直後、コーネルディアはルイースを睨みつけた。



「ところで、どのような生活をしていたら、この簡単な食事を母親に分けようと思えるのでしょう」

 コーネルディアの声は恐ろしいほどのとげがあった。ルイースは青ざめながらしどろもどろで釈明した。


「幼いゆえ、何でもかんでもが目新しく思うんでしょうな!」 


「あの子の言葉の意味がわからないの? 公爵家の子息がロクなものを食べていないということですわ! やはり、使用人に徹底した教育が必要ですわねぇ」

 コーネルディアの声は地を這うように低く、真冬の水のように冷たいものだった。ここまで下劣な人間が親になれるということが許せなかった。

 そして父親の情を信じた自分の考えの浅はかさを恥じた。



 後悔に唇をかむコーネルディアと恐怖におののくルイース。そんな二人だけがいる食堂に執事が真っ青な顔でやって来た。


「だ、旦那様!! 大変です!!」


 

「これ以上大変なことがあるのか……」

 力なくルイースが声を絞り出した。

 


「ラフィゴニアの当主が……ゼスティバウス公爵家のご令息二人と共にいらっしゃいました」


 コーネルディアは兄の来訪と聞きなれない家名に目を瞬いた。

 しかし、ルイースはふるふると小刻みに体を震わせ、顔を引きつらせた。


「ラ、ラフィゴニア……だと? なぜだ?! あんな辺境から……どうして!!」

 真っ青な顔のルイースは頭をかきむしった。コーネルディアが与えた恐怖の何十倍も恐ろしいことが彼の身に起こったようだった。


 靴音が近づき、開いた扉から執事を押しのけて人が入ってくる。にこやかな微笑をたたえたデミアンだった。



「朝から失礼しますよ。グリーンガルズ公爵閣下。ゼスティバウス公爵家の嫡男、デミアンと申します。妹がたいそうお世話になりました」

 慇懃無礼という言葉がぴったりの、嫌味でにくったらしい挨拶だった。敬意の欠片もなく、蛆虫を見るような目でデミアンはルイースを見た。


 だが、ルイースが真に怯えたのはデミアンではなく、その後ろにいる男だ。銀色の髪と紫の目を持つ、猛々しい青年だった。彼は怒りに燃えた目でルイースを睨みつけていた。切っ掛けがあればすぐにでもルイースに襲い掛かりそうなほどの迫力だった。

「ひ……ひぃ……」



「グリーンガルズ公爵……。あなたは姉を必ず幸せにすると言いましたね。私の手紙に返事がないのも、遊びで疲れているからだとあなたが返しました。まさか病に伏しているなんてデミアンから聞かされなければ知ることもなかった!!」

 彼の怒鳴り声は獣の咆哮のように響いた。びりびりとコーネルディアの体まで震える。


「コーネルディア。こっちにおいで。あとはラフィゴニア辺境伯に任せよう。公爵夫人の弟御だから、君のお友達、リヨネッタ嬢のこともよくしてくれるよ」

 デミアンは優しい声でコーネルディアを手招いた。よたよたとおぼつかない足取りでコーネルディアはデミアンの側まで行った。


「コーネルディア嬢。驚かせてしまい申し訳ありません。このお詫びはいずれまた」

 狼のように精悍な顔つきの青年が優しい犬のような顔でコーネルディアに詫びた。コーネルディアはデミアンに促されるままその場を後にした。


 リヨネッタの事は気がかりだったが、あの紫の目の青年の顔を見ればすべてが好転するような気がした。





 リヨネッタは今、幸せの中にいる。

 あの日、あの時、あの瞬間、リヨネッタはコーネルディアがくれた笑顔を生涯忘れることはできないだろう。誰も助けてくれない絶望の中で彼女が声をかけてくれたことがどれだけ嬉しかったか、リヨネッタはそれを表現する言葉が思いつかない。嬉しくて嬉しくて思わず涙がこぼれた。


 それだけでも救われたのに、もはや会う事はないと思った母親の生家ラフィゴニアの叔父、レグラスに出会うことができた。

 

「リヨネッタ。こんな綺麗な子が私の姪になってくれて本当に嬉しいよ。将来はとても美しいレディになるね」

 初めて会う叔父、レグラスはリヨネッタを褒めたたえ、エドガーを抱き上げてくれた。


 叔父を見た父は怯えきり、すべていうがままに書類にサインしていた。話を総合するとグリーンガルズ公爵家に財産らしい財産はほとんどなく、ラフィゴニアからの援助が唯一の生きるすべだったらしい。父は引退という形で辺境の地に追いやられ、愛人たちは厳格な修道院に入れられて使用人は一新された。レグラスが後見人となり、エドガーが当主となった。


 そして、リヨネッタは遅まきながら令嬢教育を受けられるようになった。


 このとき、リヨネッタが決めたことが二つある。



 一つ目は、コーネルディアの悪名を払拭できるほどの影響力を持つこと。


 二つ目は、コーネルディアの理想、『清らかで優しいリヨネッタ』になることだ。



 実際、リヨネッタの内面は清らかと程遠い所にあった。虐げられ続けた生活がそうさせたのか、腐りきった父親の血のせいかわからないが、リヨネッタは恐ろしいほど卑劣で残忍な人間だ。


 イグリットが自分に許しを乞うたとき、リヨネッタの中で恐ろしい考えがよぎった。しかし、そんな自分をコーネルディアに見せたくはなかった。



 母の病が遅効性の毒だと分かったときもそうだ。叔父が止めなければ凄惨な復讐をしていただろう。優しい叔父は、『そこまで追いつめられていたんだね。助けてやれなくて済まない』と涙を流して謝ってくれた。



 叔父の涙にコーネルディアの顔が重なった。優しい彼女も残酷なリヨネッタのために涙を流してくれるだろう。


「コーネルディア」


 名前を呼ぶだけで胸の中の黒いものが消え、温かいもので満たされていく。

 大好きな彼女にはいつも笑っていて欲しい。

 

 そのためならば醜い本性を覆い隠し、『心優しいリヨネッタ』として生き続けよう。



 私の愛しい人のために。



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― 新着の感想 ―
[一言] リヨネッタ嬢の本性が垣間見られる作品も読みたいです\(^o^)/
[良い点] コーネルディアさんが自分の悪名を善行に使うところ、でも善人ぶるのではなく自分の心の信じる方向に振り切って行動するところがとても素敵です。自分の中の闇とちゃんと向き合ってコーネルディアさんに…
[一言] コーネルディアの無双が面白かったです。 一晩で躾終わるの?と思ったら10日も居座っていたとはw 長編版も読みたかったです。
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