リディ、別れてくれ。
国の英雄ともてはやされても、一番愛する者に受け入れられなければ価値はない。
どんなに立派な位を授けられても、何度表彰されても、そんなことより手を握られただけでこの心臓は簡単に喜んで鼓動を鳴らす、そんな相手である妻に受け入れられなければ、国の英雄などただの人殺しだ。
自分の手は血で汚れているし、自分の足はいくつもの屍を踏み越えてきた。
草花を摘み、ステップを踏める妻とは、何もかもが違う。
彼女を汚したくない。
「それでお前、なに。戦争が終わって半年、しかもとっくに帰れる状態だってのに、それなのにまだ家に帰ってないわけ」
「帰れる状態じゃないんだ」
「頭から臓物かぶっても敵に特攻しに行ったやつの台詞じゃないだろ、それ。まだ血のにおいがするってんなら、水でも浴びて来いよ」
「お前はしないのか?」
「水浴びに? やだよ。いまの季節ご存じ? 冬だぜ」
「そうじゃない」
お前は血のにおいがしないのか、改めて問わずともこの戦友には繋がった視線から俺の言いたいことなど全てお見通しで、そしてその視線を受け流して飄々と窓の外を顎で示した。「広場にでも行けよ。いい加減、公務もお前なんぞ待っていない。王様も国民も、大親友である俺も、それぞれの平和を満喫してる。けど、なア、誰がお前を待ってると思う?」
知ってるだろ? 今度は向けられた視線がそう言ってくる。
受け流せず、結局、逃げるように目を逸らした。彼は大袈裟に溜め息を吐き、かといってそれ以上は何も言わず、俺の肩を叩いて執務室を出て行く。
窓の外では雪が降り始めていた。
戦争が終わったのは、まだ夏の暑いころだった。
俺には戦争が始まる前から結婚していた妻がいる。
妻はずっと俺の帰りを待っている。
うぬぼれではなく、仲間や部下が報告してくる様子から、生還して国に戻ったにも関わらず一度も家には帰っていない俺のことを、変わらず祈るようにして待っているという。あのひとは、そういうひとだ。
彼女は信心深いひとだった。
信仰心なら俺も持っていた。俺だけでなく、大半の戦士に備わっているものだった。だが俺たちは人を殺した。
俺たちの信ずる神は殺しを決して赦しはしない。
戦争とはそういうものだった。赦されないことを人間同士で繰り返し、生きたり、死んだりする。終わってみればただそれだけの愚かな行為。国の英雄と謳われようが、国民全てが平和を手にしたわけではなく、国が国として成り立つために王が持てるトロフィーを用意したに過ぎない。
俺がしてきたことは罪だ。
それを全て覚悟した上で戦場に立ち、戻ってきた。
俺は信仰心は持っていたが、信心深くはない。
神に赦されなくてもいい。
ただ妻に――。
「彼女と会うのが怖いんだ、俺は」
「誰も彼もを殺してきた英雄殿が、何言ってんの?」
「どういう顔をして会えばいいのかわからない。どういう話をしたらいいのかわからない。前まで一体、どんなふうに接していたのかも」
「教えてやろうか? “おかえり”“ただいま”これだけでいい。簡単だろ? 前までどんなふうだったかは、この大親友の俺と接するよりも平穏を手にしていた、これに尽きるな」
「だが今は、平穏なんてとても約束できない」
「あのひとはそれを望んでいるのか?」
「俺が与えたいものだ。だが、できない。無理なんだ」
「家に帰れなかったやつらに、同じこと言ってみろよ」
視線が交わる。今日も外では雪が降っている。分かっている。――分かっている。
窓に映る自分の顔は、まるで死人のようだった。手元に残っている仕事はなく、軍の任務ももうずっと重要なものは回されていない。誰もが皆、家に帰れと伝えてきていた。毎日、毎日。この会話ももう何回したかわからない。
「お前にそんなことを言わせて、悪いと思っている」
「なら、帰れ。家に。そんで嫁さんと会って、俺にもう二度と同じことを言わせるな」
「約束できない」
「こっちを見ろ」
言われた通りに、見た。彼は窓際に佇み、俺よりよほど生気のない顔をして、額から血を流していた。ひどい傷だった。
彼を死に追いやった傷だった。
土と、硝煙のにおいがする。
焼けた鉄の温度が手のひらに蘇る。
足がぬかるんだ。
戦地で死んだ親友が、ニヤリと笑って言った。
「俺にもう一度、同じことを言わせてみろ。お前を地獄に引きずり込んでやるぞ」
目が覚めた。
懐かしいにおいがする。
見覚えのある天井に、やさしい肌触りのベッド。外で雪が降っているからだろう、音だけがしない。
「働きすぎですって」
だからというわけではないが、もう何年も聞いていなかったはずの彼女の声が、耳のそばで響いて聞こえた。
「あなたの上官から、帰宅命令が出ています。あなた、執務室で倒れていたそうですよ。家に運んでくださった方がーー」
「リディ」
ほとんどの息を吐き出すように言った途端、口の中が安息に満ちた。
彼女の名前を随分久しぶりに呼んだだけで、その音はこの世界でたった一つの真実のように感じた。
天井を見つめたまま、もう一度確かめるように彼女の名前を呟き、そうして「別れてくれ」と言った。唇がぴったり閉じてしまわないうちに、続けて言う。「私との婚姻関係を、今日で解消してほしい。今後の生活については、もちろん保証する。要望があれば、言ってくれ。叶えられることは何でも叶える」
唇を閉じた。
息を飲んだり、身じろいだりもせず、ベッドの傍らに座っているらしい彼女は、静かに口を開いた。
「わたくしのことが嫌になったのですか」
「違う」即答だった。「自分だ。自分が、嫌になったんだ。私とあなたでは、釣り合わない。いいや、勘違いしないでほしいんだが、これはあなたを辱めているわけではない」
「では、ご自分を辱めているのですね。なぜですか」
「私は人を殺した。こんな手ではあなたを抱けない。たとえどんなに触れたくとも、到底……赦されない」
「赦す? わたくしは断罪などしておりません」
「神だ。あなたは神に赦されているが、私は神に赦されていない。私とあなたでは、進む道が違う」
「確かに」
そこで初めて俺は首をずらし、彼女の方を見た。
数年会わないうちに、かなり痩せたようだ。しかしこけた頬と隈の目立つ眼差しには、一目惚れしたころと何一つ変わらない、瑞々しい生気が宿っていた。彼女は俺を見つめていた。それだけで心臓が踊り、指先にまで血が巡り始める。ああ、手を握り、キスがしたいな、と思った。単純な思考だ。本当は別れたくない。
「わたくしとあなたとでは、死後にゆく世界が違います」
彼女の少しカサついている唇が言った。
「あなたは英雄などと呼ばれていますが、多くの人を殺し、罪を犯しました。わたくしはあなたを愛していますが、あなたとともに地獄には参れません」
彼女の瞳にみるみる涙の膜が張っていく。その頬を撫で、落ちゆく涙を指先で拭えたらどんなにいいだろう? しかし彼女は泣くのを堪え、言葉を続けた。
「今生で一緒になることも許してくださらないのは、なぜですか? わたしは、わたくしは、あなたが命を落としたとあらば、自害する覚悟で、今日まで……」
「それは、」
自ら命を絶つ者は天国には行けず、地獄に程近いところで永遠を彷徨うと言われている。
彼女は俺が地獄に落ちることを受け入れてくれている。もし俺が死んでいたら、天国には行かず、地獄の入り口まで堕ちると言っているのだ。
そんなのは赦されない。
彼女には幸せになってもらわなきゃ、だって彼女は天国に行くべきひとなんだ。
「リディ……」
どうしたらそんな罪を犯さずに済む?
考えこむまでもなく、乾いた唇は先ほどと全く同じ台詞を放っていた。
今度こそ彼女の瞳から涙が溢れる。血の巡る指先が動こうと痙攣したが、それだけだった。
こういう男女が好きですという気持ちだけ。