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「こちらです」
ライザがルディを医務室へと案内するために廊下を歩いているとすれ違う侍女達が顔を赤らめて立ち止まっている姿が目に付いた。
後から何か聞かれるのだろうなと思いつつライザはチラリとルディを振り返った。
右手の傷は小さいが血はいまだに止まっていない。
差し出がましいかとは思いつつライザはポケットから皺ひとつない白いハンカチを取り出すとルディに差し出す。
一度も使用はしていないが、侍女がポケットに入れていたハンカチなど王子が使うだろうかという不安があった。
「あの、よろしかったらこちらをお使いください」
「ありがとう」
断られるかと思ったがあっさりとハンカチを受け取ると傷口に当てて血を拭った。
ルディの後ろを歩いていたロバートが後ろから顔を出した。
「あのさ、君ってエリザベス姫付の侍女なの?」
「は、はい」
突然話しかけられたことに驚きつつライザが頷く。
ロバートはルディと視線を合わせると今度はルディが質問をしてくる。
「エリザベスの侍女は君だけなのかな?」
「今のところは……」
姫様付の侍女が一人という事はほぼありない状況だが嘘はつかない方がよいとライザは頷いた。
「なるほど。よっぽどエリザベス姫は侍女をいじめているんだな」
ロバートに労わるような目で見られてライザは慌てて首を振った。
「いじめなどとんでもないです。少しだけ、自分の意見を通す力が強いというか……」
侍女をいじめるというよりは意見が合わないと物を投げたり怒鳴ることがあるエリザベスを何と表現すれがいいか解らずにライザは口ごもった。
困り果てているライザにルディが苦笑する。
「まぁ、仕方ない。上手くやっていく気がしないけれど結婚は決まっているものだしね」
「ルディ兄上はお人よしだからなぁ。僕だったらあんな姫と結婚なんて嫌だなぁ」
ハッキリと物を言うロバートにルディは困ったように微笑んでいる。
ライザは聞こえていませんよというようにそっと視線を外す。
「ルディ兄上はいつも押し付けられてばかりで可哀想だよ。仕方ない、これを使う時が来たか」
ロバートはそう言うと懐から小さな包み紙を取り出すとライザに差し出した。
(なぜ、私に?)
意味が解らず首を傾げるライザにロバートは無理やり青い色で包まれた小さな包み紙を握らせる。
「な、なんですかこれは?」
お金や毒だったら困ると困惑しているライザにロバートは明るい声で笑った。
「お香だよ。いい匂いがするお香」
「お香……ですか?」
怪しいと思いつつも無理やり握らされた青い包み紙の匂いを嗅いでみる。
甘さの中にエキゾチックな匂いが心を落ち着けてくれライザはもう一度大きく匂いを吸い込んだ。
「いい匂いですね」
「でしょう?これを姫様に嗅がせると心が落ち着いて攻撃的にならないと思うんだよね」
ロバートはニコニコと笑っているが、ルディは渋い顔をしている。
やはり怪しいものではないかと目を細めてお香を見ているライザの背中をロバートは叩いた。
「まぁ、あまり深く考えないでよ。心配ならヴィンセント王太子に相談してからお香を焚いてもらえばいいから。攻撃的な人の性格を穏やかにする効果がある。ルディ兄上の糞田舎に行くときに大騒ぎすると思うから使った方がいいと思うんだよね」
確かに、明後日の朝は大変なことになりそうだとライザは顔を曇らせる。
そんなライザに、ロバートはもう一度言った。
「それを使えば、エリザベス姫は素直になるかもしれない」
「私一人では判断しかねるのでヴィンセント様にお伺いします」
チラリとルディを見ると、諦めたように頷いた。
「ちゃんと相談した方がいいと思う。ロバートがどこからか入手した怪しいお香だから効果はあるかもしれない、がないかもしれない」
ルディが言うとロバートは抗議の声を上げる。
「怪しくないし、ちゃんと効果はあるよ!未知なる力の効果!」
ルディは疲れたようにロバートを見てからライザに視線を向けた。
涼し気な青い瞳に見つめられて心臓がドキドキしたがライザは平静を装ってルディを見つめ返す。
「君はライザって名前かな?」
「はい」
ルディに名前を呼ばれて嬉しさがこみ上げたがいつも通りの顔で頷いた。
「そう、ではライザにこの件は託したから。無理にお香を使う必要は無いから」
念を押すように言われてライザは首を傾げた。
「お香の匂いだけで性格が変わると思えませんが」
「いや、弟のロバートは怪しいものを持ってくる天才だから」
ルディが言うとロバートは頷いた。
「でもルディ兄上には何をしても効果ないからなぁ。意志がはっきりしている人は効かないのかな……」
「他の人には効果があったということですか?」
恐る恐るライザが聞くと、ロバートは頷いた。
「まぁね。半分以下だけれど。面白い効果はあったよ」
「……怪しいですね」
胡散臭いものを見るような目で青い包み紙を見ていると、医務室へとたどり着いた。
ルディの右手の怪我はハンカチで押さえていたおかげか血は止まっているようだ。
怪我もたいしたこと無さそうでライザはホッと息を吐いた。
「では、私は失礼いたします」
ルディの護衛騎士が医務室へと入り説明をしている姿を確認してライザは頭を下げる。
「ありがとう。今度ハンカチは返すよ」
微笑むルディにライザは慌てて首を振った。
「いえ、ハンカチの事などお気にならないでください。姫様が大変申し訳ございませんでした」
「それこそ君が気にすることではないだろう。機会があったらハンカチのお礼をするよ」
「はぁ」
ルディにお礼をされる機会などきっと二度と来ることは無いだろうと思いライザは曖昧に頷いて微笑んだ。
ライザは頭を下げて医務室へと入っていくルディ達を見送った。
微かに漂ってくるお香の匂いに、どうしようかと困惑する。
匂いを嗅いだだけであのエリザベスの性格が変わるわけがないと思うが、勝手に焚くわけにもいかない。
ライザはヴィンセントの判断を仰ごうと廊下を歩き出した。
「とりあえず、エリザベス様のご機嫌をお伺いしないと」
エリザベスはかなり怒っていたので少し時間が経った今でも機嫌は悪いだろう。
エリザベスの部屋へ行くのは気が重い。
ライザが何かしたわけではないが、機嫌が悪いエリザベスほど手に負えないものは無い。
重い足取りでエリザベスの部屋に向かっていると廊下を歩くヴィンセントと護衛騎士が目に入った。
お香の事を聞くことができるとライザは慌ててヴィンセントの元へと走り出しだ。
慌てた様子のライザにヴィンセントは立ち止まって彼女が来るのを立ち止まって待っていたためすぐに追いつくことができた。
「ヴィンセント様、ご相談したいことがございます」
「王子に何か言われたか?物を投げつける女などいくら世界一美しいと言われようと結婚したいなどと思わないのも無理は無いからなぁ」
何処か悟ったように言うヴィンセントにライザは首を振った。
「いえ、ロバート王子からこちらをお預かりいたしまして、どうしたらよろしいかとご相談したく……」
手の平に乗っている青い包み紙に包まれたものを差し出すライザにヴィンセントは首を傾げる。
「王子からエリザベスにプレゼントか?」
「プレゼントではないみたいで。このお香を嗅ぐと攻撃的な人が穏やかになるとロバート王子から言われまして。エリザベス姫にぜひ嗅がせてほしいと言われました。私では判断できかねますのでいかがしたらよろしいでしょうか」
侍女達が傍に居ないのを確認しながらライザはヴィンセントにだけ聞こえるように言った。
もし侍女に聞かれてしまったらあっという間に噂が広がり、エリザベス姫までお香の存在を知られてしまったら厄介だ。
「なるほどなぁ。王子達もエリザベス姫の癇癪にはがっかりしただろう」
ヴィンセントは呟いて腕を組んで天井を見上げた。
しばらく考えてライザに向き直る。
「仕方ない、怪しいお香だが死にはしないだろう。可愛い妹だが少しだけ気が強いからそれが治るなら、いや……せめて城を出るときぐらいは大人しくしてほしいからな。その香を使うことを許そう」
ヴィンセントの許しが出てライザは頭を下げた。
「畏まりました」
「効果や王子からの香だとは悟られてはならないぞ」
「わかっております」
ライザが頷いたのを見てヴィンセントは困ったように眉をひそめた。
「もう少し可愛げのある妹であればよかったのだが。ルディ王子とは少しも気が合いそうに無さそうだ。どちらも可愛そうではあるが仕方ないことだ」
王家も大変なのだなとライザは思って頭を下げながら頷いた。
「ライザに言っても仕方ない事だな。では、頼んだぞ」
「はい」
ヴィンセントは長いため息をついて去って行った。
手の平のお香から漂ってくるエキゾチックな匂いを嗅ぎながらライザも長いため息をつく。
(お香の匂いを嗅ぐだけで性格が変わるなんてあるのかしら)