第八話「島を脱出」
「お待たせしました」
吉田がトレーにティーカップとケーキを乗せて運んで来た。
「わぁ、ケーキまであるの? ん? レモンの香り?」
「はい、レモンティーです。今日買って来たばかりの新鮮なレモンを絞りました。こちらのハチミツをたっぷり入れて召し上がると美味しいですよ」
そう言って、三人の目の前で吉田がティーカップにハチミツをさじに三杯ずつ入れていく。それをめぐみはソーサーに添えられたスプーンでよく混ぜて、カップに浮かぶ輪切りのレモンもスプーンの先で突いてよく果汁を出す。「んーいい香り」
守もそうするものだと勘違いして、二人してティーカップの中を突っつく。鉄男はそのままスマートにティーカップを手に持ちすすった。
「それは?」
めぐみが野崎の前に置かれた小皿に目を留める。梅干しにハチミツがたっぷりとかかっていた。
「あぁ、私は毎日、健康のために食後に梅干しを食べることに決めてるですよ。こうやってハチミツをかけて食べるが大好きでね」
梅干しを口に含む。
「あたしも、梅干しはハチミツ入りが大好き! 他のは酸っぱくてムリ」
「そうかい、ハハハ。君は明るくて元気でハキハキしていて、楽しい子のようだね」微笑み、「じゃあ、私はちょっと失礼するよ」
野崎は椅子から立ち上がり、ダイニングを出てホールの方へ向かって行った。そして、地下室へのドアを開けて入って行くのを見届けた吉田が鉄男達を振り返り、
「今すぐ、この島から出て下さい」
「え?」と、三人は目を丸くする。
「申し訳ございません。私が先生に連絡をせずに、すぐに皆さんを帰らせていれば、このような事態にはならなかったのです」
「それって、命に危険性があるって事ですか?」
「──はい」
鉄男が恐れていた最悪のシナリオは現実のものとなった。
「あと、あなた達を狙う者が潜伏している可能性もあります」
「う……そ?」
めぐみは声を震わす。
「で、でも、出ろってどうやって?」
守は気が動転する。
「昼間の間にボートは修理しておきました。多分、直っていると思います。無理なら、私のボートを使って下さい。キーは付けっぱなしにしてありますから」
「吉田さんのボートって……」
鉄男の問いに、「地下室の下は洞窟になっています」と吉田の答えに、三人の推理は見事当たっていた。
「さぁ、今のうちです。地下室へ」
「地下室へですか? 今、先生が下りて行ったんじゃ?」
鉄男は危険ではないかと考える。
「先生は実験室の奥──洋子さんの所にいるでしょう。そっと音を立てずに下りて行けば気付かれません。今さっき毒を盛りましたし……」
そこまで言って言葉を濁し、三人を急かしながらホールへと出て、螺旋階段を足音を立てぬよう慎重に一段ずつ下りて行く。すると、地下室から野崎の声が聞こえてきた。
「──あぁ……あぁ……っ」
全員、足を止めて耳を傾ける。
「あぁぁぁ──っ……よ……うこ? 洋子っ? あぁぁ──っ」
それは喚き声のようだった。
「今、洋子って聞こえなかった?」
「あぁ」
「洋子さん? 洋子さんがどうかしたの?」
「ちょっとここで待ってて下さい。先生の様子を探って来ます」
そう言って、吉田が足早に階段を下りて行くのを、めぐみが一緒に後を追おうとする。「待てっ」と鉄男の制止も聞かず、守までもがついて行ってしまう。鉄男も慌てて螺旋階段を駆け下りて行く。
地下室へと出ると、実験室のある左側の扉の前で吉田が呆然と立ち尽くしていた。その視線の先では──野崎が脳波を測定した用紙を体にグシャグシャに巻きつけながら、頭を抱えて身悶えていた。
「洋子っ、洋子っ、一体どうしたっ? 何故だっ? 何故、目を覚ましてくれないんだっ! あぁぁぁ──っ」
半狂乱に暴れて、ドンドンと計器を叩く。赤と緑のランプがチカチカと光る。このままでは壊しかねない勢いだった。
一体、何が起こったのか鉄男達には分からないが、洋子に異常がみられたのだという事だけは伝わる。
「洋子さんっ?」
思わず出してしまっためぐみの声に野崎がこちらを振り向く。その顔は狂気に歪み切っていた。全員、ゾクリと背筋を凍らせる。
「……おまえ達、何をした?」
「先生……どうされましたか?」
「洋子に、何をしたっ?」
「先生、落ち着いて下さい!」
吉田が言い聞かせるも、自我を忘れた野崎の耳には届かない。吉田は両手を後ろに広げ、鉄男達をガードしながら、少しずつ後退する。
「洋子に何をしたと聞いているっ!」
「何も……してませんっ」
「オレら、何もしてませんっ!」
守とめぐみが必死に訴えた。
「何もしていないだと? じゃあ、なぜ目覚めない? なぜ、洋子は目覚めないっ! おまえ達が何かしたんだろうっ!」
野崎は混沌とした怒りを爆発させ、その矛先を鉄男達に向けてくる。
──私、眠るの
鉄男の脳裏に洋子が言った最後の言葉が浮かび上がる。
洋子は本当に眠ってしまったのか。洋子は自ら眠ってしまったのか。どうして眠ってしまったのか。
ハッとすると、野崎が拳銃を手にしていた。こちらに銃口を向けたと同時、吉田が扉をバンッと閉める。
──ドンッ
銃声と共に弾が扉に当たる音がした。
「皆さん、洞窟へっ」
吉田が反対側の扉を鍵で開けると、鉄男達の背中を押して扉の中へと押し込む。「中から鍵を」鉄男が「はいっ」と頷く。守が、
「吉田さんはっ?」
吉田は、「ご無事で」目尻にシワを作り優しく笑った。
鉄男が中から鍵を閉めようとして、
「鉄男さんっ」
めぐみが止めるよう叫んだが、鉄男の鍵をロックする手がガタガタと震えてるのに気付き、めぐみはそれ以上、何も言えなくなった。「てっちゃん、ごめん」辛い役目をさせてしまったと、守が小さく謝る。
「行くぞ!」
何も聞こえなかったフリで鉄男は先を急ぐ。背後でまた一発、銃声が轟いた。
◇
「吉田、そこをどけっ」
洞窟へと続く扉の前、立ち塞がる吉田に野崎が銃口を向ける。今の一発が腕をかすめた。白いシャツから血が滲んで広がっていく。
「先生、あの子達を見逃してあげて下さい」
「せっかくの、洋子の〝お友達〟だったんだ。なのに……生かしてなるものかっ」
「もう、やめましょう、先生。こんなことは……洋子さんのお気持ちを考えてみたことがおありですか?」
「洋子の気持ち?」
野崎はピクリとこめかみを動かして、引き金を引く指にグッと力を込める。
「吉田、私に歯向かう気か? 洋子の気持ちだと? そんなものは父親の私が一番よく分かっているに決まっているだろう。それが、何だ? おまえには私よりも洋子の気持ちが分かるとでも言うのかっ?」
唾を飛び散らしながら怒鳴る。もはや、何を言っても野崎は耳に聞き入れようとしない。一番に信頼するはずの吉田に銃口を向け続ける。
「そこを、どけと言っている!」
「洋子さんがっ、今のあなたの姿を見たら果たしてどう思うでしょうか? 少なくとも、それくらいは私にも分かりますよ。自分のせいで人を殺めようとしてしまっている父親の姿を、洋子さんは喜ぶとでもお思いですかっ?」
「吉田ぁぁぁ────っ、うっ……」
引き金を引こうとして、ぐらりと体勢を崩した野崎。そのまま、崩れ落ちるよう床へと倒れ込んだ。
「よ、吉田……何を……?」
「三十分が経ちましたね、効いてきたようです。しばらく体が麻痺して動けなくなるでしょうが、ご心配はありません。なんせ、先生ご自身が調合した〝毒〟ですからね」
「……いつ」
食後の紅茶とケーキには手をつけなかった。以前から、吉田への不信感を少なからず抱いていた野崎だ。今回も念を入れて用心していた。
「ハチミツですよ。あなたの健康一番の、ハチミツ梅干しです」
「……最初から……そのつもり、だったか……」
まんまとしてやられたと、ククッと喉の奥で野崎は笑う。そして、「ゴホッゴホッ」と咳き込む。徐々に思うように動かなくなっていく体。手が、足が、どんどんと自由を奪われていく体。あぁ……と、洋子が体験したであろう恐怖を身を持って知る。野崎の殺気に満ちていた瞳に涙が浮かんだ。
吉田が落ちた拳銃を奪い拾おうとして、
「動くな」
螺旋階段に男が二人──佐山と本郷だ。
「一体、どうなっちまってるんだぁ? ①②③のケータイからコールが鳴ってやって来てみりゃ、銃声が鳴り響いてるわ、先生は何だぁ? 倒れちまってるじゃねぇか」
本郷は少しろれつの回らない舌で、状況をうまく把握できないでいる。佐山は、
「男女三人は、どこだ」
少しでも動いたら撃つつもりで佐山は麻酔銃を向けてくる。
「……さぁ」
「おいおい、吉田さん。シラを切る気か? って、その扉の向こうの洞窟に逃がしたんだろ? 鍵、よこせよ」
本郷が腰のベルトに突っ込んでいた拳銃を取り出す。だが、絶体絶命となった吉田は口元を緩めて、「フッ」とニヤ笑うと素早くジャケットの内ポケットから果物ナイフを取り出し二人に投げつけた。
瞬時に避けた二人の隙を狙って吉田は拳銃を拾うと、螺旋階段へと駆ける。至近距離で銃を構えられなくなった二人に吉田は体当たりをして、そのまま上へと逃げ走る。
「本郷っ、逃がすな! 小屋の方へ行くつもりだぞ!」
「くそっ! あの野郎、やりやがった! 刺さったらイテェじゃないか!」
「本郷、早く追えっ!」
吉田は家を飛び出て、小屋へと向かい息を切らして走りながら、いつしかの洋子との会話を頭に思い起こしていた。
──人は、脳だけでは生まれて来ないわ。身体も授かった大切な命よ。失ってみて、やっぱり悲しいわ。愛しいものだったと気づかされたわ。
──洋子さん……
──父の考えは、自然の摂理に反する危険なものよ。
──お父様を反対されるのですか?
──いいえ、頭では分かっているの。父のこの研究は、未来では多くの人々を救うと思うわ。
──はい、私もそう思います。
──でも……吉田さん、一つお願いがあるの。
──何でしょう?
──私はきっと、普通の人よりもうんと長く生きることができるの。でも、私はそんなものはちっとも望んでいないわ。だから、父が亡くなったならば、その時には、この生命維持装置を切ってほしいの。父と一緒に〝自然〟へと還りたいの。
あの時の、洋子の切実な願い。吉田は野崎の許可なく即答することができなかった。嘘でも、笑顔で約束してやれれば良かったと、今思う。
「吉田ぁぁ──っ!」
背後から本郷が距離を縮めて来る。その後ろから佐山も追って来ている。吉田は後ろを向き、銃を構えた。拳銃と麻酔銃の二つに勝てるはずはなかった──が、吉田はその引き金を引いた。
◇
銃声の音がした。
「また……まだ野崎さんと吉田さん、戦ってるのか? いや、生きてる証拠だよな、うん」
守は良い方向へと考えたが、今のでどちらかが撃たれたとも言える。
「地下室とは方向が全然違う。銃声の音も……もしかしたら、吉田さんが言っていた男達の仕業かもしれないな」
「ヤダ、あたしたち、どうなっちゃうの?」
めぐみは涙ぐむ。
「だ、大丈夫だ、めぐみ。吉田さんが言ってたように、みんなで生きて帰ろう。なぁ、てっちゃん?」
「あぁ、先を急ぐぞ」
洞窟の中は、岩肌がゴツゴツと剥き出しになっている。足元は土の上に板が敷かれ、いくらか歩きやすくなっていた。幅狭い道が続いていて、十メートル間隔くらいに電球が吊られているだけで、薄暗い。いつ何が出てくるか分からないといった不気味さと慣れない空間に息を殺しながら先を進んで行く。
三十メートル程行った所で、鉄製の扉が鉄男達の前に立ち塞がった。
「て、てっちゃん、コレ……」
「うそ、ここまで来たのに……どうしたらいいの?」
「いや、よく見ろ。内側のロックを外せば出られる。鍵がいるのは、外側から中へ入る時だ。コレ」
鉄男が手の平を開いて見せる。地下室から洞窟へと入る際、どさくさ紛れに吉田から握らされた鍵だ。
「開けるぞ」
扉を開くと、大きな空間へと出た。
「あっ、ボートがあるよ!」
ボートが二艘、着いていた。片方は鉄男のだと一目見て分かる。もう一艘は吉田の物だろう。
「直ってるの?」
「吉田さんがそう言ってたじゃん、これで脱出できるよ!」
守とめぐみの目に希望の光が射す。ボートへと駆け寄ろううとした時、
「待てっ」
鉄男が二人の腕を引く。
「何か、音がする」
シッと人差し指を口元に当てる。三人は耳を澄ます。コツコツという誰かの足音のような音が響き近づいてくる。
「こっちに来てる」
「まさか、吉田さんが言ってたオレたちを狙ってる人ら?」
「だとしたら、洞窟に俺たちが逃げ込んでるのはもうバレてるだろうな。あの小屋から入って来たか」
「え、じゃあ吉田さんは? 大丈夫なの?」
「とにかく、どこかへ隠れろ」
岩と岩の間に入り込んだ箇所を見つけた鉄男は、二人を押し入れる。
「俺はボートのエンジンをかける。守、タイミング見計らって、めぐみちゃんを連れて一緒に飛び乗って来いっ」
「タ、タイミングって?」
ボートには身を隠せる場所がない。エンジンがうまくかかるのが先か、見つかるのが先か、鉄男はボートまで走って乗り込む。
「頼むから、かかってくれよ」
願いを込めて、エンジンレバーを引く。が、かからない。その音に、近付いていた足音が大きく早くなる。そして、人影が見えた。
「かかれっ」
鉄男は思いっ切りレバーを引く。エンジンが音を上げた。その瞬間、
──シュンッ
何かが鉄男のこめかみを横切った。ポチャンと海面に注射器のような物が落ちる。麻酔銃だ。
「チッ、外したか。しかも、男かよ? 薄暗くて見えねぇってんだ」
岩蔭から本郷が文句を垂れながら姿を現すと、カートリッジの箱を取り出す。
「てっちゃん!」
「鉄男さん!」
隠れていた守とめぐみがたまらず飛出しボートへと走る。
「──っ!」
乗り込もうとしためぐみの足に麻酔銃が命中して刺さった。
「めぐみ!」
守は刺さった矢を急いで抜き取る。
ボートはスロットルを上げ出す。鉄男は右か左かも分からないまま、とにかく洞窟の外へと目指した。
「大丈夫かっ?」
「分かんない! コレ、麻酔銃だ! どうなるんだ? おい、めぐみっ、めぐみっ、しっかりしろっ!」
体をぐったりとさせて意識を失っていくめぐみの体を守が必死に揺さぶり起こす。
──カンッ
後方から、本郷の撃った拳銃の弾がボートに当たった。
「今度は銃弾だっ、守! 姿勢を低くしろっ」
「てっちゃん! ──っ!」
鉄男を庇った守の背中に銃弾が命中する。ドサッと、守がデッキへと倒れ込む。
「守──っ」
その時、前方から強い光が射した。鉄男は眩しさに手で目の上を覆う。
目の前には黒く大きな怪物──佐山が乗ったクルーザーが間近に接近しようとしていた。
激しい衝突音が夜の海に響き渡る。