第七話「最期の食事」
鉄男はハッとして上体を起こす。
「……五時か」
腕時計を見ると、ちょうど五時だった。あれから、いつの間にか寝てしまっていた。最後に時計の針を見たのは、三時半だ。見張りどころか、座り心地の良いソファでしっかりと目を閉じてしまっていた。
「んん……」
めぐみも目を覚ます。
「あたし、寝ちゃってた……?」
「よく寝てたよ」
鉄男はちょっと口元を引きつらせて、見張り役を買って出ておいて寝てしまった事をごまかすよう笑った。
「あんたは、いつまで寝る気?」
バシッと、めぐみが守の尻を叩いた。寝起きは少し機嫌が悪いタイプとみえる。守が「何すんだよー」と目を開き、「あれ?」と寝とぼけた顔でキョロキョロ首を回す。
「オレ、寝てた?」
「寝てただろ、覚えてないのか?」
「寝てたら覚えてないだろ、フツー」
ふと、鉄男は洋子の言葉を思い出す。眠ると言っていたが、眠っているのだろうか。あれは、ただのおやすみの挨拶だったのだろうかと。鉄男には、まるで永遠の別れのように聞こえていた。
「今、何時なの?」
鉄男が腕時計を指差しながら、
「五時だよ」
「ホントだ」と、部屋の壁際に置かれたアンティークな大きな置時計を見て、めぐみが言った。疲労のせいか失態ばかりだと、鉄男はまたも苦笑する。
めぐみは窓へと近づく。海の波は穏やかで、太陽は西へと傾きかけている。広く大きな夕焼け空を海鳥が黒いシルエットを作って舞う。
「吉田さん、お料理作ってるの?」
「だと思うけどな。軟禁されてる訳でもないから、様子見に行って来てもいいけど……もう、そろそろ出来上がるだろうな」
しばらく待っていると、コンコンとノックする音がしてからドアが開き、
「みなさん、食事の準備が整いましたが、いかがなさいます?」
吉田が伺いに来た。
鉄男が守とめぐみを見ると、二人は頷き返した。
「じゃあ、いただきます」
「かしこまりました。それでは、ゆっくりで構いませんので、リビングの方へ移動お願いします」
そう言って、吉田はドアを閉めた。
「……大丈夫よね?」
めぐみが不安気に鉄男と守を上目に覗く。鉄男と守も同じ気持ちだったが、
「大丈夫だろ。一緒に夕飯食べて、仲良しにさえなれば、何とかなるっしょ。なぁ、てっちゃん?」
そうだ、まだこの島が謎に包まれたものかどうかは分からない。すでに洋子のような人間は存在していて、研究も密かなものではないのかもしれない。全ては、直接話してみるしかない。
「あぁ、そうだ。行こう」
二人を勇気づけるよう、鉄男は力強く言った。
◇
ダイニングテーブルに案内された三人は、慣れない雰囲気に包まれ落ち着かずソワソワしてしまう。
食卓の上には大きくて美味しそうなエビフライが皿に乗っかっていた。主食にもエビなどの魚介類がたっぷり入ったパエリア。副菜にサラダとスープまで付いている。
「わぁ、すごーい」
と、めぐみが褒めて喜んだが、「普通の家庭料理ですよ」と吉田は照れ隠しながら謙遜した。
少し遅れてから、野崎がダイニングへと入って来た。
「お待たせしましたね」
と、一番奥の席へと着く。鉄男と守はその両側にテーブルを挟んで向かい合い、守の隣にめぐみが座っていた。
「いえ、こんなに立派なお食事を用意して下さって……」
鉄男が慣れない様子で社交辞令を述べるも、最後まで続かず尻切れトンボになってしまった。
「いやいや、礼は吉田に言って下さい。さぁ、どうぞ召し上がって下さい」
三人は「いただきます」と手を合わせて、ナイフとフォークをそろりと手に取るも、なかなか食事に手が出せない。守とめぐみが目の端でチラチラと窺い合っている。
「さぁ、お腹が空いてるでしょう。マナーも何もありませんから、遠慮なくどうぞ」
すると、鉄男がフォークでエビフライをブスッと刺すと、勢いよくガブリとかぶりついた。あまりの豪快さに、守とめぐみは口をあんぐりと開ける。パエリアとサラダにスープと一通り口を付けたところで、ふぅと息継ぎをして水を飲む。グラスを持ったまま、
「どうした、食べないのか?」
と言いながら、目線で「大丈夫だ」と合図を送った。それを受け取り、守とめぐみは安心して食べ始める。もっとも、毒がすぐに効くとは限らないが、食べずにいるのも不自然だ。鉄男は二人の不安を和らげただけに過ぎない。
しばらく、モグモグと食事を口にした後、めぐみが恐る恐る野崎に尋ねた。
「あのぅ……野崎さんは何のお仕事をされてるんですか?」
「あぁ、私は医者でしてね。大きくはないですが病院を経営しております」
「え、何て病院なんですか?」
鉄男が突っ込み過ぎだとめぐみを止めようとしたが、やはり興味があるし情報はなるべく多く知っておきたい。守も同じく一緒に耳を立てる。
「野崎病院です。そのまんまですが」
「えっ、もしかして、あそこの?」
守が驚き声を裏返す。
「脳神経外科と内科もある所ですよね?」
地元民には〝野崎さん〟で通じるくらいの有名な病院だった。
「オレ、何度かお世話になった事あります」
「おや、大丈夫でしたか?」
「あっ、もう今は全っ然。ただの下痢でした」
めぐみがテーブルの下で守の足を蹴り、鉄男はゴホンと咳払いをした。
「それは良かったです。お体、大事にして下さいね」
「はい。でもスゴイなー、あの病院の院長さんかぁ」
守のデリカシーのない発言のおかげで、その場の空気は明るく和んでいった。
「それでしたら、この島はやはり先生の別荘……ですか?」
鉄男が聞くと、
「えぇ、そんな感じですね。と言いますのも、この島はあなた方もすでにご存知でしょうが、娘──洋子のためのに用意した島なんです」
「洋子さんのために?」
何となく鉄男には意味が理解できたが、慎重に焦らず話に耳を傾ける。
「……私は洋子がまだ小学生の頃に妻を癌で亡くしましてね。父と娘の二人きりで、それでも幸せに暮らしていたのですが……それが突然でした、あの子が交通事故に遭ったのは。意識不明の昏睡状態が何日も続きました。妻を亡くし、洋子まで失ってしまうかもしれないという恐れが襲いかかりました……」
当時の辛い過去を思い出してか、野崎の顔に暗い影が落ちる。鉄男達も黙って話を聞く。そこへ、吉田が水差しのポットを持ってきて、そっと皆のグラスに注ぎ足していく。野崎はそのグラスに入った水を一口含んで飲むと、「失礼」と言って再び話の続きを始める。
「けれど、私は諦めたくはなかった。身体は助からなくても、脳だけは助かるのではないか。それならば──とね。まだ誰も成功させていない研究と実験を日々重ね続けた。その結果が、今の洋子なのです」
守とめぐみは返す言葉を探していたが、鉄男が、
「つまり〝成功〟したって事ですか?」
「医学は日々、進歩していく。十年後には失敗だったと分かったとしても、現時点では私は成功したと思っているよ」
そう、自信を込めて言い切った。それを、
「あの、気を悪くさせたらすみませんが、成功とかって言い方……それは〝実験〟に〝成功〟という風に僕には聞こえてしまいます。僕でしたら、成功例があったとしても、とてもリスクが高い手術を自分の子供に受けさせられるかどうか……それに何より〝脳〟だけになるんです。そこをどうお考えなのですか? 洋子さん自身は、それを承諾したのですか?」
鉄男の質問に野崎の顔つきが一瞬、険しくなる。
「……なんか、体を失ってかわいそうな感じもする……」めぐみがポツリとこぼす。
「確かに、そう聞こえて思うかもしまうかもしれません。しかし、生きながらに身体の自由が奪われて死んでいく恐怖──それから逃れることができた事は、幸せなはずです。本物の体はなくとも、今は人工義体を通して見たり聞いたり話をしたりといったことができる。近い将来、人間は脳さえあれば生きていけるようになるでしょう」
「それは、人間に身体はいらないって事ですか?」
鉄男はうまく納得がいかない。
「んー、それは少し極論かな。私は洋子のように身体がなくとも生きる希望のある世界になればと……まず願うのは、そこからだよ」
「でも、今は義肢じゃ歩けないみたいだし、というか脳から長い距離は離れらないんだよな? それじゃ、友達と一緒にショッピングやランチ……そうだ、飲み食いもできないし、生きる楽しみというか、友達もいなくて色々寂しそうだな」
守は自身に置き換えてみる。
「そうですかな。そうとも限らないと私は考えています。まだ研究を進めている段階なのですが、脳をネットワークに繋いで一体化させ、遠く離れた人々ともコミュニケーションが取ることができるようにと考えているんですよ。すでにSNSで人々はネット上で繋がり交流をし合っている。それには操作する〝身体〟が必要ですけどね。それを脳内で行い、仮想空間──バーチャルの世界で繋がり合えるようにするんです。バーチャルの世界ではいつどこにいても、皆で食べたり飲んだりして遊んだりすることが、まるで実体験のように感じることができます。もう、これはずっと昔から世界中で研究が行われていて、もう、すぐそこまで実現可能に近付きつつあるんですよ」
「……何か、楽しそうだなぁ」
最新や流行といった言葉が好きなデジタル派の守は楽観的意見を持ったが、とことんアナログ人間の鉄男にはピンとこない。めぐみは頭と目を斜め上に想像している。
鉄男はよく分からない議論を一旦端に置くと、
「それで、これは重要な事だと思いますが、この研究──洋子さんのことは公にされてるのですか? それとも、この島で野崎さんだけが行っているのですか?」
話を切り込んだ。
「今は、秘密ですね」
「それは、どうしてですか?」
「洋子を……世間の晒し者にはしたくないからだよ」
「はい」
野崎の言う通りだった。
「でも、僕たちは、その秘密を知ってしまいました。明日、この島を出て誰にもこの事を喋らないとは限りませんよ?」
「──それはない。もう、君達は洋子の〝お友達〟なんだからね」
ニヤリと、野崎が不気味に笑った気がした。どうして、そんなにも確信と保証を持てるのか。やはり……と鉄男が予期する中、
「あたしは、絶対に喋りませんから! また、洋子さんとお話に来れたらいいなっ」
「あ、オレも!」
守とめぐみは未来明るく、「ね、てっちゃん」と。鉄男は、ほだされてやしないかと、二人を心配に思ったが、「あぁ」と返事を合わせた。
「ところで君達、十分に食べたかね」
「はい、とても美味しかったです!」
いつの間にか、ペロリと完食していためぐみだ。「オレも」と、満腹になったお腹を守がさする。「そうかい」と、野崎が満足そうな笑みをこぼす。
「今日は、色々とためになるお話をありがとうございました」
鉄男が礼を述べる。野崎が、「吉田さん、そろそろ終えるよ」とキッチンに向かって声をかけた。
吉田がダイニングに入って来て、「お食事の方、もうお下げしてもよろしいですか?」
「あっ、すみません。あとこれだけ」
会話に熱中していたため、まだ全部食べ切れていなかったパエリアを鉄男は口にかき込むと、「あぁ、そんな……残されても構いませんよ」と吉田が苦笑する。
カチャカチャと食器を下げる吉田に、
「後で食後のデザートでも頼むよ。それと、いつものを」
吉田が「はい、かしこまりました」と答え、「今、お持ちしますので、少々お待ち下さい」と、キッチンへと戻って行った。
◇
日の沈んだ夜の海。
野崎のクルーザーに二人の男が隠れるよう身を潜めていた。
「今日はあまり飲むなよ」
そう、注意したのは佐山だ。
「何でだよ」
すでにほろ酔い状態の本郷は露骨に不満の色を表す。浅黒くゴツゴツとしたエラの張った頬はほんのりと赤くなっている。
「何故、俺達がここにいるのか分かってるのか」
佐山は先程からライフル型の銃を手にスコープを覗き込み、何度も入念に調節をしている。そうかと思えば、今度は注射器を取り出し薬剤を調合して注入し始めた。
「その〝麻酔銃〟で、昼間にいた、あの若くて可愛い女鹿ちゃんを生け捕りにするんだろ? 怖いねぇ、あの先生も」フンッと鼻で笑い、「けど、それって人間に効くのかぁ?」
「逆に効き過ぎて死ぬだろうな。そうゆう意味では、効く」
人体用には使用されていない。麻酔量の調節が難しいからだ。しかし、医師である野崎から配分量は教わっていた。
「で、オスは殺しちゃっていいか?」
と、拳銃を手に取りスライドさせると引き金を引いた。
カシャンッ──
もちろん弾は入ってなく空射だったが、音は出る。佐山が「やめろ、静かにしろ」と、先程から細めていたキツネ目をさらに細めて、本郷を睨む。
「先生が何をどうしようが興味はない。俺らは言われた通りに仕事をするまでだ」
「ずいぶんと危ない仕事だよなぁ」
「それに見合った報酬を受けてるだろう。子供のお遊びじゃあない、ちゃんとやれ」
「金持ちの金の使い道はろくでもねぇな」と、高級な銘柄の日本酒をあおりながら、
「それに、吉田がいるだろ? 俺たちの出番はねぇよ。せいぜい、あの螺旋階段を重い荷物しょって上り下りさせられるくらいだろ」
寝転んでしまった本郷に、佐山は溜息をつくと、操船室の窓から外を窺う。外は三日月だ。海面が月の闇に覆われている。今宵には持って来いだろう。もっとも、この島において、侵入者以外には誰にも見られる心配はない。