第一話「島へ漂流」
その日、釣りをするには絶好の日和だった。
太陽の日差しを受け、海面がキラキラと宝石のようにまぶしく照り光っている。空には海鳥たちが羽を広げて気持ちよさそうに飛んでいた。
沖合、数キロメートルの距離。
念願の買ったばかりの船外機を取り付けた小型ボートに乗って友人の守と、その幼馴染のめぐみとの三人で、鉄男は海釣りを楽しみにやって来ていた。
「きたっ」
釣り糸に手応えを感じ、慎重にリールを回し、「よっ」と鉄男は釣り竿を持ち上げて、大きなアジを釣り上げた。
「てっちゃん、かっこいー!」
ヒューと、隣で守が口笛を吹く。
「ふざけてないで、おまえもやる気出せよ」
守は今日、一匹も釣っていない。
釣れないのではなく、釣る気がなく、ダラダラとおしゃべりばかりだ。
「オレは、食べる係だから」
「あぁ、そう」
自分で釣り上げた魚を食べるが、最高の醍醐味だというのに分かっていないなと、鉄男は溜息をつく。
守の栗色の柔らかな猫毛がふわりと海風に吹かれた。一見軽くてチャラそうな外見に、釣り人の定番であるチェックのシャツにベストというファッションがひどく似合っていない。一方の短髪黒髪の鉄男には、青いチェックのシャツがとてもしっくりとしていた。「でも、作業服が一番似合うよね」との守の台詞に、頭をゴツンと叩いた鉄男だった。
「ねぇー、まだ帰らないの?」
隣で気だるそうな声を出したのは、めぐみだ。
まるで守とお揃いのような栗色の巻き髪をポニーテールにしている。その毛先が風でくるくると遊ぶように揺れていた。
最初は初めてのボートにキャーキャーとうるさい程はしゃいでいたのだが、すぐに飽きたようで、つまらなそうに今はスマホをいじっている。
「まだ三時も来ていないだろ? めぐみちゃん、今何時?」
「あたし、今忙しくて手が離せないの。守君、何時?」
「ハイハイ、えーと……うわっ」
ズボンからスマホを取り出そうとした守は、突然持っていた釣り竿にグイッと引っ張られる。
「守っ、それ、引いてるっ」
「わわっ」
体のバランスを崩してしまった守は、咄嗟に鉄男の襟元を掴む。
ドサッ──
二人して尻餅をついて後ろに倒れ込んだ。
「ちょっと、何してんの? あーあ」
危うく海へ転落してしまうのは免れたが、二人の釣り竿はポチャンと海の中へ。めぐみが海に沈んでいく釣り竿に手を伸ばそうとしたが、「危ない、やめろ」と鉄男が止める。
「あ────っ!」
守の雄叫びに、鉄男とめぐみがビックリして肩を跳ねらせる。
「今度は、なにっ?」
「なんだ、どした?」
「スマホが……オレのスマホが……ないっ」
守は手にしたいたスマホがなくなっているのに気づき、ズボンやら胸ポケットをまさぐるが、ない。鉄男とめぐみもボートのデッキの上を探してみるも、見つからない。やはり海へ落としてしまったと推測される。
「あぁー……」
守の目は死んだ魚になる。
「ご愁傷さま」
と、めぐみが両手を合わせて「あたしみたいにストラップ付けておかないからよ」
「で、今何時?」
鉄男がめぐみに再度、聞く。
「もう三時、過ぎてるよ。ねぇ、帰ろーよ」
「そうだな、釣り竿もなくなったしな。ちょっと、待ってて」
鉄男はボートのエンジンを掛けようとする。しかし、
「あれ?」
何度もエンジンレバーを引く。
「……てっちゃん、どした?」
まだショックに打ちひしがれていた守が、さらなる不幸を予期して恐る恐る尋ねる。
「エンジンが掛からない」
「うん、見て分かるけど。燃料は?」
「それは大丈夫だ」
もう一度、鉄男は試みてみるが、やはりエンジンは掛からない。
「それ、直せんの?」
「いや、よく分からない」
「マジ?」
守が青ざめる。
ボートの操縦は販売店の店員に教わってすぐに分かったのだが、故障時の対応までは調べていなかった。まさか、と甘い考えてでいた自分に鉄男は後悔して責めたが、今更遅い。それに、修理道具さえも持ってきていないという始末だった。
「どしたの? エンジンかからないの? まさか、故障?」
めぐみが何事かと、エンジンに近付く。
「そのまさかの、故障……みたいだな。仕方ない、118番だ。めぐみちゃん、携帯貸して」
「いいけど、電池なくなっちゃってるよ?」
「「は?」」
鉄男と守は目を点にする。
「お、おまえっ、ゲームやり過ぎだろっ」
「だって、ゲームでもしてないと退屈でしょっ」
めぐみはプンッと膨れた。
「守、めぐみちゃん責めるな」
「そう言ってる、てっちゃんが自分の携帯使えばいいだけじゃん」
「いや、俺は仕事の日以外は持たないようにしてるから」
「今どきっ? そのセリフ、もう決まんないよ? てか、このご時世にどうやって生きてるんだよ!」
「ちょっと、ちょっと、二人とも! じゃあ、どうすんのよ? この状況、ヤバくない?」
ようやく、三人は事の重大さに気付く。
「近くに他の漁船が通るのを待って、助けを求めるしかないな」
「それ、いつだよ?」
「助けが来るまでに、凍え死んじゃいそー」
そろそろ太陽は西へと傾き出している。北から冷たい風が吹き出した。予報では波浪注意報などは出されていなかったので、船が転覆するなどといった最悪の事態は起こらないはずだ。
鉄男はライフジャケットを外すと上着を一枚脱いで、めぐみの膝に掛けようとする。
「いいよ、鉄男さんが寒いよ」
「俺は、カイロ貼ってるから大丈夫」
「年寄り臭いヤツだな」
守が冗談を飛ばしてみせたが、目は笑っていない。
三人は身を寄せ合い、どこかの船が通りかかってくれるのを、ひたすら祈りつつ待ち続けた。
◇
「んん……」
コツコツという音に、鉄男は目を覚ます。何だろうと思えば、ボートが岩に微かに擦れて当たっていた。
「おい、起きろ」
守とめぐみを揺さぶり起こす。
「岩だ、岩がある」
「えっ?」
守が慌てて飛び起きる。
「どこかの陸地に着いたみたいだな」
「陸地って? オレら、助かったのか?」
「ん……何?」
隣で目を擦りながらめぐみが、
「これって、霧?」
ボートは真っ白な濃い霧に覆われていた。鉄男は岩をつたってボートから降りる。
「鉄男さん、危ないよ」
「大丈夫」
岩へと移った鉄男は、ぐるりと辺りを見渡す。
濃霧により、視界の先はぼんやりと三メートルから五メートル程しか見えず、陸地の全体は把握できなかった。が、五メートル程先に周りの雑草をかき分けるようにして一本の細い筋が通っているのが見えた。
「道……? おい、守、道があるぞ」
「えっ、マジ?」
鉄男の指差す方向に、守とめぐみは目を凝らす。
「どうすんだ、てっちゃん」
「行ってみるか。よし、守、ボートをこの岩に繋いでおくぞ」
「分かった」
二人は近くの岩にボートをもやいロープでしっかりと繋いだ。
「めぐみちゃん、行こう。ここ、浅いから大丈夫だ、気をつけて」
「うん」
岩をつたって渡るのは危険だったので、浅瀬へと誘導する。
「足元、濡れるだろ。めぐみ、おぶってやろうか?」
守が優しく気を利かせると、
「ヤダッ、あんたに借りを作るなんて」
めぐみは冷たく断った。
「あいつ、元気そうだ」と、こっそり耳打ちする守に、鉄男は苦笑する。ボートから足を下ろしためぐみが、真冬の海水に「ヒャーッ」と、小さく悲鳴を上げた。
◇
霧の中、鉄男を先頭に三人は一列に並び、細道を前後左右に確認しながら慎重に進んで行く。五メートル先は濃霧で何も見えないので、危険に注意を払う。
「ここ、どこかな? 無人島かな?」
「やめてよ、守くん」
「道があるって事は、誰かがいるはずだ。細い道だけど、雑草もなく荒れてないし、管理されてるっぽいな」
「ほら、鉄男さんの言うとおりよ」
「おまえなー。大体、誰かさんが電池なくすほど携帯酷使したから、遭難するハメになったんだからな」
「何よっ、それを言うなら、携帯、海へ落っことす間抜けがいたからじゃない」
「そ、それは、不可抗力だっ」
ピタリと鉄男が歩を止める。
「おい、船着場がある」
「あ、ホントだ。でも船は停まってないな」
「でも、これで本格的に人が住んでいる可能性が高くなったな。っと、行き止まりか」
細道はそこで止まっていた。ちょうど右手に船着場が見え、左手には石で造られた階段があった。
「てっちゃん、石段だよ、コレ。建設したのかな、わざわざ」
「あぁ、もしかしたら、立派な家も建ててるかもな」
「上がってみよ」
「ちょっと待ってよ、あたし疲れてるんだけど」
「めぐみちゃん、あともうちょっとだ、頑張ろう」
今度は守を先頭に、鉄男はめぐみを先に登らせていく。
◇
石段を三十段程、登った地点。右手に小屋らしきものが見えた。
「てっちゃん、アレ」
「小屋か?」
守が小屋まで小走りに近付いて行くと、鉄男とめぐみを振り返って手招きする。
「誰かいるの?」
「んー、住むには小さそうだけど」
と、入り口の扉の横にある小さな窓を守は覗き込む。しかし、薄いグレー色の布か何かに遮られていて、中の様子は窺えない。
「カーテンしてんのかな?」
「そりゃそうよ、人がいるなら。ただの物置小屋ならカーテンはしないはずよ」
守はドアノブを掴んで回す。
──ガチャガチャ
「開かない、閉まってる」
「勝手に開けちゃダメよ」
鉄男が騒ぐ二人の後ろからスッと腕を伸ばし、
──コンコン
「すみません、誰かいませんか?」
礼儀正しくドアをノックして挨拶をする。しばし待ってみるも、中から返事はない。
「僕ら、遭難したんです! 助けて下さい!」
事情を説明しててみるも、中で人が動く気配などは全く感じられなかった。
「やっぱり、いないようだな」
「石段はまだ続いてるよ、上に何かあるかも。行ってみよっ!」
守は冒険でもしているかのようにワクワクと胸を高鳴らせながら上へと登って行く。「ちょっと、待ってよー」と、フーッと息をつかせためぐみの肩をポンと鉄男が叩く。
「あいつ、好奇心に火が付くと止まらないからな」
「知ってるー」
「幼馴染だっけか」
「お隣さんちの守くん、よ」
童謡を口ずさむよう、めぐみは言った。
「鉄男さんは? 同じ大学の……」
「サークル仲間だった」
すでに鉄男は卒業していて、建築現場で働いている。三歳年下の守はまだ大学四年生で、めぐみも守とは違う大学だが、同じく県内の大学に通う四年生だった。
「おーい」と、石段の上から守の呼ぶ声がして、「はいはーい」とめぐみが登って行く。
どこか似ているな。と、鉄男は二人を双子扱いに思った。
◇
小屋からさらに四十段程登ると霧は晴れてきて、辺りには平地が広がり、その中に一戸建ての洋風な家が姿を現した。
「わぁ」
と、めぐみが感嘆の声を漏らす。
「ここ、別荘かな?」
守が見上げながらつぶやくと、
「だろうな。島に住居を構えたくはないな、不便だ」
鉄男が真面目で現実的な意見を述べた。
洋館は金色の装飾をゴテゴテと施したようなゴージャスなものではなく、白を基調とした壁に淡いグリーンの屋根といったシンプルでオシャレなイメージだ。まさに、別荘という言葉が似合う。
「どうする?」
きちんとした家を前に、今度は勝手にドアノブを回さない守だ。鉄男がインターホンを探して押すと、家の中にチャイムが鳴り響く音が外にも聞こえてくる。しかし、応答はない。
今度はドアをノックしながら、
「すみませーん、誰かいませんかー?」
大きな声で鉄男が呼びかける。が、
「ダメだな、ここも誰もいないみたいだ」
「えぇー……」
めぐみは落胆して肩を落とす。
「どうすんだ、てっちゃん」
「さぁな」
鉄男は腰に手を当てて突っ立ったまま、守とめぐみは玄関前の階段に腰を下ろして、途方に暮れた。
◇
先程、三人がやって来た小屋の中。男が一人、モニター画面が設置された机の前で椅子に座っていた。
モニターの数は十台。そこに鉄男達、三人の姿が映っている。船着場、小屋、家の玄関と、それぞれの地点でその姿が確認されていた。
男は携帯電話を取り出すと、通話ボタンを押す。何度目かのコールが鳴った後、
『──もしもし。吉田か、どうした』
受話器の向こうから、ゆっくりと落ち着いた声の男性が、そう名を呼んできた。
「野崎先生、緊急報告です」
吉田が電話を掛けた相手は、野崎と言う医者だった。
『──そうか、今からそちらへ向かう。私が行くまで何もするな』
「はい、分かりました」
手短に会話を交わすと吉田は受話器を切り、再びモニター越しの鉄男達を見ながら神妙な面持ちをした。