マリアの歌
激しい曲を二曲、そして、三曲目に例の『アヴェ・マリア』を熱唱した。これまでの激しい曲から、一転した穏やかで叙情的なバラード。
あの、わたしを呼んでいると誤解した曲、いま思い出しても顔が火照る。
『アヴェ・マリーア
ああ わが君
野の果てで嘆こう
乙女の祈りを
あわれな者にも あなたは耳を傾け
絶望の底からわたしを救ってくれる
マリーア、あなたはわたしの喜び
マリーア、あなたはわたしの慈しみ
アヴェ・マリーア……』
背筋を伸ばして立ち、正面を見つめ、切々と救いを求めるように歌う。すべての人々が彼の歌声に心を奪われていく。
歌い終わると、ユーセイは軽く会釈した。
彼と目があった……。その時、世界にはわたしと彼しか存在しなかった。胸がはりさけ、叫びだす自分を想像して唇を噛んだ。
「彼は」と、隣でヴィトセルク王子がささやいた。
「この世界の人間ではないな」
驚いて王子の顔を見た。
「この世界の人間ではないとは、どういう意味ですか?」
「我が国で起きたことをご存知と思うが、ドラゴンを操る竜一族の娘、サラ、いやサラレーンさまは……、異世界で育ったのです」
「それと、彼が」
「あの男の特徴的な赤い髪の色だがね」
「……」
「異世界の人間が、こちらに来ると髪が赤く見える。向こうでは黒髪なのだそうだ。空気のせいで光のスペクトルが違うのだろう」
「空気が違うなんて、ありえるのでしょうか?」
「あるのですよ。わたしには古い友人がいてね。レヴァルというのだが、彼が教えてくれたのだ。不自然な声量や息つぎの仕方、息を吸う方法が空気のために異なるとね」
王子の言っている意味がわからなかった。
確かに、彼は骨ばった頬を時に痙攣させながら苦しそうに歌う。それがこの世界の空気のため?
「どういうことでしょう」
「あの世界の人間は酸素を吸う。しかし、わたしたちは違う。ここは空気の比率で二酸化炭素が多いのだ。だから、向こう側から来た人間は、どうしても喉を開いて多くの空気を吸うしかなく、自然に声量が深くなる。いや、姫、難しい話をしましたね」
「殿下、興味深いお話です。もう少しお教えください」
舞踏会場は再び楽器演奏になり、ユーセイは使用人のドアから姿を消した。人々はいっときの余興から目が覚め、踊りやアルコールを楽しみはじめた。
「おや、あなたでも、そんな表情ができるのですね。ほらほら、取り澄ました王女の仮面が脱げかけていますよ」
「殿下、からかわないでください」
「かわいい人だ。よほど、あの歌が気に入ったのかな」
ユーセイがいると自分を見失う。
「ええ、興味深いと思っております」
「確かに、あれは魔物だ。気をつけたほうがいい」
「魔物ですか」
「まだ、自分が何者であるかをわかっていないような、純粋な方には」と、彼は笑った。
この王子を好きだと思った。気を使わず、話しやすくて、ほっとする。それはグルヴィアを好きだと思う感情と似ているけど。
「さて、いつまでも独り占めしていると、他国から戦争をふっかけられそうだ、マリーナ王女。舞踏会の付箋をお持ちかな」
「持っております」
「では、最後のダンスをわたしに予約してもらいたいが」
「ええ、喜んで」
ダンスの予約ために付箋を取り出してヴィトセルクに渡した。そして、次に控えるイーダフェル州のドーグル公子にうなずいた。アバタ顔の公子は嬉しそうにわたしをダンスに連れ出した。
その夜、延々と付箋を持つ貴公子たちと踊り、顔に笑顔を貼りつけ続けた。
……。
舞踏会の翌日、夕食まで父と顔を会わさなかった。疲れてベッドから起き上がれなかったのだ。
アニータといえば、「あら、ま、これは、これは」と、大忙しで。次々と貴公子たちから贈られてくる花のブーケを飾っている。昼前には寝室は色彩豊かな花で満杯になり、午後には花の香りにむせかえるほどだった。
ディナーを終えてから、父が聞いた。
「マリーナ。小国とはいえフレーヴァング王国は、神獣ドラゴンを動かす力を持ち、国際的には両隣の大国から狙われている。お前を王妃に迎えることで、我が国の援助を期待しているようだが、どう思うかね」
「この国にとっても、有益なんでしょうね」
「そうである。両大国に睨みを利かすという意味で位置的に重要な国だ。北の大陸への入り口に港があることも重要だ。だからといって、お前の意に沿わない相手と結婚させたくもないのだ」
父は気持ちを聞きたがるが、その答えは意に沿わないだろう。
「ヴィトセルク殿下は魅力的な方と思いました」
「そうなのか、娘よ。昨夜はずいぶんと親しげにヴィトセルク王子と話していたようだが」
「お父さま。わたし、あの、恋をしたみたいです」
父は、おやっという表情を浮かべた。
「あの人のことを考えるとドキドキして眠れないのです」
「かわいいマリーナ。それこそが恋だ」
「そうなのでしょうね」
「そうだとも。今、世界はフレーヴァング王国に注目している」
父の嬉しそうな顔を見ると、どうしていいかわからなくなる。父を落胆させる、いや、怒らせるなどできるはずがない。
「ちがうの、お父さま。わたしは、わたしは……。ヴィトセルク王子のことを」
なんとも思っていない。そう言おうとした。けれど口から出た言葉は最悪だった。
「とても素敵な方だと思います」
わたしは嘘をついた。
嬉しそうに笑う父のシワの寄った顔を見ていると、罪悪感に胸が潰れそうになった。
(つづく)