王子を誘惑
「お人払いをしてください」
真剣に訴えた。
彼が手を振ると、執事や従者が部屋を出ていった。
「呼ぶまで戻らなくてよい。そして、誰も入れるな」
「かしこまりました」
彼らが部屋から下がり、両開きの扉が大きな音を立てて閉じた。その瞬間、なぜか罠にはまったように気分になった。
いや、これは自分から望んだのだ。
どう、説得する。彼をどう誘惑できる。
「さて、聞きましょうか」
「殿下。わたくしは……。ある人を異世界に戻したい、それだけです」
「そうして、あなたはわたしと結婚なさる」
「はい」
「正直に言いなさい。わたしとだろうが、誰だろうが、ともかく、その男を異世界に返せば、あなたは誰とでも結婚する。そういう意味ですね」
「殿下、わたくしはこの国の貧しさを見ました。わたくしが王妃になることで、この国が潤う。その代償として、ただ、ひとりの人間を異世界に返して欲しい。それだけが望みなのです」
「ふむ」
彼はソファから立ち上がると、デスクに向かった。
「レヴァル・ド・フロジ侯爵という男がいます。彼はエルフとのハーフであり、魔術士でもある。彼なら、その男を異世界に返すことができるだろう。『炎の巫女』の件もあるしな」
わたしは立ち上がった。そして、その場に深く拝礼した。
「ヴィトセルク殿下。心からのお礼を申し上げます。そして、お願いです。その方をご紹介くださいませ」
「あなたは、それでどうなさる。一緒に異世界に行かれるつもりか」
ああ、この人は知っている。間違いない。
「いいえ。参りません」
「そうですか」
彼はまるで興味のないような声で言いながら羽ペンを走らせると、呼び鈴を鳴らした。
「殿下」
従者が一人、入ってきた。
「この手紙を至急、送ってくれ」
「他には」
「ない」
「では、まだ」
「そうだ。呼ぶまで誰も入れるな」
従者が部屋から出ると、彼はデスクの上に手を組み、その上に顎を置いた。
ヴィトセルクの執務室は冷えていた。
暖炉の薪が燃えパチパチと音がはぜているが、今日は日差しが弱く、床石から冷気を感じる。わたしは顔をあげ、彼を見た。
「マリーナ王女」
「はい」
「わたしは口約束など信じない男だ」
「どうすれば、信じていただけますか」
「それは、あなたが考えることであろう」
ユーセイ。あなたを裏切ることなどできないけど。
でも、あなたのためなら何でもする。何でもできる。たとえ、それが恥ずべきことだろうと。だから、懇願するためにヴィトセルクのデスクまで歩いた。すぐ隣に近づいても、彼は椅子にすわったまま動こうとしない。
わたしは王女だ。
誇り高くあれと教えられ、これまでわたしに向かって、ひざまずく者はいても、ひざまずいたことはなかった。そんな態度を決して見せてはいけないと教育されてきた。
この姿を父が見たら、ムチで叩かれるかもしれない。
わたしは、わたしは……、ヴィトセルクの前に奴隷のようにひざまずいて顔を仰ぎ見た。彼の表情に変化はない。
「ヴィトセルク殿下。わたくしは、あなたの妻になります」
「そのようだな」
彼の声が頭上から落ちた。
「伏してお願いします。あなたの願いなら、どんなことでもいたします」
「では、ここでドレスを脱ぎ、わたしのものになるかと聞いたら、どうされる」
わたしは膝においた荒れた手を見つめた。彼の妻になるという意味を、この時までよくわかっていなかった。
ユーセイ。
あなた以外の男に抱かれるのだろうか。目を閉じて、その意味を考えた。
わたしの全身が拒否している。でも、震える手でドレスのボタンをはずしはじめた。
ヴィトセルクの表情は変わらない。慈悲を乞うてはならない。
ボタンが外れ、胸があらわになったとき、「やめなさい」と、彼が止めた。その声は軽蔑に満ちている。
「わたしに、そういう趣味はない、王女。あなたをまだ王女と呼ぶ意味がわからないが」
彼の言葉は心を砕いた。彼の顔、その侮蔑に満ちた表情。あわてて服のボタンをしめて、露わになった胸を隠した。
「殿下」
「帰りなさい。あなたの男のもとに、先ほどの手紙でレヴァルを呼び寄せた。彼は、今、シオノン山にいる。戻ってくるに一日はかかるだろうが、火急の要件だと伝えてある」
「あ、ありがとうございます」
「あなたはわたしの妻になるのだな」
わたしは立ち上がり、その場で深く拝礼した。
「必ずや」
「心配しなくても良い。わたしは女に不自由しない。しかし、あなたをいつか抱く。愛情など期待しないことだ。わたしの子を産め」
彼の顔を見た。そうなのだ。彼と結婚するということは、そういう意味だ。ヴィトセルクは冷たい目でわたしを見ている。
「殿下」
「明日、レヴァルが戻ったら、その男を異世界に返す。いずれにしろ、この世界にいてもらっては困る」
屈辱感に心が痛んだが、なんとか耐えた。
彼に見透かされている。わたしが恥ずべき女であることを、これまでに知った悦楽を、それに溺れていることを。
「では、出ていってもらえるか」
ヴィトセルクがベルを鳴らした。
すぐに、従者が扉を開いた。
「お帰りだ。馬車を手配して送らせよ」
彼を振り返った。しかし、書類仕事を片付けているのだろうか。全く、こちらを振り返る気配がない。
腰を下ろして会釈したが、ヴィトセルクは一瞥もしなかった。礼儀として視線を上げさえもしなかった。
執務室を出た瞬間、気を失いそうになった。昨日から、ほとんど寝ていない上に、緊張の連続だ。しかし、ここで倒れてはいけない。
唇を噛んで意識を保った。血の味がする。それは、これから過ごす将来の味のように思えた。
ヴィトセルクに傷つけられたが、本当に傷を負わせたのはわたしかもしれない。愛もない女との政略結婚。彼は自分の立場を知っている。知らないのはわたしの方だった。
(つづく)