官能の日々 その4
わたしは、この小さな可愛い家を自分の家だと感じた。それは屋敷ではなく、城でもなく、わたしたちの家だった。
彼の蕩けるような愛撫に、ひたすら溺れるための隠れ家。
ユーセイの冷艶な顔に沈着ではいられない。彼を求めすぎる自分が時に恐ろしくなる。彼は……、わたしの身体を愛撫しながら、わたしを少しずつ変えていく。新しいわたしが生まれて、とまどいながら成熟していく。
「あなたはもっと美しくなる。さらに喜びを知って」
「こ、これでも。まだ、知らないの?」
「知りません」
「わ、わからないです。だって」
彼はわたしの肌に唇を這わせる。
「あっ」と、無意識に声が漏れ、一方で彼を求めながら、一方で嫉妬する。
こんな彼に誰がしたのだろう。
彼の過去の女たち。
彼に女性の歓喜する姿を晒した女たちすべてを恨んでしまう。
「さあ、もっとあなたを見せて」
「わ、わたし……」
唇がわたしのなかを這う。それはどこまでも深く、どこまでも遠く。わたしが意識を失うギリギリまでもと要求する。
以前、わたしの眠りはとても浅かった。寝つきも悪く夢ばかりを見ていた。常に熟睡したように思えなかった。
今は気づくと朝になっていることが多い。
彼と愛し合い、泥のように眠る。
ある日。
夜中に目が覚めた。こんなに寒い夜は初めてだからかもしれない。
台所から薪のはぜる音が聞こえない。カマドの火が消えてしまったのだろう。ミルズガルズは年間を通して暖かく冬はなかったから、この寒さには驚く。
薄物の下着をまとっているだけで、身体にかけていたカバーがなくなって……。
そして、気づいた。
ユーセイがうなされていたのだ。汗をかき、苦しそうに眉間にシワを寄せ、目を閉じたまま、骨ばった手が宙に固まってはりついている。
その手をそっとつかむと、瞬時に彼は飛び起きてわたしを強い力で押し倒した。
彼の目はわたしを見ているようで、見ていなかった。
起きているが意識はないようで。
その目は深淵をのぞいていた。深く濃い地獄の奥を見つめるような目は、彼が日ごろする冷たい視線とは、また別ものだった。
そして、次の瞬間、首を絞められていた。
彼の顔が歪み、恐怖の表情を浮かべている。その時、どうしていいのかわからなかった。暴れることもできたと思う。
わたしは死にたくはなかった。
けれども、闇のなかでどう猛な目をして、首を締める彼を見たとき、彼が宿した苦悩を感じた。この世界にいて、なお帰れない彼の孤独と恐怖を目の当たりにしてしまったようだ。
だから、抵抗しなかった。
食い込む手をほどこうとはせず、なすがまま静かに彼の望みに身を委ねた。
「ユーセイ、ユーセイ、わたしよ。ユーセイ」
彼は何も聞こえていない。
その目は何も見ていなかった。
美しいユーセイ。どこまでも優しい彼。その優しさの源が、彼が受けてきた屈辱であり、傷であったとしたら。それは、なんと悲しいものなのだろう。絞まる手はさらに強まって、息がつまり、もう話しかけることもできなくなった。
ユーセイ……。わたしは、あなたの手で死ぬのだろうか?
そして、いきなり首の拘束が解かれた。わたしは咳き込み、涙を流した。ふいに手が伸びてわたしの頭は彼の胸のなかにあった。
「すまなかった」と、彼が言った。
「もう、二度と……、二度と、こんなことはしない」
声を出すことができなかった。喉がつまり、息が苦しい。
「ユーセイ」と、やっと掠れた声で呟いた。
「許してくれ」
彼はそう言うと、いつもの落ち着いた足取りで寝室から出て行く。驚きのあまり身体が硬直して動くことができなかった。
しばらくして、玄関のドアが開く音がして、冷たい空気が室内に流れ込み、ドアの閉まる音がした。
彼が出て行った。
なぜ?
わたしは動くことができない。
彼が出て行った。
もう、帰って来ないつもりだろうか……。
彼は出ていってしまったのだろうか。
わたしは、いつか幸せな時が終わり、こうして残されるのではないかと怯えていた。
それが、今日。
この夜? そんな、ユーセイ、どうやってあなたなしでわたしは生きていけるの。
あわててベッドから隣の部屋へ行き、夜着の上に暖かい服を着込んだ。
隣の部屋にあった彼の冬服が消えている。
ユーセイ!
ドアを開けた。いきなり雪の破片が飛び込んで、渦を巻いた。外は暗く、闇のなか白いものが降っていた。
ユーセイ!
彼を追って家を出た。頭のなかで無意味な問いかけを繰り返しながら。
わたしは何をしたのだろう。何か悪いことをしたのだろうか? そうではない。したのではなくて、しなかったんだ。
もしかしたら、夜毎、彼はうなされていたのかもしれない。でも、わたしは幸福に酔って、ただただ彼に溺れることしかできなかった。気づいていなかっただけかもしれない。
なぜ、なぜ、なぜ……。
ユーセイのことが何もわかっていない。いや、わかろうとしたけど、彼はその度にはぐらかして逃げた。
それも違う。
本当はわかりたくなかった。だって、知っているはずだから、彼は異世界から来たのだ。
夜の雪の中をやみくもに歩いた。冷たいとも、寒いとも思わなかった。ただ、身体だけが意志とは無関係にガタガタと震えている。
暗い夜に降りつづく雪は、まるで暗鬱な絵のように孤独で闇は深く濃い。枯れ果てた雑草の上に積もった雪に、辺りは見たことのない景色に変化している。シンとして、音もなくふり続ける雪はすべてを白に染めていく。
「ユーセイ!」
わたしは大声で叫んだ。舌に冷たい雪粒が入って溶ける。
「ユーセイ!」
何度も何度も彼を呼んだ。
でも、声はただ闇と雪に吸い込まれていくだけ。
丘の下、暗い空を背景に雪がふり積もる。背後を振り返って見る。そこに、わたしたちの家がある。薄ぼんやりとした窓の灯りが見える。わたしの幸せがある。
その時、ガラガラガラという音が聞こえた。
井戸のツルベが落ちて、滑車が回る音。
も、もしかして、彼は裏の井戸にいる? そして、わたしを呼んでいる?
来た道を走って戻った。濡れた地面に手をつきながら丘を必死で駆けあがって、家の裏手にまわった。井戸のそばに黒い人影が見える。
「ユーセイ」
近づくと、彼はそこにいた。
「ユーセイ、なぜ」
「あなたが……、呼んでいたから」
彼は苦しそうにその場にうずくまっていた。雪が彼の赤い髪につもり白くしていく。
「どうして、ここに?」
「水瓶の水がなくなったから汲みに来たのです。それに身体を冷やすには、ちょうどいい」と、彼は呟いた。
彼が寄りかかっている井戸にはバケツがなく、手に縄がかかっている。
井戸から縄をあげて水を汲みあげ、満杯になったバケツから手ですくって彼の口もとに運んだ。
彼は貪るように水を飲んだ。
彼を問い詰めたくて、辛くて、でも何も聞けなかった。彼がふっとほほ笑んだ。こんなときにも泣きたくなるほど優しい顔で笑う。
「ほら、ここに来なさい」と、彼はささやいた。
声に艶がなく、とても疲れた話し方で。もしかしたら、立ち上がることができないのだろうか。
井戸を背にした彼のとなりに腰をおろす。彼がコートの前を開いてわたしの身体をくるんだ。彼の胸に手を当てて顔をうずめる……、彼の心臓は鼓動が早く、明瞭にドクンドクンと音を刻んでおり、身体は異様な高温で熱を発していた。
「熱があるのね」
「熱いですか?」
「ええ、とても」
「それは良かった。あなたを温めることができる」
「すぐに、医師を」と言うわたしの唇を、彼は人差し指で抑えた。
「黙って」
「でも」
「雪を見たことがありますか?」
「いえ」
「美しいと思いませんか。僕の生れた場所は北陸の金沢というところで。冬になると雪景色が美しかった。大人たちは大雪に文句を言っていましたが。子どもの僕には楽しいだけで……、七歳くらいまで、そこで育ちました」
「寒いところなのですね」
「そうです。とても寒いところでした」
暗い夜空から、永遠とも思えるほど遠くから、白い雪は降ってくる。
「マリーナ」と、彼は言った。
「はい」
「僕は、もう、それほど長くは持たないでしょう」
何も言えなかった。
本当は気づいていたのだ。彼の身体が徐々に弱っていると、ずっと気づいていた。けれども、今日まで知らないふりをしてきた。
「この世界の空気は、僕の世界よりもずっと二酸化炭素が多い。ここでは僕のような人間は高山で生きているようなものかもしれません。僕の身体は医者に治せるものではないのです」
「でも、でも」
「先ほど、僕はせん妄状態になったようだ。どれほど謝っても足りない」
「謝らないで、ユーセイ」
「謝らせてください。この世界の素敵な思い出を汚すところでした」
「ユーセイ。わたしは……」
あなたをどれほど愛しているだろうか。でも、言葉にできない。
彼の熱い身体に包まれて、彼の心臓の音を聞く。彼が生きて、ここにいる、その確かな音を聞く。
「僕は」と、彼は言った。
「だから、あなたに愛しているとは言えないのです」
雪はいつまでもふっていた。
そう、わたしはわかっていたのだ。わかりたくはなかっただけで。でも、今だけは彼の熱を持った身体に寄り添い、そっと抱かれていたかった。
(つづく)




