ドラゴンの気まぐれ涙
絶望的な思いでベッドから起き上がり、それからドレスに着替えた。人に逆らわない従順なマリーナ王女。あの女に戻る時間が来てしまった。
だからドレスという衣装を着て、わたしの舞台に戻る。
ユーセイはベッドから起き上がり、窓の外を見ていた。
雲が太陽を隠し、朝の輝かしい日差しを消していた。この地方特有の天気で、晴天の日でも急に雨が降ったりする。
ミルズガルズの人々は、この通り雨を『ドラゴンの気まぐれ涙』と、よくいい交わしていた。
「大丈夫ですか?」と、彼が聞いた。
「だ、大丈夫です」
「いえ、そのドレスのことです」
普段、わたしはドレスを一人で着付けたことがない。まごまごしているわたしを見て、ユーセイが背中の紐を閉じてくれた。
なにか話さなきゃ。もうこれで終わりなら、何かを。この一秒一秒を大切にしなければ、ずっと後悔することになるだろう。
「あなたは、これからどうするの?」
「僕は自由、ということですか」
「そうです。あなたは自由です」
「では、まずは、ここでどう生きていくのか、その方法を考えます」
「もう、二度と会えないでしょうね」
わたしは自分に意地悪だ。そして、彼に言って欲しい言葉があった。また、会えると、それが嘘であろうとも。愛しているという言葉を少しだけ期待していた。
しかし、彼は……、
彼は「そうですか」と、ほほ笑んだだけで。わたしは彼がこれまで付き合ってきた多くの貴婦人たちと同じ立場。どれほどの女たちが彼に恋い焦がれてきたのだろう。
「あなたを愛している人は多いのでしょうね」
彼は首を傾け、それから、わたしを見つめた。
「あなたが愛した人はいるのですか?」
「いません」と、即答された。
その声は冷たく、すべての女性を拒否しているように聞こえた。
「あなたは誤解なさっているようです。主に演奏することが僕の仕事でしたから」
「あの、でも、時に」
「僕は奴隷として指示に従ってきただけです」
「それは、とても、不幸なことね」
「心を捨てされば、それほど難しいことでもありません」
「異世界にも? あなたが生まれた場所に恋人はいたのですか?」
「あの頃、僕は音楽に夢中でした」
「わたしは、あなたが、いえ、あの、あなたと別れるのが、あの」という、言葉の途中でやめた。
いったいどういう言葉があるだろう。彼はわたしを愛していない。泣きたくなるほど、彼はわたしなど愛していない。
だから、クローゼットに額をつけて頭を冷やした。
彼が背後からわたしを抱いてくれた。まるで恋人のように、そっと壊れ物を扱うように。
「わたし、離れたくないのです」
「こんなとき、いつも離れたくないと応えるのです」
「誰に」
「女性に」
胸に針がささった。
「そう」
「でも、あなたに嘘は言いません。だから、こう申し上げます。僕に自由を与えてくださって、心から感謝しています」
「いいのです。もう、忘れて。昨夜、それ以上のものをいただきました」
彼は乾いた咳をすると、わたしを腕のなかでくるりと回して、そして、額に優しいキスをした。
「僕も、とても楽しかった」
「それは、嘘」
「嘘は言いません。あなたには、けっして。あなたは後悔しているのですか?」
「なにを」
「昨夜のことです」
「わたしはこれからも後悔しないと思います。一生、忘れないと思います。ヴィトセルク王子と結婚しても、生涯、あなたのことを忘れません。人生で一度だけ、自分で決めて、成し遂げた。そのことを思って秘めていきます。わたしには大切なことでした」
「ありがとう」
彼はそう言って、わたしを強く抱きしめた。まるで、愛しているかのように抱きしめてくれた。だから、身を切られるような思いに苛まれながら去ることができた。
さようなら、ユーセイ。はじめて愛した人。
さようなら、もう二度と会えない人。
部屋を出て行くとき、彼はこちらを見なかった。ただ、窓の外を眺めていた。
雨がポツポツ降りはじめ、窓ガラスに雨だれを垂らしていく。
ドラゴンの気まぐれ涙……。
彼もドラゴンのように、気まぐれに泣いてくれるだろうか。
ドアを閉めようとして躊躇した。
「さようなら」
「マリーナ」と、彼が言った。
引き止めて、わたしを引き止めて、お願い、ユーセイ。わたしを欲しいと言って。そうすれば、すべてを捨てる。
「あなたの幸せを祈っています」と、彼はほほ笑んだ。
それがどんな冷たい言葉か、彼は気づいていない。
わたしは……、ドアを閉めた。
(つづく)