彼とふたりで、そして……
その午後、グルヴィアにもらった薬を飲んで、しばらく眠った。目覚めると使用人ではなく、グルヴィアがお茶を運んできた。
「起きたの」
「ええ」
「さあ、これを飲みなさい」
「わたし、眠っていたの」
「ぐっすりね。このところ、眠れてなかったのでしょう」
「眠りが浅くて」
「目の下に、ひどいクマができているわ」
グルヴィアがほほ笑み、なぜかわたしは泣いた。
「なぜ、泣くの、マリーナ。自分のハンカチでさえも買ったことない、そんなあなたが。一人で恐ろしい巣窟に行って、奴隷を買おうとしたというのに」
「わからない、グルヴィア、わからないの。ずっと眠れないし、それから、すぐ涙がでてしまって」
「恋をしたのね」
「これが、恋」
「そう、たぶんね。さあ、お茶を飲んで、目を覚ましなさい」
茶を口にふくむと、苦いような酸っぱいような不思議な味が広がった。
「これは、なに?」
「アレリーヌの葉から取れた強壮剤入りのお茶よ。元気になれるわ」
「わたし、どれくらい眠っていたの?」
「午後中、もう夕暮れ時よ。だから、あなたのお望みのものが来てる」
まだ薄ぼんやりとして、だからグルヴィアが言った意味が取れなかった。彼女がベッドの端に腰を下ろすと、シーツを叩いた。
「わたしは何をしたのかしらね。狂っていると自分でも思うわよ。この可愛い親友のために、何かを失ったんじゃないかって疑っているわ」
グルヴィアは饒舌にまくし立てて、それから、「さあ、消えるから。あとは自分で考えてよね」と、ベッドから降りて出て行った。
ドアがノックされた。
まったく無防備で、目覚めたばかりで、本当になにも考えていなかった。
「どうぞ」
ドアが開いた。そして、ユーセイが入ってきた。
彼は白いシャツと黒いズボンを身につけていた。鎖骨が見える襟元の開いたシャツ。首筋には奴隷を飼うための首輪が外れ、代わりに赤黒く痛ましい傷痕が残っている。はっとして首から目をそらした。
彼はドアの前で佇んでいる。
その目を見ることができなくて、反対側に顔を向けると、ガラス窓にぼんやりとユーセイの顔が写っていた。
冴え冴えとした美しい瞳がこちらを見ている。
目が合い、ドキッとしてガラス窓から目をそらし、その拍子にティーカップをベッドに落とした。あっと動揺したけど、シーツにシミが広がっていくのは止められない。
「こんばんは」と、彼は乾いた低い声で言うと、つかつか歩いてきて、ベッドの下にころがったカップをひろった。
サイドテーブルにカップを置いて、「シーツが汚れましたね」と、言った。
今、わたしたちの一番の問題はシーツが汚れたことであって。彼がここにいることなど、些細なことでもあるように。
彼がシーツの汚れを見ている。
だから、わたしもシーツの汚れほど、この世界に重要課題はないって、そんなふうに必死に見つめた。
「あの、これはグルヴィアのシーツで、グルヴィアって、わたしの子どもの頃からの友人で、それで、ここは彼女の屋敷で」
「知っています」
「あ、シーツの汚れは後で拭いてもらえ、いえ、こんなこともできないわたしを軽蔑します?」
「しませんよ」
「わ、わたし、あの、すみません、ベッドに寝ていて。目覚めたばかりで、ひどい格好をしているわ。マナー教師が見たら卒倒するでしょ……」と、語尾が口のなかでモゴモゴと消えた。
グルヴィアの悪意のないイタズラを感じた。いえ、でも、これはグルヴィアではない。これはわたしの問題だ。シーツの汚れでもない。まさしくわたしの問題なのだ。
その瞬間、自分が何を身につけているか気づいた。気づくべきじゃなかったんだけど。グルヴィアが貸してくれた部屋着は白く薄い生地で、身体の線がほのかに見える。
異性に見せる姿じゃない。アニータが知ったら卒倒するだろう。
「あの、すみません」
「なんでしょうか」
「その、も、申し訳ないのですが、ちょっとだけ、後ろを向いていただけますか」
彼はふっとほほ笑むとドアのほうに身体を向けた。
あわててベッドから降り、クローゼットにあったガウンをまとって振り返ると、ユーセイがこちらを見て吹き出しそうな顔をしている。
「失礼です」
「そうでしたか」
精一杯の威厳を見せることで、なんとか失神しないようにして、というのも彼がそこにいたから。
「あの」
「どうか僕を怖がらないでください。むしろ、僕が怖がるべきなのです」
「わたしは怖がっていない、です」
「そうですか。先ほどから手先が震えているように見えます」
彼が近づいてきた。すると足が立っていられないほど震え、ガクガクしはじめた。
ユーセイがわたしの肘を支えてソファにすわらせてくれた。
「わたしはマリーナです」
「そうですね」
あなたはユーセイ。この名前を思い浮かべるだけで、気を失いそうなの。
わからないでしょ?
あなたを買った。
だから、このグルヴィアの瀟洒な部屋にいるわけで、でも、どうしていいのかわからない。
ユーセイにとっては彼を売り飛ばした男も、彼を買い取った男も、そして、わたしも同列なのだと思っているだろう。それは悲しいことだけど。
「わたしのこと、どう思いますか」
「難しいご質問です。あなたは音楽職人ギルドから、僕を所有する権利を買い取られた。新しいご主人である方を評価できる立場ではありません」
「わたしは、あの、買ったつもりはないのです」
「あなたのされた行動を他のどんな言葉で伝えればよろしいでしょうか」
「それは、あの」
彼は困ったように鼻と上唇の間を人差し指で触れる。どこか迷っているように見えた。その上、わたしといえば気持ちを伝えるすべが全くわからなかった。
「僕を怖がっているのですか?」
「ええ、そう。たぶん、怖いのです」
「怖がる必要はありません」
「では、教えてください。なぜ、わたしはこれほど、あなたを」と言ってから、顔が熱くなるのに気づいた。
きっと耳まで真っ赤になっているだろう。
(つづく)