姫君への手紙
「お姫さま、お姫さま」
アニータはドタドタと騒々しい音を立ててベランダの鉢を倒し、「あっ」と小さく声をあげた。
ふくよかな身体にもかかわらず、動作は常にキビキビして動きが速い。ちょっと気を許すと、いつのまにか、わたしの髪型が変わっていたりする。
「アニータ、騒々しいわ」
「大公さまからお手紙が。至急、首都にいらっしゃるようにと、まあまあまあ。これは、これは、でございますよ」
「なにが、まあまあまあで、これは、これはなの。アニータ」
「社交界デビューでございます」
わたしはそういう年齢になったのか。もしかしたら、父は結婚相手を考えているかもしれない。いえ、考えているから首都に呼んだのだ。
「それで」
「お姫さまにもお手紙が」
リーラの花家紋で閉じた封筒には、上質紙が一枚入っていた。開封すると父の使う香水がかすかに漂う。『社交界へのデビューのため、首都ニーズヘッドに来なさい』と続けて、『愛する娘へ、もうすぐ十八歳になるのだね』と、含みを持たせてある。
十八歳。ドラゴンを操り世界を救った巫女と同じ年齢で、わたしは未来の夫に会うため、社交界デビューするようだ。
「大変でございますわ。大公さまも、もう少し余裕をもっていただけたら。ああ、もう大変でございます。これは、大変でございますよ」
その日から一週間、アニータは使用人達を叱りとばし、魔術でも使ったのかと思うほどの勢いですべての必要品を揃えた。わたしのドレス、わたしの髪飾り、わたしの靴、わたしのバッグ、そして、新品の下着と、数多くの品々が揃えられた。
「宝石類は大公さまが選ばれるでしょうから。奥方さまがいらっしゃれば、完璧になさったでしょうに、わたしでは力不足でございます」
「十分よ、アニータ。本当に十分。いえ、いっそ多すぎるわよ」
「まあ、そのようなことは決してございません」
目まぐるしく働くアニータのかたわらで、準備が整うのを唖然と見ていた。首都に向かう馬車が数台用意され、荷物が詰み込まれた。城の生活と同様になんという無駄な贅沢なのだろうか。
数日後、グルヴィアが城を訪問して、わたしではなくアニータを激励した。
「いつに決まったの、マリーナ。あなたの社交界デビューよ。同席するからね」と、わたしを抱きしめてきた。
「わからないわ」
「なにを言ってるの、デビューよ、社交界よ。なのに、あなたったら、いつも他人事のようね。まるで、どこかに感情をおき忘れたみたいで、親友としては悲しいわよ」
グルヴィアらしい言い方ではあった。確かにわたしは心がないのかもしれない。だから、与えられるものに疑いを持つこともしない。
「あなたは特別なのよ。デビューには、この国の州公だけでなく、各国の王侯貴族も集まるわよ」
「そんな大げさな」
「あら、違うというの?」
「そうね、違わないかもしれないわね」
「もう、じれったいたら。あなたはね、妬けるほど品よく優美だけど。それは、たぶん、その、むかつく冷静さのためなのね。自分の価値を自慢すべきよ」
「価値は価値を欲しがる人が持つものだと思うわ、グルヴィア。それにラドガの華と呼ばれるあなたに、そう言われても」
「あら」と、それを聞いた彼女は横目でにらみ、次に「ほほほ」と高笑いした。
ふくよかな胸を波打たせる姿が妖艶で、思わず見惚れてしまう。
「その華は手放さないつもりよ。たとえ、あなたが公にデビューしてもね」
「手放させる気持ちもないわ」
わたしは淡々と父の望む相手と結婚するだろう。それがわたしの義務であると教えられてきた。それに、父が酷い相手を選ぶわけがないだろうし。
「おお、マリーナ、マリーナ。男も、恋も知らずに、その冷ややかな表情のまま結婚するのね」
「グルヴィアさま」と、アニータが顔をしかめた。
「アニータ。心配しなくてもいいのよ。自分の立場はわかっているから」
本当にわかっていたのだろうか。
のちに、わたしはこの自分を冷笑でもって思い返すことになる。若さゆえの驕りとは、なんと脆いものだろうか。
父がデビューを急ぐのは『炎の巫女』が成した奇跡によって、世界の勢力図が微妙に変化したからにちがいない。
これまで取るに足らないと思われてきた小国、フレーヴァング王国が敢然と大国シルフィン帝国に逆らい、シオノン山の噴火を止めた。これによって国際舞台で注目を浴びる存在になり、その地位を高めた。世界情勢のバランスが崩れた瞬間だった。
(つづく)