哀れ敏腕課長の死
哀れ敏腕課長の死 小野口英男
一
田中敏文は今ある事で悩んでいる。彼の部下でもある女性に、結婚を申し込むべきかどうかである。彼は家庭用品販売会社の課長である。仕事は順風満帆至って順調である。平成三十年の今年、彼も三十八歳になり四十前には結婚したいと思っている。
彼の横浜の住まいは持ち家であり、直ぐにも女性を受け入れる事は出来るのである。只彼には大きな障害がある。年老いた両親が同居しているのである。父親は今年八十三歳、母親は今年七十八歳である。親戚や知人の紹介で、これまで何度も見合いをしてきた。しかし両親の存在がネックとなり、女性から断られるのである。会社には親会社が存在する。親会社はプラスチック製品全般、特に風呂用品や衣装箱と多目的箱等を製造している。彼の会社はその系列会社で、関東地区を担当する販売会社である。メインの販売先である大手スーパーに加え、最近では都内大手百貨店とホームセンターチェーンに、それぞれ違う製品を卸している。
会社全体の売り上げは、今世紀初め頃が一時のピークである。それはメインのスーパー自体の売り上げが、ピークアウトしたからである。その後、スーパーは店舗の拡大どころか、縮小を続けている。それにも関わらず彼の大活躍で、会社の業績は持ち直し再び上昇軌道に入る。営業は五つの課に分かれている。東京地区は東西南北の四つである。それに東京を除く関東地区の計五つである。彼は東京西地区を担当している。一時会社の売り上げが減少する中で、彼の課だけは売り上げが急速に増え続けている。それは新たに、デパート六店舗と拡大が続くホームセンターを開拓したからである。彼の本骨頂は攻めに強い事である。彼はメインである、大手スーパーの東京にある本部本社、その東京西地区各店舗、デパート六店舗、三つのホームセンター本部本社、その東京西地区各店舗を担当する第四課の営業課長である。五人の課長の中、次期営業部長の最有力候補である。現在の営業部長は来年定年を迎えるからである。
女性の名は、松田尚子と云い、最近二十五歳になったばかりである。田中課長の営業第四課に所属する社内営業部員である。得意先からのプロパーと呼ばれる定販商品の注文は会社のコンピューターに記録される。男性の営業部員は全てスマートフォンを所持しており、定販商品の注文以外はダイレクトで各担当者の携帯に入る。それでも電話が集中する事もあれば、話し中で電話が繋がらない事もある。そんな時に客先は会社に電話して来る。そして彼女の出番となる。要するに各営業の担当者に電話の内容を取り次ぐ電話番である。彼女の弾んだ様な明るい声と、明瞭な言葉使いは得意先にファンを自認する人がいる程である。責任感の強い彼女は客先の話に男性の営業部員が中途半端な対応をすると怒って文句を言う事も有り、課長と云えども例外ではない。彼女は後に出てくる宮部課長補佐と並ぶ車の両輪の一方の輪である。彼女は上司である田中課長が好きであり、出来る事なら結婚したいと望んでいるのである。但し彼はその事に気が付かない。
彼女に対してはあくまでも仕事上の良きパートナーの認識である。その仕事上の良きパートナーの認識が崩れる時が訪れる。数日前の有る事が切掛けである。10月19日と翌日の2日間、日本橋宝田神社周辺でべったら市が開かれる。大根のべったら漬けを売る沢山の店に並んで、地元近隣の会社が手持ちの商品を安い価額で販売する。昔から伝わる一種の祭りで可成りの賑わいを見せる。会社も売れ残りや半端物を安い価格で出店する。
社員全員が出る程では無い為、女性五人男性七人程が応援に出る。女性は各課の社内営業全員と、男性は営業第四課から選ばれた七人である。2日目だけ応援に出る田中課長は、早めの六時半に仕事を終了しべったら市に急ぐ。沢山の商品を前に、女性が二人か三人に男性が四人か三人、その後ろに同じように六人が交互に入れ替わりながら販売している。松田尚子の隣で販売を開始する田中課長。多少の驚きはあるものの俄然張り切り出す松田尚子。体の側面を盛んに課長に体当たりする。邪魔かと想い彼女の後ろに下がるとお尻を盛んに課長にぶつけてくる。
「ひょっとして彼女は私の事が好きなのではないか」
仕事上のパートナーとしか見なかった彼女の事が、初めて人生のパートナーにと考えた瞬間である。仕事上のパートナーといっても、一皮剥けば人生のパートナーに成りうる訳である。彼には彼女に対して既に恋心が芽生えて居たことになる。彼女の大胆な行動によって目を覚まされるのである。以来急速に彼女との結婚を意識する様になる。
こうした中でべったら市も無事終了した翌日、会社の食堂で食事をしようとした時、テーブルの上に包装紙に包んだ小さな箱が置いてあった。それが松田尚子からのプレゼントである事に、彼は未だ気づいていない。そして食事が終わった後、包装紙の小さな箱はそのままにして食堂を後にする。デスクに戻った彼は直ぐに包装紙に包んだ小さな箱の事が気になり、直ぐに食堂に戻った。包装紙に包んだ小さな箱は、無くなっていた。この事が後に、とんでも無い事に繋がるのである。但し彼は未だその事に思いが行かない。
その後数日が経ち、彼女への思いは日ごと益々強くなる。只その気持ちを彼女に伝えるべき行動に中々移す事が出来ない。この事が物語冒頭の、田中敏文は今ある事で悩んでいる。彼の部下でもある女性に、結婚を申し込むべきかどうかである。に繋がるのである。
二
彼の部下は十四人、ダントツに多い。内一人は女性の社内営業部員であり、例の松田尚子である。課長を除く十二名の男性の営業部員は、一人を除いて全て大卒である。今年四十二歳の宮部孝弘課長補佐がその一人である。彼は途中採用の高卒で、高卒の課長と同じであり、課長とは馬が合う。
この日の営業も終わり、部下は女性も含め宮部を除き全て帰った。
「課長は何故、結婚しないのですか」いきなり宮部が彼に問い掛けてきた。返事に戸惑う彼に、更に続けた。
「結婚は良いですよ。独身の時は家に帰っても一人でしょ。寂しいし、冬は寒くてやりきれないですよ。今は三歳の子供はもう寝ていますが、家内が夕食を用意して出迎えてくれるから。子供の寝顔を見ると、途端に一日の疲れなんて吹っ飛んじゃいますよ」宮部は得意げに話した。
「そうお子さんが三歳ですか。お子さんは男の子なの、女の子なの」
「女の子です。次は男の子が欲しいです。そうすれば一姫二太郎ですから」
「女の子なのそりゃ良いなあ」
彼は、子供までいる宮部を羨ましく思った。その宮部はこうも言った。
「私も結婚は遅くて、三十五歳で結婚したんですよ。諺に馬には乗ってみよ、人には添うてみよ、って言うでしょ。これは本当に的を射た言葉だと想いますよ」
「成る程ね。思案ばかりしてないで行動を起こしなさいと云う事かもね」
「そうですよ、課長の言われる通りですよ。結婚はしてみて初めて分かりますよ。何時も誰でもうまく行くとは限らないかも知れませんが、結婚はしてみて初めてその良さに気づきますよ。しなければ永久に分からないと思いますよ」
「成る程ね。君とは四つ違いだけど歳の差以上に君にはふくらみを感じるね。所帯持ちとそうでない者の差かな」
彼は結婚して妻子供まで居る宮部が、人間として彼よりも歳の差以上に成長している事に、多少のショックを禁じ得ない。その宮部が再度同じ質問を投げかける。
「又同じ質問に成りますが、課長は何故結婚しないのですか」
「結婚は相手が必要だよ、相手が。お恥ずかしいけど相手がいないんだよ」
「課長、相手がいないって本気でそう思っているんですか。そうじゃないでしょう」
宮部は課長を訝るような目つきで言った。
「相手は目の前にいるじゃないですか、松田ですよ。松田尚子ですよ」
松田の名が出た事に、彼は「やはり」と思う。宮部は更に続けた。
「松田を見ていれば、課長を好いている事は直ぐ分かりますよ。課長が電話している時なんて、時々盗み聞きですよ。そして勝手に納得したり頷いたり、微笑んだりですよ。いずれにしても、目つきや態度で一目瞭然ですよ」
「そうそんなに。気付かなかったなぁ」
「課長が営業で出かけていると妙に元気がないんですよ。それでいて営業から課長が帰ってくると俄然元気になる。それこそそわそわしだして」
「本当かね」
「私らが彼女にものを頼んでも事務的な返事しか返ってこないのに、課長が頼むとにこにこ顔で答える。余りに差がありすぎて頭に来る時もあるんです本当に」
「そりゃ済まないね」
「うちの課の者で彼女が課長を好いているのを知らない者は一人もいませんよ。最近は彼女も回りを気にしなくなりましたよ。彼女は課長と結婚したい、一途にそう思っていますよ。後は課長がどう思っているのか。全ては課長の行動に掛かっていると思いますよ」宮部は更に続けた。
「それに3日前食堂で、課長が何時も座る場所ね。あそこに、包装紙に包んだ小さい箱があったでしょ。あれは彼女のプレゼントだったんですよ。食事の後、課長がそのプレゼントをそのままにして退席したでしょ、彼女は遠くから見ていたんですよ。課長がプレゼントを無視したのを見て、ガッカリした様子でしたよ。プレゼント持って出て行きましたよ」宮部の話は彼を驚かせた。
「イヤー、忘れてしまったんだよ。ヒョッとして彼女のプレゼントじゃないかと思って。暫くしてから、気が付いて食堂に戻ったんだよ。でも小箱は、無くなっちゃったんだよ。あの日は特別忙しくって食事もゆっくり出来なかったんだよ。彼女には悪い事をしてしまったと思っているよ。今度合ったら改めて謝るよ」
彼の話を聞き終わると、宮部は改めて、
「課長は彼女をどう、思っているんですか。全く女性の対象として見てないんですか」
「そんな事はないよ。彼女の弾んだ明るい声には、癒されるよ」
「要するに好意を持っているんですね。好き何ですね。それなら、直ぐにも結婚を申し込んだ方が良いですよ。彼女は喜んで、課長の胸に飛び込んで来ますよ。絶対ですよ」
「分かった。そうするよ。色々有り難う」
宮部が帰った後、彼は一人物思いに浸った。
「俺も最近、彼女の香水の臭いが気になっていた。いや香水の臭いが、彼女そのものの臭いに思えた。彼女を見ていると華やいだ気分になる。俺も彼女に負けず劣らず、彼女に惚れたな。そうか彼女はそんなに私を好いていてくれたのか。もっと早く気が付いていればな。折角のプレゼントを悪い事をしてしまったな。明日朝一番に、彼女に結婚を申し込もう」松田に結婚を申し込むかどうかで悩む彼の背中を宮部が押してくれた事に成る。宮部と話し終わると直ぐ仕事を終え帰宅に付く。
母親が作って用意してある夕食を取りながら、明日の事を考える。
「彼女にどうやって、結婚話を切り出すかな。以外に難しいものだな。事務所内でいきなり結婚して下さいはまずいかな。彼女を四階の倉庫に連れて行って結婚して下さいが良いかな」ああでもないこうでもないと考えを巡らす内、寝付かれないまま夜が明ける。
三
古い話になるが彼の会社は元々東京の業界でも一、二を争う有力問屋であった。彼が未だ入社する遠い以前、1974年のオイルショックで、大きく躓くのである。1974年前後に色々な商品が欠乏したり高騰したりし、消費者に大混乱を起こした。そして十把一纏めに、オイルショックと呼ぶがこれは正しくない。1973年10月16日、中東戦争に端を発した石油の高騰が起こる。戦争勃発の1973年10月16日の可成り前に、大手商社による木材の買い占め出し惜しみが始まる。木材であるパルプが不足してしまう。その結果、全ての紙製品が一斉に品不足となるのである。一般の家庭で最も良く使う紙製品は、トイレットペーパーである。スーパーは勿論、あらゆる雑貨の店頭から、トイレットペーパーは消えてしまう。主婦はトイレットペーパーを求め、血眼で奔走する。見つけ次第ケース単位で買う。その結果、品物が欠乏し価格は高騰した。
それを見て、味を占めたのがプラスチック業界である大手石油化学業界。プラスチックの原料となるナフサ、そのナフサの供給元である大手石油化学業界がやはり製品の出し惜しみを行う。トイレットペーパーと同じく製品は不足し価格は高騰する。プラスチックは繊維からポリ袋に至るまで、多岐に亘って家庭に浸透している為、家庭に大きな影響を与える事になる。そして戦争勃発による石油高騰の翌年、1974年ほぼ全ての物価の高騰を招く。所謂石油ショック又はオイルショックと呼ばれるものとなるのである。
大手商社による木材の買い占め出し惜しみによる木材とトイレットペーパーの不足、プラスチックに独占的な大手石油化学業界によるナフサの出し惜しみによるプラスチックの不足、この2つの極端な品不足は日本の歴史に嘗て例を見ない国民に対する悪辣な利敵行為である。石油ショックとは明らかに一線を画かするものである。その証拠に大手石油化学業界は後にカルテルを結び価格操作した、という事で公正取引委員会から刑事告発を受ける事になり、裁判で有罪が確定するが未だずっと後の事である。要するに木材は大手商社、プラスチックは大手石油化学業界によって人偽的に引き起こされた犯罪行為である。
プラスチックの不足は、彼の会社の屋台骨を揺るがせた。当時スーパーは、草創期から拡大期に入っていた。各スーパーは1960年代の中小型店から、ずっと規模の大きい店舗である大型店の開店を競いあった。そんな中でのプラスチックの不足は、各スーパーのバイヤーを狼狽させた。そして対抗手段に出た。支払いの変更である。現金払いを手形に換えたり、手形の期間を長くしたりした。支払いを一ヶ月先延ばすケースも出てきたのである。会社にとって商品が売れれば売れる程、仕入れ先に対して支払いに窮すると云う状態になったのである。このままでは会社発行の約束手が不当たりになるぎりぎり状態で親会社に支援を要請する。親会社は創業が1950年と戦後である。創業当初からプラスチック製品の製造である。戦後の復興やプラスチックの急速な広がりと、スーパーの店舗数の拡大で、1950年から1970年の20年間に業績を大きく伸ばす。彼の会社の社長は親会社の創業当初、色々面倒をみる。親会社の社長が、それに恩義を感じていた。
更に重要なのは、最終ユーザーをライバルのメーカーに取られない為に、彼の会社を金融支援したのである。但し、社長と息子の常務は変更なかった。元々業績は絶好調だったので、彼の会社はすぐ立ち直る。しかしその後、社員は大きく変わるのである。親会社から吉武営業部長が、乗り込んで来るのである。
翌年従来の取締役営業部長が定年退職する。すると取締役となった吉武営業部長は大ナタを振るう。従来、彼の会社は雑貨問屋で雑貨は何でも扱っていた。販売先は関東が主であるが、それ以外も多少はある。営業は特に課というのは無く、それでいて課長は九人もいる。
吉武営業部長はプラスチック以外の雑貨を全てカットした。そして以前、子会社化したプラスチック問屋を、彼の会社に吸収させたのである。販売エリアも東京をメインの関東に絞り他をカットした。当初は販売先から抗議を受け大混乱を招いた。しかし吉武部長の方針は揺るがなかった。時間の経過と共に混乱は収束していった。その後1980年代後半になると不動産、株価は暴騰し、バブル景気と後に呼ばれる物価高を招くのである。この間、彼の会社も業績を大きく伸ばすのである。
因みに東京を含む関東以外の販売エリアは。親会社の販売部門が担当している。但し売上高、利益率共に彼の会社がダントツに高く、親会社にとっても彼の会社はドル箱である。
四
1999年この物語の主人公である田中敏文が、高卒で入社する。同時に、他に三人入社する。全て大卒である。彼は八時に会社に入り、二十時に退社する。会社の規則は九時から十八時迄である。従って彼は朝一時間、夜二時間計三時間の実質残業である。しかし営業である為、残業代は付かない。他の営業はどうかと云うと、夜一時間位の残業である。同期の営業部員はどうか。十八時になると直ぐに退社する。彼は同期の営業部員から、次第に疎んじられる。
彼は朝その日の予定を組む。九時前十分間の朝礼が済むと、九時同時に営業に出る。一歩外に出ると、水を得た魚の様に張り切る。最初のうちは得意先の売り場の商品の品切れ、追加のチェックを丹念にしていた。そしてそれに加えて、本部のバイヤーには次第にある点を強調しだした。一目は商品の今後の流れ、要するに流行がどの様になるか。形と色、それを事前に素早く的確に掴む。二目はオリジナルな商品を先方に勧める。早く云えば、バイヤーには情報を教える。その代価として、彼の会社の製品を買って貰う。このような彼の姿勢は、得意先に歓迎され、黙って彼の会社の製品を買ってくれた。
1980年代後半のバブル景気は1990年ピークアウトした。それ以後の10年間は一転、不毛の10年と云われている。極めて長期間の不景気と云うより元気の無い景気が続いたのである。真綿で首を絞める様な景気である。彼が入社した翌年は二十一世紀である。その後10年も同じような景気で、彼が入社した前後合わせ不毛の20年とも言われている。
この20年間景気の浮き沈みはあるものの必ずしも悪くは無い。多くの企業は利益を十分出しており、好景気に属する期間もある。原因としてGDP国内総生産はなだらか乍ら上昇しているにもかかわらず、国民一人当たりの所得が伸びないからである。これは非正社員と呼ばれる派遣契約社員が四割と多くなった事と関係する。特殊な高級職は別として、正社員に比べ非正社員は一般には月給は二十万円、ボーナス交通費はナシ、と経営者にとっては都合の良い給与体系になっているからである。又正社員も給料の上昇が小さく、反対に住民税や保険料のアップが大きい為に実質賃金は余り上がらない。80年代の好景気に高賃金、そのバブルが弾けた反動を経験した企業の経営者は賃金を上げる事に慎重である。いや慎重と云うより臆病である。しかし若者が夢を持てない、若者のやる気を削ぐこの様な状況は、長い目で見れば経営者自らの首を絞めているのである。仕事に対するする責任感の欠如と技術の著しい劣化を招くからである。
この様な社会状況の中で2008年4月1日、彼は営業部長に呼ばれ、一緒に社長室に入る。部長は社長の横に座り、社長のデスクの前に座る当時課長代行の彼に話しかける。
「社長は君を空席の営業第四課の課長にしたいと考えています。君は若いがやり手だし部下の掌握も問題ないと観ている。私も社長の考えに大いに賛成したい。どうだね、遣れるかな」
「身に余る光栄です。課長にして戴ければ期待に恥じない仕事をする積もりです」
「田中敏文、君を本日営業第四課の課長に任命する。頑張ってくれたまえ」
これまで黙っていた社長が急に立ち上がって話し、彼に握手を求める。彼の会社の営業は前に説明した通り、都内のスーパーを東西南北四つに分けての課と、関東のスーパーを一課の合計五課がある。それぞれが当時の課員は八名で合計四十名の営業部員が居る。社長は営業部長と田中課長を伴って、経理事務を総轄する総務、営業、荷造り配送、値札貼りの全ての社員に新しい営業第四課の課長となる田中敏文を紹介して回る。田中敏文は元々営業第四課長代行なので、名目上空席だった課長になるだけの話である。
それから丁度一ヶ月後に、「本日は三時半で全ての業務を終了し、四時から食堂で社長出席の基、営業全体会議を開きます。全員出席して下さい」との張り紙が出る。
四時から社長、常務取締役、取締役営業部長、総務部長、荷造り配送部長、値札貼り部長(女性)、の幹部が正面に座る。幹部の前にはテーブルがあるが、幹部と向かい合う形の営業部員や他の社員は椅子に座るだけである。吉武取締役営業部長が司会役として会議が始まると、社長が立ち上がって話し始める。
「日頃の皆さんの頑張りには心から感謝します。この様な中でこんな話をするのは大変申し訳ないのですが、端的に言うと会社は危機的状況にあります。従来から売り上げが少しずつですが減少して来ました。処が前期は一気に一割五分の大幅な売り上げの減少と成りました。通常ですと、これだけ大幅な売り上げの減少ですと利益はまず出ないで赤字になる。事実営業利益は赤字でした。このままでは皆さんに払うボーナスも払えない事に成るので、会社や私個人が所有している債券や株式といった資産を売却し、何とか利益を出す事が出来ました。こんな事は何時も出来る訳ではありません。売り上げを増やすにはどうしたら良いか、皆さんで考え良い案があれば提案して欲しいのです」社長の予想外の深刻な話に臨時の会議場は一瞬静まり返る。
それを田中第四課長が打ち破る。
「何故売り上げが減ったのか、原因は明白です。うちの会社は大手のスーパーをメインとしてそれに頼って来ました。しかし2000年をピークにスーパー自身の売り上げが減少し、それだけでは無くスーパーの閉店閉鎖が続いています。これではどんなに我々が頑張っても売り上げは減る一方です。じゃぁどうすれば良いか。パイを増やす事です。減少し続ける我々の得意先を増やす事です。日本にはスーパー以外にもデパートがあります。デパートは一店舗当たりの売り場面積が大きく、特に東京のデパートは巨大です。次にねらい目としてはホームセンターがあります。最近のホームセンターは可成り大きく、しかも良い事にチェーン化して店舗数が増えています。大手スーパーだけに頼るのではなくデパートとホームセンターも開拓すれば会社の売り上げも必ず増えます」彼の提案は落ち込んだその場の雰囲気を一気に盛り上げたが、吉武営業部長が真っ先に異議を唱える。
「田中課長の話は利に叶っている。その通りだがデパートとホームセンターにも既に業者は入っている。新参者が簡単に入って行けるとは思えないが」
「部長の言われる通りです。簡単ではありません。しかしこれしか無いなら、石にかじり付いても遣るしか無いと思います。勿論片手間では出来ません。デパートとホームセンター開拓の専任にするのです」彼の説明にも営業部長は未だ半信半疑である。
「田中課長、君なら出来ると云うのかね」
「もし仮に私が遣ると仮定したら専任の期間を一年とします。一年で成果でなければクビにしてもらいます。只私は課長なので誰かに課長補佐になって貰います。これは火中に飛び込む覚悟で無いと出来ません。私が提案した以上私はやり遂げる自信はあります。死ぬ覚悟なら出来ない事は無いと思います」
会議場は再び沈黙と化した。社長の一言がそれを破った。
「田中課長、君にその仕事を命じる。宮部を君の課長補佐にする」
社長命令であり有無を云わせぬ説得力がある。会議が終わり彼は宮部とデスクに戻ると宮部が彼に頭を下げ、
「課長補佐にして戴いて感謝します」宮部はいきなり社長の口から社長命令が出たことに感激している。
「お互い頑張りましょう。私は後が無い」彼が宮部の手を握る。二人は今後の営業に関して大まかな打ち合わせを行う。
五
宮部に関して触れておこう。宮部は彼、田中課長より四歳年上である。2年当時課長代行の田中課長の営業第四課の営業部員が二人不足する。当時前の課長は退社し彼は課長代行の要職にあった。そこで部長と彼が立ち会い面接を行う。面接は新聞でまず求人二名の広告を出し、送られてきた二十人の履歴書から六人に絞り込む。大卒五人と高卒一人の計六人と面接を行う事に。六人に面接日の通知を出し三人を午前中九時、残り三人を午後一時に面接する事に。
面接は会議室で長方形のテーブルに、部長と課長代行に対峙する形で面接者が座る。朝九時から面接は始まり午前の三人の面接を終え、部長と課長代行は食堂で一緒に昼食を取る。部長が話し始める。
「三人終えたけどどれも似たり依ったりなんだよな。特に欠点も見当らない代わりに良い点も見られない」
「そうですね」
「個性が無いんだよな。良い青年だとは思うけれども、こんなに個性が無くては我が社の営業マンとしては物足りないな」
「その通りですね。これから鍛えれば変わるとは思いますけど」
「好青年と云うのは順風満帆の時は良いんだが、激しい変化や困難に立ち向かう逞しさに欠ける。我が社の様な企業にどの程度耐えられるか悩むな。午後の三人も同じかな、特に変わったのは居るかな」
「三人の内二人は大卒ですが一人だけ高卒がいます。私はこの男に注目しています」
「そうかね。それではその男の事は君に任せるよ。君が色々聞いてくれたまえ」
「分かりました」
暫く休んだ後二人は午後からの面接に向かう。大卒の二人の面接が終了する。午前中の応募者と大差無い事に部長は多少苛立って居る。最後に課長代行が注目する男が面接に入室する。課長代行が彼に問い掛ける。
「宮部さんですね」
「ハイ」
「貴方が今回応募した理由を話して下さい」
「これまで勤めていた会社が倒産して現在失業しています。新聞で求人広告を見て応募しました」
「今までの仕事はどんな仕事ですか」
「輸入商社の営業です」
「どんな製品ですか」
「私が担当した部署は業務用空調機のフィルターで、その製品の営業をしておりました」
「機械の販売ですね。我が社は家庭用品特に風呂用品です。それを我が社の販売先であるスーパーに売り込みます。機械と余りに違うとは思いませんか」
「違うから遣ってみたいのです。営業はどんな営業であれ共通した物があります。それは形のあるもの、無い物の違いはありますが、色々なものを売り込む事です。売り込むと云う事は即ち自分を売り込む事です。此方の売り込みに対して私を信用すれば買い、信用しなければ買わないでしょう。要するに営業とは相手に自分を信用して貰う、それに成功するか失敗するかの話です」
「面白い話ですね。それで貴方は前の会社の営業で、自分を信用して貰うのに、成功したと思いますか失敗したと思いますか」
「それは勿論私は絶対に自分を信用して貰うのに成功したと確信しています」
「だったら業務用空調機のフィルターの営業のスペシャリストとして他の同業会社に勤められたのではないですか。何故我社に応募したのですか」
「私は誰よりも頑張りました。成績は何時もダントツと云うか大幅に基準を超えていました。似も関わらず会社は倒産してしまいましたが、これは経営者の問題です。どんなに社員が優秀でも、経営者が駄目なら会社は発展しない。こう確信しそれで此方に応募しました」
「我が社の経営者が駄目だったらどうします」
「こちらの会社の経営者が駄目だったら私は直ぐに退社します」
「分かりました。一週間以内に郵送で結果をお知らせします」
宮部を最後に今日の面接を全て終えると課長代行が部長に話し掛ける。
「部長、宮部を採用して下さい。是非お願いします」
「よし一人は決まりで、もう一人は私に任せてくれたまえ」こうして二人の営業マンが決まり彼の下で働く事に。勿論一人は宮部である。
六
2年経って会社の状況は大きく様変わり、背水の陣の課長は宮部課長補佐の協力の基でいよいよ新店舗の開拓に乗り出す。彼が最初に選んだのは東京又は東京近辺も含めて四店舗を有する大手百貨店である。飛び込みで行く事にして百貨店の本店に行く。事務棟に行き受付の応対の女性に名刺を渡し、「突然訪問し大変申し訳ありません。雑貨特に風呂用品のバイヤーの方にお目に掛かり、会社の紹介をさせて戴きたいのですが」女性は直ぐに担当者に電話すると、一人の男性が応対に現れ、小さい商談室に案内される。お互い名刺を交換し名刺には雑貨のバイヤーとある。バイヤーが話し出す。
「申し訳ありませんが後四十分で会議があるので、三十分位しかお話が出来ないのですがよろしいでしょうか」
「勿論です。突然お伺いしてお話し出来るだけでも光栄に思います」
バイヤーは三十代前半で、突然訪問した事にも快く応対し、彼はある種の遣りやすさを感じる。弟一印象が大事なので今日は商談をしない積もりである。彼は会社のパンフレットを渡すも、雑貨のバイヤーである以上、バイヤーは当然彼の会社の事はある程度は知っている筈である。今日はこの程度で終わらせようと内心考え、
「今日はこれで失礼させて戴きたいと思います。一つお聞きしたいのですが、商談日と云うのは何時でしょうか」
「商談日は火曜の九時からで、前日にアポを取って貰います」
「明日商談に伺わせて戴きたいと思いますが、何時に伺ったらよろしいでしょうか」
バイヤーはスマートフォンを取り出し調べる。
「午後三時でどうでしょうか。三時までに取引先との商談は大体完了しているので、三時ならゆっくり商談が出来ると思いますが」彼も了解する。
彼は再度突然の訪問を詫び、丁重に最後の挨拶をして事務所を辞する。この後、彼は本店の雑貨売り場を見て回る。特にプラスチックは目を皿の様にして観ている。レストランで昼食を取った後、一時半に成ると再び事務棟に行き受付に、
「突然お伺いして申し訳ありませんが外商の責任者の方にお目に掛かり、会社の紹介をさせて戴きたいのですが」女性は直ぐに担当者に電話すると、一人の男性が応対に出る。
先程とは違い五十歳前後のデップリとした貫禄のある人である。先ほどと同じように小さい商談室に案内される。お互い名刺を交換し、名刺には外商部の部長とある。課長から話を切り出す。
「今日は突然の訪問、大変申し訳御座いません。弊社は風呂用品を主に販売しておりますが、親会社はプラスチックの家庭用品全般を製造しております。プラスチックの事でしたら大小を問わず何でも出来ます。御社とは取引が御座いませんが、何とか取引させて戴きたいと思いまして。どんな事でも結構です、まずご一報下さい、必ずやお役に立てて見せますので」彼は必死に懇願する。
部長は彼の差し出した会社のパンフレットを見回しながらスマートフォンを取り出し、それを盛んに観ながら彼に問い掛ける。
「風呂用品の様な大きな物じゃ、小さいプラスチック容器は苦手じゃないの」
「噸でも無い、先程話しました親会社はOEM相手先ブランドで沢山の小さいプラスチック容器も製造しております」
「分かった検討してみよう」
彼は再度突然の訪問を詫び、先程と同じ様に丁重に最後の挨拶をして事務所を辞する。彼は先程と違いずっしりとした手応えを感じる。
再度雑貨売り場を何度も見て回る。売り場の担当者らしい人にも軽い会釈を送る。一見無駄と思われる事を繰り返す事で、この売り場の取引先の様な感覚に成る。この事が重要と彼は考える。何度も売り場を回っているうちに携帯のスマートフォンが鳴り、大至急会社に戻る様にとのメールが入る。
彼は取るも直さず会社に戻ると、部長が手を広げて歓迎してくれる。
「田中課長おめでとう。君がさっき会ったばかりの外商の部長がこれから来るんだよ」部長の突然の話に彼はビックリ。
「部長さんが何しに」余りに急で彼は不安にも成る。
「先方の部長さんは最初君を指定して来たんだよ。代わりに私が電話を取って話すと、先方は君が何時なら戻るかと聞くから、五時には戻りますと答えたんだよ。そうしたら五時に伺うけど良いかと言うんで、結構ですと答えたんだよ。来る目的は分からないけど良い事だよ。君には驚いたよ、こんなに早く結果を出すんだから。部長さんが来たら社長室に案内して、社長も我々と一緒に応対するから」
問屋にとって大手百貨店の外商の部長が来ると云うのは大変な事である。まして取引の全く無い百貨店の外商の部長である。それもさっき初めて合ったばかりの百貨店の外商の責任者がわざわざ来ると云うのである。部長が言う様にしてやった、の気持ちがあるものの一抹の不安もある。気持ちを落ち着かせる為に、食堂に行き自動販売機の缶コーヒーを飲む。タバコを吸う営業マンを彼は時々羨ましく成る。彼はタバコを吸わないので缶コーヒーを飲むが、これは如何にも休んでいるようでうまくない。
五時丁度に待ち人が部下二人を連れて事務所に入って来る。彼は直ぐ三人を社長室に案内すると、社長室には社長と常務に営業部長が居て、彼を加えた四人で客人に応対する。社長室は社長のデスクの隣に前後に八人が座れるソファがある。客人三人が座り、向き合う形で壁を背に応対の四人が座る。
お互い名刺の交換が済むと先方の部長が話しを切り出す。
「ぶっちゃけた話をします。ある電気メーカー様の創業記念の粗品という事で、プラスチックの皿とフォークとスプーンにスープ用の薄いコップのセット十万個を単価五十円でうちの取引先の問屋に、三週間の期限で注文し先方も了解したのに、十日経った今になって出来ないと云って来ました。出来ない理由を云わないので分からないのですが、御社が出来れば売り場も含めて御社に任せたい」
先方の部長が話し終えると直ぐ常務が質問する。
「当方が遣るのは製品の制作と製品の箱詰め迄ですよね。包装は御社ですよね」
「その通りです」
「一寸待って下さいね」スマートフォンを電話しながら常務は一旦社長室を出る。親会社に電話し、外商の部長の話を親会社の社長に電話している。常務は可成り長い電話の後再び社長室に戻って来る。「どうも失礼しました」客人に謝罪する。常務はなにやらスマートフォンを社長に見せて、小声で話しをしている。すると社長が一段と大きな声で、
「遣りましょう。並の大変さじゃないけど、我が社だからこそ出来ると云う処をお見せしましょう。何が何でも御社の云う通りにしましょう」これには先方から歓声が起こった。
注文書を貰い支払い条件等を詰めて、客人は満足げに帰って行く。この後彼は社長、常務、営業部長の三人の会食に招かれる。
翌朝の朝礼で前日の朗報は報告され、朝礼の後、課の全員から祝福される。この後、昨日約束の午後三時からの商談で予想もしない朗報にぶつかる。本店以下四店舗全ての風呂用品、衣装箱、多用途箱を独占的に入る事が決定したのである。勿論外商も。
この後、彼は渋谷新宿と並ぶ乗降客の多い駅の百貨店に行き、同じ系列百貨店の内東京の方だけ落とす。百貨店は同じ地域に競合店があると、両方入っている問屋はどちらからか切られる事があるからである。残る百貨店は銅像のある地区の百貨店だけとなり、多少時間が掛かるものの矢張り落とす。
百貨店の次の狙い目はホームセンターである。三つのホームセンターに狙いを定め、三つホームセンターの本部に商談を仕掛ける。二社の大手スーパーに入っている事を武器に使う。店舗数を増やそうとする大型店は、商品の在庫力と配送力を特に重く見るからである。それに加えて店舗数の少ない頃の問屋と店舗数の増えた現在の問屋の調整も必要に成るというタイミングの良さも有り、三つのホームセンターの東京の全店舗に入る事になるのである。ホームセンターは風呂用品を置かないものの、衣装箱多目的箱は押し入れケース、衣装ケース、クローゼットケース、クローゼットチェスト等百貨店スーパーより種類も多くサイズも豊富である。店舗数では飽和状態の百貨店やスーパーに比べ、その後も店舗数の拡大を続けるホームセンターは会社のドル箱になりつつある。
彼は約束の一年どころか約半年で目標を達成するのである。特に大手百貨店の外商に食い込んだ事は、百貨店自身の粗品は勿論、一般企業の粗品の獲得に繋がる。一品単価は低くても、数量の多い粗品は会社の売上げの増加に大きく貢献する事になる。彼の仕事が急激に増えたので宮部は課長補佐のままに成る。
2008年と云う年は大変な年であった。9月15日にアメリカの大手投資銀行リーマンブラザースが経営破綻したのである。その影響は全世界に及びリーマンショックと呼ばれる世界的金融不安を巻き起こしたのである。日経平均株価は10月に6000円台となり26年ぶりの安値を付けたのである。
この様な最悪の状況にも関わらず一旦落ち込んだ会社の業績は田中課長の頑張りにより急回復し、再び上昇気流に乗る。五人いる課長の中で最も若く経験も最も短い彼が、名実共に会社を引っ張るリーダーにのし上がる。何れは来る、定年による吉武営業部長の後任の最有力候補との呼び声が出始め、時間の経過と共にその声は益々強く成る。
七
2015年9月初め、夏も終わり秋の深まり迄には未だ一ヶ月はあろうかと云うある日の事、彼が出社すると一人の女性が近づき彼に挨拶する。
「松田尚子と申します。本日から、こちらの会社でお世話に成る事に成りました。よろしくお願いします」前日部長から、退職した女性の代わりが入る、と云う話は聞いている。ズボンで黒の女性のスーツ姿が何とも初々しく新入社員らしい印象を与える。
「営業第四課の課長で田中敏文です。よろしく」彼も頭を下げる。
彼にとって後に、彼の一生を左右する重要な女性との運命的な出会いである。彼は未だ誰も来て居ない上の階である三階の値札貼り室に案内し、彼女に話を切り出す。
「こんな処ですいませんが、此処なら未だ誰も居ないので二、三お聞きしたい事があります。うちの会社は履歴書を部長までしか観る事が出来ません。最低限の事は知って起きたいと思いますので二、三お聞かせ下さい。松田さんはご結婚されて居るんですか」
「いえ独身です」
「ご両親はご健在ですね」
「ハイ」
「ご両親の元にお住まいですね」
「ハイ」
「通勤はどれくらい時間が掛かるんですか。乗る時と降りる時の電車の駅名を教えて貰えますか」
「一時間ちょっと位です。乗る時は錦糸町で、降りる時は神田駅です」
「錦糸町まではどうされているんですか」
「バスです」
「パチンコは遣りますか」
「いいえ、何故そんな質問をされるのですか」彼女は以外な質問に困惑する。
「藪から棒の質問ですいませんね。会社の人間で私の課の人間では無いのですが、問題を起こし会社をクビになった人間がいました。再三会社を休み且つ会社に借金まであるので、彼を問いつめるとパチンコが原因と分かりました。彼は社則に則って会社を止めて貰いましたが他にもパチンコがらみで問題のある人間が居たことが分かりました。それで入社した際の質問にパチンコを入れさせて戴いたと云う訳です」
「そうですかよく分かりました」
「緊急連絡先は実家以外、例えば所帯を保っている兄弟が居るとか」
「私は一人っ子で兄弟は居ません」
「これで松田さんに対する質問は終わりです。今度は何でも結構ですから質問して下さい」
「課長さんのお年は幾つですか」
「私は今年三十五歳です」
「結婚はされているんですか」
明るく弾むような声で、テキパキ受け答えする彼女に次第に圧倒されてゆく。彼は多少困惑気味に答える。
「イヤー未だ一人ですよ」頭をかきながら恥ずかしそうに答える。
「そうですか独身ですか」彼女はしてやったぞ、と云う様な顔をしている。
「大学はどちらですか」彼にとって一番聞いて欲しくない事を彼女はずばり聞いて来る。
「私は高校出ですよ」一瞬気まずい空気が流れるも彼の方が切り返す。
「松田さん、大学は何学部ですか」
「私は文学部です」
二人は次第にうち解けた雰囲気になり遠慮がちだった彼も可成り突っ込んだ質問をする様に成る。
「文学部出の人は出版関係に行く人が多いですよね。そうすると将来は小説家志望ですか」
「色々経験を積みたいと思っています。その上で小説を書けたら良いと思っています」
「趣味は何ですか」今度は課長が質問する。
「読書です」
「読書以外にどんな趣味があるんですか」
「そうですね少しずつですけど小説を書いています。それより課長はどんな趣味をお持ちですか」
「私の趣味は全く無いですよ」
「じゃ週末や祭日はどう過ごされて居るんですか」
「仕事の事を考えています。その週の反省やら新規店の攻略法やら。考え出すときりがない位です。仕事が趣味と云えるかも知れません」
「仕事が趣味だなんて凄いですね。それだと息抜きが出来ないんじゃないですか」
「そんな事ないですよ。実際現場で仕事をしている訳ではないですから。只うちの机に向かって頭で色々考えているだけですから、いわば脳のトレーニングですよ。これで結構楽しんでいるんですよ」
「そうですか。週末を遊ばないなんて課長は真面目な人ですね」
彼は彼女と話ながら以外に彼女とは馬が合うのを感じる。その日の昼食時、彼が一人で食事をしていると一人の女性がずかずかと彼の隣に座り、
「課長私に嘘つきましたね」見ると入社したばかりの松田尚子である。
「嫌私は嘘を吐いてはいませんよ」彼は急な彼女の質問にいささか動転する。
「趣味ですよ、趣味。絵を描いているでしょ」
彼はビックリする。彼が絵を描くと云う趣味がある事は極一部の者しか知らない。まして入社したての人間がどうやって知ったのか。彼女の地獄耳に今更の様に驚く。
「どうしてそれを知っているの」
「駄目ですよ、隠しちゃ。私は正直に答えているのに」
「イヤー隠した積もりはないけど」彼女の鋭い津込みにタジタジである。
「今度は正直に答えますよ」
「描く対象は何ですか」
「人物ですよ」
「人物以外はどうですか」
「人物以外も描きますがメインは人物です」
「メインと云うのはどういう意味ですか」
「人物を説明する為に他の物も描くと云う意味です」
「と云う事は課長の描く人物は単なる対象としての人物では無いと云う事ですか」
「その通りです」
「好きな画家は居るんですか」
「特に好きな画家は居ませんが、特別好きな絵はあります。ラファエロの大公と聖母マリアです。これまで画集で観てもすばらしいと思っていましたが、最近実物が日本に来て西洋美術館で観た時の感激は二度と忘れません。何てすばらしいんだと思いました」
「尊敬する画家は」
「絵は特に好きではありませんがドラクロアは尊敬します」
「好きでは無いのに尊敬するんですか。仰っている事が良く分かりませんが」
「尊敬するのは絵では無く日記です」
「日記ですか。益々分かりません」
「ドラクロアの日記の抜粋した物を芸術論として出版していますが、これは優れた書物です。美術あるいは絵画とは何か芸術とは何かを分かりやすい言葉で書いています。印象派の絵が生まれたのは生まれるべき社会情勢があったと思います。但し思想面ではドラクロアの存在が大きいと思っています。ドラクロアの日記の抜粋した芸術論は私にとってはバイブルそのものです」
「絵は何号位ですか」
「大体百号Pです。縦162センチ横112センチ」
「凄く大きいですね、本格的なんですね」
「それだけ大きいと時間も相当掛かるでしょう」
「早い物で半年位、遅いと一年位掛かります」
「絵は明るい暗いどちらですか」
「色としては黒が多いので明るくはないです」
「黒ですか。黒を美しく出すと云うのは難しくないですか」
「どんな色も美しく出すと云うのは難しいです。只黒は他の絵の具と混ぜにくいので、その点が難しいと云えるかも知れませんね」
「現在完成している絵は何点くらいあるんですか」
「完成しているのは八点です。現在描きかけの絵が二点です」
「現在描きかけの絵が完成すると十点ですよね。個展は考えているんでしょう」
「松田さんは鋭いですね。考えてはいるけど未だ分かりません」
「人物を説明する為に他の物も描くと云うお話でしたけれども、それは普段の課長の考えと云うか思想と云うか、そう云うものを絵にすると云う事ですか」
「大雑把に言うとそうですね」
「課長の絵を見ると課長の思想は大体分かりますね」
「私の表現力の問題もありますが、観る人に伝わればと思っています」
「黒色が絵の基調と云うお話でした。課長はご自身の性格を明るいとお思いですか、それとも暗いとお思いですか」
「私の絵を見た人は私を暗い性格と思うかも知れません。しかし本性、本当の私の性格は明るいですよ」
「どうしてそう言い切れるんですか」
「私は描いている時はもっと暗い絵を想定して描いているのですが、出来上がった物はそれよりずっと明るいものに成ってしまいます」
「黒が基調の絵を描く人が明るい性格なんて面白いですね」
「使われている色と性格は必ずしも一致しないと思いますよ」
「例えば、の話ですが課長が私を描くとしたら、どんな絵に成りますか」
「行きなり難しいですね」
「例えば、で良いんですよ。課長が私にどんなイメージをお持ちに成ったか、それが知りたいです」
「松田さんの大きな顔の外観の中に、仲の良い兄妹が羽根突きをしている何て云うのはどうでしよう。十歳くらいの兄妹が良いと思いますよ」
「仲の良い兄妹と云うと」
「兄は私で妹は松田さんですよ」
「そうですか」
彼女は彼の妹と云うイメージにはガッカリした様子である。今度は課長が質問を投げかける。
「それより松田さんが私をモデルにしたらどんな小説に成るのか教えて下さいよ」
「そうですね。美女と野獣ですか」
「私は野獣ですか。松田さんそりゃないですよ」
「最近古い映画のDVDを観たんです。ジャンコクトーの美女と野獣という映画ですが、悪い事をして顔だけ野獣にさせられた王子様と王女様の話です。最初は怖がっていた王女様も野獣の優しさに惹かれて、遂に貴方を愛しますと告白します。この言葉を人に言われると野獣は人間に戻れるので、その瞬間王子様に戻り天に昇ると云うストリーです」彼女が楽しそうに話すと、
「ワーロマンチックですね、野獣でもいいや」彼も大笑いする。
堅物の課長が新入りの若い女性と楽しそうに話しをしている珍しい光景に、回りの視線はいやが上にも集まる。それを見て二人は恥ずかしそうに席を立つ。彼は彼女の物怖じしない性格と明るく弾んだ話し方は彼にとってこんな妹が欲しいと思わせるものがある。彼が彼女と仕事以外の話をするのは朝も含めこれが最初で最後である。
八
「思えばあれから3年経った」
彼にとってこの3年は早い様でもあり遅い様でもある。結婚を申し込む段階迄に至った彼女との日々色々な出来事に想いを馳せる。特に彼女の入社日の事が今更の如く走馬燈の様に頭をよぎる。人間の不可思議な出会いに今更ながら想いを巡らさざるを得ない。
彼は考えに耽りながら上の階の値札の貼り場に行く。他に誰も居ない処に松田も座っている。彼女は仕事が終わって、帰る前の一休みをしている。朝から結婚の申し込みをしようと張り切るも中々タイミングが掴めない。
「丁度良い。彼女に結婚の申し込みをしよう」こう思うと彼は行動に移す。彼女の前に椅子を寄せる。
「松田さん。一寸話があるんですが良いですか」彼の真剣な態度に、彼女も「結構ですよ」と答える。
「松田さん、私と結婚してくれませんか」唐突ではあるが、彼は真摯に彼女に切り出した。彼女は一瞬驚く。しかし直ぐ彼女は目をつり上げ、彼を鋭く睨みつけた。次に彼女は大声で笑い出す。暫く笑い続けた後、大笑いしながら部屋を出て行く。彼は予想しなかった事態に呆気にとられる。
「さっきの彼女の私を睨みつけた目を見れば、もう返事は分かっているよ。今日の彼女は人が変わって別人になってしまったみたいだな。睨みつけた目には恐怖すら感じたよ」彼はそう思いながら早めに仕事を終え、帰り支度をした。
夕食後のビールを飲みながら今日の事に思いを馳せる。寝ても気持ちが高まって、寝るに寝付けない。前日に続いてこの日も一睡も眠れない。
会社に八時に着くと続いて彼女も出社した。彼女が彼の側により話し出す。
「すいません。課長の結婚の申し込みはお断りします」彼女はこう切り出すと更に続ける。
「私は課長に何度もお誘いをしました。しかし一度も受けて貰えませんでした。食堂で丁度5日前にも課長にプレゼントをしました。何時も課長の座るテーブルに於いて置きました。しかし課長はこのプレゼントも受けてくれませんでした。そんな私を貰ってくれる人がいます。私は近々結婚で会社を止めます」そう言うと彼の元を離れた。彼は予想していた事なので、特に驚きはない。
営業時間中、彼女は殆ど自分の席にいない。彼も上司として気にはなる。しかし今は彼女には触れたくない気持ち。昼休みになり食堂に行き、彼が入ると食事中の社員の視線は一斉に彼の方に向く。視線はすべて冷ややかであり、女性同士のひそひそ話も耳に入る。
「何度もさそったみたいよ」「全然無反応だって」「いきなり結婚の申し込み」「馬鹿みたい」「子供っぽいわよね」「五万もするネクタイピンを受け取らなかったんだって」断片的だが、彼の事を話しているのは彼にも分かる。彼女が色々言いふらしているのだ。大きな声の笑い声もあり彼の事が食事の格好の食材代わりに成っているのを感じる。
「何か云いたい事があるなら堂々と言えよ。陰口なんて止めろよ、女性は兎も角、男が何だ、だらしが無いぞ。彼女が何を言いふらしたにせよ、片方の言うことだけを信じて一方を非難するのは明らかに片手落ちだろう。こっちの言い分も聞かないのか馬鹿野郎」内心怒りで食事どころではなくなっているのである。
彼は居づらくなって、食事の途中にも関わらず席を立った。その彼女が早退した事を知る。
「嗚呼疲れた、本当に疲れた。みんなで私に対する非難や嘲りを食事の格好の材料に食べてやがる。好き勝手にしろ、今日は早く帰ろう」怒りに震えながら一人呟く。
帰宅するとバタンキュウ。何もしないまま、暫くその状態が続く。起き上がると母親は体調が悪いのでは無いかと心配して起きてくる。
「敏文や、元気が無いけどどこか具合が悪いんじゃないのかい。一度医者に診て貰ったらどうなの。会社には掛つけの病院は無いのかい。無ければ私が掛かっているお医者さんに見て貰ったら、良い先生だよ」
「仕事がきつくて少し疲れただけです。心配掛けてすいません」
「それなら良いけど、それじゃ又寝るからね」
母親が丹精を込めて作って用意した食事を取り、お決まりのビールを飲む。飲みながらも会社での出来事が頭から離れない。
「嗚呼、やっぱり彼女は断ってきたな。昨日から分かっていたとはいえ、やはりショックだよな。昨日は真摯に結婚を申し込んだ積もりだ。それなのに私をにらみ返したり、大笑いして私を辱めた。それだけでは未だ不満なのかな。一体松田は何様の積もりだ。彼女は何故私が結婚を申し込んで断られた話なんかをペラペラ会社の人間に話すのかな。私は彼女に結婚を申し込んで断られた。断られた方が、こんなに大勢の会社の人間から非難されるのは可笑しいジャン。それに彼女は貰ってくれる人が居るって言っていた。幸せだったら何で私の事なんか言いふらすんだ。その上、私を非難しているみたいだけど。何時もの彼女らしくないんだよ。仮にも私は彼女の上司だろう。何時も彼女は私に上司の気遣いをするのに何故今回はそれが無いんだ。あんな奴とは思わなかったよ。あんな奴と分かっていたら結婚何か申し込まなかったよ。松田のバカヤロー、尚子のクソッタレ」彼の怒りの矛先は会社の食事での彼に対する非難や嘲る社員から、結婚を断られた屈辱感も加わり、涙さえ浮かべ松田尚子へと向かう。
その後、寝るも寝付かれない。今晩寝なければ3日間一睡もしてない事になる。矢張り、会社の食堂での同僚の冷たい視線や、口汚い嘲りが耳目に焼き付いて眠れない。松田尚子への怒りも益々大きなものになり寝ていられない。気を静める為に布団から半身起こしじっとしている。3日3晩眠れないのは辛い事である。しかし本当の辛さは眠れない原因の方、会社での事や松田尚子の事の方である。
「明日帰りに、睡眠薬を買おう」
九
何時も通り彼が八時に出社。すると宮部も出社している。
「お早う御座います。どうしたんです」宮部に挨拶する。
「課長に話しがあるので早出しました」宮部は話続ける。
「松田の結婚相手は清掃の鈴木ですよ。昨日、事務方の女性に聞いたんです。私は清掃室に行って、同僚の男に聞きましたよ。課長は清掃室なんて知らないでしょう。食堂の奥にある三畳くらいの部屋に、道具と派遣の男が三人常駐して居るんです」宮部の話は更に続く。
「6日前、松田が課長に上げるプレゼントを、食堂の課長の席に置いた事がありましたよね。課長が受け取ってくれないので、彼女は清掃室で泣いていたそうですよ。そして鈴木と一緒に帰ったんですよ。翌日鈴木は、彼女をものにしたと自慢していたそうです。昨日鈴木は会社に電話で辞めます、と伝えていたそうです。昨日も松田は鈴木と一緒に帰ったようです。鈴木は酒癖が悪くて、傷害事件を二件起こしているそうですよ。彼女はやけっぱちで鈴木に走ったんじゃないですか」
宮部の話を聞く内、彼女の事が哀れになる。
「イヤー有り難う、すまないね。余計な心配かけて」宮部に礼を言って仕事の準備にとり掛かる。
「今日は出かける日だけれども、気が進まない。溜まっている仕事を仕上げよう」
3日間一睡もしていない事もあり、仕事は中々はかどらない。ようやく午前の仕事を終え、食堂に行く。すると奇妙な現象を見る。彼のテーブルを囲むようにずらっと沢山の女性が座る。その内の代表格の一人が彼に語りかける。
「課長は、尚ちゃんに本気で結婚申し込んだんですか」彼女は怒った表情で聞く。
「勿論本気ですよ。本気も本気、私の何処を叩いても返って来るのは正真正銘の本気」彼が答える。
「課長はふざけているんじゃ無いですか。可笑しいじゃないですか。彼女が課長を諦めたら、課長が彼女に結婚申し込むなんて」
「何を言っているんですかいきなり。ふざけて結婚申し込む人間が居るはず無いでしょう。馬鹿な事を言うのも休み休みにして下さいよ。第一いきなり訳の分からない事を、もっと順序だった話をして下さいよ」
「それじゃ最初から話をしましょう。私達は尚ちゃんも含めて五、六人喫茶店でよく話をするんですよ。最近は殆ど尚ちゃんの事ですよ。彼女は課長の事が大好きですよ。好きで、好きでたまらない程。それで彼女は課長に、色々と誘いを掛けるけど答えてくれないって。彼女は何時も悲しそうに話していましたよ」
「そう、そんなに。申し訳ないと思うけど私は気が付かなかったよ。誘いと云う様な曖昧なものではなくて、手紙とか言葉とかはっきりしたものだと、私も気が付いたと思いますよね。私も毎日時間に追われて仕事をしているので余り気持ちに余裕が無いんですよ。彼女に対する気配りが足りなかったのは認めますが、けっして悪意でしたことでは無いですよ、これだけは分かって下さい」
「もう普通の方法では課長の心を動かすのは無理と判断しました。それで私達は彼女に一つの提案をしたんですよ。課長は必ず決まったテーブルで食事をする。だからそのテーブルに彼女のプレゼントを置いておく。余程の馬鹿でない限り、彼女からのプレゼントと分かるはずでしょ。彼女も喜んで、何と五万円のネクタイピンを買って来たのよ。これにはこっちがビックリしたわよ。よっぽど彼女は課長が好きだったのよ。でもね、プレゼントはそのまま。結局失敗よ」
「イヤー、悪い事したね。包装紙に包んだ小さな箱の事が気になり、直ぐに食堂に戻ったんだよ。あの日は時間までに終えなければ成らない仕事を沢山抱えていて、他の事まで気が回らなかったんですよ。申し訳ないと思うけど私の立場も考えて下さい」
「遅かったのよ。彼女は課長がプレゼントを受け取ってくれないので、清掃室に駆け込んだのよ。私達も至急食事を済ませて清掃室に行きました。彼女は鈴木の膝に顔を当てワーワー泣いていました。彼女を喫茶店に連れて行って慰めました。彼女は、課長の事は諦めると言っていました。只その日の帰り、鈴木と一緒だったみたい。翌日、彼女は鈴木と一緒になると言っていました。良く考える様に説得したんですけど。彼女は課長にふられて自暴自棄になっていたと思いますよ」
「プレゼントに拘る様ですがそんな回りくどい方法じゃなくて、手っ取り早く私のデスクに彼女の名前を書いて置いてくれてら良かったし、もっと色々方法はあったのに本当に残念ですよね」
「そしたら一昨日、昼休みに彼女に誘われました。何だろうと思いました。課長に結婚を申し込まれたって言うじゃないですか。言葉が無かったですよ。課長の事を話す彼女は以前の彼女ではないの。鋭い目つきで大声で笑っていましたよ。課長には翌日に断ると言っていました。課長とは今後顔を合わせたくないので、会社は辞めると言っていました。辞表は郵送すると。彼女が可哀想で可哀想でしょうがないんですよ。課長の結婚の申し込みなんか無かった方が良かったのに。課長、そう思いません。課長は、次の部長の最有力候補ですよ。そんなに人の気持ちが分からないんですか。それで部長職が勤まるんですか」
「一言もないよ。彼女が、今後とも幸せでいてくれる事を願うよ。只分かってほしいのは私へのプレゼントも後から取りにいったんだよ、しかしもう無くなっていた。私は結婚を申し込んだけれども彼女にきっぱりと断られました。それが全ての事実だし、それ以外の事を私は知らない。本当に知らないんだからしょうがないでしょう。もう勘弁してくれよ、くたびれたよ」彼は執拗な質問に辟易し、席を立った。話し相手である彼女の「質問は未だ終わってないわよ」の言葉を無視し、「女性蔑視よ」「可哀想な尚ちゃん」「嫌な男」と言った女性達の罵声に混じって「駄目男」「部長は無理」「最低の男」の男性の声も背に浴びせられた。
デスクに戻ると、彼の席に吉武営業部長が座っている。部長が切り出す。
「田中君一寸話があるんだ。君も食堂では食事どころでは無いだろう。外で一緒に食事しよう」彼は部長に従って会社を出る。部長は彼を伴って近くの寿司店に入る。二人はテーブルに着くと、部長が特上にぎり二人分と生ビール中瓶二杯を注文する。部長が話を切り出す。
「田中君、君も疲れているだろうし、今日は特別にビールを許可するよ。松田君から辞表届けが郵送されて来たよ。受理する事にしたよ。君も色々大変だね。どうだね、2、3日休んだら。1週間になっても構わんよ。何たって、君は我が社の宝だから。君に実は話があるんだ。こんな時にどうか、と思ったんだがね、逆にこんな時でないと話せないのでね。
私には二人娘が居るが、下の娘は結婚して子供も居るんだ。只上のが、今年三十歳だが未だ結婚してないんだよ。T大学を出て現在新聞社に努めているんだよ」丁度寿司が出来上がりビールと一緒にテーブルに並ぶ。二人は乾杯し寿司を食べ始める。部長は話しを続ける。
「私は40年近く沢山の営業マンを観てきたよ。しかし君ほど優れた営業マンは観たこと無い。君は何時までも宮遣いはしてないだろう。しかしどんな仕事も完璧にこなす才能が君にはあるよ。前々から娘の婿に欲しいなと思っていたんだが、君には松田君が居る事は知っていた。しかし松田君とは、彼女が断り破談に成ったと聞いたよ。私は人の苦しみを喜ぶ程野暮じゃない。只今回は天運だと思い、このチャンスは逃がしてはいけないと思っている」娘を心配する父親の顔がそこにる。
彼はこの処の冷たい視線と、激しい非難に悩まされ続けただけに、部長の言葉を天にも昇る気持ちで聞く。
「色々お心遣い有り難う御座います。お寿司まで頂いて何とお礼して良いか。最初にお話戴きました休みは戴かなくても大丈夫です。もう一つのお嬢様のお話は、私の様な者に有り難くて涙がこぼれそうです。但し未だ松田さんの事で頭が混乱していまして少しお時間を頂けますか」
「勿論今日明日でなくて良いんだよ。ゆっくり考えて、その上で付き合いだけでも始めてくれれば」
今しがた、非難に罵声、嘲りを背に浴びせられたばかりの彼にとって、正に捨てる神に拾う神である。日頃厳しい人の印象の強い部長の真心のこもった優しい言葉に、溢れそうになる涙を必死に堪える。助け船に直ぐにも載りたいのは山々なれど、未だ松田の事が頭から離れない。
十
「こんな日は直ぐにも仕事を切り上げて、早く飲みにでも行きたいよ」今日眠れなければ、丸4日間眠らない事になる。今は仕事よりも、飲むのと寝る事しか考えが行かない。
「飲んだら早く眠ろう」苦痛に感じる仕事も一時間程残業した後、ようやく終業する。その後宮部に話しかける。
「宮部君、一緒に飲みに行かないか」
「課長すいません。今日は娘の誕生日で、家で誕生会をやるんですよ」
「そうか、そんな大事な日に誘って済まないね。良いんだ、良いんだ」
彼は一人で駅の近くの居酒屋で飲む事にする。会社を退出後、帰りに薬局で睡眠薬を一瓶購入する。居酒屋に入り、テーブルに着くと直ぐ焼き鳥と大瓶生ビールを注文する。大瓶の生ビールを飲みながら浮かんでは消え浮かんでは消える、今日の会社での出来事を考えない訳にはいかなかった。会社での不愉快な事を忘れる為に飲みに来たのにと思いつつも思い出してしまう。
「昨日から続いている、何故これほど俺は遣られるのかな。彼女の私への愛情が憎悪に変わってしまった為か。いや違うな、同姓のよしみで彼女に同情した女性達は悲劇の物語を作り上げた。そして彼女をそのヒロインに仕立て上げているんだ。大悲劇の大ヒロインは今日既に退職していないから、益々私は悪役として攻撃されるんだ」生ビール二杯目を注文する。
「彼女に同情する女性の気持ちも分からないではない。私を冷ややかな目で見たり笑ったりする男共は何だ」彼の怒りは同僚の男性社員に向かう。
従来彼の営業マンとしての活躍は別格であり、会社幹部の覚えも際立つ。それだけに彼の足を引っ張ろうとする同僚の男性社員は確実に存在する。
「営業マンとして勝負出来ないから私的ミスを捉えるか」
会社の男共は皆大学出ばかりだが、営業マンとしては女性の方がましと彼は考える。彼にとって同じ嘲りでも女性よりも男性からの方が堪える。彼は現在六人いる営業課長の中で次期営業部長の最有力候補と呼び声高い。それは彼が頑張って来たからであり、決して幹部に媚びを売っている為ではない。次期営業部長に成りたければ簡単で、営業成績で彼を抜けば良いそれだけの話である。それが出来ないから私的なミスを捉えて人を嘲ったりしていると彼は考える。
「女にも劣る屑共、これからはもっと頑張って彼らと決定的に差を付けてやる。その上で彼らのだらしなさを全社員に印象づけてやる。屑共覚えていろ」彼は怒りを込めて三杯目を注文する。
彼の思いはビールの酔いもあり迷走を繰り返し、再び松田尚子の事に戻る。昼間食堂で話をした松田の相談相手の女性の話を思い出し、彼女の話を盛んに追いかけ出す。
「それじゃ最初から話をしましょう。私達は尚ちゃんも含めて五、六人喫茶店でよく話をするんですよ。最近は殆ど尚ちゃんの事ですよ。彼女は課長の事が大好きですよ。好きで、好きでたまらない程。それで彼女は課長に、色々と誘いを掛けるけど答えてくれないって。彼女は何時も悲しそうに話していましたよ」
彼女が好意を保っている事は彼もうすうす分かっていたのである。
「そうだよなぁ、何で一度位食事に誘ってやらなかったのかな。せめて優しい言葉でも掛けてやれば良かったのに、辛い思いをさせてしまったよな」
昼間食堂での女性の話を更に追いかける。
「普通の方法では課長の心を動かすのは無理と判断しました。それで私達は彼女に一つの提案をしたんですよ。課長は必ず決まったテーブルで食事をする。だからそのテーブルに彼女のプレゼントを置いて置く。余程の馬鹿で無い限り、彼女からのプレゼントと分かるはずでしょ。彼女も喜んで、何と五万円のネクタイピンを買って来たのよ。これにはこっちがビックリしたわよ。よっぽど彼女は課長が好きだったのよ。でもね、プレゼントはそのまま。結局失敗よ」
あの小箱に入った物が五万円のネクタイピンと知り、驚くと同時に彼女の彼に対する愛情の強さに改めて感動もする。
「そんな高額の品物だったとは。彼女がそんなにも思っていてくれた何て気が付かなかったよな。プレゼントをどうして私に直接くれなかったのかな。そうすれば彼女の気持ちも分かって。悔しいよなぁ、本当に悔しいよなぁ」
食堂での女性の話を更に追いかける。
「遅かったのよ。彼女は課長がプレゼントを受け取ってくれないので、清掃室に駆け込んだのよ。私達も至急食事を済ませて清掃室に行きました。彼女は鈴木の膝に顔を当てワーワー泣いていました。彼女を喫茶店に連れて行って慰めました。彼女は、課長の事は諦めると言っていました。只その日の帰り、鈴木と一緒だったみたい。翌日、彼女は鈴木と一緒になると言っていました。良く考える様に説得したんですけど。彼女は課長にふられて自暴自棄になっていたと思いますよ」
彼はあの小さな箱を取りに戻ったとはいえ、一瞬であっても見落とした事の意味の重大さに驚愕する。これまで続いていた彼の言い分や言い訳は此処で完全にストップする。大学出の彼女が酒癖の悪い清掃員と一緒に成るのはさぞ屈辱だったろうと彼女の心中を思いやる。自分が前日結婚を断られたにも関わらず彼女の事を案じ、胸が締め付けられ痛みさえ感じる様になる。女性の話を更に追いかける。
「そしたら一昨日、昼休みに彼女に誘われました。何だろうと思いました。課長に結婚を申し込まれたって言うじゃないですか。言葉が無かったですよ。課長の事を話す彼女は以前の彼女ではないの。鋭い目つきで大声で笑っていましたよ。課長には翌日に断ると言っていました。課長とは今後顔を合わせたくないので、会社は辞めると言っていました。辞表は郵送すると。彼女が可哀想で可哀想でしょうがないんですよ。課長の結婚の申し込みなんか無かった方が良かったのに。課長、そう思いません。課長は、次の部長の最有力候補ですよ。そんなに人の気持ちが分からないんですか。それで部長職が勤まるんですか」女性の話は此処で終わる。
十一
彼が結婚を申し込んだ際、彼女は目をつり上げ彼を鋭く睨みつけて、次に彼女は大声で笑い出し暫く笑い続けた後、大笑いしながら部屋を出て行った理由が初めて分かる。
「あの恐ろしい程の怖い目つきは尋常では無かった。そうか私の事を殺したい程憎らしかったんだろうな。あの大笑いは自虐だったんだ。本当は身がちぎれる程悔しかったんだろうな。私は一人の女性をそんなにも苦しめてしまったのか。松田さん済まない。御免なさい」
彼は一人の女性に対して、気配りや配慮が足りなかった事を思い知らされる。既に五杯目となる大瓶の生ビールを口にしながらも、彼女が可哀想で成らない。彼女に対する悔恨が彼を覆い始めている。目には涙さえ浮かべ、溢れ堕ちそうになる涙を必死に堪える。泣き顔を店内の客に見せまいと堪えれば堪える程涙が頬をつたわってくる。
「彼女に対しては色々反省する事が多い。しかし今それを言っても仕方ない。それより彼女のこれからの人生が幸せであって欲しい。何か悩む様な事があったら相談に来て欲しい」親想いの優しい青年の顔がそこにある。その涙は前日夜のとは明らかに違い、真に悲しみに満ちた心からの涙である。
彼は店を出た後、自動販売機でコーヒーを買い、愚痴りながら足をふらつかせながらも、横浜の自宅に夜の一時過ぎに戻る。玄関のドアを開けると目の前に母親が立って居る。母親は彼の様子がこの処尋常で無い事を心配しているのである。その母親が彼を気遣い、
「会社で何かあったんじゃないのかい。顔色も良くないし、話せば力に慣れなくても楽にはなるんじゃないのかい」母親の問いかけにも、
「心配掛けてすいません。大丈夫ですから、仕事が忙しくて、忙しくて。寝て下さい」これだけ云うだけでも、呂律が回らない。
「それじゃ寝るからね。くれぐれも悩みや苦しみがあったら云って頂戴よ」母親の心遣いに涙を堪える。
彼は二階に上がるのが精一杯である。やっとの思いで母親が引いてくれた布団にバタンキュウである。
「嗚呼眠いなぁ。眠い、眠いけど眠れないなぁ」
彼を襲った睡魔は寒気をもよおす程である。麻薬常習者の麻薬が切れた時に起きる禁断症状の様でもある。眠れない原因はハッキリしている。会社での事が頭から離れないのである。会社での女性は兎も角、同僚男性の彼への嘲りや笑いに怒りはあるものの早く忘れたい。断られて分かった松田への激しい思いと、彼を苦しめる松田への悔恨の全てを忘れたい、打ち消したい。それは振り払っても、振り払っても降りかかる火の粉と同じである。禁断症状に火の粉を払いのけるべく会社の帰りがけに買った睡眠薬に救いを求める。救いを求める焦りに、酩酊状態が加わって睡眠薬一瓶の半分を缶コーヒーで一気に飲み干す。
「やっとこれで眠れる」
その安堵感に浸り、彼は次第に眠気が覆い始めた事に満足感を覚える。
「眠るって幸せだなぁ」
眠気が差して来た事に加え、この処の胸を締め付けられる様な圧迫感と苦痛から逃れられる、解放されると云うその喜びから顔に笑みさえ浮かべる。しかし同じ眠りでも永遠に覚める事の無い眠りであり、それが年老いた両親を残しての二度と戻る事の無い死出の旅路の始まりである事に仮は気がつかない。
<了>