007.骨格
二五M泳ぎ終わると、悠はプール壁に背中を預けて立ち止まった。
「さあ、だいぶ慣れてきたか?」
「ああ。今、水泳が楽しくて仕方がない」
「そうか」
燐は嬉しそうに微笑んだ。
「今度は俺は手を引っ張らない。だから、自分で手を動かして泳いでみろ」
「呼吸はどうやるんだ?」
「そうか。わからないか」
燐は首を横に振り、
「じゃあ俺が横に立ってやり方を教える」
そう言うと悠を横に呼び寄せた。
「まずは手の掻き方だな。こう、S字を掻くようにして水中で手を動かすんだ」
「あれ? イアン・ソープ選手は直線に近いやり方だったような……」
悠は幼い頃母親と一緒に見たオリンピックの映像を思い出しながら言った。
「ああ、イアン・ソープ選手はたしかにそうだよ。だけどあれは彼が身長も手足も長く、しかも肩の関節が異常に柔らかいことで手の入水が遠くになるから、手の水を掻く距離が長くなる。つまりそれだけ水を多く掻けるんだが、そんな彼には普通のS字では水の抵抗がありすぎて逆にうまく水を掻けないで速度が遅くなってしまう。だから直線に近いS字で水を掻いているんだ」
だけど、と。
「だけどお前には関係のない話だ。お前は同年代の中でも小さい方だし。たしか一四〇センチ後半だっけ?」
「一五一センチだよ」
「まあどっちでもいい。平均よりも小さいんだから。それに加え、お前は見たところ典型的な日本人的な体型だ。寸胴だし」
「暗に短足って言いたいのか?」
「そうじゃない。水泳体型ってのは、身長が高いこと。両手の長さを合わせたときに、最低でも身長よりも五センチは長いこと。肩幅よりも骨盤の方が小さいこと。肩幅と胸囲が大きいこと。足が座高よりも長いこと。膝上の長さより膝下の長さの方が長いこと。そういう特徴を持ったのが、水泳体型って言うんだ。イアン・ソープ選手はそれをたしかに持っていた」
言われ、悠は自分の身体を見直してみる。
肩幅と骨盤の大きさは同じくらい。
手も足も短い。
膝上も膝下も同じくらい。
身長も小さい。
結論、全然水泳体型じゃない。
「だからお前にはイアン・ソープ選手の直線S字は無理だ。意味がない。だからS字で掻くんだ」
S字の掻き方を実際に見せながら。
「次に呼吸。手で完全に水をかき終わる直前くらいから首を横に回して呼吸の準備をするんだけど、呼吸の際には顔を横に向けすぎないこと」
「え? でも思いっきり横に向けなきゃ水が邪魔でうまく空気が吸えないじゃん」
「それは違う。口の部分の水は、ぽっかりと水面から空くんだ。だから顔を完全に水面から上げなくても思いっきり吸える。逆に思いっきり首を動かすと、その分水の抵抗を大きく受けて推進力が低下するから、速度が遅くなってしまう」
「なるほど」
「実際には、このくらい顔を動かせば良い」
悠は顔を、右手の人差し指の爪先から第一関節くらいまでの距離だけ動かした。
「次に呼吸をしながら手を頭の前にまで持って行くんだけど、その際には手をもっと前へもっと前へと、手の入水を遠くに意識する」
「入水?」
「水に入ること。だから手を水に入れるのをずっと遠くにするようにするって事だよ」
さあ実際にやってみろと言われ、悠は顔を水に突っ込んだ。
S字を意識して、水を掻く。
水の重さを、少しだけ感じられた。
お風呂の中で手を動かすよりも、ずっと。
その瞬間、悠の手は燐に掴まれた。
何か問題があったのかと、顔を上げる。
「ダメだそんなんじゃ。全然ダメだ。直線S字とほとんど変わらないじゃないか。S字はこうやるんだ」
悠の手を取ったまま、悠の手を動かして、身体で教える。
思いっきり大きく手を動かしているのが見てわかる。
少し大げさじゃないのかと思えるほどに。
「さあ、やってみろ」
もう一度、頭を突っ込んで、手を動かす。
今度は、思いっきり、大げさに。
すると先ほどとは比べものにならないほどに水の重さを感じた。
水の重量が鉄ほどに変わってしまったのではないかと誤解してしまうほど。
水を後ろへ押していくと、間もなく腿の部分に手が届くほどになった。
悠は首を回して呼吸しようとする。
ほんの少しだけ、頭を回して。
だけど、視界の半分が水中を映し出している。
こんな状態では呼吸なんかできないだろう。
そう思い、もう少しだけ頭を回すことにした。
しかしその瞬間、燐に肩を掴まれて止められた。
「馬鹿野郎! 首を回しすぎだ! それに呼吸の時、身体と顔の動きのバランスがずれすぎだろうが!!」
「でも、言われた通りに手が後ろの方に行ってから頭を動かしたぞ。それに少しだけ頭を動かした。まあ、視界の半分が水面を移してたから、これだとあまりに頭を動かしていないと思ったから、少しだけもっとずらそうとしたけど」
すると、失敗したと言いたげに、燐は右手で顔を覆い、
「あっちゃー……それはすまないことをした。説明の仕方が悪かったよ。そうだな、手を後ろに動かしていくと、自然と身体が傾いていくだろ? 右手を掻いていくなら、左半分が沈んでいき、右半分が水面の方に向けて傾いていく」
「たしかにそうだな」
「その傾きに合わせるようにして、頭を動かす――つまりもっと傾けようとする必要はほとんどないんだよ。ここで言う頭を動かすって言うことは、もっと傾けるって言う意味じゃなくて、もっと傾きを抑えるって言うことだよ。お前の身体と頭のバランスがずれてたのは、この説明を言い間違えていたからだな」
「そんなんじゃ、呼吸なんかできないんじゃ」
先ほどの感覚を悠は思い出す。
視界の半分が水に覆われて、そんな状態じゃ無理としか思えなかった。
しかし燐は首を横に振って否定する。
「十分すぎるぞ、半分なんて。俺が泳ぐときには、視界の三分の二くらいが水中を映している。それでも十分に呼吸できる」
「そんなもので?!」
それは、言い換えればほとんど水中に顔を向けていると言うこと。
その程度で呼吸しようとすれば、水が口の中に入ってきてしまうのではないか。
「水は口に入らず、しっかりと呼吸できるぞ。さっきも言っただろ? 口の部分に水面から穴が空くって」
「ああ」
「穴が空くからこそ、その程度で十分しっかりと呼吸できるんだよ。さあ、もう一度やってみろ」
思いっきり、手を大げさに動かす。
やはり水の重さを十分に感じる。
しっかりと水を掻いているという感覚が伝わる。
手が後ろへと動いて行くに従って、身体が傾いていく。
今は右手を動かしているから、右側に。
右半分の身体が、水面へと向かって。
それと共に、伸ばされている左手にくっついていた頭も、水面の方へと傾いていく。
ここで、先ほどの燐の言葉を思い出す。
『頭は、傾きを抑えるんだ』
もっと水面の方にずらす。
それを思い出し、実行する。
視界は半分も水面に出なくても良い。
もっともっと、抑える。
燐が言っていた三分の二とまでは行かない。
だけど、半分以上は水面から出なかった。
口を開き、息を吸う。
これだけ水の中に入っている、つまり口の半分は水の中に入っているはずなのに、水が口の中に入ってくることはなかった。
それに感動する暇もなく、腕は前へと進んでいく。
ここでまた、燐の言葉が脳裏をよぎる。
『手の入水は、もっともっと先に』
それを思い出したときには、もう手が水面に付きそうになっていた。
だけど、そこで入れてしまうのではなく、肩から前へ前へと意識して動かす。
すると自然と左手が後ろの方へと少し動いていた。
それに気づくことなく、入水角度を意識していた悠は、遠くに入水できたことを確認すると、それから左手を意識して動かし始めた。
もちろん、そのせいで自然に動いていた左手は一瞬タイムラグのために動きが止まってしまって。
燐が悠の肩を掴んで止める。
「馬鹿野郎! 右手の動きは良かった。S字の掻き方も、呼吸の際の頭の傾きも、入水角度も、しっかりと意識されていた。だけど、左手への意識がおざなりだ! 右手の位置が左手の位置と同じくらいになったとき、自然と左手が後ろへと向かい始めたはずだ! どうしてそこで左手にも意識を裂いてS字に掻き始めない!!」
「え? 左手、そんな風に動いてたか?」
「動いてたよ! ……スイマーはな、手の先から足の先まで意識を集中させながら泳がなくてはならない。少しのズレが泳ぎのバランスを大きく崩してしまい、タイムが遅くなってしまう。だから、いまから意識を全身に向けることを覚えろ」
「わかったよ」
「ならもう一度だ! さあ、やれ!」




