006.前進
そこは、ひどく暗い場所だった。
夜の闇よりなお暗く澱んでいる。
太陽の加護を失っているかのように、夜よりもなお寒い。
一切の光源のないその部屋は、真に集中しなければ近くの物や人すらかすかにも瞳に映すことはできない。
そんな暗がりの部屋の中央には、大きな縦長のテーブルがあった。
漫画などで見かける、中世の貴族の屋敷などでにあるそれが。
そんなテーブルの周囲に、一二の人影が。
テーブルを取り囲むようにして立っている。
「さて」
一番奥、上座に立つ人影が口を開いた。
声質からして男。
それも、壮年の。
「さて、諸君。それでは会議を始めるとしよう。議題は、我らが一族から抜けた、あの男の処遇だ」
「待って下さい、長老!」
一番手前、下座から響く女の声。
未だ幼いそれは、ひどく焦りの色を滲ませて。
「彼は違うんです! 彼もわたしたちと同じく、王のためを想って」
「それでも、だ」
彼女の言葉を遮り、長老は口を開いた。
「我らの使命は、王のそばに控えること。いついかなる時も、王の呼びかけにすぐさま馳せ参じられるように」
「そう。だからこそ、彼は赦されざることをした。王のそばを離れるなど」
「一族の掟を破るなど」
「もってのほかだ」
長老の言葉に追従するかのように、他の男たちも言葉を発した。
そのどれもが、少女のように罷免を願うものではなく。
「それでも! もう少し時間を下さい。お願いします」
「……あの男の王に対する愛はたしかに、我らの中でも最も大きい。我らは愛ではなく真なる忠誠を抱いているのだから。だからこそ。……だからこそ、わかった。もう少し待とう。お前の願いを聞き届けた」
「あ、ありがとうございます」
†††
「さあ、休憩は終わりだ。バタ足もだいぶ良くなってきたし、次はプルブイを使ってバタ足なしで泳いでみよう」
「プルブイ?」
「これさ」
燐は手にしたものを掲げて見せる。
それはスポンジでできたような、円柱状の太い棒を二つくっつけたような形をした、白いものだった。
「これを、こう、足に挟むんだ。そうすれば水に浮くから、手を動かして泳ぐ」
「いきなりレベル上がったな」
カナヅチである悠が、いくらバタ足ができるようになったからって、いきなりそんなことはハイレベルに過ぎる。
それを理解しているのかどうか、燐は口を開く。
「いきなりできるとは思ってないよ。まずは俺が手を引くから、それで水に慣れろ」
水に顔を突っ込まなければならない――その事実に、事態に、悠の顔からはプールの飛沫では決してない水が流れ落ちる。
「ほら、やってみろ。これができなきゃ、お前をスイマーとは決して認めない」
どんな思いでその言葉を口にしたのか。
悠にはわからない。
自分ではないのだから。
だけど、その言葉が、たしかに悠の心に火をつけた。
――これができなきゃ、彼女には会えない……。
「わかった。さあ、やってくれ」
悠は瞳に炎を灯して両手をさしのべた。
燐はそれを掴まず、
「呼吸は顔を上げて行えば良い。今はまだ」
両手を掴み、
「さあ、顔を水に突っ込め。そんで顔を上げて呼吸しろ。それを繰り返せ」
激しく高鳴る心臓の音。
そして悠をのぞき込んで笑っている水への恐怖に、悠の顔がこわばる。
だけど、恐れることは赦されない。
大きく息を吸い込んで顔を突っ込んだ。
水が身体に絡みつき、悠を深き奈落へ連れて行く――
そんな予想とは違い、悠の身体は水面を走っていった。
身体がしっかりと浮いている。
それはプルブイのおかげで下半身がしっかり浮いているだけではない。
燐が両手を持って引っ張ってくれているため、それに引きずられるようにして水面に浮き、しっかりと走っているのだ。
もう、恐怖はない。
少し息苦しさを感じ、顔を上げる。
「ぶはっ、はぁ」
「よーし、いいぞ!」
今までは透明な水と、底と、底に引かれた黒いラインしか見えていなかった。
しかし顔を上げれば底には、嬉しそうに微笑む燐の顔が。
「もう一度水に突っ込め!」
言葉ではなく行動で了承の意を示す。
再び、スイマーの世界が眼前に広がる。
水泳とは凄まじくつまらないものだ。
同じコースを延々と泳ぎ続けるだけ。
視界には同じ光景がずっと見え続ける。
退屈としか言いようがない。
だけど、そんな水泳でも、楽しさを感じるところがある。
それは、身体だ。
身体が水面よりも高く浮き上がり、風を切っているのがわかる。
それが外だったら、日の暖かさも感じるだろう。
試合の時には、他にもある。
それは、呼吸をしたときに視界に映る、多くの観客の姿。
そして微かに聞こえる、歓声。
ターンの時に左右のコースの選手と目が合うこともあるだろう。
負けている場合には、相手との距離がどんどん小さくなることや、勝っている場合には、後ろからどんどんと距離を詰められていく緊張感も。
そんなことも、試合では感じられる。
だけど練習の時には、そんなもの。
だから真に速く泳げるようになりたいと思うのなら、練習を楽しめる才能が必要だ。
言い換えるなら、それは、その退屈さを楽しめる才能。
悠にはその才能があった。
それは、今までカナヅチだったから、泳げている事実に、その感覚に、面白さを一時的に感じているだけなのかもしれない。
だけど。
悠の顔は、たしかに笑っていた。
――グングンと進んでいく感覚。
――水のラインが身体を流れる感覚。
――|身体が水に持ち上げられている(・・・・・・・・・・・・・・)、この感覚。
――そして背中で、風を切る感覚を感じられることも。
――そのすべてが、新しい感覚で。
――とても、楽しい……。
そのとき、たしかに。
悠は水に慣れることができた。
それはプルブイを用いているという条件が付くが、大きな前進だった。




