005.縁
翌日。
更衣室から出ると、すでに燐が待ち構えていた。
その手には、黄色いビート板が。
「今日はこれを使うぞ」
ほれ、と手渡されたビート板を受け取る。
「それに掴まってれば溺れることはないから。水に浮く性質だからな、先を両手で持って胸の下に置いて上半身を載せるんだ」
水面にビート板を載せてみると、ぷかぷかと暢気に水の流れに乗って漂う。
これなら、と。
悠はビート板を掴むと、思いっきり抱きしめて水に身を投げ出した。
ビート板が悠を水中へ寄せ付けない。
ぷかぷかと、水面を漂う。
「さあ、バタ足をするんだ」
悠は一つ頷くと、プール壁を両足で蹴って飛び出した。
……前へ。
ひたすら前を目指し、力任せに足をバタバタと動かす。
足をまっすぐに伸ばして、足の付け根から強く。
どぼんどぼんという音を伴って、水しぶきが高く勢いよく上がる。
「だめだだめだ、そんなやり方じゃ。バタ足はこうやるんだ」
燐は悠を止めると、見本を見せるために実演してみせた。
先の悠とは違い、水しぶきはほとんど出ていない。
音も静かで、時折微かにじょぼんじょぼんという音が聞こえるくらいだ。
もちろん、悠がやったよりもずっとずっと早い。
力なんか全然入っているようには見えないのに。
燐は見本をやめて立ち上がると、悠を見て口を開く。
「わかったか? 力任せに水しぶきを上げても意味はないんだ。水に抵抗するな、水の流れを感じるんだ」
そして両手を悠へと向け、腕を脱力して上下に振る。
交互に。
「足はこう使うんだ。力を抜いて、こう、鞭のようにしならせる。そして」
今度は両手を水面の少し下に入れて、
「さっきお前はこうやってたよな。力を入れて、こんな風に」
手首――いやそれが指し示す足首から上が、水面から勢いよく飛び出て力一杯水面に叩き付けられる。
そのせいで大きな音と多くの水しぶきが飛び交う。
「そうじゃなくて、こうやるんだ。水面からほとんど出さずに、水面下ギリギリの所で足を動かす」
今度は水面から出てくることはなく。
先ほどよりも水の流れが強く悠へと向かっていた。
「お前のさっきのやり方だと、水の抵抗を強く受ける。水面に叩き付けることもそうだし、足を思いっきり動かすから。それに力を込めるからすぐに疲れるし、込めてるせいでうまく水を捉えられていない。水の重さをしっかり感じられたか?」
悠は先ほどの感覚を思い出す。
足首から先は水面に叩き付けていたせいか少し痛かったし、水をしっかり蹴ると言うよりも水の中を通り過ぎているという感覚だったように思えた。
そう、水の重さなど感じられなかった。
悠は首を横に振ることで、燐の問いに否と返す。
すると、燐は頷いて答えた。
「じゃあ今度は俺の見本を水面から見……いや、お前は無理だったな、まだ。なら今教えたことを頭に置いてやってみろ。俺が水中から見て、おかしかったら止めて適宜指示するから」
悠はプール底を蹴って前へと飛び出す。
そして教えられた通りに足を動かす。
何度も何度も燐の言葉を頭の中で反芻しながら。
力を抜いて、リラックスして。
すると、どうしたことか。
先ほどよりも疲れは一向に訪れないのにもかかわらず、ぐんぐんと身体が水面を飛んでいく。
そして足を動かすたび、水の重さがダイレクトに伝わってくる。
まるで片栗粉を混ぜた風呂の中で身体を動かしているかのように、しっかりと。
「泳げてる……」
もちろんビート板を使ったバタ足なのだから、泳げているとは言えないかもしれない。
しかし、水を走るこの感覚は。
水に濡れた上半身が風を切って肌寒さを少し感じるこの感覚は。
彼女へと近づいていることを実感させて。
思わず笑みが浮かぶ。
今までは泳げなかった。
でも、昨日決意したように、今日は今までよりも強くなれた。
泳ぐことができた、自分の力で。
と、
「ばかな……」
呆然とした燐の声が聞こえた。
「その、ヒザは……?!」
「ヒザがどうかした?」
「どうかした、じゃないだろ!」
燐は水を掻き分けて悠の肩を掴んだ。
「お前はキックをするとき、ヒザが過伸縮している。人よりもずっと……まるで逆側にもヒザが付いているかのように」
今度は悠のヒザを足で叩き、
「それがどれだけスイマーの欲している能力なのかわかってるのか?! ヒザの可動域が大きくなるって事は、それだけ水を多く蹴れる。推進力が格段に上がる」
「そうなのか。全然気づかなかったよ」
「……かつて《水の申し子》と呼ばれた偉大なスイマーが居た。マーク・スピッツ。一九七二年のミュンヘン・オリンピックで一〇〇MFr、二〇〇MFr、一〇〇MBt、二〇〇MBt、四〇〇MFR、八〇〇MFR、四〇〇MのMRと七冠を達成し、なおかつ全種目で世界記録を達成した。二年前、当時中学一年生だったアラン先輩が五〇MFr、一〇〇MFr、二〇〇MFr、一〇〇MBt、二〇〇MBt、一〇〇MBr、一〇〇MBc、四コメ、八〇〇MのMRで九冠に輝いたために記録は抜かれたけど、未だ語られる偉大なスイマーだ。スピッツはお前と同じく異常な可動域を誇ったヒザで偉業を成し遂げたんだ」
「《水の、申し子》……」
その言葉で思い浮かぶのは、やはり彼女。
“海”にたゆたう、人ならざる存在。
悠から見れば、水の具現。
《水の申し子》と呼ばれたスピッツ。
そしてスピッツと同じヒザを持つ悠。
水の具現たる彼女。
つまりそれは、彼女と縁があるということなのではないか。
そんなことを思い、悠の心は熱くなった。




