004.祈り
「はやく」
そこは、どこなのか。
静謐なる空間。
夜の闇に紛れて全貌を視認することは敵わない。
「はやく来て」
少女の声が響く。
闇の暗がりを引き裂く、凛とした鈴の声が。
「あたしは、今も待っているから」
祈りを捧げるかのように。
少女は待ち続ける。
ひたすらに――
その時を――
†††
体力的にも精神的にも困憊した悠は、今日はこれ以上練習することは不可能だと判断され、帰宅を命じられた。
激しく高鳴る心臓の音に息苦しさを感じながら重い足取りで更衣室を出る。
「……僕は、」
自分の願いが甘いものではないと信じている。
ひどく純粋で、それしか自分の存在意義はないとすら考えている。
全てを失った悠には、もうあの日の彼女と再会することしか、彼女の存在しか、価値を見いだしていないから。
背後から燐とアランの泳ぐ音が聞こえてくる。
「……彼らは、何を願っているのだろう」
何を思って水泳という最も過酷なスポーツに打ち込んでいるのか。
死を覚悟してまで。
彼らの練習を見れば、それが分かるのか。
彼女の姿は遙か彼方。
手を伸ばすことすら不可能で。
彼らは自分よりも遙か高みに在り。
ならば、彼らの練習を見て、彼らの思いを知れば、自分も先へと進めるのではないか。
悠は肩に掛けた鞄を下ろすと、制服のままプールサイドへと歩いて行った。
†††
「はあ、はあ、はあ……」
プールではちょうど燐がプール壁に手をついて荒い息を吐いているところだった。
悠の練習が始まる前に燐が持っていた本日の練習メニューから見ると、おそらく今は二コメ一〇〇本、二分一〇秒サークルをやっているところだろう。
サークルとは、一本をその秒数以内で泳ぎ、指定秒数後に次の一本を泳ぐことを言う。
つまりこの場合、泳ぎだして二分一〇秒後に次の一本を泳ぐことになる。
「くそっ、こんなんじゃ駄目だ!」
電光掲示板に映っているタイムは、二分一〇秒四八。
決して悪いタイムではない。
むしろ、ジュニアオリンピックで上位五位以内に十分入れるタイムだ。
しかし燐は悔しげにプール壁を叩き、己が力のなさを嘆く。
「……もう一回最初からだ」
今まで何本泳いだのかは知らないが、指定秒数をオーバーしてしまったことで再び一本目からやり直すようだ。
それがどれだけ苦しいことなのかは、体験した者にしか分からないだろう。
身体を水に沈めてスタートした燐を見つめながら、悠は呟く。
「どうしてあれほどまで……」
「祈りを捧げるように練習に打ち込むのか、かい?」
悠の独り言に、いつの間にか隣に来ていたアランが反応した。
「それは決まってるよ。彼がどんな願望を持っているのかは分からない。何が原因で水泳を始めたのかも。でも、彼はジュニアオリンピックに出た。《聖別》の弱い水を使ったプールで、“海”の恐怖を知っただろう。恐怖に心を折られてスイマーを諦める者たちが多い中、しかし彼は諦めず続けている。夢を叶えるため、水泳に打ち込んでいる。その姿は、祈りに似ている」
“海”の暴虐は、自分が一番良く知っていると悠は思った。
だからこそ、それを疑似体験してもなおあそこまで身を削って夢に邁進する燐を、悠は美しく思った。
泣きたいほどに。
「……先輩も、夢があるんですか?」
アランは優しげな光を携えて宙を見る。
「……ああ。きみと似たようなものだよ」
「それは?」
「大切な、人が居るんだ。愛している人が。彼女のために私は生まれ、彼女のために存在していると言っても過言ではない」
たしかにそれは自分と同じだ。悠は思う。
「私にとって水泳とは彼女に捧げる愛歌であり、同時に彼女の幸福のために世界を救う行為でもある」
自己紹介の時、アランは言った。
悠の願いは、世界を救う使命感がないと。
たしかにアランは自分と同じく愛する女のために水泳をしているが、しかし悠とは違い、水泳で世界に安寧をもたらし、愛する人を幸せにしようとしている。
――僕、は……。
「……僕も、強くなれるでしょうか」
自然と、涙が流れていた。
自分の無力さに、想いの弱さに、渇望の至らなさに、涙が止まらない。
「泳げるように、もっと速く、誰よりも。なることができるでしょうか……?」
アランは右腕で涙を拭う悠の頭を、優しくなでる。
まるで父親が試合に負けて悲しむ息子を慰めるように。
優しい表情で。
そして|自分に言い聞かせている(・・・・・・・・・・・)かのように。
「……なれるさ。良い夢じゃないか、大切な女と出会うために水泳をする。その夢を抱いている限り、諦めない限り。……世界は、その手の中だ」
†††
ベッドに横になりながら、思い浮かべるは愛しき彼女の姿。
「……、」
瞼の裏に鮮烈に焼き付いたその姿。
だけど彼女は、悠を見てくれない。
なぜか。それはなぜか。
「……世界を」
今までは彼女に会うことしか考えていなかった。
他のスイマーとは違って、この世界のことなんて何も考えていなかった。
彼女に笑顔を浮かべさせ、その笑顔を独り占めしたいと。
そのためならば、全てを捧げたって良いと。
でも。
そんな思いで水泳をやって、もしも某国のように国が滅びて世界に混乱が起これば。
彼女は笑えないのではないか。
穏やかな世界でこそ、彼女は笑顔になれるのではないか。
ならば、記憶の彼女が自分を見てくれないはずだ、と。
そう悠は思った。
……拳を、握りしめる。
強く。
強く。
明日からはもっと強くなろうと。
同い年であるのにあんなにも強く鮮烈に生きている燐や、同じ夢を抱きながら世界の舞台に立っているアランのように。
……彼女が、微笑んだような気がした。




