023.超越
「次は水野くんよ。制限タイムは二七秒〇〇。良いわね?」
「はい」
悠はスタート台に立つ。
空間を支配する静寂。
――大丈夫だ。
――僕なら、やれる……!
高鳴る心臓に息を荒くしながら、必死に心を落ち着かせる。
集中を高めていく。
そして。
紀の声が、響く。
「Take your marks……」
ピッ――!
反射的に駆動する悠の身体。
スタート台を、両足で、勢いよく蹴る。
空中でくの字になっているその体勢は、理想的なスタート。
アランや燐と比べるとやや多い飛沫を上げて悠の身体は水中へ潜る。
同時に聞こえる無数の怨嗟。
助けを求める、嘆きの声。
【痛彙】【助*(】
【G唖蛙+$#a悪】
【熱縊夷慰】
それを聞き流しながら、僅かに感じる彼女の気配に向かい、願い、請う。
(お願いだ……。僕に、力を……)
視界の端にいる彼女は、悠を向き、微笑んだように思う。
白光でできたその身体は、明るく、全身の輪郭しか僅かに感じることしかできないから、そう感じるだけではあるが。
その瞬間、悠の周囲を流れる水の声が聞こえてきた。
『こっちだよ♪』
『ほらほら、はやく!』
『もう少し小さく水を掻けば、もっといっぱい掻けるよ?』
便宜的に、彼らを《水の精霊》と悠は呼んでいる。
おそらくは周囲を流れる水の音や流れなどが言語化されて聞こえるよう脳内で変換されているのであって、眼前で踊る小さな妖精たちは幻覚だと思われるが、悠にとってそれはたしかに《水の精霊》だった。
彼らの言葉を受けてフォームを修正していく。
ゆっくりと、大きな泳ぎを心がける。
悠の幻視する《水の精霊》は、ただ水の流れを教えてくれるだけではない。
僅かにではあるが、悠を襲う水の抵抗を弱め、また悠に水の加護を与えている。
プール内の水の流れを、悠の泳ぎの加速になるようにしてくれている。
先ほど悠が見たアランの泳ぎでは、アランは水に愛されているのが分かった。
《水の精霊》が、圧倒的なまでの後押しをしていたから。
悠のそれとは明らかに違うほどの加護。
しかし悠は背中を後押しして貰っているのに比べ。
アランのそれは、完全な支配だった。
アランには《水の精霊》の声は届いていなかったように思う。
ただひたすら、アランは自身の力で《水の精霊》を支配し、自分の力としていた。
それは助力ではなく、支配。
どちらが良いと言うわけではない。
ただ、悠はまだ力が弱いと言うだけで。
「はあっ!」
水の加護を受けながら、悠は全力で水を掻く。
翔んでいく。
その上半身は、今、完全に水面に浮いていて。
五〇Mという身近な距離を、瞬く間に踏破した。
「タイムは?!」
燐の叫び。
「……」
天陣は中々声を発さない。
いや、発せないのか。
「先生!」
再度の燐の催促に、
「に……二六秒八六……」
抑えきれぬ高ぶりに、拳を握りしめた右腕を天に振り上げて。
歓声が、木霊した。
†††
「おめでとう」
深い暗がりの底で。
少女の声が響いた。
「高い高い壁を、乗り越えることができたね」
少女は本当に嬉しそうに。
椅子に腰掛けたまま、両腕を広げて。
「待ってるから」
宙の歪みに映った悠を見つめながら。
「あたしに会いに来てくれることを」
両手を組んで。
握りしめて。
祈るように。
「はやく、あたしに会いに来て……」




