021.恩寵
――そうして、時は流れ。
運命の時まで、残すところあと一日となっていた。
「二八秒二」
悠は荒い息を吐きながらアランの言葉を聞いた。
二八秒二。
それは、つい先日までカナヅチだったとは思えないほどの好タイム。
しかし、それでも。
目標タイムには一秒以上届いていなくて。
「こんなんじゃ……」
「厳しい、な」
もう今日しか時間は残されていないのに。
あと一秒と少しを、縮めなくてはならなくて。
「もう一度だ。最後まで諦めず行こう」
アランの言葉に頷いて。
悠は身体を水に沈める。
そしてひたすら泳ぎ続ける。
視界に映る、彼女の残滓を目指して。
すると。
向こうを向いていた、彼女が。
ふと、こちらに振り向いて――
†††
「ならば」
そこはどこか。
ひどく暗い場所。
一切の光源もなく、ひどく寒い場所。
そんなところに、ひとりの少女が居た。
「ならば、力を貸しましょう」
少女は天井の近くにある渦に映った悠の姿を見ながら。
「あなたが、望むのなら」
渦の向こうの悠に向けて。
右手を、伸ばして。
「名前を呼んで。あたしに願って」
祈るように。
求めるように。
その姿は、修道女に似て。
聖母にも似て――
「あたしの許に、きて……」
†††
――そうして。
運命の時がやってきた。
†††
土曜日。
学校のプールに、悠はいた。
紀が悠たちを見渡して言う。
「さて、それではタイムを計ります。まずはアランくん。次に如月くん。最後に、水野くん。如月くんは一〇〇MBr、他は五〇MFrでね。……じゃあアランくん、スタート台に立ちなさい」
「はい」
アランは落ち着いた歩みで。
第四コースの直前で立ち止まる。
その場で軽くジャンプをしながら四肢を震わせ、全身の筋肉を解して。
「……っし!」
ゴーグルをはめると、スタート台に立った。
「用意は良い?」
天陣の言葉に、
「はい」
「ではいくわよ。Take your marks……」
その瞬間アランは重心を前に移動させた。
両手の指先はスタート台に微かに付いている。
クラウチングスタートの体勢。
クラウチングスタートとは、片足の指先をスタート台の前縁にかけ、もう片足を後ろにして飛び込むスタートのやり方だ。
普通に両足を前縁にかけるやり方よりもフライングをしにくいというメリットがあるが、片足だけのためにスタートの飛距離が少しだけ減ってしまうというデメリットがある。
まるで東京の片隅で行われる水泳の大会のような緊張感が漂う。
すべての音が消え去る。
瞬間、
ピッ――!
天陣が強く笛を鳴らした。
刹那、アランは重心を前へ前へと滑らかに移動させながら、左足の指先でスタート台を蹴った。
空中を浮遊するアラン。
その身体はくの字になっている。
理想的なスタート。
スタートを知らせる笛から刹那よりもなお短い時間でのスタート。
フライングギリギリの超絶技巧。
そして、入水時の水の抵抗を極限まで抑え、潜水後のドルフィンキックにその勢いをそのまま活かす、神業的なスタート。
一切の水しぶきを出さず入水したアランは、そのまま水中でドルフィンキックを行う。
一回。
二回。
三回。
そのどれもが、上半身と下半身のバランスが完璧に保たれている。
練習中、悠が終ぞ再現することのできなかったキック。
一〇Mほどにまで進むと、その身体が水面に出てきた。
S字で水を掻く。
水の抵抗は一切感じさせない。
その上半身は完全に水面から浮いている。
腰すらも。
泳ぐ、と言う表現は、今のアランにはふさわしくない。
跳ねる。……これも駄目だ。
飛翔する。……陳腐だが、これが最も合っている。
アランは光の如く空気も水も切り裂いて飛翔する。
人間には不可能なほどの速度。
あたかも陸上を疾走しているかのような。
――人は、ここまで速くなれるのか……。
感動に打ち震える悠の眼前で、アランは泳ぎ続ける。
そんなアランを追って、紀はプールサイドを走り続ける。
右手にタイムウォッチを持って。
五〇Mなど、アランの前では一瞬で。
「……タイムは?!」
燐の言葉に、紀は応える。
途切れ途切れに、震わせながら。
「じゅ、一七秒八一……」
異常なタイムだった。
こんな記録、アランにしか成し遂げられない。
アランは世界中のオリンピック選手たちの中でも圧倒的な才能とその実力を遺憾なく見せつけ続けている。
アラン以外の選手たちの中で最も速いのが、セザール・ルエロフィリョ。
ブラジル人スイマーだ。
彼が二〇〇九年、サンパウロで行われた大会で樹立した記録は二〇秒九一。
それが最速。
アラン以外にとっては。
アランが持つ五〇Mの記録は一八秒〇二。
他のスイマーたちを一切寄せ付けない、圧倒的な世界記録だ。
今、それを越える、新たな世界記録が樹立された。
「すげぇ……」
呆然と燐が呟く。
悠に至っては、口を開けたまま固まっている。
今の悠には視えるから。
アランがどれだけ水に愛されているのかを。
――これが、世界最速。
――これが、アラン・C・ディーパー。
並ぶものなき至高のスイマー。
世界の寵愛を一身に受ける、アランの泳ぎだった。




