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003.トラウマ

 アランは更衣室に戻ると、ロッカーからスマートフォンを取り出して電話を掛けた。

 掛ける相手はもちろん、一人しか居ない。


 長いコール音。

 もしかしたらまだ飛行機の中だったのかと思いはじめたとき、ようやく相手に繋がった。


『はい、天陣です』


 低く落ち着いた声。

 声域で言うならアルトか。


 声が低いのは声質からだけではない。

 電話の向こうから聞こえる英語の空港アナウンスから、外出先故に声を細めているのだと分かる。


(かなめ)先生。アランです」

「あら、どうしたのかしら」

「今日新入生が二人入部しまして。先生のことを紹介できる日はいつなのかな、と」


 紀は少し待ってねと言い、しばらく無言。

 かすかに紙をめくる音が聞こえることから、スケジュール帳を見ているのだろう。


「お待たせ。……そうね、二日後には部活に顔を出せるわ」

「わかりました。それではお待ちしております」

「ええ。……それにしても、未だに慣れないわね。アランくんに先生って呼ばれるのは」

「もう二年も経っているんですよ? いい加減慣れて下さいよ」


 紀は苦笑し、


「はいはい。それじゃあ、もう切るわね」

「はい。それでは」


†††


「さあ水野、プールに入れ。」


 燐はプールサイドに立ち、そう言った。


「カナヅチにも度合いがあるからな。どのくらい泳げないのか確認するから、泳いでみろ」


 泳ぐ――その言葉に悠の身体は震えた。

“海”に沈んだあのときの感覚が、フラッシュバックする。

 喉がカラカラに渇き、唾を飲み込めず空気だけを取り込んだような音が、ごきゅりと鳴り響く。


 まるで、氷の世界に迷い込んだようだ。

 息は荒くなり、震えが止まらない。

 視界が歪む。

 涙を流しているかのように。

 ……恐怖に、震える。


 そんな悠に、しかし燐は甘えを赦さない。

 水泳は常に死と隣り合わせなのだから。

 あらゆる恐怖を呑み込まなければ、待つのは発狂死だ。

 だから、燐のこのきつい言葉は一種の優しさであった。


「さあ、早くしろ。たしかにお前は“海”で死にかけたんだから、水に恐怖するのは当然だ。だけど、お前はスイマーになるんじゃなかったのか? お前の想いは、その程度だったのか?」

「……っ、」


 ――そんなもんじゃない。

 ――そんなもんじゃない。

 ――かならず、彼女を手に入れるんだ。あの、美しい笑顔を。

 ――だから……。


「……は、ぁ……ッ!」


 右足の爪先が、水面に触れる。

 波紋が広がっていく。

 それと同時に、身体の震えも。


 ……目を、閉じる。


 あの日に見た世界とは違い、人工的な白光に照らし出された瞼の裏のピンク色が微かに見える、黒色。


 脳裏に未だ鮮烈に残されている彼女の姿が、こちらを見ている。

 水を介して彼女の姿を見ることは決して叶っていないが、あの日見た美しいその姿は、燐の瞼の裏に焼き付いて離れないから。

 かつての彼女の姿を、幻視する。


「ふ、は……っ」


 彼女までの距離の、なんと遠いことか。

 手を伸ばしても、触れることなどできない。


 泳げるようになれば。

 ……そして、オリンピックに出場できれば。

 きっと彼女を視ることができる。

 触れられる。

 抱きしめることもできる。


「は、……っ!」


 息を大きく吸い込む。


 震えは未だ続いているが、覚悟は決まった。


 ……一歩、踏み出す。


 同時に一瞬だけの落下の感覚。

 次いで全身に少しだけ冷たい水の感触。


「う、ぁ……っ」


 足は着く。

 足は着く。

 だけど、幻覚が消えない。

 プールの底から無数の腕が足を掴み、引きづり込んでいく幻覚が。

 完璧に《聖別》の施されたこの水では、恐怖を幻視させる力はないはずなのに。

 トラウマが、視認させている。


 プールサイドを手で掴み、必死に自己暗示をかける。


 ――死なない。

 ――死ぬはずがない。

 ――足が着くのに、なるはずないんだ……!


「落ち着け」


 頭に軽い衝撃。

 目を開けると、それは燐が頭を優しく叩いているのが見えた。


「俺も一緒に入る。だから、落ち着いて、ゆっくりと泳いでみろ。そうだな、Frで」


 言うが早いか、燐はプールに飛び込んだ。

 ざばんという大きな音と共に、多量の飛沫が舞う。


 水面から上半身を出した燐は、目を閉じたまま頭を激しく振って水を飛ばす。

 そして優に向いたまま、ゆっくりと後ろ歩きで向こう側へと歩き出した。


 右手が、こちらに向けられる。


「さあ、泳いでこい。ゆっくりと、落ち着いて」


 左足を底に。

 右足をプール壁に。

 両手で外に水を掻き、そして内側に引き寄せながら。


 覚悟を決めて。


 水に顔を突っ込み、左足をプール壁に。

 勢いよく蹴……ることはできなかった。


「……ッッ!!」


 左足が底から離れた瞬間。

 悠の身体は無防備に水に身を任せることしかできなくて。

 その隙に水に身体を絡め取られて、我を忘れた。


「……、……!」


 何もわからない。

 思考が白く染まっていく。

 ただただ、死への恐怖しか感じられなくて。


 ――殺される。

 ――殺される。

 ――今、ここで。殺される。


「足が着く! お前は死なない!」


 じたばたと手足を水中で振り回す悠。

 その姿は駄々をこねる幼子のようで。

 そんな悠の身体を、燐は力一杯掴み、水面から顔を出させた。


「はあっ、はあっ、はあっ……!」


 息を吸える。

 自分は死なない。

 そのことに、涙が溢れてきて。


「……ここまで酷いのか。まずは水に慣れさせるしかないな」


 燐の溜息は重かった。


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