XXX.断章Ⅲ-Ⅰ
二〇一四年。
八月。
東京、辰巳。
今日、ここで、ジュニアオリンピック夏季大会が、開催される。
†††
「それじゃあ、行ってくるよ」
燐は紫苑に向かって宣言した。
その右手は勇壮なまでにかかげられていて。
勝ってくる――そう言葉にせず宣言して。
「うん。燐なら必ず優勝できるって信じているよ」
「ありがとう」
「うん。……それにしても、ずいぶんと引き離されたなあ、燐と」
どこか遠くを見ながら、紫苑は言った。
「まあ、でも俺は紫苑ならすぐ追いついてくるって信じてるよ」
そう。
幼かったあの頃、燐と紫苑はふたりで水泳を始めると誓い合った。
世界を守るために、水泳をやろうと。
燐はその約束通り、スイマーとして輝かしいまでに成長し。
だけど、紫苑はスタート地点から動けていなかった。
……カナヅチだったのだ。
あの時に見たテレビの映像が、トラウマになって。
どうしても、水に触れると自身の死を、世界の終焉を、強烈に思い出してしまって。
だから紫苑はいまだに泳げていない。
だけど、泳ぐことをあきらめてはいない。
今日も、燐の応援ではなく、燐に追いつくために。
泳ぎに、行くのだ。
「待たせはしないよ」
†††
『一〇〇Mバタフライの招集を行います。出場選手はお集まりください』
出場選手控室に、スピーカーから招集がかかった。
各クラブごとに割り当てられたブルーシートの上で、目蓋をとじて気を落ち着かせていた燐は、その言葉にかっと目を開いた。
「出番だな、燐。頑張れよ」
髪を短く借り上げた精悍な男性が、燐の方を強くたたいた。
燐のコーチだ。
燐は強くうなずく。
「はい。優勝してきます」
「よく言った! 準備はどうだ?」
「完璧です。過去最高のコンディションです」
「よっしゃ! 行ってこい!」
「はい!」
その言葉とともに、燐は勢いよく歩き出した。
集合場所には、すでに九名のスイマーが集まっていた。
スイマーたちを見つめている、ジャージを着たメガネの男性が、燐を見て言った。
「きみはリトマンスイミングスクール南校所属の如月燐くんでいいかな」
「はい」
「うん。じゃあこれで全員そろったね」
男性は出場者リストを片手に言う。
「では、今から名前を呼んでいきますので、順番に並んでください。まずA面。第六レーン、水無月沙耶さん」
「はい」
水無月は男性の前、左から詰めて並んだ。
「第五レーン、清水美穂さん」
「はい」
水無月の右隣に清水が並ぶ。
「第四レーン、保坂保奈美さん」
「はい」
「第三レーン、菊池愛花さん」
「はい」
「第二レーン、阿部亜紀さん」
「はい」
男性は出場者リストにチェックをした。
そして、続きのメンバーを呼び始める。
「それでは続いて、B面。第六レーン、伊藤直之くん」
「はい」
A面メンバーの後ろ、左から詰めて伊藤が並ぶ。
「第五レーン、侍繕円くん」
「はい」
「第四レーン、如月燐くん」
「はい」
どくどくと高鳴る鼓動を感じながら、燐は列に並んだ。
落ち着け、とばかりに左手で心臓の位置に手を当てる。
「第三レーン、庄司正樹くん」
「はい」
「第二レーン、南博之くん」
「はい」
「以上。出番になったらアナウンスされますので、順番にお願いします」
スイマーたちは一様にうなずく。
そしてみなその時を待ち続けた。
†††
『A面! 女子一一・一二歳、一〇〇Mバタフライ! 決勝! 選手の入場です!』
そのアナウンスに、みな一様に顔つきを変えた。
『第六レーン、水無月沙耶さん。リトマンスイミングスクール西校』
清水がプールサイドへと一歩踏み出した。
……もう、間もなくだ。
燐は目を閉じて、その時を待つ。
その間も選手たちの名前が呼ばれ続ける。
……そして。
『B面! 男子一一・一二歳、一〇〇Mバタフライ! 決勝! 選手の入場です!』
ついにこの時が来た。
『第六レーン、伊藤直之くん。リトマンスイミングスクール東校』
伊藤がプールサイドへと向かう。
『第五レーン、侍繕円くん。東京スイミングクラブ』
侍繕は緊張をほぐすためか、大きく一回ジャンプして。
それからプールサイドへ向かった。
(……次だ)
『第四レーン、如月燐くん。リトマンスイミングスクール南校』
その言葉に、燐は一歩踏み出し、プールサイドへと足を踏み入れた。
選手入場口のすぐ前に設置されているテレビ用カメラに、軽く一礼する。
それと同時に、仲間達からの熱い声援が響き渡った。
「燐---! 負けるなよ!」
観客席を見ると、コーチやリトマンの仲間たち、そしてその家族たちが身を乗り出して叫んでいた。
その期待に、わずかに苦笑。
そして、勇壮なまでに右手を掲げて答えた。
「うおおおおー! 燐ー!」
今度は、なにも返さずに。
自分のコースへと歩みを進める。
『第三レーン、庄司正樹くん。リトマンスイミングスクール東校』
燐は指定の椅子に座ることなく、荷物入れにセームを入れて。
ジャージを脱いで、同じく荷物入れに入れる。
『第二レーン、南博之くん。東京スイミングクラブ』
最後の選手の、アナウンスを聞きながら。
(……紫苑……)
燐は目蓋を閉じた。
(絶対に、吉報を持って帰るからな……)
ふう、と大きく深呼吸して。
かっと目を見開く。
『以上五名により、男子一一・一二歳、一〇〇Mバタフライ、決勝競技が行われます』
戦闘準備を整えるために、軽くジャンプしながら四肢を揺らす。
全身の筋肉をほぐす。
そして手首を、肩を、首を、足首を回し、コンディションを整える。
最後に、キャップの位置を調整して、ゴーグルをつけたところで。
ついに、その瞬間が来た。
――ピッ。
――ピッ。
――ピッ。
――ピッ。
――……ピー。
小さく四回。
一瞬の間をおいて、長く一回。
それは出場者へ準備を促す笛だった。
燐は黄色いバックプレート付きのスタート台に上がる。
そして、上半身を折り曲げて、体勢を作った。
しんっ、と場内が静まり返る。
『Take your marks……』
――ピッ!
燐は勢いよく飛び出した。
それは、過去最高のスタートだった。
笛が鳴った刹那、フライングぎりぎりの超絶技巧。
まったく水しぶきをあげないで身体が水面を通過した。
そして一瞬の後に、燐に襲い掛かる声。
声。
声。
声。
悲鳴。
絶叫。
精神崩壊してもおかしくないほどの情報の奔流。
それが幻覚であるとわかっていても、現実に痛みさえ感じる。
だけど、耐えられないわけじゃない。
今この瞬間、こんなものに、負けていられない……!
一回。
二回。
三回。
大きなドルフィンキック。
およそ一〇メートルほど潜水し、水面にあがった。
この会場、東京辰巳国際水泳場は五〇メートルプールだ。
よって、この試合は一往復することになる。
この長さを、燐は、気圧されることなく。
優雅なまでに大きく泳いだ。
否、飛翔した。
上半身は完全に水面から浮き上がっており、風を切る肌寒さを感じている。
二ストローク一ブレスで。
翔ぶ。
翔ぶ。
翔ぶ。
折り返しで勢いよくターン。
水の中、くぐもったアナウンスが響く。
『A面、五〇Mにおいての途中時間。第五レーン、清水美穂さん。三四秒二二。三四秒二二』
ドルフィンキックをしながら、頭の位置は動かさずに目だけを動かして周囲を見る。
今、燐は二位。
一位は第五レーン、侍繕。
だけどその差はほんのわずか。
時間にして、コンマ〇二秒ほどだろうか。
『B面、五〇Mにおいての途中時間。第五レーン、侍繕円くん。三二秒五四。三二秒五四』
負けない。
負けられない。
燐は速度を上げる。
少し早いが、スパートをかけ出す。
最後まで持つかわからない……否、絶対に持たせて見せる!
その気合に後押しされたのか、燐はぐんぐんと進んでいく。
そして折り返し二五メートルほどの場所で、ついに侍繕を追い越した。
だがまだだ。
いつ追い抜かれるかわからない。
速度を維持して、走り続ける。
心臓が痛いほど大きく鼓動している。
だけどそれを強靭な精神で抑え込む。
この速度を維持したまま、燐は走り続ける。
残り一〇メートル。
まだ抜かれていない。
このまま逃げ切れる!
残り八メートル。
背後から侍繕が猛烈に追いすがってきているのが感じられる。
だけど、まだ差はある。
このまま勝てる……。
残り七メートル。
六メートル。
五メートル。
(……えっ?)
このタイミングで、なぜか、嫌な予感が燐に襲い掛かった。
なにか、大切なものがこの手のひらからこぼれ落ちたかのような。
大切な何かを、永遠に喪ってしまったかのような。
一瞬、身体が硬直した。
それが致命的だった。
壁にタッチした燐は、破裂しそうな心臓を手で押さえながら、大きく一回深呼吸。
そして、全員がゴールしたことを確認して、第五レーンとを隔てるレーンに両腕を絡ませ、電光掲示板に目を向けた。
「……えっ」
おかしい。
見間違えなのではないか。
だって、さっきまで……。
その瞬間、場内に軽快な音楽が流れだした。
次いで、アナウンスが響き渡った。
『新記録が誕生しました! ただいま、第五レーンを泳ぎました、侍繕円くん、東京スイミングクラブは、五七秒九八と、今大会新記録を樹立しました!』
万雷の拍手が侍繕へ贈られる。
それを受けて、大きくガッツポーズで喜びを表す侍繕を横目に。
燐は再度、電光掲示板を見た。
「えっ?」
何度見ても結果は変わらない。
第一位:第五レーン、侍繕円(東京スイミングクラブ)、五七秒九八
第二位:第四レーン、如月燐(リトマンスイミングスクール南校)、五七秒九九
「あっ……?」
先ほどの一瞬の硬直が、すべての終わりだった。
あのタイミングで固まらなければ、燐は確実に一位だった。
それも、大会新記録を樹立していた。
にもかかわらず、硬直してしまって。
……負けた。
燐は理解できなかった。
何も考えることができなかった。
レーンにもたれかかりながら固まっている燐へ、第五レーンの侍繕が近寄り、握手を求めてきたことに無意識のまま応じ。
そしてそのまま熱く抱き合うことも、無意識のまま。
……こうして、燐のジュニアオリンピックは終わった。
†††
無意識のまま、時間は過ぎて。
表彰が進む。
『ただいまより、一〇〇メートルバタフライの表彰を行います。メダル、並びに賞状は、公益財団法人・日本水泳連盟、常務理事・安富貞夫より贈られます』
どうして、こんなことになってしまったのか。
紫苑へと優勝を誓っていたのに。
燐は混乱にめまいがしていた。
吐き気すら感じていた。
『女子の表彰を終わります。続いて、男子の表彰を行います』
あのときに、余計なことを考えず集中できていれば。
無心で泳げていれば。
たらればが、燐の頭の中を回り続ける。
『男子、一一・一二歳、一〇〇メートルバタフライ。第三位、南博之くん。東京スイミングクラブ』
燐の横で、南が表彰台に上がった。
それでも固まっている燐に、隣に立つ侍繕が背中を叩いた。
その衝撃に、はっと燐は気づいた。
『第二位、如月燐くん。リトマンスイミングスクール南校』
燐は頭を下げて一礼した。
その首元に、安富が銀メダルをかける。
頭をあげると、安富と力強く握手して。
「おめでとう」
その小さな安富の声に、これが現実なのだと認識し。
安富から賞状が手渡される。
「……」
茫然自失、とはこういうことを言うのだろう。
隣で侍繕が金メダルを贈られているのを横目に、あらゆる後悔が襲って。
しかし、すべては表彰が終わってからだ。
今は、笑顔でいなければならない。
燐は他二名と共に、表彰台の上で、メダルと賞状を掲げる。
そして笑顔で、カメラのフラッシュに包まれた。
†††
コーチや仲間たちは、みな祝福の言葉を燐に贈った。
日本で二位のスイマーであると名実ともに認められた――これがどれだけの栄誉なのか、知っていたから。
だけどそれに反応することもできない。
これほどまでに自分を嫌悪したことはなかった。
コンマ〇一秒……爪の先よりもわずかな時間を、予感なんていう馬鹿げたことで、喪ってしまって。
時間は戻らない。
ただただ、負けたことが事実として在り続ける。
(紫苑に、なんて伝えればいいんだ……)
ひとりになりたいからと言って仲間たちと別れて、辰巳駅まで歩きながら、燐は考え続ける。
だけど、どれほどに悩んでも、事実は変わらない。
負けたことを伝えるしかない。
指先を震わせながらも、スマートフォンを取り出した。
そして電源ボタンを押してスリープ状態を解除すると、紫苑の家から着信が来ていることに気づいた。
嫌な予感が、燐を襲った。
あのとき、決勝中に燐を硬直されたものと、同質のもので。
「……」
すぐに折り返した。
接続中の音が、ひどく長く感じた。
「……もしもし、燐ちゃん?」
紫苑の母の声。
ひどく低い声。
「はい。着信があったようなので折り返しました。どうかしましたか?」
「死んだの」
「え?」
ぽつり、とつぶやかれたその言葉に、何を言われたのか理解できず、燐は戸惑いの言葉を返した。
再度、紫苑の母が言葉をかける。
今度は、先ほどよりも強い声で。
怒りをにじませた、声で。
「死んだのよ。紫苑が。プールの帰りに」
「は? ……え、あ?」
意味が分からない。
死んだ?
なんで?
ひどく混乱している燐へ、紫苑の母は言う。
「あの子の最後の遺言、あなた宛てのを頼まれているの。伝えたいから、家まで来てくれるかしら」
ちゃんと答えられたのか、わからない。
ただただ、ひどく強い焦燥感に駆られて、燐は紫苑の家へと急いだ。
†††
紫苑の家で、燐は紫苑の母と向かい合っていた。
泣きはらしたのだろう、その目は赤く充血しており、腫れていた。
「あの子、プールの帰りに、事故に合ったそうよ」
「……」
「居眠り運転だったんですって。でも、事故のあった現場、信号から横断歩道までかなり距離があるところだったから、他の人たちは無事に逃げ切れたんですって。でも、あの子は逃げ遅れたそうよ」
なんで。
逃げ遅れたって……。
どれだけ考えても、燐には答えは出ない。
「疲れてたんでしょうね。それはそうよ、カナヅチなのに、泳げるように必死に水泳をやっていたんだから。目撃者の話だと、足が震えていて、走れず転んで、逃げ切れなかったそうよ。恐怖もあったんでしょうけど、水泳が原因だって私は思うの」
そこで言葉を切って、紫苑の母は燐をにらみつけた。
机の上に置かれた手は固く握りしめられていて、爪が皮膚に突き刺さって血が漏れている。
「……あなたがいけないのよ。なんであの子を水泳に誘ったの。やりたいなら自分ひとりでやればいいじゃない。あなたが殺したようなものよ、あの子を。……人殺し」
その刃は燐を容易く貫いた。
そうだ。なんで紫苑を誘ったのか。
いや、誘っただけだったらまだいい。
その後、紫苑がカナヅチであるとわかった後に、どうして自分一人で水泳をやるといわなかったんだ。
たしかに、紫苑を殺したのは、愚かな自分であると、理解できて。
「う、あ……」
「あの子の、最後の遺言はね」
涙を流しながら震える燐に、紫苑の母は一切の遠慮もなく話を続ける。
いや、そんなことを考える余裕もないのだろう。
「任せたって。水泳で世界を守ることを。それと、約束を守れなくてごめんって……あんなに苦しそうにしながら、家族へではなく……あなたへ、言葉を残して……」
そこで耐えきれなくなったのか、紫苑の母は泣き出した。
枯れることのない涙を。
「……あ」
大切な友を喪った喪失感。
自分が殺してしまったという事実。
最後に残された、友の言葉。
そのすべてが、燐を苛んで。
「ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
壊れたようにつぶやきながら。
狂ったかのように、首を、頸動脈の位置を、爪を立てて掻きむしり続けていた。




