Chapter9
サトルは真っ暗な闇の中をゆっくりと、まっさかさまに落ちていく。
はるか下の方に見えるのは、なぜかおばあちゃんの部屋だった。
おばあちゃんは仏壇の前に座っている。
小さいころから、記憶にある情景だ。
おばあちゃんは、一日に何度も仏壇に向かっていた。
何をしてるの?とサトルがたずねると、亡くなった人とお話をしているのよ、とおばあちゃんは笑顔でそう言った。
死んじゃった人とどうやってお話が出来るの、とサトルが聞くと、さあ、どうやってかねえ、こちらが勝手に話しかけているだけかもしれないねえ、とおばあちゃんは小さくため息をついてたっけ。
おばあちゃんにとって、仏壇は窓みたいだった。あちらの世界とこちらの世界を結ぶ窓。
窓の中と外を心で行き来しながら、おばあちゃんはいつも何を考えていたんだろう。
「カヨは、お前のことが本当に大事なんだな」
いきなり耳元で声がして、落下するサトルの体がふわっと浮かんだ。
あの少年がサトルの背後にいて、わきから手を入れて支えていた。
「お前、本当にトシ坊なのか?」
サトルは少年にたずねた。違う、というように少年はかぶりを振った。
「トシ坊でなかったら、お父さんの弟なのかい」
サトルは少し緊張してたずねた。
少年は再び首を横に振った。そして、片方の小さい腕をまっすぐ伸ばして、暗闇の彼方を指さした。
サトルがその方向を見ると、ほんのりと薄明かりの差す一角に何人もの子供達が楽しげに遊んでいるのが見えた。
その中に交じって、深緑色のぼやっとしたいくつかの影が見えた。それらは子供と同じぐらいの背丈だが、手足や胴体が細く長い。顔はぼやけて、よく見えなかった。
「エンコウ。カッパとも言う。水で死んだ子供達は、あいつらがちゃんと面倒を見ている。おれは仲間に入れないけどな」
子供達は、年齢も性別もばらばらだったが、みんな仲良く、それでいてそれぞれ思い思いに遊んでいる。
高い岩から飛び込む子、水中でいつまでも遊びまわる子、水の上を走っている子さえいた。
水の中ででんぐり返しをしたり、逆立ちをしたり、普通の子供なら絶対にできないようなことを平気でやっている。
そしてそばにいるエンコウと少年が言っていた不思議な生き物たちが、彼らを助けて楽しませてやっていた。
水の中でいつまでも平気でいるのは、きっと息もできるからなのだろう。
呼吸そのものがもう彼らには必要ないのかもしれなかった。
それがいかにも面白そうで、見ていると自分にもできそうな気がして、いつの間にかサトルもそちらへ身を乗り出していた。
「おまえは行くな」
少年が鋭い声を上げたので、サトルはびくっとして振り返った。
「カヨがお前のために戻ると決めたなら、しかたない。おれはまた、一人になっちまうけれど」
少年はそう言って、まっすぐサトルの眼を見つめた。
少年の目はそれまで見たことのない、深い何かをたたえてきらきらしていた。
とても自分より年下の子供には見えない。サトルは不意に怖ろしくなって身震いした。
二人はおばあちゃんの部屋を見渡せる小さな窓の傍らに向かい合って立っていた。
あたりは足元も見えない真っ暗な闇で、おばあちゃんの部屋から漏れてくるぼうっとした薄暗い光でようやくお互いの姿を見ることができた。
小さな窓を覗くと、おばあちゃんの姿がよく見える。おばあちゃんは新聞を読みながら、うとうとしている。
どうやらこの窓は仏壇の開いた扉らしい、とサトルは気がついた。
少年の顔はどこかさびしげで、黒い瞳の中でゆらゆら揺れる光は、川面の日の光に似てはかなく頼りなかった。
少年の目を見つめていると、サトルは自分がどこにいるのか、そもそも自分が誰なのかさえ忘れてしまいそうだった。
そこにいるのは、どこかの誰かではなく、命もなく、ただそこにある、時の流れからはずれた、サトルにはとてもたちうちのできない、得体のしれない何かのようだった。
「おれはおれ、ずっと昔からこの辺にいる。長いあいだ一人ぼっちだったおれを、カヨが見つけてくれた。やっとおれはおれの姿を取り戻した。もう一人になるのは嫌だから、カヨを連れて行こうと思ったのに・・・」
少年の目が一瞬あやしく光り、サトルはぞっとしてたじろいだ。
おばあちゃんをカヨ、と名前で呼ぶこいつとおばあちゃんの間にあった、目に見えない絆のようなものが切れてしまったのだ。
きっかけになったのは、サトルが見つけたあの写真。
ふと、サトルは二人の間に無理やり割り込んでしまったような罪悪感にとらわれた。
「また来ればいいよ。いつでも、ぼくらのところへ」
ぎこちなくそう言いながら、サトルは、こんな言葉は気休めにすぎない、と思った。
少年はきっと、もう姿を見せないだろう。理由はわからないが、サトルはそう思った。
少年はサトルの心を見抜いたように、口の端でちょっと笑って言った。
「気が向いたらな」
その言葉を合図のように、霧のような淡い無数の泡が少年を包んで、消し去った。そして、サトルは泡に包まれて高く高く飛翔していった。
サトルが目をあけると、お父さんとお母さんが自分をのぞき込む顔がずいぶん近くに見えた。
「ああよかった、気がついた」
お母さんが涙声で言った。
どこかの病院だろうか、のりのきいたパジャマを着て、白いシーツの中にサトルは寝かされていた。
「心配かけやがって」
お父さんの声もしゃがれていた。
「あの崖は雨が降ると危ないんだ。お母さんから聞いただろう」
「ジーパンはいてなかったら全然平気だったんだけど」
「ばかやろう!」
お父さんが低い声で怒鳴ると、あたりの空気が張り詰めた。
「全然平気、なんて言うな。事故にあうまではだれだってそう思う。絶対大丈夫、危なくなんてないってな」
「ごめんなさい」
サトルは素直にあやまった。そして、
「おばあちゃんは?」
とたずねた。
「おばあちゃんが大声を上げて、サトルが川に落ちたってあちこち走り回って知らせてくれたのよ。場所までちゃんとしっかり教えて、助けを頼んだんだって」
サトルは信じられなかった。あのおばあちゃんに、そんなことが出来たんだろうか。
「警察と救急の人が駆けつけたら、あなたは川岸に倒れていたって。服を着たまま飛び込んで、よく泳ぎ着いたわねえ。水かさも結構あったのに・・・」
ぼくだけの力じゃない、とサトルは思った。
「それでおばあちゃんは今、どこ?」
「サトルが無事に見つかったって聞いたとたん座り込んじゃってそれっきりただ泣くばかりで、とりあえず病院に連れて行ったらひざと腰を痛めてて、しばらく入院だって。この病院の整形外科の病棟にいるわ。十日ぐらい入院するそうよ」
サトルは川での出来事を思い出した。あの時、少年の傍らには確かに女の子がいた。背中の曲がった手足の細い、眼の大きな女の子が。
夢の中の少年の声が頭に浮かんだ。
(カヨがお前のために戻ると決めたなら、しかたない)
おばあちゃんはずっと、いくつもの自分を抱え込んで生きていたのかもしれない。小さい時の、お父さんが子供のころの、そしてサトルのおばあちゃんになってからの。
おじいちゃんが亡くなって、すっかり一人になってしまった時、おばあちゃんはそんないくつもの自分を抱えきれなくなってしまったのだろうか。
おばあちゃんがいちばん大切に抱えていて、忘れられなかったのは、きっとあの小さい女の子の自分だったんだ。そしてそれがなぜなのか、サトルには何となくわかる気がした。
「意識が戻ったって、おばあちゃんに知らせてくる」
お母さんは子供のように笑って、くるっと背を向けて病室を出て行った。
サトルは念のため一晩病院に泊まって、次の朝家に戻った。
家に戻る前、同じ病院の整形外科の病棟におばあちゃんを訪ねた。
カーテンで仕切られた六人部屋で、おばあちゃんは横になっていたが元気そうで、隣のベッドの人と楽しげに話をしていた。
気配を感じて振り返ったおばあちゃんは、サトルを見るとにっこり笑った。
「おや、わざわざお見舞いに来てくれたのかい」
「お孫さん?よく似てらっしゃるわね」
隣のベッドの人にそう言われると、おばあちゃんはにこにこして
「息子のヒデトシです」
とうなづいた。
まだそれほど歳のいっていないその人は怪訝そうな顔をしてサトルを見た。
「孫です」
すかさずサトルはそう言って軽く会釈をした。お父さんに間違えられるぐらい、なんでもない。
「おばあちゃんが走って知らせてくれたんだってね。ありがとう、おばあちゃん」
サトルが言うと、おばあちゃんは眉間にしわを寄せてかぶりを振った。
「何だか全然覚えていなくてねぇ、なんでこんなところにいるんだか、家に帰りたくてもあちこち痛くてよく動けないのよ」
サトルは昨日の少年と少女を思い浮かべた。
「おばあちゃん、もしかして子供に戻って誰かと遊んでいたんじゃない」
するとおばあちゃんはほっほと笑った。
「だったらいいねぇ、好きな時にいつでも子供に戻れたら、どんなに幸せだろうか」
ほんとにそうねぇ、と隣のベッドのおばさんも一緒になって笑った。
夢の中の少年のさびしげな瞳がサトルの頭をよぎり、おばあちゃんに何か言いたいような気がしたが、何も言葉が出てこなかった。




