Chapter6
サトルはそれっきり、おばあちゃんの部屋に行くことはなかった。
シマダさんが届けてくれた昼ごはんは、おばあちゃんの分はテーブルに置いて、自分のは二階の部屋に持って上がって一人で食べた。
もうすっかり隅々まで読んでしまった本を読み返したり、遊び飽きたゲームソフトを最初から全部クリアするまで没頭してやった。
それでも心は上の空で、おばあちゃんの話がいつまでも頭の中をぐるぐるまわった。
あの時、おばあちゃんに何か言いたくて、サトルは言葉を探した。
けれども、頭が混乱して、何も言えなかった。
おばあちゃんのしたことは、ふつうに考えたら、恐ろしいことだ。でも、サトルにはおばあちゃんをせめることはできなかった。
サトルは戦争なんて知らないし、生まれてから今まで、おばあちゃんのような経験をしたことがない。
かといって、しょうがなかったんだよ、気にすることなんてないよ、と気軽に言うこともできなかった。友だちがちょっと先生に叱られた時に慰めるような言葉を口にするには、おばあちゃんの話は大きすぎて、重すぎた。
サトルが思うのは、その時のおばあちゃんがかわいそうだった、ということぐらいだった。そしてそれをあの時口にすることができなかった自分が後ろめたかった。
雨音が少し強くなった。
見てもいないのに、目をつぶると、小学校一年生ぐらいのおばあちゃんと、会ったこともないひいおばあちゃん、トシ坊や小さな背中におぶわれた赤ちゃんの姿が見えてくるような気がした。
カヨはずっと座って部屋の畳のへりを見つめていた。
ワラシが声をかけても、聞こえないようだった。
ワラシの目の前で、何度もおばあさんと少女の姿が入れ替わった。
ワラシにはもうカヨがサトルのおばあちゃんだということはわかっていたが、あの愛らしいカヨを、ワラシはあきらめきれなかった。
少女の姿のときにも、カヨはもうワラシには気がつかないようだった。
あの時、サトルが一枚の写真を見せてから、何かがカヨの中で変わってしまった。
いや、変わったのでなく、それまでどこかにしまっていた、思い出さなくてもいいものが、再びカヨをとらえてしまった。
(いやだ!)
ワラシは強く思った。もう、一人ぼっちに戻るのは嫌だ。
カヨを失ったら、もう二度と自分に気づいてくれる子供には出会えないだろう。そうしたら自分はこれから一人でいつまで時を過ごせばいいのか。あきらめて、再び永い眠りにつくまで。
ワラシの中に一つの考えが浮かんだ。
ここから離れた、どこか遠くへカヨを連れて行こう。余計なことは考えず、自分と一緒にいつまでも子供のままでいられるように。
夜になって、お父さんとお母さんが一緒に帰ってきた。
おじいさんは、とりあえず少し元気になったそうだ。お母さんはお隣のシマダさんとサトルにどっさりおみやげを買ってきていた。
二日間、サトルとおばあちゃんが二人だけだったことをお父さんから聞いて、お母さんはずいぶん心配していた。
おばあちゃんは話しかけても答えず、呼んでも食卓にやってこなかった。
お父さんとお母さんは心配そうに顔を見合わせた。
「おばあちゃんはごはんちゃんと食べてた?」
「まあ、だいたい。少し残したけど」
「ちゃんとシマダさんにお礼言った?」
「うん」
「何か困ったことなかった?」
「別に」
サトルが面倒臭そうに答えると、逆にお母さんは安心したようだった。
「サトルったら、何だかすっかり大人びちゃって。いつまでも小さい赤ん坊じゃあないのね」
サトルを見つめてしみじみつぶやくお母さんに、サトルはいまいましそうにあたりまえだろ、とつぶやいた。
次の日から、また真夏のカンカン照りの太陽が戻ってきた。
お母さんが実家へ行っている間に、村の夏祭りは雨で中止になり、次の週は台風が来て、そのまま終わってしまった。
地区会の仕事も一段落したらしく、家にいることが多くなったお母さんにおばあちゃんの世話をバトンタッチして、サトルは残りの夏休みを川や森で心ゆくまで友達と遊んだ。
時々、友達の家に行ったり、サトルの家によんだりもした。すっかり村の暮らしに慣れ、サトルが今まで過ごした夏休みの中で、最高の日々が過ぎて行った。
おばあちゃんはいつものように縁台に座っていたが、独り言をあまり言わなくなったことにサトルは気がつかなかった。
「サトル、起きてるか?ちょっとここに来い」
夏休みがあと一週間を切ったある日の夜遅く、お父さんとお母さんがサトルを呼んだ。
「おばあちゃんを老人ホームに入所させようと思う」
お父さんはそう言ってお母さんの顔を見た。
「まだ本決まりじゃないのよ。これから、役場の介護担当の人に来てもらって、介護度とかいろいろ調べてもらってからなんだけど」
お母さんが言った。
引っ越しが決まった時もそうだが、重要なことはいつもお父さんが宣言し、お母さんが補足説明する。
「どうして?」
サトルは寝耳に水だった。
「おばあちゃん、最近あまり食べなくなったし、ずっと家の中にいるから足腰がどんどん弱っちゃうでしょう。ホームに行けば、同じ年頃のお友達もいて、ぼけの回復プログラムもあるし、いつもプロの人が見ていてくれるから安心だし」
「あまり食べないのは夏バテじゃないの?足腰が弱いなんて、年取ってるんだもの、あたりまえじゃない」
「サトルは、おばあちゃんに家にいてほしいの?」
お母さんに聞かれて、サトルは答えに詰まった。
別に、おばあちゃんがいてもいなくても、今のサトルの生活にはあまり影響がない。
だけど、このうちはおばあちゃんのうちなのに、当のおばあちゃんがいなくなってしまうのは何だか違う気がした。
こんなにすぐにおばあちゃんを老人ホームへやってしまうのなら、最初からここに引っ越してくることもなかったのだ。
おばあちゃんの面倒を見るためにわざわざ引っ越してきて、サトルも転校したのではなかったのか。
「ぼけが進むと、一人でふらっとどこかへ行ってしまったりして、危険なんだ」
お父さんがたたみかける。
「まだそんなこと一度もないじゃない」
「あってからじゃ遅い、ってこともあるわ」
お父さんとお母さんの二人がかりでは、サトルに勝ち目はない。だいたいいつも、サトルは大人の都合に乗っかるだけだ。今度も同じことだった。
「それで、まだ先の話なんだが・・・」
サトルが黙ったので納得したと思ったのか、お父さんが少し上ずった声で身を乗り出した。
「おばあちゃんの預け先が決まったら、この家を処分して、もう少し通勤に便利な所へ引っ越そうと思うんだ」
これにはサトルだけでなくお母さんもぎょっとしてお父さんを見つめ、それから席を切ったように食ってかかった。
「地区会や近所のことにやっと慣れて、気の合う友達もできたのに。今度はずっとここに住むと思ったから、私ずいぶんがんばったし、サトルだって今までと違って、たくさん友達が出来たのよ」
お母さんがこんなに強くお父さんに何か言うのをサトルは初めて聞いた。
「転勤はもうないよ。この間の出張で、そう決めた。だから、さすがに片道三時間の特急通勤はきつい。おれもだんだん年をとってきたしな。もう少し職場に近いところに、がんばって家を建てようと思う。この家を処分すれば何とかなるだろう」
サトルの頭と胸の中に何か熱くて重い塊がぐるぐる回りながらどんどん大きくなってきた。
耐えきれずそれをはきだそうとして、サトルは大声で叫んでいた。
「いやだ!絶対にいやだ。ぼくはおばあちゃんと二人でここに住む。お父さんとお母さんと二人で、出て行けばいいよ!」
熱を持ったまぶたから、涙がいく筋も流れた。
「サトルったら、何言ってるの!お母さんだって、そんな話聞いてないのよ」
お母さんがなだめるようにサトルの肩に手を置いた。
サトルはその手を振り払って叫んだ。
「ふざけんなよ。勝手なこと言ってんじゃねえよ!」
初めて聞くサトルの暴言と勢いにたじろぎながら、お母さんはお父さんに食い下がった。
「ねえ、一体どういうことなの?ここにずっと住むんだって決めたのはあなたじゃない」
「うるさい!もう決めたんだ。あれこれごちゃごちゃ言うな!」
いつもは穏やかなお父さんが、テーブルを両手でバン!と叩いて、ダイニングキッチンを出て行った。
サトルは階段を駆け上がり、自分の部屋に入ると思い切りふすまをぴしゃっと閉めた。
お父さんは勝手だ。
おばあちゃんと一緒に暮らすようになってから、お父さんは一度だっておばあちゃんの面倒を見なかったじゃないか。自分のお母さんだっていうのに。
一緒にご飯を食べて、食べこぼしを拭きとったり、トイレが間に合わなくておもらししたのを掃除したり、脱いだ下着をその辺にぐちゃぐちゃに置いたのを洗濯機に入れることさえも。
お母さんだって、結局はお父さんの味方になるんだ。
地区会だなんて言って、ぼくとおばあちゃん二人だけにしてしょっちゅう出かけて。
どこの町に行っても、お母さんならそれなりにうまくやるだろう。おばあちゃんの世話がなくなるだけ、楽になるんだから。
黒い塊はいつの間にか冷えたブラックホールのようになって、サトルの激しい怒りをすっかり呑み込んでしまった。
(いいんだよ。どうせ・・・)
澄んだ川の冷たい流れ、魚取り、スリル満点の飛び込み、崖の上からの村の眺め。
森の中の崖渡り、仲良くなった何人もの友達の顔。
庭でおばあちゃんが歌う声、草ぼうぼうの虫だらけの庭、古いものがたくさん詰まった納戸・・・。
サトルの冷え切った頭の中を、この夏の思い出がかけめぐる。
どれも、サトルにとって心地いい、なくしたくないものばかりだ。今まで、こんなになじんだ場所はなかったかもしれない。たった二カ月足らず住んだだけの、田舎の村なのに。
いつしか布団も敷かずにサトルは畳に突っ伏して眠ってしまった。




