Chapter2
サトルはじりじり焼けつく太陽の下を向きになって歩いていた。
いきなりこんな山の中に引っ越してきちゃって、こっちの都合なんておかまいなしだ。
おばあちゃんと一緒にあの家で暮らすから。
両親に突然告げられたのは、運動会が終わった五月半ばだった。
五年生でクラス替えがあったばかりで大して友達もできていなかったから、まだよかったが。
というより、もともとサトルは友達があまりいなかった。
お父さんが転勤の多い仕事で、小学校だけで三回も転校していたからだ。
兄弟でもいたら、お父さんだけ単身赴任して、一つの町にずっと住み続けたかもしれないが、あいにくサトルは一人っ子だった。
お母さんは子供と二人きりの生活を心細がり、お父さんについて行きたがった。
だから、サトルはいつも親の都合であちこちの街を転々としたのだ。
それが今度は、田舎のおばあちゃんの家に行くというのだ。
去年の秋におじいちゃんがなくなった。サトルと同じ一人っ子のお父さんは、一人暮らしになってから少しずつぼけてきたと近所でうわさされているおばあちゃんを放っておけなくなった。
今住んでいるマンションでは手狭だし、この先も転勤のたびにあちこちへいっしょに連れていくわけにもいかない。サトルも高学年になり、学校もそろそろ落ち着いた方がいいだろう、と両親が話し合って、これからずっと住むつもりで、この村に家族三人で移って来たのだ。
事前にサトルの意見は聞かれることはなかった。
まぁいいや。
サトルはいつでもそう思うことにしている。どのみち、サトルが何を言ったって無駄なんだし。子供は大人のいいなりにしか生きられない。短いながらもこの十年ちょっとの人生でサトルが学んだことだ。
だけどこの山の中での暮らしは、今まで都市の交通の便のいいところで暮らしてきたサトルにとっては、想像以上に不便だった。
なにしろ、学校まで歩いて一時間近くかかる。バスなんて一時間か二時間に一本しか出ていないから、一本逃したら、歩くしかない。
クラスの友達はそんな不便さに慣れていて、当然のように歩いて通学する。自分ひとりバスに乗るのもなんだか格好が悪い。
転校に慣れているサトルは、とにかくなんでもみんなと同じようにすることにしている。
ただでさえ転入生は目立つのに、他の子と違ったことなんて何一つしたくない。
帰りはだらだら続く急な上り坂で、いつも家に着くころには汗で全身びしょびしょだ。
もうすぐ夏休みだというのに、サトルには学校以外での遊び友達が出来なかった。
六月の半ばに転校してきて、まだ一カ月。クラスは単学級で、サトルを入れて九人。これでも多い方だと、後でわかった。
引っ越してきた次の日、お母さんと一緒に初めてこの学校へやってきた朝は、ちょうど全校朝会の日だった。
「ちょうどいいわ、校長先生のお話の後で、壇上であいさつしてもらいましょう」
と、年配の女の担任の先生が言って、サトルはいきなり校庭の真ん中の朝礼台に立たされた。
「五年のカミムラ・サトルです」
と言って一礼して顔を上げて、サトルはがく然とした。
学年集会どころか、クラス集会かと思う人数だった。
先月まで一年と数カ月いた学校は、新しく出来た高層マンション群の中にあって、一学年四クラス、一クラスは三十四,五人いた。それが目の前には一年生から六年生まで全部合わせても五〇人もいないのだ。
ふつうなら統廃合するところだが、統廃合したくても子供が自力で通える距離に他に小学校はないらしい。
お母さんが聞いてきた話では、最近は、都市から広い一戸建てや山村暮らしにあこがれる家族が移り住んできて、転入生はちらほらいるらしかった。
六年生のクラスにも何人かもと転入生がいたし、子供たちは友達が増えるのが素直にうれしいらしく、サトルはすんなりクラスになじむことが出来た。
けれども、学校では仲良く遊んでも、みんなてんで家の方向が違うので、どうやら学校が終わって家に帰ったら、わざわざまた遊びに出掛けたりしないらしい。
ほとんどの子どもたちは、学校からサトルの家と反対側の、駅のそばの新興住宅地に住んでいた。
サトルのように、転入生なのに山の上の方にある昔からの集落に住んでいる子供は、ほかにはいなかった。学校休みの日はみんなどうしているのか、なんとなく聞きそびれていた。
いいさ、家でのんびりするから。ゲームもあるし、その辺を一人で探検したっていい。
サトルは小さいころから、お盆とお正月と、年に二回はこの家に遊びに来ていたから、この辺のことはだいたいわかる。
近くに川があり、田んぼや畑や果樹園があちこちに点在している。あとは、うっそうと茂る雑木林ばかりだ。
都会と違って、公園や広場なんてものはない。児童館も見当たらない。要するに、子供のための遊び場や施設、なんてものは全くないのだ。
サトルが家に入ると、お母さんはいなかった。
家族三人のときは、家の鍵を持たされていたが、今はおばあちゃんがいるから家の鍵はいつもあいている。だいたい、田舎の人は鍵なんてあまりかけないらしい。
台所のテーブルの上には、網戸で出来た柄のない傘みたいな蠅帳の中に、おやつのビスケットとせんべいがお皿に乗って入っていた。
ひとつずつ個包装の袋に入っているんだから、蠅帳なんて必要ないのに。こんなことするのはおばあちゃんだろう。
おばあちゃんは、と見ると、相変わらず縁台続きの窓べで、一人で何かしゃべったり歌ったりしている。
腕にとまった蚊をすばやくたたきつぶして、サトルは顔をしかめた。たっぷり血を吸っていたらしく、手のひらに、つぶれた蚊と血がにじんでいた。
窓を開け放しているので、雑草の生い茂った庭から蚊が入り放題だ。
おばあちゃん一人のときに火をつけるのは物騒だからと、電気蚊取り機を使っているが、あまり効果はなく、おばあちゃんに比べて生きのいいサトルは、家の中に侵入した蚊の絶好のごちそうだった。
おばあちゃんは、いつもにこにこ優しいけれど、時々とんちんかんなことを言って、サトルたち親子を戸惑わせる。
引っ越してきたばかりの頃、サトルはおばあちゃんに「あんたが小さい頃はね・・・」といくつも昔話を聞かされた。
おむつが取れたばかりの頃、庭で立ち小便をしたあとで、小さなお尻を自分の手でペンペンと二回たたいて、おちんちんを揺らしておしっこのしずくを払ったんだよ、小さいのに賢かったねぇ、たけのこみたいにちっちゃいおちんちんがプルプル震えるのが可愛くって、ずいぶん笑ってしまったよ・・・というのを聞いて、面白くてお父さんとお母さんに報告したら、お母さんは変な顔をし、お父さんがむっとして「それはサトルじゃない、お父さんの子供の頃の話だ」とぼそっと言うのでがっかりした。
かと思うと、いきなり真顔で「あんたどこの子?」と聞かれて、試しに「となりに引っ越してきたサトルです、よろしく」と言ってみたらすっかり信じて、包み紙にべったりはりついてしまったアメやしけたせんべいなどを握らされ、「うちの子たちと仲良くしてね、よろしくね」と両手でぎゅっと握手された。 そのうち「トシ坊」と呼ばれたりするようにもなった。お父さんの名前は「ヒデユキ」で、「トシ」なんていう字は入っていないのに。
以前はちゃんと名前で呼んでいたお父さんのことも、引っ越してきてからなぜか「トシ坊」と呼ぶようになり、最近はそれがすっかり定着した。
お父さんは最初は怒って訂正していたが、最近はあきらめたのか反論しなくなった。それでも返事はしないけれど。
おばあちゃんにトシ坊、と呼ばれるたび、お父さんは眉間にしわを寄せて不機嫌な顔で黙りこむ。親が自分の名前を間違えるなんて、相当ショックなんだろう。
お母さんは、根が楽天家でのんびり屋なので、おばあちゃんの「あんただれ?」攻撃にも、耳が遠くて何度も聞き返された挙句、せっかく通じても一〇分もすれば忘れられてしまうことにも、すぐに慣れてしまった。
そんなことより、これでようやく根を下ろすことになった、と張り切って村の地区会に毎日のように出かけるうちに、あっという間に気の合う友だちを作って、充実した日々を送っている。
お父さんは前に転校した時と同じ職場に、片道三時間近くかけて特急電車で毎日仕事に通っていた。朝はサトルが起きる前に家を出て、夜はサトルが寝てしまってから帰ってくる。
そして、休みの日はほぼ一日中、疲れを取るためにごろごろ寝ている。
せっかく一緒に住むために引っ越してきたのに、おばあちゃんとはほとんど口をきかず、身の回りの世話もお母さんにまかせっきりだった。
そのうちまた転勤になったら、今度こそ単身赴任で、サトルとお母さんとおばあちゃんをこの家に置いて、一人で行ってしまうつもりなのだろう。
サトルは、おじいちゃんのお葬式以来しばらく会わなかったと思ったら、いきなりこんな風になったおばあちゃんが、いまだに信じられないでいる。
つい去年まで、おばあちゃんはサトルたちが夏休みや冬休みに遊びに行くと、お母さんが作れそうにない、手の込んだごちそうを山ほど作ってくれて、あれこれ忙しいはずなのに、サトルがせがめばトランプやパズルゲームに何度でもつきあってくれた。
おじいちゃんもサトルが遊びに行くのを心待ちにしてくれていて、元気だったころは、田んぼや川や果樹園などによく遊びに連れて行ってもらった。田んぼで蛙をつかまえたり、虫とりも一日中付き合ってくれたっけ。
だから、サトルはおばあちゃんと一緒に住むことは全然嫌ではなかったのだ。むしろ、新しい家族が増えることにわくわくしていた。
引っ越してきて、すっかり散らかった部屋の中にぽつんと座っている、背中が曲がって一回り小さくなってしまった、ぼうっとした顔のおばあちゃんを見るまでは。
おやつを食べて冷蔵庫から麦茶を出して飲むと、サトルは二階の自分の部屋へ上がった。
二階は網戸を閉めれば、蚊の侵入を防げた。エアコンがないので、一階より暑いのは仕方がない。扇風機で何とかしのいだ。
開け放した窓から、おばあちゃんの楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「ほうら、あんたの足もと。バッタが這い上ってきてるよ」
(あんたって誰だよ)
サトルじゃないことだけは確かだ。サトルは帰ってからおばあちゃんにただいまも言っていない。だから、サトルが家にいることも知らないに違いない。
違う名前で呼ばれるのも、あんた誰、と聞かれるのもうんざりだ。お父さんでなくても、たったひとりの孫なのに名前さえ忘れられてしまうんじゃ、かなわない。
サトルは畳に寝転んで、先週駅まで出た時に買ってもらった漫画の月刊誌をぱらぱらめくった。
漫画の世界に没頭していくうち、扇風機の風の心地よさが眠気を呼んで、いつの間にかぐっすり寝入ってしまった。




