Chapter10
夏休み最後の日曜日、サトルは珍しくお父さんに誘われて川まで散歩に出た。
いつもみんなと遊ぶ崖のそばではなく、高い鉄橋の下の、あまり人の来ない浅瀬だった。
釣りをしている親子連れが、向こう岸の離れたところに小さく見えた。
サトルとお父さんは草むらに並んで腰を下ろした。
「お前にもういっぺん、聞こうと思っていたんだが、《トシ坊》のこと」
サトルははっとした。そうだ、お父さんに話さなければ・・・。
「お母さんに聞いたよ。そういえば、おばあちゃんの子供の頃の話は少しだが聞いた覚えがある。確か、弟と妹、それにお母さんが、日本に帰る途中で亡くなったんだよな」
サトルは、おばあちゃんが自分の子供には決して打ち明けることができなかったあの話を、お父さんに語って聞かせた。
「死んじゃったお父さんの弟、ヒデトシさんだっけ?おばあちゃんはきっと、自分のせいだと思ってると思うな」
サトルはそう言ってお父さんを見上げた。お父さんはサトルから目をそらすと川に小石を斜めに投げた。小石はぽんぽんと水の上をはずんで向こう岸にたどりついた。
「お前の話を聞いて、今ならお父さんもそう思う」
お父さんは川面を見つめたまま、大きな岩の上にどっかり腰を下ろした。サトルもその隣に膝を抱えて座った。
かすかな川の音がこぽこぽ、さらさらと黙りこくった二人の間を流れた。
サトルは、その音に後押しされたように、思い切ってお父さんを見つめて言った。
「あの時、おばあちゃんには何も言えなかったけど、お父さんには少しは言えると思うよ。もしぼくが目の前で友だちが流されたとしても、きっと助けることはできない」
サトルは崖下の川の淵に吸い込まれそうになったあの時のことを思い出して、身震いした。もう二度とあんな思いはしたくない。
「もしもあの時、って思えるのは、全部終わってしまって、安全なところにいるからさ」
お父さんは、びっくりした顔でサトルを見た。
「だから、後で思い返して自分を責めるのは、意味がないと思う。おばあちゃんも、お父さんも」
サトルの言葉を聞くと、お父さんは苦笑いをして、小さくため息をついた。
「確実に、世代交代は進んでいるなあ」
お父さんは小石を選んで何度も川向こうへ飛ばし始めた。石はみんな、魔法のようにすいすいと水の上をとびはねた。
「おまえ、五年生だよな。十歳か」
「もうすぐ十一歳だよ」
サトルが言うと、お父さんはじっとサトルを見つめた。
「おまえに言われると、まるであの時の自分から言われているような気がする」
そうか、お父さんの弟が亡くなったのは、お父さんがちょうどぼくぐらいの時だったっけ。
「それで、思い出したことがある」
お父さんは再び川を見つめた。
「おばあちゃんはあいつのこと、トシ坊って呼んだことは一度もなかった。いつもヒデユキ、ヒデトシ、ってきちんと名前で呼んでいた。周りの友達が、お父さんたちのことをユキ坊、トシ坊って呼んでいたんだ。
お父さんの記憶違いだった。ここに戻ってきてからあの事故のことをまた思い出して、気にしていたんだな。だからおばあちゃんにトシ坊、って呼ばれた時、弟のことだと勘違いしてしまった。
お前がおばあちゃんから昔の話を聞かされていなかったら、お父さんはずっとおばあちゃんのことを誤解したままだっただろう。ありがとな、サトル」
そう言うと、お父さんはいきなりサトルの肩を友だち同士でふざけるみたいに、後ろからぎゅっと羽交い絞めにした。
サトルはあわてた。顔が熱を帯びてほてってくるのがわかる。何だか、お父さんがお父さんではなく、自分と同じぐらいの年の少年になってしまったようで、恥ずかしくて、どぎまぎして、お父さんの顔がまともに見られなくなってしまった。
「お父さん、さっきから気になっているんだけど」
肩にかかったお父さんの手を振りほどいて、サトルは立ちあがった。
「さっきからさ、小石をぴょんぴょん飛ばしているでしょ。あれ、どうやるの?」
「そうか、おまえ知らないか。あれは水切り、と言うんだ」
よし、教えてやる、と言ってお父さんは石の選び方からていねいに教えてくれた。
まるで、同級生か、ちょっと年上のお兄さんのように。
おばあちゃんはじきに、退院して家に戻ってきた。
退院前に福祉課の人に面接してもらったが、家族の支えがあれば自宅でもまだまだ暮らせる、と言われた。お父さんもお母さんもこの間の話はまるでなかったように、家族みんなで家で面倒を見ます、と答えたそうだ。
おばあちゃんの老人ホーム行きが見送られると、自然と引っ越しの話も立ち消えになった。
おばあちゃんは退院してから、痛めたひざをかばいながらも、少しずつ草ぼうぼうだった庭の手入れを始めた。
「いろいろやる気が出てきたのはいい傾向だって、本に書いてあったわ」
最近、老人介護に関する本を読み始めたお母さんがそう言った。
土曜日や日曜日にはサトルも手伝った。
草刈りが終わると、雑草の間から以前から植えていたいろいろな花や木が顔を出した。
「これはアジサイ、こっちはジンチョウゲ。あの木はユスラウメと言って、きれいなおいしい赤い実をつけるよ。実のなる木と言えば、ほら、あれは柿でしょう、こっちがみかんで、これはいちじく」
庭のあちこちにたいた蚊取り線香の煙にむせながら、おばあちゃんは草木のことをいろいろ教えてくれた。そういう知識はまだまだしっかり覚えているようだ。入れ歯も新調して、ずいぶん若返ったように見える。
村の人たちもおばあちゃんのことをよく理解して、気にかけてくれるようになっていた。一週間に二回、デイサービスにも通い始めた。
十月に入ると、急に涼しくなった。山は秋の彩りに覆われ始め、すっかり村の生活に慣れたサトルは、時々野ウサギやシカの姿を見かけるようになった。
目が山暮らしに慣れてきたんだ、とお父さんは言った。
庭や山道や川辺で、誰かに見つめられているような気がして、きょろきょろあたりを見回すこともあった。
もちろんだれもいなかったけれど、時々アケビやクルミの実が小さな山になって縁台に置いてあることがあって、そんな時おばあちゃんは目を輝かせて大喜びした。
「どこかに小さい神様がいるみたいだねぇ」そう言って手を合わせていた。
天気のいい日曜日に、みんなで仏壇の掃除をした。
埃だらけになっていた仏壇をお父さんに下ろしてもらって、中身を全部出してタオルで隅々まできれいに拭いた。
その時、サトルは小さな板の束をみつけて、見せてもらった。
木の板には、墨で丁寧な筆遣いで名前と日付が書いてあった。
「おばあちゃん、これ何?」
サトルがたずねると、おばあちゃんは目を細めて板の字を読んだ。
「これは、おばあちゃんの家族の位牌みたいなものよ。戦争があって、ちゃんとお葬式もできなかったから、引き上げてくる船の中で、字のうまい人に頼んでこうやって書いてもらったの」
「トシ坊のもある?」
サトルは思い切って聞いてみた。あれ以来、おばあちゃんの口からトシ坊の名前は出てこない。
「トシ坊ねぇ、あるよ、ほらこれ」
渡された木札には、
《野田利男 昭和拾七年参月二十日生 昭和弐拾壱年四月九日没 行年四才》と書いてあった。
「こんなもの書いてもらったけど、もしかしたらどこかに流されて、誰かに助けられて、元気になって生きているんじゃないか、そのうちひょっこり現れるんじゃないか、って思ってしまうんだよねぇ」
おばあちゃんは木札を見つめてつぶやいた。
(だから、すっかり大人になったお父さんのことまでトシ坊、って呼んでいたんだな)
と、サトルは思った。
おばあちゃんは、お父さんのことを「トシ坊」と呼んでいたことはもう忘れてしまっているみたいだけど。
テーブルの上のもう一枚の木札には、
《野田ヒサ 昭和弐拾壱年壱月七日生 同年六月拾七日没 行年当才》
とあった。
「おばあちゃん、トウサイって何?」
サトルが聞くと、おばあちゃんは教えてくれた。
「生まれたその年になくなった、っていうことだよ。お誕生日も迎えないうちにねぇ。あの時は、赤ちゃんもたくさん亡くなったんだよ。本当にかわいそうだったねぇ」
そうか、これはおばあちゃんの妹なんだ。
もう一枚の札は、おばあちゃんのお母さん、サトルのひいおばあちゃんのものだった。
サトルのひいおじいさんに当たる人のものはなかった。遺骨もなく、行方不明のままなのだそうだ。
おばあちゃんが大きくなるまでずっと面倒を見てくれた年の離れたお兄さんは、おばあちゃんが成人して勤めに出る頃、交通事故でなくなったのだという。
お兄さんの位牌はお嫁さんに当たる人が持っているが、その時に他の家族の位牌はみな、おばあちゃんが引き取ったそうだ。
お父さんの弟のヒデトシさんの位牌もあった。まだ新しいおじいちゃんのに比べて、だいぶ古ぼけていた。
「ヒデトシはかわいそうなことしたねぇ、私がちょっと手を休めて、かまってやればよかった。台風の後片付けでばたばたしてたけど、今思えばそんなの後回しでもよかったんだよねぇ」
ヒデトシさんの位牌を丁寧に拭きながら、おばあちゃんはつぶやいた。
「おばあちゃん、ヒデトシおじさんって、どんな子だったの?」
サトルはおばあちゃんの横に座って、仏壇からはずした線香などを入れる小さいひきだしを拭きながらたずねた。
「そうだねぇ、あんたのお父さんと違ってきかなくてねぇ、なんでも見たがり、知りたがりやさんだったわね。そうそう、三つか四つの頃だっけか、三輪車をこいでいたらいきなりすごい速さで電信柱につっこんでいって、思い切りぶつかったと思ったら、小さい手にセミをしっかりにぎりしめてて、嬉しそうにつかまえた!って言うんだよ・・・」
その話はサトルもよく知っていた。
「おかあさん、それはたぶんサトルの小さい時のことだと思うんですけど」
お母さんが遠慮がちにそう言った。
「えっ、そうだったかしら、あらやだ、私ったら頭がごっちゃになっちゃったわ」
おばあちゃんの話を百パーセント信用できないのは、肝に銘じておかなければいけない。
サトルはそっと立ち上がって、縁台からおばあちゃんのつっかけをはいて庭に出た。
細い柿の木に、だいぶ大きくなった緑の実が下の方から少しずつオレンジ色にいろづいている。
「お前がサトルとユウコさんを連れてこっちに来てくれて、ほんとに嬉しいよ」
おばあちゃんがお父さんにそう言っているのが聞こえた。ちらっと目をやると、横顔のお父さんが、むすっとしながらもまるでほめられた子供のように得意げに鼻をふくらませているのが見えた。
やったね。サトルは思わず顔がほころんだ。お父さんの口から、引っ越しや転校の話は、もう出ないだろう。
涼しいかわいた秋の風がサトルの前を吹き過ぎ、りん、りん、と風鈴が鳴った。
「もう秋だよ、そろそろこの風鈴しまおうよ、来年の夏まで」
サトルは別に聞こえなくてもいいやと思いながら言った。両手をうんと広げて、ふんぞりかえって空を見上げると、真っ青に澄んだ空に、いわし雲がきれいに整列していた。
そうだ、あれはふうりん、というのだ。
生垣の隅にいたワラシは、はっとした。
ずっと気になっていたあの音の正体がわかった。軒から下がった、鋼で出来た青緑色の風鈴。
おじいさんがなくなってからしまわれもせず、秋も冬も春も鳴り続けていた風鈴が、眠っていたワラシの耳にこびりついて、目覚めるきっかけになったのだろうか。
(いつか、カヨはまた戻ってくるかもしれない。それまでは、こいつが見つけてくれるのを待つか)
ワラシは、目の前にいるのにちっとも自分に気づかずぼうっと空を見上げているサトルに目をやった。
(あの崖渡り、全く中途半端だ。もっと勢いをつけて枝をしならせれば、向かいの木の枝の高いところに飛び移れるのに・・・)
夏の間に、サトルはすっかり日に焼けてたくましくなっていた。
ワラシはサトルに本物の崖渡りを教えてやりたくて、うずうずしてきた。
~終~




