Chapter1
かび臭く薄暗い土の中から、ワラシはゆっくりと顔を出した。
古い家の縁の下に、ワラシは長いこと眠っていたのだった。
真っ暗な縁の下にはキノコもコケも生えず、時折り外から迷い込んだヤモリが這いまわるばかりだった。
ワラシの長い眠りを覚ましたのは、二つの音だった。
一つは、りん、りん、と高く透き通った音色で鳴り続ける、どこかで聞いたことのある、懐かしい音。
そしてもう一つは、小さな歌声だった。
「おひとうつ、おふたあつ、おみっつおろしておーさーらい」
この歌は知っている、いつかどこかで聞いた、とワラシは思った。
自分がどこでどう生まれて、いつからここにいるか、ワラシは全く覚えていない。
覚えているのは、子供たちの甲高い笑い声、鼻をすする泣き声、ふっくらした手のひら、そして、回り始めたばかりの命の歯車の小さな鼓動。
そういうものにひかれて、ワラシは目覚め、縁の下から這い出して、自分を見つけた子供たちと遊んだ。
どのくらい眠っていたのか、自分でもわからない。どういうわけか、子供たちからあの小さな鼓動が、生まれてしばらくすると消えてしまうようになってしまったらしい。
しばらく前から、ワラシを見つけてくれるのは、年端もいかない赤ん坊ばかりで、一緒に遊べるぐらいの体と心の育った子供はワラシを見つける力を失ってしまっていた。
あの命の歯車の鼓動から湧き出る、世界を何の疑いも持たずに鮮やかに見つめる力が、生身の人間とは少し違うワラシを見つけることが出来るのだが。
ワラシはかくれんぼの隠れ役みたいなもので、見つけてくれる鬼がいないと人前に出てこられないのだった。
今聞こえる歌声は、確かにあの鼓動を持った子供の声だった。
ワラシはどきどきしながら、久しぶりに通気口の鉄格子に手をかけた。
鉄格子は苦もなくはずれ、ワラシは外の世界へ這い出した。
とたんにむっとする夏草の匂いとまぶしい夏の日差しが、ワラシをくらくらさせた。
「おてのせおろしておーさーらい」
ワラシは声のする方を目で追った。
縁台に一人の少女が座っている。周りに色とりどりの丸いものが散らばっている。少女のひざにもいくつか。
あ、これ知ってる。何て言ったっけ。
ワラシは、目をしばしばさせた。
お、て、だ、ま。
頭にふっと浮かんだ言葉を、ワラシは口の端でつぶやこうとして、唇が貼りついて動かないのにびっくりした。
声を出そうと思うのもずいぶん久しぶりのことだった。
わずかな生ぬるい風が吹き、少女の頭の上で、何かがりん、と鳴った。
あれも知ってる。ワラシは目をつぶってまた言葉が出てくるのを待った。
ふ、う、・・・
なんだっけ。ふうしゃ?ふうとう?ふう・・・ワラシはちょっと顔をしかめた。どうもしっくり来ない。これは違うみたいだ。
ワラシは声のする方へ用心深く近づいて行った。音を立てずに歩くのは、ワラシの得意技だ。
「おーみぃーんーな、おーさぁらい」
少女の細い声が草ぼうぼうの庭に響く。
ワラシがかくれんぼの鬼を失ってから、どのくらい時間がたったのだろう。あの少女は自分を見つけてくれるだろうか。
ワラシはすぐには出て行かなかった。今までも、目の前にいるのにまるで気がついてもらえなかったことが何度もある。
それはワラシにとってつらいことだった。
ワラシは、普通の人間の子供とは違う。子供の姿のままで何百年も生きる。
ワラシを見つけてくれた子供たちも、時がたつといつの間にか、時間に追われていろんなことに縛られるようになって、ワラシを見失ってそのうち忘れてしまう。
大人になるためには、沢山のことを忘れないと具合が悪いらしい。
それはそれで仕方がなかったけれど、初めから全く気がついてもらえない、というのはきつい。
そんなのが何年も何年も続いて、ワラシはすっかりつまらなくなって、縁の下の土の奥深くにもぐってしまったのだった。
この子は・・・と、ワラシは背の高い葉の大きな草のかげから少女を観察した。
赤いTシャツを着ている少女の背中は丸く曲がっていた。まるでりんごみたいだ。
時々失敗して落としているけれど、お手玉を器用に操っている。腕は小枝のように細く、歌っている口もとの前歯がほとんどない。
今までワラシが友達になった子供たちにもそういう子がたくさんいた。大人の歯に生え変わるために抜けたり、お菓子の食いすぎですっかりみそっ歯になってしまうからだ。
いいぞ、年かっこうはぴったりだ。
ワラシは久しぶりにわくわくした。そして、草のかげから思い切って一歩前に出た。
その時、少女がいきなりこっちを見た。大きな丸い目だった。心の準備ができていなかったワラシはすくみあがった。
「いらっしゃい」
少女はまっすぐワラシを見てそう言った。
ワラシはすっかりあわてて、口をぽかんとあけたまま何一つ言うことができなかった。
そこに、大きな皿に何かを乗せて、目の細い中年の女の人が顔を出した。
「おかあさん、スイカ食べます?」
少女は前歯のない口でにっこり笑った。
「ちょうどよかった。お客さんが来たよ」
「お客さん?誰?」
女の人がたずねると、少女はくすくす笑った。
「ないしょないしょ、ひみつのお客さん」
ワラシはほっとして、嬉しくなった。時々、自分のことを大人たちにアピールしてくれて、頭がおかしくなったと騒ぎになることがあったからだ。こんな風に内緒にしてくれると、面倒がなくてありがたい。
だが、ワラシにはちょっとひっかかることがあった。
おかあさん、って誰だ?
あの女の人の方がこの少女のおかあさんじゃないのか?
まてまて。おかあさん、というのはそういう意味だよな。
久しぶりに世間に出てきたワラシは少し頭が混乱していたから、まだ言葉に自信がなかった。
また、頭上で何かがりん、りん、と鳴った。
これだって、まだ思い出せない。ふう、なんとかだったよな。いや、ほお、だっけ。ほおずき?ほおのき?ええと・・・。
「あんた、いっしょに食べよう」
少女が自分の方に皿を差し出した。
ワラシはいつの間にか縁台の少女の隣に座っていた。ワラシは遠慮なくスイカの切れはしを手づかみで一つ取って口に入れた。
甘く、冷たい汁が口の中いっぱいに広がった。丁寧に皮も取ってあるのだ。この少女はどこかのお金持ちの一人娘なのだろう。あの女の人は、この家のお手伝いさんに違いない。
「あんた、トシ坊?」
少女はワラシを見つめてそう言った。
その時、キイッと音がして、白い門を開けて一人の少年が入ってきた。
「ただいま」
少年は少女をちらっと見て、つぶやいた。
年かっこうは少女より少し年上のようだ。少女の兄かもしれない。
黒いランドセルをしょって、額には汗が玉のようにびっしりはりついている。
目は細く切れ長で、少女よりどちらかというとさっきの中年のおばさんに似ていた。
少年はワラシに気づかず、さっさと玄関の戸をあけて家に入って行った。
「おかあさん、ぼくにもスイカ」
家の中からくぐもった声が聞こえる。ということは、この少年はお手伝いさんの息子なのだろうか。
ワラシは自分に気づかなかった少年に、がっかりしていた。
あっちの子も遊び仲間にはちょうどいいのにな。でも、いいや、おれにはこの子がいるから。
そう思ってワラシは少女を見つめてちょっぴり笑った。
「あんた、トシ坊ね?」
少女はくりっとした目でワラシを見つめてそっとささやいた。
ちがわい、とワラシは首を振った。
あんただれ、と聞かれることはよくあったが、誰かに間違えられたのは初めてだった。
「スイカ食べたら、いっしょにおてだましよう」
望むところだ。ワラシはにんまりした。昔友達になった女の子に何度も教わったから、よく知ってる。何より、遊ぶ、ということがワラシの生きる目的のようなものだった。
ワラシはさっそく少女と向かい合って縁台に座り、散らばっているお手玉を手に取った。
おてのうせ、に合わせて親の玉を一つ真上に放りあげ、それが落ちてくる前に伏せた手の甲に一つずつお手玉を落とさないように乗せていく。
おてのせおろして、で手の甲に積み上げたお手玉をいったん床に下ろして、おーさぁらい、で、両手で全部のお手玉を真上に放りあげ、親玉を左手ですくい取って・・・。
すいすいやってのけるワラシを見て、少女はほぉぉ、と小さく感嘆の声を上げ、ぱちぱち拍手してくれた。
「あんた、うまいねぇ」
ワラシは得意そうに鼻をつんと上にあげた。
(じゃ、これできるかい?)
ワラシは声に出さずに片手でふたつのお手玉を器用に回して見せた。
少女は澄ました顔でやすやすとやってのけた。
「ほうらできたよ。じゃあ、これは?」
今度は少女の方から三つのお手玉を片手でくるくる器用に回し始めた。少女は難なく続けられたのに、ワラシは二、三回で失敗した。
「勝った、勝ったぁ」
少女は嬉しそうに手を叩いて笑った。ワラシはむきになって、今度は左手と右手にふたつずつお手玉を持って、ふたつを真上に、ふたつを交差して回し始めた。
少女とワラシが遊んでいる間、一間あけた台所でさっきの少年がスイカを食べながらぼうっと二人を見ていた。
「おばあちゃん、今日は楽しそうだね。何かいいことあったの?」
「わからないけど、お客さんなんだって」
少年の母親がこっそり少年に耳打ちをした。
遊びに夢中になっている少女とワラシに、二人の会話は聞こえてこなかった。




