6-2.知ったのは西ヶ谷
静岡駅を九時五十二分に発車した東海道新幹線――こだま六百三十六号は、俺たちを乗せて東京方面へと走っていた。
嫌でも隣同士となっている新幹線の席に無理矢理慣らされたのか、それとも周囲に適度な他人がいるからか――
先までの緊張感は、次第にであるが薄れてきていた。
一体、何を考えていたのだろうな。
大したことでもないのに、勝手にピリピリとしていた自分が恥ずかしい。
トンネル内から外へ出ると、方向を問わずに反射してくる太陽光で目がくらんだ。
突き抜けるかのような蒼い空に、天頂へ届きそうな勢いで背伸びしている真っ白な入道雲。
少し視線を下げれば、日本最高の霊峰富士が見えてくる。
雪の解けたその姿は、どこか神聖さを感じさせる深い青色で染められていた。
そこからスカートのように大きく広がる、緑の大地。
さらに下では、市街地が左から右へと高速で流れていた。
ごつごつとした住宅、それらはラインのような土手を境目にして、蛇行する河川へと変わっていく。
山梨県から注がれてくる富士川だ。
俺は左腕を伸ばし、車窓の上にあるエアコンの吹き出し口の向きを変えた。
外の景色は熱気で若干揺らいでいるが、ここは冷房のおかげで寒いくらいだ。
人類の文明も発展したものだなあ、という古代人がタイムスリップしてきたような言葉を心の中で発してしまう。
「西ヶ谷の頭は発展していないものね」
皮肉たっぷりの言葉が、隣の席から飛んできた。
あ、今の聞こえていたんですね……
声の主である久遠は麦わら帽子を脱ぎ、いつもの黒髪を見せていた。
見慣れた姿に、妙な落ち着きを覚える。
「ん? 久遠が本を読むなんて珍しいな」
膝の真ん中に落とした両手には、さほど大きくない本を開いている。
部室で広げているのは、たいていがクロスワードパズル。あとは試験対策のためだったのか、十五センチほどのハンドブックを読んでいたのが記憶にある全てだ。
しかしそこにクロスワードパズルを解くのに必要なペンはない。
試験対策用のハンドブックには、まずつけないようなブックカバーもかけられている。
そうなると、まっさきに考えつくのは文庫本だ。
でも、久遠が読む文庫本……?
どんなジャンルなのだろうか。
SF?
ものすごく設定に文句言いそうだしなぁ……
ファンタジー?
ものすごく設定に文句言いそうだしなぁ……
推理小説?
ものすご(以下省略)
「私が本を読むと変かしら?」
「いやまあ、そういうわけじゃないけど……どんな本読んでいるのか、気にはなるし」
とっさの言い訳も見つからず、思ったことを正直に言った。
すると、茶色のブックカバーをめくって俺の方へと見せてくる。
自分で確かめれば? という意味らしいが……
「ぐ……ぐでーりあん?」
「……西ヶ谷は英語も読めないの?」
はぁ……
今にもそんなため息が聞こえてきそうな表情をされた。
だって西ヶ谷ですよ?
英語の成績がクラス最下位の西ヶ谷ですよ?
“shine”を「……死ね?」と訳し、教室が静まりかえった伝説を持つ西ヶ谷ですよ?
「……Guardian。英語で「守る者」の意味よ」
ああ、ガーディアンね。ガーディアン。
しかしタイトルがわかったところで、内容を把握しているほど俺は読書家ではない。
マイナーな本ばかり読んでいるからか、話題の本の内容にはとことん疎いのだ。
「どんなジャンルなんだ? アクション系?」
「学園ものの恋愛小説。転校してきた少女と、それを守る男子の恋を描いた作品よ」
えっ!?
思わず目を見開いてしまった。
意外すぎて驚きを隠せない。
久遠が恋愛小説を読んでいる?
性格からして恋愛に疎い……というより興味がなさそうなのに。
男子とか不用意に近づいてきたら、本当に針で刺してしまうのではないか。
そう感じさせるほどの、他人を近づけさせない雰囲気を持っている。
その久遠が……恋愛小説?
考え方によっては、ギャグ漫画を読んでいるよりも大穴だと思う。
「そ、そんなにおかしいかしら……?」
俺の反応に、今度は久遠が驚いていた。
いや、驚いているというよりも不安になっている。
そう表現すべきだろうか。
こちらに向いた顔が見せている、少し曇らせた表情からは、そんなことが読み取れた。
「ああいや、久遠もそういうのに興味があるのかなって……」
言葉をオブラートに包む暇もなく、心情を率直に答えてしまった。
「それは……私だって人間だし、女子なんだから」
へぇ。
久遠にしては珍しく、遠まわしな言い方になっていたな。
やっぱり恥ずかしいんだ。
久遠は美少女だ。
そうはっきりと言える。
長く伸びている、綺麗な黒髪。
目元から鼻、口までが整った顔立ち。
白く華奢な手足。
キュッと締まっている腰のあたり。
どこを見ても美しく、また少しの可愛さが入っているように感じる。
慎ましい胸に関しては……好みによるけど。
そんな美少女――久遠でも、誰かを好きになるのだろう。
それを夢見て恋愛ものの小説を読んでいるのは、今どきの女子高生らしくない久遠からは新鮮に感じられるほどの女の子っぽさが見えた。
「西ヶ谷だって、そういうのには興味あるんでしょう?」
「……え? 俺?」
予想できなかった……わけでもないが、突然の問いかけに身体が震える。
「理数科の男子は毎日のように言ってるわよ。「あの子が好きだ」とか「俺、この子に気があるんだ」とか」
「それは理数科の男子だろ? 俺は普通科だっての」
「あら、じゃあ普通科男子の恋愛事情はどうなのかしら?」
じっと見つめてくる久遠。
質問の内容からは信じられないくらい、その目は鋭かった。
サッカー部の部長――小久保を追い詰めた時のように。
どうも言葉を使う戦闘フィールドにおいて、久遠に勝つことは不可能らしい。
まるで蛙をにらむ蛇だ。
照準を定め、逃がすことを許さない。
観念して、重い口を開いた。
「……なくはないけどよ」
「どんな娘だったの?」
「や、やさしくて……笑顔だった人……」
これは何よりも厳しい拷問だ。
俺が国家機密を知っていたら、今すぐに全てを吐き出すくらいの。
むかーしむかし、あるところに西ヶ谷 一樹という平凡な男の子がいました。
その男子が中学校で新しいクラスになると、とある女の子に出会いました。
男の子は女の子と同じ班になり、不器用に会話を重ね、やがて恋心を抱くようになりました。
そして年の境目ほどの冬、女の子へ告白しようと思いました。
しかし残念ながら、女の子は男の子を露骨に避けるようになりました。
そしてそれ以降、二度と会ってはくれませんでした。
ちゃんちゃん♪
……自分の心の奥底から、黒い影がわきあがってくるみたいな感じがする。
まあ恋愛失敗経験のある男子にとっては、割りとよくある話ではないだろうか。
ゆるふわ系というか、誰とでも気軽に話しかけてくれる女子に恋をし、自分に気があると思いこんで玉砕するパターン。
本当は壮絶な片思いだった……にも関わらずだ。
「……なんかトラウマを思い出してしまったようね」
急に落ち込んだ俺の様子を感じ取ったらしい久遠。
ただ皮肉っているのか、本当に心配しているのかまではわからなかったけど。
「久遠はいいよな。ちょっとがんばれば、男子とか何人でも寄ってくるだろ?」
背もたれに寄りかかりながら、俺は投げやりに言葉を発した。
性格以外は完璧、の一言だからな。
もっと言えば、こういう性格な好きだというマゾな男だって、世の中には無数にいるみたいだし。
「そんなわけないでしょう……」
はぁ……とため息を久遠はつく。
「誰でもいいってわけじゃないんだから……」
そして、ぼそりとそんな言葉を小さくつぶやいた。
誰でも、か。
そうだよな。
いくら自分が好きだと言ってくれるような人であっても、気に入らない人と恋人同士になるわけにもいかない。
かっこよくて、あるいは可愛い人。
やさしくて、おだやかな人。
そして何よりも、自分を理解してくれる人。
恋愛関係とは、そういった人と結ぶものだ。
特に久遠には、何らかのトラウマみたいな感情が眠っている。
これを理解してくれる人ではない限り、深い関係を持つというのは難しいだろう。
「あ、そうだ」
関係、その一言で思い出した。
「そろそろ教えてくれないか? なんではるばる、栃木なんかに行くのか」
中学校での修学旅行以来、久しぶりに乗った新幹線。
そうまでして、栃木という遠く離れた地へ向かうのだ。
そこには何があるのか。
そこでは何を知ることができるのか。
俺だけには話しておきたいこと、そこへ行かないと話せないことがあると聞いたが……
ここまできたら、そのわけが知りたい。
まあ雰囲気が緊迫気味になってしまったので、それを変えたかったのもあるけれど。
「そうね……そろそろ、言っておくべき……かな」
久遠の口調がちょっと変わった。
膝の上で開いていた小説を、パタ……と静かに閉じる。
そしてやや俺の方へと向き直り、見つめるように目をあわせてきた。
改まって――そんな感じだ。
こんなところまで、言うのを躊躇ったような内容だ。
久遠としてはよほど言いたくない、もしくは言いづらいことなのだろう。
バスを降りた直後に起きた、思い出すのもつらい出来事。
あれに関係してくる中身だと考えれば、話しにくいのはしごく当然だ。
身を震わすような恐怖を感じてまで、ようやくではあるが俺に話をしてくれるのだろうか。
「今から言うことは、誰にも言わないでね」
真剣な目つきで、お願いをしてくる久遠。
その言葉づかいは、いつもより丁寧だ。
「わかってる」
俺の返事を確かめると、久遠はごくりとつばを飲み込む。
「これから行くのは……、栃木県宇都宮市にあるお寺よ」
「そこに、何があるんだ?」
「あるのは、私の……母親のお墓」
久遠の――母親。
静清ホームに住んでいるとはいえ、人間として生まれている以上は両親がいるはずだ。
あの笑わない性格からして、まさかの人造人間というトンデモ展開がなきにしもあらずだったが、さすがに久遠も人の子だったらしい。
しかし、それはそれで興味をひかれる。
久遠の母親とは、一体どんな人物だったのだろうか。
子のために尽くす、献身的な母親?
それとも英才教育を施す、スパルタな母親?
あるいは我が子を突き放す、冷酷な母親?
「今日の目的の一つは、そこへお墓参りに行くこと」
お墓参りとは、ちょっと意外だった。
あまり他人のことを思いやるような性格とは思っていないからだ。
しかし子が親を慕うのは、本来あるべき姿として当然だろう。
「そうか。久遠は、やさしいんだな」
そう言って、ちょっとばかり笑顔を作ってみせた。
結局のところ、久遠の母親がどんな人物だったのか、俺が直接知ることはできない。
それでも久遠は、その母親が好きだったり、何らかの感謝をしているのだろう。
そうでなければ、わざわざ栃木まで行くような行動はしないはずだから。
「……そして、あのバス停であった男。覚えているかしら」
少し目を背けながら、久遠は話を続けた。
その横顔には、ちょっぴりの恥ずかしさが見える。
俺も久遠のわずかな表情変化がわかるようになってきたんだな……
会話の流れとしてはあまりよくないが、続けようとしている話をそのまま聞くことにした。
今、話しづらいことを懸命に伝えようとしているのだから。
その意思を妨げるのはいいことではない。
「ああ、覚えているよ」
「あれは……実は……」
そこで言葉が途切れた。
とても言いにくそうにしている久遠
顔はうつむきかけ、視線が膝元へ落ちてしまっている。
それでも、久遠は話すことをやめようとしないらしい。
まるでこれだけは伝えなければいけないと、力をふりしぼるかのように口を震わせている。
無理して話さなくてもいい――
そう言いたかった。
しかし……言うことはできなかった。
久遠を気づかう気持ちが、あの男のことを知りたいという興味に負けてしまったからだ。
ごめんな……久遠。
こんな大変な思いをさせてまで、俺は久遠にしゃべらせるのか。
ずるい男だな、俺は――
「あの男は……私の……父親なの……」
その言葉が、俺の耳の奥深くに入っていった。
「……え?」
血の気がサーッとひく。
涼しいはずの冷房が、とたんに冬の北風みたいな凍える風と化した。
硬直する手、足、そして顔。
予想外の言葉に、身体が動いてくれない。
「あの……男が?」
なんとか出すことのできた声に、小さく頷く久遠。
久遠が恐怖を抱いた人間は――
あろうことか……久遠の父親だったのか……!
風貌をはっきり覚えているわけではないが、とても久遠と似ていたようには思えない。
母親の血が濃かったのだろうけど、はっきり言って信じられない話だ。
まず感情を表に出さない久遠と、些細なことで怒りそうなあの中年男性。
二人の親子関係が想像できず、困惑する俺。
義理の父親?
いや、そういうわけではないだろう。
それならそうだと言っているはずだ。
そんなうそをつく理由などないのだから。
「それで……その父親が……」
そこまで言いかけ、
「おいっ!? どうした!?」
「ごめんっ」
突然立ち上がる久遠。
膝の上においてあった小説が、バサッと音をたてて床へと落ちる。
それに気づかう様子も見せず、慌てて口元を押さえていた。
青白い顔、早く浅くなっている呼吸。
そして俺が声をかけるのも間に合わず、久遠は中央通路へと飛び出した。
バタバタと足音の響く車内。
周囲の人が、何ごとかと振り向いたほどだ。
しかし、それに構う様子も見せないまま、車内後方へと走っていく。
後ろの車両へ通じるドアの、すぐ前にある個室トイレへと向かったらしい。
バタンッ! という激しい音が、目の前から出たように大きく聞こえた。
「……はぁ」
我慢していたのだろう。
あの男――実の父親のことを話すのは、久遠にとってかなりの負担みたいだな。
本当はできる限り話しておきたかったのだろうが、身体が耐えられなかったらしい。
……ちくしょう。
自分の興味ばかりを先行させて、久遠をとめなかった俺のせいだ。
あそこで無理をするなと言っておけば、こうはならなかっただろう。
やっぱりずるい人間だな、俺は――
心の中で自分を責めながら、青いシートへと座りなおした。
話を聞くうちに、ひとつ思い出したことがある。
久遠は以前「親について昔のことはよく覚えていない」と言ったことがあった。
でも今は、父親と母親がいるとはっきり答えたのだ。
ということは……?
おそらくだが、久遠と両親の間に何かがあったのだろう。
消したいような、恐ろしい記憶。
覚えていないのではなく、覚えておきたくなかった。
あるいは、その時の俺に対して話せるようなことではなかったのだ。
「もしかして、久遠はそれを伝えるために俺を呼んだのかもしれないな……」
『次は新富士、新富士です……』
俺のひとり言に、駅への到着を伝える車内アナウンスが続いた。
※ばにら氏作「Guardian」
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